綿の実2013年11月21日

 マンションの駐車場で、大事そうに綿の実の付いた束を抱えている人がいた。誰かにあげるのだろう。
 俳句歳時記では綿の実は秋の季語になる。単に綿ならば冬の季語である。それぞれの例句を歳時記から引くと

 綿の実を摘みゐてうたふこともなし    加藤楸邨

 「埼玉県春日部市での作とされる。かつては確かに棉畑が広がっていた。我が国の重要な産業の一つとして、ここでも木綿を多くの人の手によって作っていたのである。しかし、棉摘は日毎に弱々しくなる日差しの中で黙々と急がなくてはならない。明るい初夏の光の中での茶摘みとは対称的である。茶摘みには唄があるが、棉摘みにはない。棉摘み農民の皺深く寡黙な横顔が見えてくるようである。」(ブログ「わたしの俳句歳時記」から)

 作者は1905年から1993年没。現在の一橋大学を出て、昭和4年現在の春日部高校教員になる。この教員時代に俳句を始めた。掲載句は初期の作品ということになる。一読しただけでは理解できない独特の難解さがすでに萌芽している。上記のような背景を知って初めてああ!そうだったのか、となる

 綿を干す寂光院を垣間見ぬ        高浜虚子

 寂光院は愛知県犬山市にあるが、京都のそれだろう。遠くから、寂光院で綿を干しているのが見えるというのだ。尼寺らしい。農作業をして商品作物を生産しているのだろうか。あるいは自家消費か。時代が下がるともう理解に程遠い。

 かづきをる夜なべの妻の綿埃       辻嘉代子

 かづく、というのは被るの意味。綿埃を被りながら夜なべ仕事をしている妻を詠む。作者自身が女性だから自画像だろうか。
 柳田國男『木綿以前の事』の中に綿ぼこりの話が出ている。麻を利用していた時代は綿ぼこりは無かった。木綿が生活に入り込んで出るようになったという。確かに綿100%は快適な衣料です。今日も綿100%のワイシャツを着ました。皺になりやすいので混紡率60/40が主流という。部屋の片隅に溜まる綿ぼこりにも突けばこんな歴史が垣間見える。

 綿入れを着て田舎物めきしかな      拙作