08年越後の山を滑る2008年04月08日

浅草岳山頂で憩う登山者。銀山湖を見下ろす。遥かに平ヶ岳方面の尾瀬が見える。
 今年も越後の春山を堪能した。2005年に新潟市のW先生からお誘いを受けてから早いもので今年で4回目である。しかし天気が悪かったり雪が少なかったりで中々山頂には立てなかった。延べ6日行って鬼ヶ面山に立っただけであった。
 山スキーの別天地というべき守門黒姫は毎回行った。ここは重厚なぶな林の林間滑走が素晴らしい。次回は是非山頂を狙いたい。これまでで大体ルートの目処はたった。
 浅草岳はいつも途中で引き返したが今年は1等三角点の浅草岳山頂に立つ事ができたのが収穫である。登山はなによりも天気である。これまでの我慢に報いてくれたかと思うような無風快晴の山スキー日和であった。滑降も快適で4時間30分の登りでも下りは1時間30分ほど。下山後は温泉で汗を流した。
 お宿はいつもの休み場さん。おかみさんとも顔見知りになれた。夕餉には毎回山菜がどっさりでるが今回は少なかった。メインは鴨鍋であった。何よりもビールが旨かった。守門黒姫の下山では体力を消耗させられた。同行のKさんも6日はドライブにしたいと休みたがったほど。大汗をかいたのでビールがいくらでも入って行く。銘酒八海山も差し入れで飲ませてもらえた。辛口で旨かった。
 おまけに足の達者な同行者を得て遠路退屈せずにドライブできた。帰りは4時過ぎまで宿で休憩した。小粒のジャガイモを油で揚げてしょうゆと砂糖で絡めたものが美味かった。ビールのつまみにもあう。その後R252を小出まで走る際に平野部からすっくと伸び上がる美しい魚沼駒ヶ岳を見た。となりで運転交代に備えて寝ていたKさんを起こしたほど美しい。半周するように走りながら魚沼三山の姿を飽かず眺めた。
 R252からR17に合流して塩沢に向った。『北越雪譜』の著者鈴木牧之記念館に寄るためだった。行くことは行ったが閉館は4時半となっているので入館はできなかった。それでも帰りには巻機山の風姿を眺められたのは収穫だった。鈴木牧之は著書の中に巻機山を破目山(割引山)として紹介する。これを深田久弥が『日本百名山』に書いている。巻機山も再び晴れた日に登りたい。
 塩沢は雪深い時期に再訪したい。記念館も雪深い折ならより感慨深いだろう。それに「雪中に糸となし、雪中に織り、雪水を晒(そそ)ぎ、雪上に曬(さら)す。雪ありて縮みあり、されば越後縮みは雪と人と気力相半ばして名産の名あり。魚沼郡の雪は縮みの親といふべし」という映画「雪国」の中で岸恵子扮する駒子が朗々と歌う台詞も記憶に新しい。実は川端康成は『北越雪譜』の一節を取り込んでいたのだった。そんな景色も見られたら面白いではないか。
 後ろ髪を引かれながら十日町市への道標に導かれて県道に入った。そして峠のトンネルの手前の開けたところからは車を止めて見たほど美しい雪山が見えた。『雪国』にも「夕景色」の一章があった。魚沼盆地は国境が東西にあり、北に開けた地形なので朝日よりも夕景色の方に風情があるのだろう。
 あれが巻機山か。その右はなどと夕景色の美しい春の魚沼盆地とはトンネルを境に別れた。

遠州の山・竜馬ヶ岳と岩岳山に登る2008年04月12日

 目覚ましは5時に鳴っていたがうとうとして出発は6時半になる。名古屋ICは7時ジャストだった。行く先は竜馬ヶ岳。天気予報はまずまずの見込みであるが空は雲が多めである。ラジオからは局地的な低気圧の発生で静岡県西部は一時降雨もあると放送していた。
 浜松ICは8時過ぎに着いた。県道65、R152,R362と走る。山東まではやや車と信号が多くて渋滞気味である。この三叉路でR362とR152が別れて交通量が二分したため放たれたように走り出した。JAのガソリンスタンドのある平城という所でR362から別れてログハウスのペンション・シンフォニーのPに着いたのは10時であった。名古屋ICから152km、3時間の道程であった。
 岩岳山はともかく竜馬ヶ岳まで行けるか不安になった。時間的にも空模様にも嫌気した。どうやら出発時の楽天的な気分は失せた。この山の不機嫌な日に来てしまったようだ。ともかく歩き出すとやたらと遭難注意や駐車禁止注意の看板が目立つ。ここから岩岳山往復は7時間と警告している看板もあった。それでも歩くしかない。空は鉛色であるが木々は新芽が吹き出したばかりである。ミヤマツツジが咲いている。
 若干で林道ゲートを越す。坦々と林道を歩くが何と下って行くではないか。往きはよいよい帰りはぐったりが想像された。林道の傍らにはスミレも咲く。ミツマタの花も咲いているではないか。今は杉、檜の植林であるが昔は和紙原料を生産していたのだろうか。
 1時間で比高約120mほど下った。「岩嶽山ヤシオの里」の塔が立つ。昔はここまで車で来れたらしい。度重なる遭難騒ぎに営林署も切れてしまったか。健脚者のみ来たらいい、という意思表示であろう。少し先で林道の路肩の崩壊があった。13年前の「名古屋周辺徹底ガイド」にはその先から荷小屋峠への道に取り付き、吊橋を渡って登山したし又は岩岳山への尾根を直登した、と案内されている。
 今は手前で沢に下って丸木橋を渡り、小さな尾根に取り付く。急登をこなすとトラバース道になる。小さな滝がかかる沢を越え、最後の水場のある沢も越える。すると古い登山道と右から出会う。立ち入り禁止の札が立つ。山抜けの跡をそろそろと越えたりしながら荷小屋峠に着いた。ここで12時半。若干のエネルギー補給とコーラを飲み干した。
 峠からは鳥居をくぐり、落葉樹林帯の明るい尾根歩きになる。アカヤシオ、シロヤシオ群落のあることを示す看板が目立つ。狭くて急な尾根の急坂を直登気味に登る。残念ながら今は芽吹きさえない。4月下旬の開花期には再訪したいものである。分岐に着いた。12時50分。左へ岩岳神社、竜馬ヶ岳の道標、右へは岩岳山である。
 左折する。小さなアップダウンを繰り返すと狭い岩岳神社の境内である。見えるはずの京丸山も霧の中である。ここをパスして竜馬ヶ岳に向う。落葉広葉樹の明るい稜線歩きである。高度計を見ながら歩くが1350m前後で殆ど登って行かない。それでも時々はギャップを越える。するとちゃんと1400mを越えていて高度が上がっている。周囲の巨木に見とれて撮影する。ヒメシャラの大木もある。ここは太平洋型の混淆林であろう。
 進むにつれて右(東)が唐松林であることに気づいた。この周辺は一時は皆伐されたのである。左(西)はやや小ぶりであるが原生林らしい。そして尾根が段々広くなった。
 ああ!ここが竜馬ヶ原だろうか。落葉樹林の緩斜面が続き、踏み跡も怪しくなって来た。テープが継続的に付いているので何とか迷うことはない。鹿のヌタ場があった。そこを右回りに通過して少しの登りで竜馬ヶ岳山頂であった。13時50分。三角点だけがある。慎ましい山頂である。そして静寂である。風の音、鳥の声、得体の知れない臭いが風に乗ってくる。ここは正しく南アルプスの深南部につながる深山の一角である。踏み跡は薄く訪れる登山者の甚だしく稀な山頂である。
 霧が流れて行く。太平洋の湿った空気が山の冷涼な空気に当り霧になる。今日は局地的な低気圧の影響で云々、といったその低気圧に向って気流が流れ不安定になっているのであろう。
 14時、晴れそうにない山頂を早々と辞した。分岐までは同じ50分の所要時間である。ここから岩岳山を往復した。約30分。入手山経由で下山を試みたが途中で引き返した。急なのと深い霧、それに杉や檜の植林帯で整備された登山道ではない。「立入禁止」の看板も心に引っかかる。道迷いが多いのであろう。今日は単独であることも躊躇させた。
 分岐から峠へ下る際には京丸川側から鹿の鳴き声を聞いた。ガサガサという物音も聞いた。鹿の生息域であろう。「ピィー」という竹笛(或いは簫)のような特長のある鹿の鳴き声が盛んに聞こえた。俳句歳時記の春を読むと「孕み鹿、春の鹿、鹿の角落つ」などの季語が収録されている。春は出産の時期であり神経過敏になっているのであろう。林道へは16時半過ぎに着いた。再び味気ない林道歩き1時間。17時35分にPに着いた。
 ペンション・シンフォニーに立寄った。コーヒーを注文した。居心地の良さそうなログハウスのペンションで一度は泊まってみたい。オーナーと世間話すると最近は1300m級の低山と舐めてかかるハイカーが多いそうだ。そのために遭難騒ぎが絶えないそうだ。地図、コンパスを持たず、持っていても使えない、つまりハイカーである。この山はハイカーが気楽に来れるものではない。宿泊者の夕飯は山菜のてんぷらのようだ。美味そうなてんぷらのにおいが空腹を刺激した。
 温泉を勧められたが時間がないので店を出た。18時過ぎ夕闇迫る遠州奥の山を後にした。道路を素早く横切った動物を見た。近づくと鹿である。目を合わすと向こう側へ逃げて行った。見送りに来てくれたのだろうか。次は竜馬ヶ原で一泊してみようか。

春曇り2008年04月15日

  ヤシオ咲く前にこそ咲け花ツツジ

  春曇り気を引き締めていざ行かん

  三椏の花林道に垂れて咲く

  湧くごとき木々の芽吹きに癒される

  水温む沢のパイプに水通す

  山笑うテント張りたき竜馬ヶ原  

  春の霧風の音聞く竜馬ヶ岳

  オーナーと山の話して春深し

  一頭の鹿見し山の春の暮

  日帰りの山を楽しも啄木忌

「岳人」08年5月号を読む2008年04月16日

 余り買わなくなった山の雑誌である。店頭で「ヤマケイ」を手に取るが心にしみるような記事は見当たらない。池内紀の本の紹介欄で早川孝太郎の『猪・鹿・狸』が採り上げられていたことが唯一目に留まる。
 「岳人」はどうか。特集の中に守門黒姫を紹介した記事があった。元会員のO君が在籍する会の会長さんが執筆している。つい最近行ってきたばかりの守門岳であるが残念ながら山頂は2座とも踏んでいない。ちなみに「岳人」の1998年5月号の守門岳では5月下旬でも滑走可能らしいからGWなら丁度いいのだろう。我々はたぶん”はしり”を味わっているかも。例年殆どシュプールを見ないのに今年は沢山人が入っていた。この記事でまた増えるだろう。Wさんの話では大岳よりもここの方が山スキーコースとして優れているとのこと。このブナの林間滑走はまったく飽きることがない。 
 かわら版の中井正則氏の投稿も興味深い問題を提起している。だが観光登山者のことは従来から言い古されたことである。今はそれに加えてベテラン登山者の遭難多発傾向が加わる。若いときから経験を重ねてきた登山者も年には克てず、遭難事故を起こす。所属の会ではお題目的な遭難対策でなく一歩踏み込んで遭難救助委員会を立ち上げる準備をしている。また私もヤブ山登山の実地体験とツエルトビバークの訓練を計画した。防衛的な登山と事後処理の二面から対応する。
 理想は道のない山でも地図一枚に想像力を働かせて入山し山頂を踏んで下山する。迷ってもあわてないで下山する力を養う。こうして道のある名山のみを歩くだけでなく道のない無名の山、三角点だけの山でも何とか一日楽しめればガイドブックなんかいらない。むしろガイドブックは掲載されない山やコースを探すために利用したい。そうあってほしい。
 尚中井正則氏を検索したら10年前にヤマケイから『山のトラブル体験マニュアル 登山事故から身を守る最善策Q&A』を出版されたことが分かった。著者紹介には1943年生まれ、信州大OBで公立高校教師、フリーで全国の山を登る、とある。投稿欄には64歳とあるので同一人物であろう。
 本書は店頭で立ち読みした気がする。岩崎さんの登山入門と同じで余りに詳細になり過ぎて読む気にならなかったように思った。トラブルなるものは一挙に起きるものでない。やっぱり先輩と交流しながら徐々に経験を積んで行くのが一番である。ゆえに自分のメンター(mentor)を探すことがより重要である。
 メンターとはあるサイトからコピーすると

・ギリシャの詩人ホメロスの書いた叙事詩『オデュッセイア』に登場する老賢人「メントル」からきた言葉です。

・その意味は、賢明な人、信頼のおける助言者、師匠などで、一般には「成熟した年長者」をさす言葉として使われています。

 登山はマス教育には向かない面がある。登山教室では克服できない。一対一で折々助言を得られたらどんなに素晴らしいだろう。山岳会もそんな機能が働けばいい。名古屋山岳会を創立した跡部省三さんの「岳人」などに投稿した記事は今読んでも一々含蓄の深いものであった。登山家・今西錦司の後輩達の話では我々が困っている時にさっと知恵を授けてくれた、という。彼こそはメンターであったわけだ。だから晩年まで登山の手助けをするひとがいたし死後も親しまれている。
 他にバックナンバーで昨年の10月号が完売していることに気づいた。もっとも山のにおいが希薄な号(紅葉の山、新雪を踏んでとかの記事がない)であったと思うが。山の本が売れない時代にあって関係した一人として半年で売り切ったことは爽快な気持ちである。

春の雨2008年04月17日

 勤務先の門近くの市道に植樹されているハナミズキ(花水木)の白い花が美しく開いた。この花を見ると同じミズキ科の山野に咲く野生種ヤマボウシを想う。白い清楚な雰囲気がいい感じである。5月か6月にもなれば咲くだろう。今しがた観た映画「また逢う日まで」の脚本家は水木洋子。何か関係があるような。
 今はまだ林床でユキワリソウ、フクジュソウ、カタクリ、キンポウゲなどが順々に咲くのを待っている最中である。樹木ではクスノキの仲間が咲き終わり、S君の話では奥美濃の大洞山で辛夷が咲いていたという。或いはタムシバかも知れない。そしてツツジ科のヤシオ、ヤマツツジ、シャクナゲ、キバナシャクナゲ、ホオの花と続く。絢爛たる自然美を楽しむ。
 山野を歩くのにもっともいい季節の到来である。しかし今日は雨。明日も大雨らしい。20日に予定の御岳山の大丈夫だろうか。北アルプスの爺ヶ岳でも雪崩れ遭難で死亡事故があったし。
 下界の雨は3000m級では雪の可能性が高い。下界を気温15度とすれば100mに付き0.6度下がる気温を計算すると3000mではマイナス3度である。松本市で夜の最低温度は8度なのでマイナス10度と冷え込む。暖かい日が続いて表面が解けて一旦は固くなったところへ湿度の高い雪が山頂付近にふんわり積もる。この雨によって非常に不安定な積雪状況が生まれているだろう。そして雨のところでは融雪しやすくブロック崩壊の恐れもある。W君には雪崩を警戒しながら登ろうと注意した。

木曽御岳・継母岳スキー登山-尺ナンゾ谷を滑る2008年04月21日

継母岳山頂から見た尺ナンゾ谷の一部。
 4/19(土)の退社後、急いで帰宅。着替えなどしてW君の勤務先のある八事へ走る。約束は午後7時半であったが勤務が締切日で長引いてやや遅れた。しかしW君もまだ仕事を引きずっていた。色々あって8時ころになった。西友で夜食や行動食の買い物を済まし名古屋ICに入ったのは9時近かった。中津川ICでR257へ。R41へ合流してから飛騨小坂へ走る。R41から濁河温泉への県道を走るがもう午後11時半。道の駅「ももはな」で車中泊を決めた。まだ30km余りの典型的な山岳路が待っている。強引に走っても1時頃か。そんな訳で車中でビールを飲んで明日の鋭気を養う。12時半就寝。
 4/20(日)午前4時目覚ましがなるが起きられず。週末の仕事疲れがどっと出てくる時間帯。しかし5時起床。5時半、何も食べず出発する。肌寒い戸外である。昨夜、美濃は晴れていたが飛騨はどんよりした空模様。朝霧は晴れるの俚諺を信じて登山口に向う。この県道は何時走っても大変な山岳路である。タイトなカーブ、アップダウン、見通しの悪さ、このドライブだけでも疲れる。
 6時半頃、見慣れたスキー場があるところに来た。突然雪も多くなった。御岳少年自然の家の案内の看板に導かれて行く。するとすでに7人のパーティーが出発の準備中であった。聞くと福井県から来たという。我々も続いて準備。すると岐阜ナンバー車2台のパーティが来た。皆「岳人2006年12月号」の記事を参考にされたのだろう。「ずいぶんメジャーなルートになったんですね」と冗談を交わした。
 7時10分に出発。林道をシールで歩く。一旦雪が切れる。また履く。右へ下って行きそうになり戻って小沢に沿うルートに入る。といっても多人数のスキーの跡があるのでRFの心配はない。最初の小谷を渡る。しばらく雪原を歩いて尺ナンゾの本流である兵衛谷を徒渉する。対岸からはいよいよ上俵山への道程が始まる。最初は急な斜面を喘いでシール登高。登りきると緩斜面になる。赤い布を2本目印に付けた。
 ここから上俵山へは原生林の疎林の中の楽な登山であった。山頂付近でシラビソ?の密度が濃くなったのは天然更新でもあったのか。赤テープを巻きつけて上俵山の表示があった。ここからは国境尾根に沿って南下するがスキーの跡が顕著でそのまま導かれて兵衛谷への下降地点に着く。兵衛谷がくの字形に抉ったような地形で土の斜面が現れている。そこを強引に谷に下った。右岸に渡る。下降地点こそ雪が割れていたが先は雪の快適な道が続いた。
 しばらく先で尺ナンゾ谷が左に分かれるので入る。するとすぐに滝があるがスキーを履いたまま右岸を楽に巻いた。谷幅は数m、両岸も含めて10mの浅いU字の用水路状となって続く。時々はギャップもあるがそのまま登れる。谷の中のせいか暑いので上着を脱いだ。2200m付近から眺める継母岳の前峰や尾根、2400m付近のポイントを通過すると傾斜がきつくなる。心臓の呼吸も速くなり、一気呵成に登れないのが辛い。立ち止まっては呼吸が落ち着くのを待つ。年齢的にもそろそろ限界が近づいてきた感じがする。
 尺ナンゾ谷の源頭まで来るともう滑降してきた。次々と現れる山スキーヤーは壮観でさえある。それに皆さんよく雪に乗っている。上手い。よく鍛えられたスキーヤー揃いである。聞くと先行していった福井のパーティーだった。福井までは遠いので2950m付近で打ち切って下山してきたとのこと。
 最後の凹部を登りきると大雪原が展開。鞍部は近い。福井の7人パーティーはあっという間に滑降していった。その先で「ああー」と奇声をあげた登山者がいた。どうやらそこで打ち切るつもりだろう。大雪原の真ん中で。それは岐阜パーティーの女性だった。すれ違いに「あのー、時計を見ませんでしたか」と聞かれた。「あなたのでしたか」と返事。プロトレックの高度計付きである。上俵山付近で拾ったときはどうせ「岳人」を読んでいる登山者だから「岳人」の落し物コーナーへ投稿しようと話し合っていたのだった。落とし主が見つかってよかった。大いに感謝された。
 我々は最後の力を振り絞って鞍部への登高を続けた。緩斜面になり、心臓も高度になれたせいかもう高ぶりはない。膝を軽く進めてついに鞍部に立った。午後2時だった。さて継母岳登頂をどうする、と相談。2時を越えて登頂に向わない鉄則を今日は破ることにした。私もW君も未踏であったから。
 ただし私はピッケルだけ持って空身にした。W君はザイルも含めてフル装備で向った。北西面のせいか雪はよく締まっている。キックステップが気持ちよく決まる。山頂直下の岩場の急登のみ神経を使ったが無事登頂できた。2時37分だった。壊れた祠が見えた。正しく継母岳だ。続いてW君も来た。登ってきた尺ナンゾ谷が白い蛇のようにくねりながら見えた。凄い高度感である。両側がすぱっと切り立っているのでのんびりした気分はない。撮影すると早々に下山した。
 鞍部では3時を回った。3時25分滑降開始。大雪原の回転はいとも優しい。天上界のゲレンデである。先行者のシュプールを避けて自分のシュプールを描く楽しさ。尺ナンゾ谷に滑りこむ。急角度で滑降して行く。疲れた体と足を考慮してスピードを殺すために山回りターンからスキーの先端を谷に向けてずらす。つまりギルランデのテクで凌いだ。そういう下手な技術でも滝の高巻き地点まではあっという間だった。
 右岸の林間に登り滝をパス。兵衛谷となって幅広くなる。2060m付近への登り返しはシールを着けた。上俵山へはシラベの密林をシールで登る。隙間から見た摩利支天山の偉容にしばらくは見とれた。17時8分、上俵山通過。17時30分徒渉地点へ下降する。ここはシールを外した。先行者の跡はスキーのずらしで木の葉で汚れた雪面が白くなっている。その後を追いかけながら兵衛谷に下降した。徒渉する。またシールを付けて歩く。しかしシールの粘着力がなくなったせいでよく剥がれる。2回目の徒渉地点ではついに暗くなってヘッドランプを点灯。シールにテープを巻くがスキーはシュリンゲで束ねて肩にかけてつぼ足で歩いた。往きには覚えのない歩道が出ていた。先行者の跡もあるので登って行くと無事林道へ着いた。
 林道をそろそろ歩いて19時46分、車道に着いた。12時間半の激登であった。2時を越えて登頂に向ってしまったつけである。楽しみだった濁河温泉には入れなかった。何より無事に下山できてよかった、とまん丸なお月さんが微笑んだ。

写真:http://8425.teacup.com/koyabann1/bbs

南川金一『山頂渉猟』を読む2008年04月26日

 先週4/20の継母岳スキー登山は登頂を強行した結果、日没に捕まってわずかだがヘッドランプを灯しての下山となった。ルートが西側であったから日没後でもまだ明るさを保っていた。森林帯では闇であったが林道に出ると月夜であった。余り記憶にない際どい下山であった。
 さて今回は未踏だった継母岳をゲットした。そして前山の上俵山を通過したことに新に思いを振り返った。潜在意識にしまわれて忘れていたがこの山も御岳の前衛ながら2000m峰である。いつかは登るつもりでいたのである。
 表題の『山頂渉猟』は日本の2000m以上の山642山を完登した記録の本である。その中で道のない山は200山あり本書では162山が取り上げられている。登山道のない上俵山も入っている。そして辿ったルートもほぼ同じであった。一度無雪期に試みヤブで果たせず、3月末の残雪期に3日かけて上俵山を登った。
 著者はマイカーを使わず、スキーも使わないからアクセスも徒労と思えるほど時間をかける。公共交通のはずの飛騨小坂、濁河温泉間のバスも事前の予約制というから登山以上に大変なことである。
 こうしてみればマイカーで前夜の内に駆けつけてスキーで日帰りしてしまうなんて破天荒なことである。
 継母岳からの俯瞰で気になったのは三浦山であった。この位置的にいやらしい山も著者は大変手間をかけてトレースしている。まず剣ヶ峰に登り継母岳に下ってⅡ峰、Ⅲ峰と辿る。そして溶岩台地の危険な箇所を辿って三浦山をゲットした。そのまま往路を戻った。そして山麓は樹林の海だからとても下からは登ってこれないだろうと述懐している。
 継母岳から下山して兵衛谷から上俵山へ登り返す際に鞍部に着いた。ここから国境尾根を辿り継母岳に逆行して三浦山の標高に達した辺りからトラバースして行けば登頂できそうだと思った。スキーなら1日で2座トレースできる。
 いずれにせよ御岳西面のこの辺りは秘境である。3日あれば摩利支天山に突き上げる兵衛谷の遡行も面白いだろう。年を取らないうちに行ってみたいところがまた増えた。

HimalayanBreezeを聴く2008年04月26日

 HIMALAYAN BREEZEとはヒマラヤの風のこと。今日は名古屋市栄の愛知県芸術劇場小ホールで行われたネパール音楽を鑑賞した。ネパールでバンスリと呼ぶ竹笛を主にギター、マンドリン、太鼓、などで構成する歌舞音曲である。3年ほど前にも日本山岳会の100周年記念コンサートで聴いたがヨーデル、アンデスの音楽に埋れてしまっていた感じであった。今回はネパール音楽だけの催しである。
 竹笛を吹くのはパンチャラマさんのみ。ネーパールの天才的なミュージシャンとの触れ込みである。要するに正規の音楽教育を受けていないで直感的に学んできた人であろう。
 広く見渡せばアジアは竹の文化圏である。インド、中国、朝鮮、日本も竹笛はある。奥三河で毎年冬に行われる花祭も竹笛を主に設えた場所で踊る湯立て神楽の一種である。ネパール音楽とてそういった竹笛音楽の文化圏の中に入ろうか。ネパール神楽とでもいえようか。
 西洋音楽の影響を受けてリズミカルであるが本来は素朴な音楽だったと思う。ヒマラヤの山々を神々の座ということもある。神へ歌舞音曲を以って奉納する心はいずこの国も変わらないのであった。
 279席はほぼ満席に見えた。マイナーな音楽ながら盛況の内に終った。舞台での踊りに同調した若い娘らが舞台下で踊るハプニングがあって興に載っていた。約30年前の竹の子族の踊りを彷彿させた。

再びの岩岳山と竜馬ヶ岳2008年04月28日

 先々週の登山では局地的な低気圧の発生とかで名古屋は晴れていたのに浜松北部は霧と風、時々小雨という意外な悪い天気であった。ヤシオツツジはまだツボミすら見なかった。
 4/27には降雨率0%と絶好の登山日和となった。登山口の駐車場は一杯であった。前回は見送った入手山経由のコースを登りにとって岩岳山、竜馬ヶ岳へと縦走的に登れた。入手山周辺の山腹には開花したばかりのピンク色のアカヤシオが見えた。振り返ると入手山辺りが花見山行には一番いい。少し早めのランチタイムを楽しむハイカーが多かった。それにシンフォニーからの登山ではないようだった。岩岳山は急登を忍んで登ったものの展望もなく狭くくつろいだ気がしない。そてにヤシオも小さめであった。
 昼食後岩岳峠に行き、岩嶽神社を踏んで竜馬ヶ岳に向った。前回よりは明るく新芽の吹き出しも見えてやっと早春の趣であった。単独行とすれ違った。ぬた場を経て登頂。さわやかな風が嬉しい。隣には京丸山が見える。すぐ近くには高塚山が尾根続きに見えた。
 下山は東への尾根をワンダリングしてみた。「北に遠ざかりて白き山あり」ではないが南アルプス深南部の高い山が見えたが20万図がないく同定が出来ない。直観的に左からバラ谷の頭、黒法師岳、池口岳、光岳辺りか?。尾根には鹿道が続いている。赤い布もぶら下がっているので好事家には利用されていそうだ。
 長い穏やかな尾根を岩嶽峠に戻り荷小屋峠に下った。峠からはまた暗い杉林に入って下る。途中岩嶽山の山腹が良く見えた。アカヤシオが点在し学術的な価値のある群落というだけのことはあった。
 林道に戻るとまた1時間余りの戻り坂が始まった。中間くらいでハプニングがあった。道迷いの夫婦に出会ったのだ。右へ京丸に下っていく林道を下ってしまったらしい。おかしいと戻ってまたやはりあの道かと下ってくるところであった。
 聞いて見ると地図持たず、コンパス持たず、非常食、雨具もなく弁当と水筒だけのハイカーであった。色々とアドバイスしながら登山口に戻った。

尺ナンゾ谷考2008年04月28日

 御嶽の飛騨側、継母岳との鞍部に発する尺ナンゾ谷は等高線から見ても興味深い。或いは尺ナンズ谷ともいうらしい。昔の尺貫法時代は傾斜をシャクゴ、スンゴなどと省略して符丁のように使っていた。想像の域をでないが傾斜を表現する言葉ではないか。今風にいえば30cmで15cm上がること。歩けば相当な傾斜であろう。
 例えば三河の額田町に寸五郎坂がある。寸五の急傾斜の意味である。(額田町史)。伊那山脈の小川路峠への途中にもすん坂がある。同じ意味と思う。
 猟師たちはこの谷に獲物を追い詰めていった。傾斜の殆ど均等なこの谷を「尺何寸(シャクナンズン)の谷だろうか」と聞いた。誰かが谷の名前と聞き違えた。そのまま谷の名前になってしまったのではないか。
 もう一つシャクは尺=石の読み方でもある。石楠花のシャクである。シャクナゲが訛ったか、とも考えられる。
 地形図に名前がある上俵山の点名は俵上=ひょうえである。兵衛谷と同じ読みであった。兵衛はいかにも猟師の名前らしい。上俵山の三角点は『小坂の三角点』という本に掲載されていた。1988年に小坂町教育委員会が刊行した。前書きにはなぜか朝日新聞の名記者だった荒垣秀雄が書いている。調査には石楠花沢を遡行して源流は激ヤブだったと書いてあるがちゃんと三角点を撮影している。地図にない滝を「発見」しながら頂上付近では熊笹の大海原を漕いで5時間以上の登山であった。残雪期なら容易に登山できるが三角点の発見が難しい。