長谷川櫂『俳句の宇宙』を読む2013年10月02日

 中公文庫。2013.7.25刊行。 
 序章の”自然について”の考察がお見事。若い俳人の評論は荒っぽくて読まなかった。奇をてらうというか、人と変わったことを言って売らんかなの心が見えると読む気にならなかったのである。ところが文庫を手に序章を拾い読みするとすーっと入ってくるものがあった。

 著者によれば、「自然は俳句が抱え込んだ近代の矛盾だ。だから、近代の俳句はたえず自然への執着と自然を拭い捨てようとする衝動を同時に秘めている。」という件が深い考察から産まれたものだろう。

 確かに毎月天白区の句会で各自の俳句を読み解くと自分ではうまく表現したつもりなのにそうは理解(できない)されていない句が多い。そこで作句の現場や状況などを聞きながら添削をすることになる。

 作者は芭蕉時代の俳句は古今集を前提にした「場の文芸」と喝破した。古今集の教養、杜甫の漢詩の素養などがないと理解できないというのだ。これを

 古池や蛙飛び込む水の音
 
の超有名な句で解説した。この句に古今集の要素が混じっているなんて現代の我々には想像もつかない。だから子規も虚子も「場」から離れて理解を試みたが本質ではないという。子規は「どこにでもある自然だけを俳句の「場」にしようとしたことーーーーそこに子規以降、近代の俳句のひとつの巧知をよみとることもできる。」
 それゆえに”古池や”の句の理解も本質を離れたものに変遷した。あの山本健吉すらも皮相的な鑑賞に終わった。
 子規は写生を主唱した。虚子は客観写生を説いた。それが現代まで続く。これは実は不思議に思っていた。俳句の「場」が失われた以上は自然を写生することでしか句作できなくなった。自然が「場」になった。しかも個人である。芭蕉が指導しながら、仲間内でわいわい言いながら句をつけてゆくことはなくなったのだ。その欠点を句会が補っているといえる。
 しかし、現代では、その自然の「共通の場」さえ失われた。蛙の鳴き声すら都会では聞けない。実はウシガエルはうるさいほどいるが風雅な趣はない。
 続けて引くと「そして、自然という「共通の場」が空気のようなものでなくなりつつあることは、俳句がもともと「場」に依存した文芸であること、読み手の方から「場」に参加してゆかなければ俳句はわからないことをしだいにはっきりさせてくるだろう」確かに一人で句作しても発表の「場」がないと寂しい。新聞俳壇、雑誌の俳壇への投稿もあるが「場」を醸成するには程遠い。
 富山市にある所属俳句結社の句会に行けないから近くの人らに呼びかけて作った句会がもう満3年、40回も続いて、先々月には八ヶ岳の山小屋を体験してもらった。登山経験のない高齢者を原自然のど真ん中へ案内したわけだ。日常から非日常へ、日常平凡から脱却するにはこちらから出かけなければならない。その意味では俳句は足で作る文芸とも言える。
 失われつつある自然。彼岸花は決して本来の自然ではない。人間が絶えず干渉する荒地や耕作地、土手などの擬似自然の生物である。杉や檜の植林山を見て、緑がいっぱい、自然の中の空気はうまい、などと叫んだ無知なアナウンサーが居た。現代人の劣化は相当酷いところまで来ている。すると本物の自然はもう長野県や岐阜県でも奥の山にしかないのだろう。
 自然詠の本義を考える好著である。

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