島津亜矢・初座長公演も千秋楽近し!2012年05月26日

 5/25の午前中に重要な仕事を終えて、片付けてから御園座に向かった。これで3回目の観劇になる。丁度、3時に閉幕したばかりの一部のお客さんがどっと出てこられたばかりで、縁日の寺社のごとき賑わいである。入場待ちするお客さんも大勢いた。
 係りの人に観客の入りを聞いてみると、上々とのこと。地下のある店でもこんなに大勢のお客様がお見えになることはないとのこと。島津亜矢さんの初座長公演はどうやら記録づくめの興行になるだろう。何しろ、普段は閑散としている食堂も満席で、ホールの椅子もすぐに埋まり、弁当も食べておれないからフロアーにべたっと座って食事する人もいた。 
 今日は両脇と中央にビデオカメラが合計で5機据えられて、カメラマン氏に問うと、DVD用に録画しているらしい。テイチクから発売されるようだがまだ正式な情報はない。最初に見た芝居と比較して、気のせいか、今日は役者さんらの配置が若干、間隔が広いように思えた。カメラアングルの死角にならないように、演出を修正したのだろうか。様々な角度から撮影されて、名場面を編集し、大写し、凝視したりして、見ごたえのある、芸術性の高いものが制作されることを期待したい。
 江戸時代、1853年の黒船来航以来、日米和親条約を締結して、開国させられる。今のTPPより深刻なことだった。それは欧米による日本の植民地化を意味していた。
 1862年、薩摩藩主の父・島津久光の大名行列を乱したイギリス人を切り殺した生麦事件が起きた。日本人はたとえ白人であっても、恐れず、主君を守るとあれば、向かってゆく。この事件の処理では薩英戦争で決着が図られたが痛み分けで終わっている。
 その6年後の1868年に戊辰戦争が起きた。欧米列強の植民地化という外圧の元で、最後まで幕藩体制を守ろうとする会津藩と薩摩・長州連合が戦った。会津藩の中に山本八重(新島八重、1845-1932)という女がいた。スペンサー銃の扱い方をよく知る男勝りの女性だった。弟・三郎の形見の衣装を着て、断髪し、男装して、会津城内で戦闘した。このことから会津のジャンヌダルク又は幕末のジャンヌダルクとも言われた。しかし、戊辰戦争には負けた。山本八重をよく知るには↓
http://www.nisshinkan.jp/yae
 戊辰戦争は敗戦。この結果、内乱は収まり、明治政府による政権が確立。八重は兄について、京都に上り、新島襄と結婚します。
 本家・ジャンヌダルクはフランスを勝利に導く活躍をして英雄になりますが、八重は活躍はしましたが会津藩は負けてしまいます。英雄にはなれなかったわけです。「日本の何々というものは常にスケールが小さいか、内実を伴いません。表面だけをみて会津のジャンヌダルクというのは八重に失礼なことです。少なくとも存命中ならそんな命名はさせなかったと思います。
 ちょっとけちをつけましたが、島津亜矢さんははまり役ではなかったでしょうか。彼女も子供時分から男の子に混じって遊びまわり、ままごと遊びの記憶はないそうです。つまり男勝りで、演歌歌手ひと筋の肥後もっこすぶり。体型まで似ているといったらヒンシュクを買いそうですが、八重はにっこり笑って許容していると思います。
 島津の姓名からして、会津方には怨念がありそうに思えるのですが、どうでしょうか。
 この近代日本の黎明期をテーマにした歴史劇は経営的には苦境にある御園座の放つ大ヒットに終わるでしょう。この成功をきっかけに経営が立ち直れば、島津亜矢さんは不振の御園座を救うジャンヌダルクになるのです。是非、そうあって欲しいと思います。企業は経営者の考え一つです。よい演劇の場を提供するのみならず、質の高い企画を生み出せば、立ち直ると思います。よい成功例ができたのですから、頑張ってください。
 明日は千秋楽で大いに賑わうでしょう。一足お先に、質の高い演劇をありがとうございました、とお礼を申し述べておこう。もちろん、お得意の歌唱も良かった。いつの間にか、一世を風靡した江利チエミの名曲をものにされて、英語の「テネシーワルツ」などを歌われた。素晴らしい歌唱だった。
 観客をほんわかとさせるトークはまた見に来たい(期待)と思わせます。お元気で。

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