木の葉髪一生を賭けしなにもなし 西島麦南 ― 2013年11月23日
木の葉髪一生を賭けしなにもなし 西島麦南
ずしりと来る俳句です。多くの人は何もない平凡な人生を当然として生きるのですが、彼は理想に燃えたリベラリストだったから現実との落差に思わずため息のように吐いた句だった。
どんな人物だったのか。以下を読むと、中句から結句の意味がよく分かります。画家になろう、新しき村に参加、小説家になろうとしてみたり・・・。結局は「校正の神様」=下積みの人生で終わってしまった自嘲が込められている。神様とおだてられても自分の作品ではない。新しき村というのは空想的社会主義者の集団であった。
BLOG夜半亭レポートから転載すると、
明治二十八年(1895)~昭和五十六年(1981) 大正-昭和時代の俳人。
明治二十八年一月十日生まれ。武者小路実篤(むしゃのこうじ-さねあつ)の「新しき村」で開拓に従事。大正十三年岩波書店に入社,「校正の神様」とよばれ、昭和四十年文化人間賞受賞。俳句は飯田蛇笏(だこつ)に師事、傾倒し、みずから「生涯山廬(さんろ)(蛇笏)門弟子」と称した。昭和五十六年十月十一日死去。八十六歳。熊本県出身。本名は九州男(くすお)。句集に「金剛纂(こんごうさん)」「人音(じんおん)」。
【代表句など】炎天や死ねば離るゝ影法師
この麦南について、飯田蛇笏の亡き後「雲母」の主宰者となった飯田龍太は次のとおり記している。
http://white.ap.teacup.com/cyamicat2/187.html
[岩波書店に永年勤め、“校正の神様”といわれた西島麥南さんが、去る十月(昭和五十六年)十一日のおひる過ぎ、鎌倉由比ヶ浜の自宅で亡くなった。行年八十六歳と九カ月。……
本名九州男。明治二十八年、田原坂の古戦場にほど近い肥後植木に生まれ、句集の自序に「生涯山盧門弟子」と記したように、俳句は蛇笏門に終始したが、岸田劉生に私淑して画家をこころざし、あるいは大正七年、武者小路実篤らの「新しき村」の創設に参加したり、ときに小説家として身をたてようと志したときもあったようだが、岩波茂雄の厚い庇護に感じて生涯を校正一筋に賭けた。……
だが、麥南さんの来訪も開戦後は途絶えた。……リベラリストで真の理想主義者、平和主義者であった麥南さんの身辺にも、いつか故なき官憲の圧力が加えられたためのようだ。(「麥南さんのこと」昭和五十七年)]
麦南は、大正七年(一九一八)から三年間、九州の日向の「新しき村」に参加し、茅舎は第二種会員(村外会員)となる。後に、茅舎は、この「新しき村」の実践に参加できない頃の苦しみを「花鳥巡礼」に書き留めている。
以上
ずしりと来る俳句です。多くの人は何もない平凡な人生を当然として生きるのですが、彼は理想に燃えたリベラリストだったから現実との落差に思わずため息のように吐いた句だった。
どんな人物だったのか。以下を読むと、中句から結句の意味がよく分かります。画家になろう、新しき村に参加、小説家になろうとしてみたり・・・。結局は「校正の神様」=下積みの人生で終わってしまった自嘲が込められている。神様とおだてられても自分の作品ではない。新しき村というのは空想的社会主義者の集団であった。
BLOG夜半亭レポートから転載すると、
明治二十八年(1895)~昭和五十六年(1981) 大正-昭和時代の俳人。
明治二十八年一月十日生まれ。武者小路実篤(むしゃのこうじ-さねあつ)の「新しき村」で開拓に従事。大正十三年岩波書店に入社,「校正の神様」とよばれ、昭和四十年文化人間賞受賞。俳句は飯田蛇笏(だこつ)に師事、傾倒し、みずから「生涯山廬(さんろ)(蛇笏)門弟子」と称した。昭和五十六年十月十一日死去。八十六歳。熊本県出身。本名は九州男(くすお)。句集に「金剛纂(こんごうさん)」「人音(じんおん)」。
【代表句など】炎天や死ねば離るゝ影法師
この麦南について、飯田蛇笏の亡き後「雲母」の主宰者となった飯田龍太は次のとおり記している。
http://white.ap.teacup.com/cyamicat2/187.html
[岩波書店に永年勤め、“校正の神様”といわれた西島麥南さんが、去る十月(昭和五十六年)十一日のおひる過ぎ、鎌倉由比ヶ浜の自宅で亡くなった。行年八十六歳と九カ月。……
本名九州男。明治二十八年、田原坂の古戦場にほど近い肥後植木に生まれ、句集の自序に「生涯山盧門弟子」と記したように、俳句は蛇笏門に終始したが、岸田劉生に私淑して画家をこころざし、あるいは大正七年、武者小路実篤らの「新しき村」の創設に参加したり、ときに小説家として身をたてようと志したときもあったようだが、岩波茂雄の厚い庇護に感じて生涯を校正一筋に賭けた。……
だが、麥南さんの来訪も開戦後は途絶えた。……リベラリストで真の理想主義者、平和主義者であった麥南さんの身辺にも、いつか故なき官憲の圧力が加えられたためのようだ。(「麥南さんのこと」昭和五十七年)]
麦南は、大正七年(一九一八)から三年間、九州の日向の「新しき村」に参加し、茅舎は第二種会員(村外会員)となる。後に、茅舎は、この「新しき村」の実践に参加できない頃の苦しみを「花鳥巡礼」に書き留めている。
以上
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