黒野こうき『播隆入門』2015年03月20日

 伊吹山のことをネットで調べていて、偶然、書名がヒットした。早速、アマゾンで取り寄せて読んだ。2014年3月1日。岐阜のまつお出版から刊行。
 新田次郎『槍ヶ岳開山』は持っているが、まともには読んでいなかった。そのせいで記憶にも無かった。新田次郎の小説はどうもネクラで気象に結び付けられて終わる。人間を描くより、本職の気象官の思い入れが優ってしまうのだ。だから播隆上人も今更という気分が強かった。
 富山県大山町の高頭山(たかづこ)に登った際、登山口付近に播隆上人の生地があり、富山県大山村と日本山岳会富山支部が建立した顕彰碑を見たことがある。活躍はほとんど、外なのにこれだけ顕彰されていたのかと感動したことはある。地元の人の心はかくも温かくありがたいものである。
 但し、地元の東海地方でで活躍したことが分かると知りたい欲求はある。私が若かった頃、先輩の案内で、揖斐川町の一心寺に連れられて行った。これが播隆上人を知った最初である。
 尼さんが居られて、播隆上人が使ったという錆びた鉈などを見せてもらった記憶がかすかにある。更に所属する日本山岳会東海支部で稲葉省吾という会員が大垣辺りの人で熱心に顕彰していた。伊吹山と銘打って播隆祭を春日村で開催していた。彼は9年前に亡くなり顕彰活動も絶えた。
 その話をある人に持ちかけたら、旧春日村では宗教に関する行事を村でやると憲法に抵触するとかで、消極的だったという。村おこしにもなるのに惜しいことである。
 久しく無関心のままだったが本書を開くと、伊吹山の七合目にあるという遺跡にも行ってみたい衝動に駆られる。
 章立ては
はじめに
第一章 播隆の生涯
第二章 山の播隆
1、伊吹禅定
2、笠ヶ岳再興
3、槍ヶ岳開山・開闢
第三章 里の播隆
第四章 念仏行者として
あとがきに代えて         で構成
付録として
播隆年譜、文献資料、播隆上人の足跡、関連行事などの情報を網羅的に紹介した。わずか112ページの小冊子に過ぎないが、内容は濃密で著者が足で稼いだ意気込みが伝わる。これを読むと、どこかゆかりの地に行ってみたい気を起こさせる。良書とは読者を行動に誘うものだから本書もその範疇に入る。
 山の播隆の章はp19~p72まで47ページを割き、全体の50%弱を占めるからやっぱり、播隆上人は山での功績が大きかった。ただ、本書の狙いは里の播隆上人ではなかったか。遺跡、記録に残りにくく、口承によるからだろう。民衆の心の中で伝えられる播隆上人像の探求だ。これは民俗学の分野である。
 この本がよく調べられていると感ずるのは、あとがきの中に出てくる中島正文のことだ。中島は富山県津沢町の出身で、郵便局長などを務めた。元々は黒部奥山廻りの先祖を持ち、家には古文献があって母親から解読の手ほどきをされたという。そして戦前からの日本山岳会会員だった。俳人でもあった。戦後、昭和29年に俳句結社「辛夷」の主宰の前田普羅亡き後を継承している。『北アルプスの史的研究』には戦前の山と溪谷に投稿した鷲羽岳の文献を中心に播隆上人のことも記載してある。これも戦後間もない山と溪谷誌に投稿したものだった。同じ富山県人同士だから見逃すわけには行かなかったのだろう。
 雪が解けたら伊吹北尾根にでも行って行堂跡にも足を延ばしてみたい。

『新日本山岳誌』改訂版作業終わる2015年03月20日

 3/18に本腰を入れて朱筆を入れ、1日冷まして、また目を通すと出てくるものだ。松阪市が松坂市になっていた。これは間違えやすい。津市の経ヶ峰は地形図の表記の経が峰に戻した。天狗倉山の呼称はてんぐらさんが正しいのだが、てんぐらやまになっていたのでてんぐらさんに訂正した。ネットではてんぐらやまだと70万のヒット数、てんぐらさんはわずか6万しかないのはなぜだろうか。
 正しいものが通らず間違ったものが通るのは、世間の趨勢には逆らえず、ということか。
 例えば、白馬岳の山名は今では誰も疑う余地がない。正しくは、代馬岳であった。雪形に由来するものだから、だれでも白馬に想像が行く。ところがこの代掻き馬はネガ型であり、地肌の黒い馬の形を指しているからややこしい。現地を見もしないで白馬を書くようになり、村の名前まで白馬村になった。
 東海支部の担当は三重県、愛知県、長野県南部の一部で約90座あり、その全ての山に目を通した。山の位置の関係で市町村の変更の影響を多々受けており、多くの山に朱筆が入った。編集者にメール便で送付して役目を終えた。

 昨年暮れからここのところ、校正ばかりやっている。つい昨夜も支部報の記事で発見したのは、私には初見の画家の氏名だった。
 原稿には「その後藤雅三、」とあったが、何かおかしい。「その後、藤雅三」ではないか、句読点が漏れているのではないか、と検索すると、立派な画家の氏名と判明した。字面だけを追っていると後藤雅三でも分からないまま、通してしまいそうだ。世界的なコンクールに選ばれた会員の絵の紹介だっただけに折角の記事が台無しになるところだった。最後まで気の抜けない仕事である。字のミスのみならず、文全体の流れの中でおかしいと感ずることが大切だろう。この場合だと句読点一つで不在の画家の名前が紹介されるところだった。