初スキー行2015年02月01日

 1/31、夜9時に合流。久々のスキー行である。日帰り可能な飛騨の朴の木平スキー場であるが、あえて前夜発にした。東海北陸を北上し、高山市の一角で車中泊。
 翌朝5時にまた出発した。24時間営業の店でゆっくり朝食をとってもまだ早い。スキー場まで26kmとあるが、凍結路なので時速40kmでソロソロ走る。市内で方向を間違えて富山市へ向かってしまった。道路の拡張で地理勘が働かない。ナビがないとこうなる。
 やっと丹生川村辺りまで来ると小学生が集団登校中だった。後で知ったが、今日は高山市合併10周年記念日らしい。そこで小学生も何かイベントであるのか。
 朴の木平スキー場は始めてのこと。ゲレンデのレイアウトは他とそう違わない。但し、上部のゲレンデ外が滑走可能となっていた。他のスキー場はコース外滑走禁止になっているがここはOKだった。上部の雪質は絶好のコンディションだった。圧雪バーンでも10センチ程度の新雪が乗っており、上手くなったような錯覚を覚えた。コース外の深い雪、未整備の雪ながら抵抗がなく滑走が楽しめた。山スキーヤーでも楽しめるスキー場である。
 今日は午前中ゲレンデ、午後は輝山の前山辺りまでスキーハイキングの積もりだったが、相棒がシールを忘れたというのでゲレンデオンリーになった。おそらく3kgは体重増加したはずで、転倒しないように滑るのがやっとだった。次回は体重を減らして行きたい。
 帰りは恵比寿の湯で疲れを癒して帰名した。

立春2015年02月05日

    1月31日から2月1日
奥飛騨の雪の中にて一夜越す

奥飛騨の凍てし国道走りけり

雪道を小学生ら登校す(高山市合併10周年)

重ね着を脱いで恵比寿の湯に入る

寒の内されど湯を出て飲む牛乳(ミルク)

    朴ノ木平スキー場
乗鞍につながる尾根のスキー場

リフトの座うっすら雪を運び来る

リフト待ち座す直前に雪払ふ

新雪に自在に描くスラローム

深雪の谷を果敢に滑降す

林間を縫うてスキーを走らせる

    ひるがのSA
名山を明るく夜のスキー場(1/31のダイナランド)

ドームめく雪の大日ヶ岳聳ゆ

毘沙門岳絶へず雪雲流れけり

    2月4日
礼服を買へば春立つ心地して

立春やいつしか去りし川の鳥

例会の集まり悪き二月かな

奥美濃・貝月山スキー登山2015年02月08日

 朝から雨模様だが、決行した。6時にW君宅で合流。地方道から東海大橋を経由し、揖斐川右岸道路を北進。晴れておれば小津三山が見えるが今日は金華山が見えるのみ。
 R303に入り、揖斐高原スキー場の貝月ゲレンデに左折。今年は坂内ゲレンデは閉鎖中だった。路面は濡れているが一応奥まで来ると降雪中だった。
 リフト券を1回分だけ買う。終点(標高約700m)から村界尾根を目指す。地形図の通り急斜面の連続で手こずった。傾斜の緩い尾根まで来たが、積雪が少なく、波を打っていて快適な滑走は望めない。3時間超頑張ったが、1018mの独立標高点までがやっとだった。比高300mにこんなにもかかってしまったのは体力不足もあるが、スキー向きではないことが大きい。
 山頂は指呼の距離に見えるがまだ1時間はかかるし、やはり雪庇が波打つように連続している。これならワカンかスノシューの方が早いだろう。13時、シールを剥がして下山したが、村界尾根はブッシュがひどく、登れてもストックターン(杖制動)する隙間も無いのでついにスキーを脱いだ。下手なターンよりもよほど早い。
 ゲレンデの一角へは1時間半ほどで降りてしまった。登っている間に気温が上がったせいか、雪質も悪いのでそのまま帰った。久々に汗をかいたので藤橋の湯で一風呂浴びた。体重計に乗ると77kg超ある。体の切れが悪いはずだ。75kg以下になるまで減食で減量したい。
 コンディションは最悪だったが、それでも1日、雪山で遊べたことに意義はある。

建国記念日2015年02月11日

  司馬遼太郎の『最後の将軍 徳川慶喜』を読む

建国の日やひねもす司馬遼読む

慶喜は辞し皇室に奉還す

   水戸天狗党の小説を読む

建国の日や尊王の意義思ふ 

外に出て身震いするや春浅し

 2/8 貝月山スキー登山

寒明けの奥山にスキー登山かな

登頂を諦めさせる春の霙

尾根上に波打つ春の雪庇

雪庇乗り越へて行く春スキー

目が痛む顔もひりひり春雪焼

春雪に座して冷たき飯を食ふ

徳川慶喜 年譜2015年02月12日

 徳川慶喜は最後の将軍と呼ばれて大政奉還、江戸開城とともに将軍を辞したことは良く知られるが、就任した記録があやふやだ。本来、他家と争って就任したがるものなのに、喜んで就任した形跡がない。そこで年譜をメモって整理してみた。
 第15代征夷大将軍(在職:慶応3年(1867年) ‐ 慶応4年(1868年))とわずかな期間しかなかった。しかし、以下に整理して並べると激動の幕末史を中心的な当事者として生き抜いた人物だったことが分かる。将軍職就任を固辞し、逃げるだけ逃げたというのも難しい舵取りが読めたからだ。
 家康が国内戦を勝ち抜いて覇権を握り、幕藩体制を確立した人ならば、慶喜は権威の失墜した徳川家をいかに政治から内戦を避けつつ終わらせるかに心血を注いだ人と見る。只、辞めた、とだけ言えば済むものではない。普通に大名には戻れない。権力者は滅ぼされるのが普通である。内戦になれば江戸城は炎上、江戸の町も火の海になっただろう。
 しかも前門の虎後門の狼よろしく、外交も考慮せねばならなかった。尊皇攘夷派と尊王だが開国派との内戦に外国が加担し、代理戦争をさせられて消耗するおそれもあった。日本がフランス、イギリス、アメリカの分割統治で植民地になることを想像したであろう。慶喜にはそんな日本の将来が見えたのであり、自分がどう対処すれば日本がうまく治まるか計算ずくめだったと思われる。
 こんな日本の歴史の大仕事を弱冠31歳で成し遂げたのだった。竜馬も勝も偉いが、慶喜はそれ以上だろう。下級武士と違い、生まれた時から重い荷を背負わされてきたのだ。慶喜には天皇家の血と水戸徳川家の血が入っているから、人の考え方がよく見えたのであろう。
 水戸徳川は尊皇攘夷の発祥の地。水戸学と呼ばれた。幕府は朱子学(封建制)を官学として対立。本居宣長は15歳(1745年)で、絶えたことのない皇統と易姓革命を繰り返すシナの歴史の違いに目覚めて、朱子学を嫌い、国学に傾倒する。
 水戸学は為政者に都合の良い朱子学を取り込みながらも、尊皇攘夷の思想を確立した。江戸時代に生まれ、幕末で花を開いた。攘夷ではなく、黒船来航を契機に開国して西欧文明を取り込んだ。これも慶喜の深層にあった考えだった。立場上、開国とはいえない辛さがあった。
 結果として徳川家を信頼していた幕臣を裏切ったことになる。水戸天狗党の斬首も慶喜の命になる。幕府の命に従わなかった味方の首を切る自己犠牲。それは徳川家の威信を保つために「泣いて馬謖を斬る」思いだったと推察する。
 W・ウエストン『日本アルプス 登山と探検』のまえがきの「今日の日本において、世界はまのあたりに、国民的な威信をなおそこなわないで保ちながら西洋文明に同化適応する力を発揮している東方一国民の、類い稀な例証を見ることが出来る。その上、この注目すべき民族が、現在では予測できないほど将来豊かに発展することは、ほとんど疑問がない。この民族は、国民的な威信の向上のためには、恐らくどんな自己犠牲も払えるのである」 ウォルター・ウェストン(1861-1940)『日本アルプス 登山と探検』(平凡社ライブラリー) 」がある。
 W・ウエストンは明治21(1888年)に来日。この含蓄のある言葉を吟味するために慶喜の幕末史を調べたようなものである。1888年当時、ウエストンは27歳で、慶喜は51歳で同時代を生きていた。ご維新はまだ歴史というより、事件だった。それも今風に言えば同時多発テロだった。生麦事件を契機とした薩摩藩と英国の戦争もあった。薩摩藩はこれで外交の窓口を一つにまとめる必要を感じたはずだ。一地方の藩では太刀打ちできなかった。宣教師になったくらいだから、日英の交渉をよく知悉していたはずだ。騎士道の国だからか、武士道の日本への敬意を感じる。登山を通じて日本の国情を観察し、且つ出来事=歴史も見聞したのである。

生年 1837年10月28日
一橋家を相続
    1847年8月1日
黒船来航
    1853年(16歳)
井伊直弼、勅許を得ずに日米修好条約締結
    1858年(21歳)
独断専行の井伊直弼に詰問したため、安政の大獄で隠居謹慎処分を受ける
    1859年(22歳)
外交問題(井伊直弼は開国してしまったが、幕府は攘夷が本意)で将軍に先駆けて上洛し、下交渉
・国政全般を幕府に委任するか
・政権を朝廷に返上するか
朝廷の態度は
・諸藩に直接国事の命令を出すことがある
・攘夷を実行せよ、と迫られる
二元政治が始まる=誰が主権を握るのか
武力による政権(盟主、覇権)の衰微と天皇(君主)の権威の回復
江戸に戻って、攘夷を実行するため横浜港を閉鎖
幕府内は対立と混乱が始まる
島津は朝廷に近づく
    1863年(26歳)
天狗党の乱(1864年5月2日~1865年1月14日)が勃発。慶喜を頼って上洛を目指す。雪の蠅帽子峠をも越えた。敦賀で小浜藩、加賀藩に身を預けるが、幕府に引き渡されて後、3月1日~3月20日にかけて武田耕雲斎らの斬首が処刑された。今から丁度150年前のこと。
    1864年(27歳)
慶喜公12月5日に将軍職に就任した。
開国を視野に入れてのこと。幕府のスタッフを上京させて、京都へ政権を移管した。
薩長が慶喜の命を狙っているとの情報を聞く
    1866年(29歳)
大政奉還
    1867年(30歳)
1月3日鳥羽伏見の戦いで江戸へ逃走
    
慶喜を朝敵とする追討令が正式に下り、東征大総督・有栖川宮熾仁親王に率いられた新政府軍が東征を開始する
4/11に江戸城を開城、水戸、駿府に移って謹慎。江戸時代が終幕。
1968年(31歳)
明治時代の終焉を見届けるように死去した。
没年 1913年11月22日(76歳)

こうなご不漁2015年02月25日

読売新聞から

 小女子(コウナゴ)」などと呼ばれ、シラス干しや釜揚げ、つくだ煮として親しまれるイカナゴ※が今春は不漁となりそうだ。愛知、三重両県は、資源量が例年の半分から3分の1程度と予測。資源量に反して豊漁になることもあり、両県漁業者は近く試験操業を行い、解禁日を決める。


 伊勢湾や三河湾のイカナゴは夏に海底の砂地に潜って夏眠し、冬に産卵する。稚魚が体長3・5センチ以上になるのを目安に、2月下旬~3月上旬に漁が始まる。

 愛知、三重両県は1~2月、伊勢湾内で試験的にイカナゴの稚魚を採取。その結果、今年の推計資源量は100億~150億匹で、平年の300億匹を大きく下回る。

 毎年、産卵用の親魚を取り過ぎないように資源管理を徹底しているが、年によって資源量は変動があり、その理由はよく分かっていない。

 愛知県水産試験場漁業生産研究所(南知多町)の中村元彦主任研究員(53)は、「イカナゴは低水温を好むが、今年は黒潮が陸地近くを流れ、水温が高いためでは」と推測。1月以降に雨が多く、木曽三川の水が湾内の稚魚を押し流した可能性もあるという。

 兵庫県水産技術センターも親魚や産卵量の減少から今年の漁獲量が例年を下回るとの予報を発表している。

※イカナゴ 成魚は体長20センチほどになるが、伊勢・三河湾で漁獲対象となるのは主に稚魚と未成魚。農林水産省の統計によると、2013年の全国の漁獲量は3万8000トン。都道府県別では兵庫が1位で全国の33%、愛知、三重両県で計31%を占めた。
以上
 一昨日、ピアゴの生鮮食品売り場で、今年はまだこうなごを見ないねえ、と聞いた直後にこの報道があった。ははん、やはり何か異変があって不漁なのか、と思った。
 毎年、厳冬期の食卓を飾る旬のものである。時期が過ぎるとあっという間に消えて行くから店頭で見かけると買って食べてきた。格別美味いものでもないが、旬の味は貴重なのである。
 検索したら、自分の文がヒットした。
http://koyaban.asablo.jp/blog/2013/02/09/6716529
 同じことを書いている。
 人は味に関して保守的なものなのだろう。

 こうなごが不作と知れば淋しさよ   拙作