石川富康さん世界の7大大陸の最高峰に登頂!続報2008年02月01日

 今朝カーラジオから石川さんの名前が聞こえた。アナウンサーが「今日のゲストは石川富康さんです」と放送するので聞き耳を立てながら聞いた。勤務先まで10分ほどの間に終えた。始業時刻までの5分前まで駐車場内で聞いた。南極大陸最高峰のビンソンマシフ登山の裏話である。ずいぶん神経質に環境に配慮する登山であったようだ。
 追伸:前回、思い出せなかった名前は岩波文庫『古代への情熱』シュリーマン自伝である。

鎌倉は大雪!2008年02月03日

 2/2.2/3と久々に関東方面の鎌倉に出かけた。
 目的地は鎌倉アルプスのハイキングであった。この時期は太平洋側は晴れる確率が高い。小高い丘のような低山でも富士山を望む山旅が楽しめるのである。それに厳冬期であり、鎌倉も観光地としては閑散期であろうと高を括っていたが裏切られた。
 先ず、鎌倉は1年を通じて観光客が絶えないだろうと思う。それは道路の渋滞が証明する。由比ヶ浜などの海浜ではサーファーらが冬の海を楽しみ、ミズスマシみたいなウインドサーファーが遊ぶ。江ノ電が通ると車を止めてカメラマンらが待ち構えてシャッターを切る。名刹、古刹みな参詣客、観光客で裏道までもごった返す。駐車場は数が少ないし、満杯であった。
 結局1日目は大磯の浅間山1等三角点に触れただけであったが他にも浅間山のある湘南平で日本山岳会の創立メンバーであった岡野金次郎を知ったことは収穫であった。鎌倉アルプスの登山口は探るだけで終った。後で円覚寺に行った。目的は小津安二郎の「無」とだけ彫られた墓地を見学することでした。円覚寺は格式のある古刹であった。夏目漱石の小説にも出てくる。
 その後は宿のある大船へ行く。宿は閑静なところであった。素泊まりなので外食した。結構お店はある。TVのニュースで盛んに低気圧の発達で雪が降ると放送されている。
 2/3は未明から深々と降る雪に驚いた。天気予報がずばり当った。それも10cmも降る大雪である。鎌倉アルプスハイキングを諦めざるを得なかった。早速相談して観光に切り替える。
 マイカーは大船の駅前に駐車。モノレールで江ノ島駅に向った。これが300円と安い。軌道が上にあるために軽い感じでスイスイ移動する。ゴーっと響くような音をたてて走る電車とは違う。江ノ電に乗り換えて長谷駅まで乗る。駅で降りると徒歩で大仏に向う。雪で震えるでもなく鎮座していた。中学校の修学旅行以来か。係りの人たちは挙って雪掻きしていた。その後徒歩で鎌倉文学館に行く。鎌倉随一の洋館という。雪で特に趣が深い。
 バスで鎌倉駅へ行く。すぐにJRに乗り換えて大船へ。マイカーに戻った。それが1600円。昼食を食べる。マイカーに乗ってR134をひた走る。R1の小田原を過ぎていよいよ箱根越えである。どうせ高速道路は渋滞か通行止めなどで不自由だ。いっそ沼津まで行く。峠まで登るにつれて雪が増えた。立ち往生する車も多々見られた。思いがけない大雪である。
 沼津へ行くとICから高速道路に入った。

雪崩遭難2008年02月04日

 新聞によると愛知大生2名がスキー場での雪崩で重体と報じた。そして今日1名が亡くなった、と報じられた。若い女子大生を1名失った。
 現場は閉鎖中のゲレンデだったが無視して入ったようだ。しかも初心用のゲレンデはこれしかなく他のは中上級者用だったそうだ。スキー場は雪崩の危険を予知して閉鎖措置をしたことを強調。しかし、スキー場自体も欠陥があるように思う。ゴンドラで一気に初心者も運ぶシステムはいかがなものか。
 北アルプスは断層山脈のために東側には断層面があって急斜面になる。こんな地形を開発してスキー場は作られている。なぜ林間コースを初心者向けにしてあるのに常時開放しないのか。それはコースが谷の中にあり両側が急な斜面という。つまり元々雪崩れやすい宿命がある。このためスキー場も雪崩には警戒を怠らず、今回も閉鎖した。初心者の大学生を連れていたためにコースに入ることは自然である。しかし、愛知大の指導員は閉鎖を無視。正論としてはゴンドラでスキーを脱いで下山するべきであった。この判断は難しいところである。
 スキー場は今後常時利用可能な初心者コースを開発するべきだろう。谷筋は雪崩の巣になるのは常識である。そんなところへ初心者向けのコースを作る方が非常識である。アナウンスも掲示も現地のスキーヤーには届かないだろう。スキー場を信じきっている。そんな危険なコースをわざわざ作るはずないと。おそらく愛知大の指導員も。雪崩を警戒しなければならないスキー場なんて利用できないと思う。
 今シーズンは北海道に始まって各地で雪崩遭難が多い。気象が急激に変りやすいこれからの時期、注意したいもの。

続・雪崩遭難2008年02月05日

 栂池スキー場で起きた雪崩遭難の事故で重体で入院中だったもう一人の学生も亡くなった。最悪の結果である。両親もさぞや無念であろう。将来性のある若い人の死はことさら残念に思う。
 事故を引き起こした指導員については「郷に入りては郷に従え」の教訓どおりである。地元の人の教えや指示は絶対守らねばならない。再発防止を望みたい。
 先年福井県の大長山で起きた関西学院大ワンゲル部の遭難騒ぎも地元の登山者のアドバイスを無視した結果だった。都会に住む人間は自然の恐さを知らない。自然への恐れが欲しいものである。
 また広島の恐羅漢スキー場の7人のボーダーたちの遭難騒ぎも全員無事帰還した。ボーダーに適した雪の斜面を追って行く内に迷って帰れなくなったらしい。「獲物を追う猟師山を見ず」である。だが廃屋を見つけてビバークしたのは中々の見識である。自衛隊まで出動したこの遭難騒ぎ、7人がもしも凍死にでもなれば大騒ぎになったであろう。
 以上、過去の山岳遭難を振り返ると良い指導者が不足していると思う。体力養成、登山技術優先の考えが目立つ。遭難回避、進退の適否の判断力を培うための教育プログラムが開発されねばならない。

映画「山の音」鑑賞2008年02月06日

 1954年東宝制作。成瀬巳喜男監督作品。
 鎌倉を舞台にした川端康成の「山の音」を原作に映画化された。鎌倉に住む中流家庭の家族劇。テーマは義父と息子の嫁の淡い恋情であろう。
 ドラマの中の台詞に原節子が山村聡に「お父さんと別れたくないの」云々と聞いてあれっと思った。これは小津安二郎の映画「晩春」のオマージュではないか。
 「晩春」では父笠智衆が婚期の遅れそうな娘原節子に結婚を促す場面でいう台詞であるが「山の音」では他に女性がいて婚姻関係が破綻した息子と離婚を勧める場面で義理の父に言っている。結婚と離婚では小津映画と設定が反対であるがそこが真似でない成瀬監督の矜持である。オマージュとは小津監督に対する尊敬であり、鎌倉を舞台にしたホームドラマという基本は同じながら細部で設定を変えてある。それでいてどこかに同じことを挿入してあり、分かる人には分かるのである。
 最近観た山田洋次監督の「たそがれ清兵衛」にも小津映画の「父ありき」の釣りの場面が挿入されていてすぐ気づかされた。オマージュと思う。おそらくまだ他にもあるだろう。
 川端康成の作品はとても繊細でダイレクトな感情を剥き出しにすることはない。原作は読んでいないが読みたくなりました。息子の嫁に恋心を抱き一線を越えることがあるがこの作品では抑圧されている。そこが名作たる所以であろう。
 映画に捉えられた鎌倉の風景も懐かしい。同時代ではないのに懐かしいのはなぜであろう。小津映画の「晩春」「麦秋」も鎌倉が舞台だった。黒澤監督の「天国と地獄」も鎌倉が出てきた。鎌倉ってまた行きたくなりました。

鎌倉は大雪!を詠む2008年02月07日

 鎌倉も大雪となる節分会

 大仏の肩に雪積むばかりなり

 大仏を仰ぐ辺りの雪を掻く

 境内の男四五人雪を掻く

 大仏の光背のごと雪の山

 降る雪や古都鎌倉の文学館

 ばら園に真綿のごとき雪積もる

 ポイントを温めている雪の駅

 駅寒し江ノ電はミニ電車なり

 江ノ電やカメラ持つ手の悴みし

 雪折れで線路塞がれ遅れ勝ち

 由比ヶ浜げに雪白き浜辺かな

 モノレール相模の国の雪景色

 サーファーら水すましめく冬の海

 草笛が響きわたるや枯木山

 大山や相模の国の山眠る

 マンサクや掃き浄めらる円覚寺

 「無」と彫りし小津の墓見ゆ冬の寺

 山門が見事に高し冬の寺

 大船の店が賑わう冬の夕

飛騨・御前岳山スキー行2008年02月11日

 昨年は雪不足で疑心暗鬼で登ったがRFの失敗でヤブに突っ込んで疲労困憊で敗退した。今年はその雪辱戦であったが今年も雪は不足気味であった。豪雪でなる白川郷にしては雪が少ない。山肌をみても歴然としている。
 9日朝、高速は各地で通行止めが相次いだ。東海北陸道も各務原と一宮JCTで通行止めであったからR22からR156を走る。美並ICから続々車が下りてくるのは渋滞であろうか。
 R156から郡上八幡ICに入った。荘川ICで降りて白弓スキー場に向う。飛騨側まで来ると相当な降雪があったようだ。9日は午後からしか動けず偵察にとどめた。
 車中泊して10日は午前4時30分出発。カチカチのゲレンデをシールで登る。6時30分ゲレンデ最上部に着いた。眼下には白川谷に点在する民家の明かりが見える。出発時は星月夜であったがもう星は消えた。代わって白山北方稜線の秀峰・笈ヶ岳が鋭い山容で聳える。隣の平坦な山容は大笠山である。
 ここから昨日目処をつけておいた樹林帯の疎林を登る。新雪であり深雪であるからラッセルが大変であった。かなりの急な斜面をジグザグにシール登行する。余りの急傾斜に途中から尾根に逃げたがこれは失敗であった。但し尾根には色が褪せた赤テープが残っている。好き者は来ているのだ。尾根は風が強く寒い上に粉雪は吹き飛ばされた感じで積雪は薄い。途中でボコッと穴に下りる。途中で白山連峰が朝日に輝き始めた。モルゲンロートである。黄味を帯びた美しい白山連峰である。
 狭まってくる尾根の途中でもう撤退を考え始めたら下から人の気配があった。3人パーティーはなんと急な沢をものともせずに登ってきた。しかも早い。彼らはラッセルの労がない上に若いからさっさと登っていった。引き返す弱気な考えは吹っ飛び、彼らのラッセルの跡を登った。気分は楽になった。
 彼らは休んでいたので聞くと福井のパーティーであった。福井は雪不足でこちらに転戦してきたらしい。我々は結局1505mを指す高度計と11時25分まで行動したこと、白山、別山、笈ヶ岳、三方崩山などの名山を目の当たりにしたこと、ぶなの原生林を登ったことに満足して12時40分途中下山を決めた。
 せめて1760mのコブまでは行きたかったがラッセルで体力を消耗して気力消失してしまった。シールを外して滑走した。ぶなの大木の間をぬって滑るのはまことにいいものである。雪面は均一でないから緩急自在に滑る。枝尾根から広い主稜に移るところは急なのでストック制動で滑る。
 登りにとった尾根は捨てて沢を滑降した。おおむねトチやミズナラの大木の疎林である。急だが深雪のお陰でブレーキがかかるから思い切りスキーの先端を下に向ける。何とか転倒せずに滑走できた。ゲレンデ上部に着いて時計を見ると13時40分であったから約1時間弱で降りた。5時間のラッセルも滑走なら1時間かからない。スキーの驚異である。
 後はゲレンデを降りた。売店で先ずはコーラを飲み干した。桜香の湯に入湯後高速で帰った。
PS:目的は果たせなかったが振り返れば素晴らしい粉雪滑降を堪能できてよかった。ぶなやとち、みずならの疎林の中でこそ粉雪が温存されているのだろう。一番美味しい所を滑ったのかもしれない。

東京散歩2008年02月12日

 2/8夜11時、名古屋駅西口から夜行バスで東京へ行く。
 2/9朝5時30分過ぎ、新宿駅前に到着。まだ暗い。近くのマックでコーヒーなど飲み夜明けまで時間をつぶす。マック内は若い人で一杯。座る席も中々空かない。
 空が白み始めた。JR新宿駅に行き山手線に乗る。早朝にもかかわらず乗客が多い。品川駅で下車。久々の品川駅頭に立つ。目的地は赤穂浪士の墓のある泉岳寺である。テクテク歩くが散歩する都民は誰もいない。こんな朝早くからしかも街中を歩かないだろう。地下鉄泉岳寺駅から坂道を登る。昔の道の面影はないが伊皿子坂という。
 大石内蔵助の銅像の建つ泉岳寺の山門の脇を抜けると境内である。赤穂浪士の墓地は左手にあった。紅白の梅の花が咲いている。さすがに2月の趣であるが雪も少し残っていた。石段を登ると門を潜り、更に小高く石で囲まれた墓地であった。浅野家の墓地は当然別格の扱い。切腹させられた主人浅野長矩は奥まった所。夫人の阿久里(未亡人となってからは瑤泉院)は入口に近い所に位置している。これは意味があると思うが分からない。多分彼らより13年後の46歳で死去した関係でぽつんと離れて葬られたからであろう。線香や活け花が今も絶えないのは単なる歴史を越えた心情がある。
 泉岳寺を辞してからは伊皿子坂を歩いて越えた。聖坂を過ぎてそのまま行くと三田に着く。三田は慶応義塾大学の地。地名から来た三田文学は1910年発行の学内の文芸雑誌として有名。創刊は永井荷風という。ここにも永井荷風は生きていたのか。
 三田のコーヒー屋で休憩。1杯170円也。東京でも価格破壊があるのだ。味気ない町の中を歩くと忽然と現れたのは東京タワーである。2011年開始の地デジのため役割を終える日が近づく。墨田区に新しい第二東京タワーの計画もある。
 芝公園の一角を抜けて新橋駅まで歩いた。JRに乗って亀戸駅で降りる。明治通りに沿って江東区砂町まで歩く。砂町銀座なる商店街は露天ながらびっしりと小さな商店が並ぶ。毎日がお祭りのような賑わいである。砂町図書館に着いた。2Fの石田波郷記念館を見学した。砂町は波郷が実際に住んだ町であった。
 明治通りに戻ってバスで門前仲町に行く。そこから小津橋を経て古石場文化センターに行く。ほぼ12時30分。受付を済ます。13時から山田洋次監督の講演会。特に記することもなし。小津の映画「東京物語」を鑑賞。今日までにチケットが完売の盛況であった。山田監督と小津監督では目指す作品世界が違う。小津さんが至高の芸術なのに山田さんは大衆的な娯楽性の追及であったから。小津、溝口、黒澤は飛びぬけている。男はつらいよシリーズが48本も続いたからといってどんな意味があろうか。
 鑑賞後は総会。後は懇親会で屋形舟に乗船し宴会。東京港の奥にでるも夜で分からないし雪が降っている。時々揺れる。散会後東京駅へ。最終の名古屋行きひかりに間にあった。名古屋も大雪であった。

木曽・焼棚山スキー登山2008年02月18日

 午前6時半、地下鉄本郷駅でW君を待つが来ない。きっと道路の凍結でトラブッテいるのか。私も坂道を登る際スリップして尻を振った。反対車線にはみ出しガードレールにぶつかりそうになった。ヒヤッとした。スタッドレスでもこんなことがあるのだ。周囲に車がいなくてよかった。幸い、ガードレールにもぶつけず、ハンドル捌きで安定を取り戻した。パートタイム4WDのスイッチをすぐにONしたが遅い。
 一つ遅れて合流した。すぐにKさん宅に向かい、赤津ICから東海環状道をへて中央道に入る。中津川ICからR19へ。通行量は信じられないくらい少ない。冬の木曽路はトラックの独擅場であった。
 旧木曽福島町から木曽福島スキー場に向った。それでも車は少ない。しかし着いてみるとPは結構賑わっていた。誘導されて最上部のPに置く。
 リフト券は50歳以上が3500円、70歳以上が2900円と良心的。過大な設備投資を避けて格安で良心的な運営をしている。ボーダーはいないから昔のままのスキー場のよさを保っている。
 今日の目的は当初はゲレンデに終始することであったがそこなら焼棚山でも往復しようと提案。皆さんが乗った。以前に大笹沢山を経てやぶはらスキー場にツアーしたことがあった。今回は往復である。
 リフト終点は1904mの三角点があるピーク。点名を陸焼棚という。晴れれば木曽谷、小鉢盛、鉢盛などが見える。11:15ここでシールを貼ってしばらくは針葉樹の森の中を緩やかに下る。ピークは巻く。最低鞍部からは登りとなるが岳樺の繁る緩斜面になれば山頂は近い。稜線には営林署と見られる黄色いテープもあるので道を外すことはない。緩斜面のところは頻繁に現れてRFが助かった。
 13:30、立ち木のない広い頂きの焼棚山2002mに着く。2等三角点の山である。ここは点名を大笹沢という。(最高点の大笹沢山は三角点がない。2040mで余り違わない)ここも晴れれば美ヶ原方面が見える。今日はやぶはらスキー場や山麓が見えるのみ。
 少し時間がかかったのは先週降ったばかりの新雪でよく潜るのでラッセルに労力を取られたからだろう。ストックを指すとすとんと50cmは潜る。
 13:50、非常に寒いので長居もして居れず、滑降に入る。新雪を気持ちよく滑走する。しかしながら疎林とはいえアップダウンもあるので大きなゲレンデのような豪快な滑りではない。深山を彷徨している気分がいい。最低鞍部を過ぎて途中からシール登行に切り替えた。
 来たルートのシュプールも強風にかき消されて消えたところもあった。W君が付けた赤い布の目印が頼りになった。16:00少し前にゲレンデに戻る。シールを剥がしていざ滑降に入るがすでにリフトの営業時間は過ぎた。このまま滑降してからゲレンデのとなりにあるPに戻った。
 一日中晴れたり、曇ったり、強風が吹いたりと厳冬期特有の悪コンディションであったが2000m峰をゲット出来て良かった。それにしても極寒の一日であった。
 春は名のみの風の寒さや・・・・・。浅春の木曽路に尚も雪が降る。
追記
 やぶはらスキー場のHPを見たら最近は権兵衛峠直下のトンネル開通後は伊那経由で来るように案内していることが分かった。小牧JCTから2時間という。通りで車が少なかったわけである。
 木曽福島スキー場、御岳マイア、チャオなど名だたるビッグゲレンデを抱えた木曽へのアクセスはトンネルの開通で劇的な変化が起きていた。
 おまけに大笹沢山へのスノートレッキングの参加者を募る。スキー場も変ったものである。

増刊「キネマ旬報2月号 小津安二郎人と芸術」着荷2008年02月22日

 昨年冬、小津安二郎を偲ぶ集いで旅館が同室となり、親しくなったF氏が見せてくれた古雑誌である。ずっと気になっていたがふと思い出して検索で安いところを選び注文しておいたらもう着いた。奇しくも古書店はさいたま県でF氏に近いところである。昭和39年2月当時の定価250円はプレミアムがついて2500円也。手に入るだけありがたいと思って購入した。
 昭和38年12月12日に死去した小津さんの追悼集みたいであるが実は以前から計画されていたものだったらしい。小津さんの病状が思わしくなく伸び伸びになっていたら追悼集の体裁になってしまった。
 何といっても野田高梧(1893--1968)の「小津安二郎という男 交遊40年とりとめもなく」、という追悼文が貴重である。野田高梧は小津より10歳年上であった。函館生まれ、早大英文科卒であるが愛知一中を出ていることで東海とも縁がある。野田さんの目を通して見た小津安二郎の文は私にはこれしかない。戦後作品のすべては野田+小津コンビで脚本が練られている。小津調は野田調ともいわれる所以である。
 彼らは「奥の細道」における芭蕉と曽良の関係に似ている。芭蕉が右脳を働かせて俳句を作り、曽良は煩わしい旅の事務を担う左脳の役割。左脳は冗長さを嫌い合理的な思考をする。小津映画の台詞は俳句のように短いといわれる。それが快いテンポを生み出す。映画「早春」で小津さんは主役の池部良に「いいかい僕の台詞は一字一句てにおはまで直してはいけないよ」と念を押したという。どの映画にも「ちょいと」という台詞がかなりの頻度で出てくる。こうした背景には野田さんの左脳的な思考があったと思う。専門の脚本家ゆえに優先的にリードされたであろうと推測する。俳句は省略の文学ともいう。小津映画のショットや俳優達の演技にもそれは感じられる。
 芭蕉が入門した当時は俳諧と呼ばれ、言葉遊びに近いものだった。幾多の人生の試練を経て中国の杜甫、李白の影響を受けて俳句を人生の詩にまで高めた。俳聖とよばれるのはこのためだ。この点も青少年期に外国の映画に影響を受けて育ち、そこから娯楽の域を抜け出して芸術家とまで呼ばれるような高貴な映画を制作したところに共通項を見出す。芭蕉庵のある深川生まれということも少なからぬ縁がある。
  野田さんは大ヒットした「愛染かつら」の脚本家でもあった。数多くメロドラマも手がけて松竹に利益をもたらした人、と書かれた文をなにかで読んだことがある。影になりがちな野田さんを評論したものを読んでみたいもの。
 新藤兼人の「小津映画から何を学ぶか」、も読み応えがありそうだ。小津映画を遺産とする認識はさすがである。新藤さんは今年95歳で存命である。彼は著作も多いから2,3三冊は読んだがこの記事が基本になっているなと思う。