平凡社ライブラリー『日本残酷物語』2(忘れられた土地)を読む2008年03月25日

 石徹白へ行った余韻で再び手にしてみた。一見平和な争いごとなどありそうに無い山の村で実際にあった石徹白騒動。宝暦3年から8年にかけて起きた事件である。
 戦前の『樹林の山旅』は詳細に描いている。著者の森本次男は京都の教師であったが親元は宮司であるからことに関心を持ったであろう。以上は絶版であるが表題の本書は手に入りやすい形で読める。
 宝暦といえば郡上で百姓一揆が起きた年であった。郡上藩は表高と裏高の差が少ない土地であったようだ。裏はもちろん実収であり表は形式上の収量であった。その差が大きいほどやりくりは楽とされた。現代でも役所の裏金が問題になっているが財政にはつき物かもしれない。一々審議を通す手間がなくおいしい思いも出来る。会社の不正会計、家庭でもへそくりがあるのと同じだ。
 そのために検地をやると言い出して郡上一揆の発端となった。白鳥ICに近い「美人の湯」がある辺りで一揆の企てが行われた。それよりも早く石徹白では村を二つに分裂して負けた方は追放という仕打ちを受けていた。しかも96家族、534人が冬の山野を放浪させられた。72人が犠牲になった。新しく支配者となった上村豊前は96の家から略奪の限りを働いた。旧来の支配者だった杉本左近は江戸で出訴して窮状を訴えた。これが聞き入れられ上村豊前は死罪となった。
 石徹白は古くから無主無従の地であった。白山信仰に仕えた神官(御師)の村であり京都の白川家から神職の免許を受けていた。一方で吉田なる勢力が台頭してカネさえ積めば神職の免許をもらえた。上村豊前は吉田と通じ神職を得て石徹白支配を目論み杉本左近らを追放するに至ったのである。
 ところが杉本左近は無事石徹白へ戻れたものの吉田の免許を受けることになったという。何のことはない。幕府の背後で吉田は勢力を固め結局は石徹白を支配したことになった。犠牲になった大勢の人々には何ら報われなかったことになる。
 現代は少しはマシかとつらつら考えるが法王と呼ばれた日銀の総裁が未定のままであることを連想した。自民と民主の駆け引きである。日銀OBと官僚OBのたすき掛け人事の事実。政治の介在するところ必ず泥試合がある。どちらが勝っても長い間のゼロ金利を返してもらえるでもない。ただ命までは奪われないのだから今の世の方がマシと考えていいだろう。
 追放された534人の人たちは着の身着のままで裸足で雪の山野を彷徨ったのだから。ああ!想像することも出来ない。残雪に輝く山々の美しい石徹白の血塗られた歴史を忘れることはない。