遠祖に坂上田村麿 直参の旗本徳山氏の事 ― 2025年06月15日
少し早めに出発した。目的地は揖斐川町交流センター。講師は田中 豊 で86歳、愛教大出身の元数学の教師だった人。今は古文書の解読を通じての歴史研究家として活動中。揖斐川町歴史民俗資料館の古文書講座の講師をしている。
根尾谷の奥の根尾能郷にある能郷白山神社の猿楽を拝見した。その舞台の奥の垂れ幕に大野郡 徳山云々との染め抜きの印刷があった。本巣郡なのになぜ大野郡なのかの疑問があった。
以前に揖斐川町歴史資料館を訪ねた際に大きな絵図で根尾川の右岸が大野郡と判明した。
講座のメモ書きを列挙しておく。
徳ノ山五兵衛 元の名前は坂ノ上だった。
勅許で変更 勅許は天皇への上納金で下される
NHK 豊臣兄弟 異父兄弟
初婚 秀吉 北の政所 やや 古文書 県庁図書館
再婚 秀長
作家は百姓より 出世をさせて 面白がらせる
公家上がり
歴史の真相 古文書の存在 無いものは想像の産物
古文書とて100%正しいとはいえない
征夷の夷人 アイヌ人
中国 漢民族 中華思想 世界の中心
馬鹿にした
東夷・・・京都からみて、東国の人、特に無骨で粗野な東国武士をあざけっていった語。東夷 (とうい) 。
南蛮・・・古代中国では、四夷(東西南北の異民族)の一つとして、南方の異民族を蔑んで「南蛮」と呼んでいました。
日本での意味の変化:
戦国時代以降:ポルトガルやスペインといったヨーロッパ人が日本にやってきて、彼らを「南蛮人」と呼ぶようになりました。
南蛮貿易:南蛮人がもたらした鉄砲やキリスト教、そして彼らとの貿易を「南蛮貿易」と呼びました。
南蛮文化:南蛮人が持ち込んだ文化や、彼らが好んで食べる食材も「南蛮」と呼ばれるようになりました。例えば、ネギや唐辛子、油を使った料理などが挙げられます。
西戎・・・せい‐じゅう【西戎】
青海・甘粛地域に住んだトルコ族・チベット族、または広く西域の住民をも含めた。 転じて、西方の異民族の称。 西方のえびす。 また、日本では、広く、野蛮人、朝敵をもいう。
北狄・・・「狄」は、古代中国で北方民族を指す言葉で、野蛮で未開な存在として見なされていました。
夷狄:
「夷狄」は、東方の夷と北方の狄を合わせた言葉で、四方を囲む異民族を指す総称として使われることもあります。
四夷:
「四夷」は、東夷、西戎、南蛮、北狄をまとめた言葉で、中国の四方を囲む異民族を指します。
歴史的背景:
古代中国では、自国を文明の中心とみなし、周囲の民族を野蛮な存在として差別的に見ていました。そのため、「狄」や「夷狄」といった言葉は、そのような差別意識を反映しています。
現代:
現在では、歴史的な文脈以外で「北狄」という言葉が使われることはほとんどありません。
日本人は感性、情緒優先
吉田松陰 テロリストを育てた 歴史の裏と表
流罪 根尾谷の最奥の越波(おっぱ)
沢田ふじ子『けもの谷』では流罪の場所として設定されている。
歴史的にも身分の高い人ほど山奥へやられるらしい。
能狂言もなぜあんな耕地もほとんどない狭い地域で継承されてきたのか、というと高貴な身分の人たちが集団で流刑地になったのか。
根尾谷の奥の根尾能郷にある能郷白山神社の猿楽を拝見した。その舞台の奥の垂れ幕に大野郡 徳山云々との染め抜きの印刷があった。本巣郡なのになぜ大野郡なのかの疑問があった。
以前に揖斐川町歴史資料館を訪ねた際に大きな絵図で根尾川の右岸が大野郡と判明した。
講座のメモ書きを列挙しておく。
徳ノ山五兵衛 元の名前は坂ノ上だった。
勅許で変更 勅許は天皇への上納金で下される
NHK 豊臣兄弟 異父兄弟
初婚 秀吉 北の政所 やや 古文書 県庁図書館
再婚 秀長
作家は百姓より 出世をさせて 面白がらせる
公家上がり
歴史の真相 古文書の存在 無いものは想像の産物
古文書とて100%正しいとはいえない
征夷の夷人 アイヌ人
中国 漢民族 中華思想 世界の中心
馬鹿にした
東夷・・・京都からみて、東国の人、特に無骨で粗野な東国武士をあざけっていった語。東夷 (とうい) 。
南蛮・・・古代中国では、四夷(東西南北の異民族)の一つとして、南方の異民族を蔑んで「南蛮」と呼んでいました。
日本での意味の変化:
戦国時代以降:ポルトガルやスペインといったヨーロッパ人が日本にやってきて、彼らを「南蛮人」と呼ぶようになりました。
南蛮貿易:南蛮人がもたらした鉄砲やキリスト教、そして彼らとの貿易を「南蛮貿易」と呼びました。
南蛮文化:南蛮人が持ち込んだ文化や、彼らが好んで食べる食材も「南蛮」と呼ばれるようになりました。例えば、ネギや唐辛子、油を使った料理などが挙げられます。
西戎・・・せい‐じゅう【西戎】
青海・甘粛地域に住んだトルコ族・チベット族、または広く西域の住民をも含めた。 転じて、西方の異民族の称。 西方のえびす。 また、日本では、広く、野蛮人、朝敵をもいう。
北狄・・・「狄」は、古代中国で北方民族を指す言葉で、野蛮で未開な存在として見なされていました。
夷狄:
「夷狄」は、東方の夷と北方の狄を合わせた言葉で、四方を囲む異民族を指す総称として使われることもあります。
四夷:
「四夷」は、東夷、西戎、南蛮、北狄をまとめた言葉で、中国の四方を囲む異民族を指します。
歴史的背景:
古代中国では、自国を文明の中心とみなし、周囲の民族を野蛮な存在として差別的に見ていました。そのため、「狄」や「夷狄」といった言葉は、そのような差別意識を反映しています。
現代:
現在では、歴史的な文脈以外で「北狄」という言葉が使われることはほとんどありません。
日本人は感性、情緒優先
吉田松陰 テロリストを育てた 歴史の裏と表
流罪 根尾谷の最奥の越波(おっぱ)
沢田ふじ子『けもの谷』では流罪の場所として設定されている。
歴史的にも身分の高い人ほど山奥へやられるらしい。
能狂言もなぜあんな耕地もほとんどない狭い地域で継承されてきたのか、というと高貴な身分の人たちが集団で流刑地になったのか。
能郷白山開山祭 ― 2025年05月17日
名古屋市を朝5時に出発。8時からの能郷白山開山祭に行くためだ。R418から尾並坂峠経由で根尾谷入りした。4月29日に歩いたヤマボウシ街道を走るとやっぱり長かった。
樽見駅には7時過ぎ到着。大垣行が出発していった。緑の海に埋まる山の駅は良いものです。竜鉄也の『山の駅』をオーディオに流した。
会場のうすずみ公園に行くが未だ誰もいない。その内スタッフがどんどん上がって来て準備が始まった。降雨率90%だったので登山は中止、開山祭の式のみは実施されて良かった。
岐阜県岳連の理事長さんや全体を取り仕切っていたS氏とも名刺交換できて知遇を得た。こういう交流が楽しい。雨なので山やさんは来ていない。
終わった後は教えてもらった猪垣の見学だったが大雨でヒルが手ぐすね引いて待っていると警戒して中止。結果揖斐川町へ転戦した。池田山の山麓だった。江戸時代に猪の害から作物を守るためだ。今は金属のフェンスになった。今も昔も自然との戦いは続く。知多半島出身の女流作家・澤田ふじ子の小説『けもの谷』は武士らが猪垣を建設する話。知っている地名を追いながら読んだ。
樽見駅には7時過ぎ到着。大垣行が出発していった。緑の海に埋まる山の駅は良いものです。竜鉄也の『山の駅』をオーディオに流した。
会場のうすずみ公園に行くが未だ誰もいない。その内スタッフがどんどん上がって来て準備が始まった。降雨率90%だったので登山は中止、開山祭の式のみは実施されて良かった。
岐阜県岳連の理事長さんや全体を取り仕切っていたS氏とも名刺交換できて知遇を得た。こういう交流が楽しい。雨なので山やさんは来ていない。
終わった後は教えてもらった猪垣の見学だったが大雨でヒルが手ぐすね引いて待っていると警戒して中止。結果揖斐川町へ転戦した。池田山の山麓だった。江戸時代に猪の害から作物を守るためだ。今は金属のフェンスになった。今も昔も自然との戦いは続く。知多半島出身の女流作家・澤田ふじ子の小説『けもの谷』は武士らが猪垣を建設する話。知っている地名を追いながら読んだ。
春の舟伏山を歩く ― 2025年04月29日
このところ根尾谷へ連続して行くことが多い。4/5の倉見山、4/13の能狂言の奉納、4/20の揖斐川歴史民俗資料館で根尾谷の歴史調べ、そしてまた山に向かった。朝6時起き、松屋で朝食もとった。
尾並坂峠には朝9時頃に到着。9時10分に出発。最初は尾根に向かうがすぐに行き詰まり戻って鉄塔巡視路から奥へ。これもはっきりしなくなるので植林の中を適当に尾根よりに登って行くと巡視路に戻った。後は尾根通しの一本道、730mのピークは右から巻道をたどると鞍部に着いて、そのまま行くと天狗城へ行くので鞍部から左へ戻った。
折からの春北風が激しく吹き小寒い気がする。まあまあ順調に歩けたが692mのコブの北にあるコブ2つが石楠花の密生した群生地だった。突然ルートを見失う。GPSで尾根に寄り乍ら行くが、新緑で下の鞍部が見通せないので左へ行きすぎたり、右へ振り過ぎたりしてピークの真下の崖をトラバースして主尾根に戻れた。この時、両手で木の根、岩場をつかむためにストックを離したら1本が下へ落ちて回収不能になった。
主尾根に入ると後は順調に旧登山道の阿弥陀仏に着いた。この時点で峠から4時間もかかり、同じルートを戻るとまたヤブで難儀しそうだ。山中で日没の予感がするので小舟伏山でUターンして貴船神社へ下山することにした。
現在は工事中ということで立入禁止になっているが落葉の積もった登山道を滑落しないようにゆっくり登って稜線に着いた。ここから小舟伏山までの緩斜面の道を往復した。コバイケイソウの若葉色が目にしみる。貴船神社に向けて下り始めて岩のゴツゴツした尾根はまたも春北風が容赦なく吹き付けてくる。ここも滑落に注意しながら下る。
植林帯について、林床に一人静の花を見た。すみれは所々で見たがこの花は春の花の象徴に思える。もっと下ると足の置き場もない急斜面に遭遇した。中々の険路である。木につかまりながらそろそろ下る。杉林に来ると樒の花が慰めてくれた。更に行くと水が勢いよく噴出しているタンクの前を通過、何とか道を拾いながら貴船神社に降り立った。同時にバッテリー切れになった。
時は16時過ぎでここからは車道を約5km歩いて60分でR418へ出た。ここで17時。樽見駅付近のタクシーを呼びたかったが、携帯が使えず、周囲に人家はあっても人影はない。仕方なく峠まで歩くことになった。着いたら18時50分でした。約11km、2時間半の車道歩きで足が棒になった。
尾並坂峠には朝9時頃に到着。9時10分に出発。最初は尾根に向かうがすぐに行き詰まり戻って鉄塔巡視路から奥へ。これもはっきりしなくなるので植林の中を適当に尾根よりに登って行くと巡視路に戻った。後は尾根通しの一本道、730mのピークは右から巻道をたどると鞍部に着いて、そのまま行くと天狗城へ行くので鞍部から左へ戻った。
折からの春北風が激しく吹き小寒い気がする。まあまあ順調に歩けたが692mのコブの北にあるコブ2つが石楠花の密生した群生地だった。突然ルートを見失う。GPSで尾根に寄り乍ら行くが、新緑で下の鞍部が見通せないので左へ行きすぎたり、右へ振り過ぎたりしてピークの真下の崖をトラバースして主尾根に戻れた。この時、両手で木の根、岩場をつかむためにストックを離したら1本が下へ落ちて回収不能になった。
主尾根に入ると後は順調に旧登山道の阿弥陀仏に着いた。この時点で峠から4時間もかかり、同じルートを戻るとまたヤブで難儀しそうだ。山中で日没の予感がするので小舟伏山でUターンして貴船神社へ下山することにした。
現在は工事中ということで立入禁止になっているが落葉の積もった登山道を滑落しないようにゆっくり登って稜線に着いた。ここから小舟伏山までの緩斜面の道を往復した。コバイケイソウの若葉色が目にしみる。貴船神社に向けて下り始めて岩のゴツゴツした尾根はまたも春北風が容赦なく吹き付けてくる。ここも滑落に注意しながら下る。
植林帯について、林床に一人静の花を見た。すみれは所々で見たがこの花は春の花の象徴に思える。もっと下ると足の置き場もない急斜面に遭遇した。中々の険路である。木につかまりながらそろそろ下る。杉林に来ると樒の花が慰めてくれた。更に行くと水が勢いよく噴出しているタンクの前を通過、何とか道を拾いながら貴船神社に降り立った。同時にバッテリー切れになった。
時は16時過ぎでここからは車道を約5km歩いて60分でR418へ出た。ここで17時。樽見駅付近のタクシーを呼びたかったが、携帯が使えず、周囲に人家はあっても人影はない。仕方なく峠まで歩くことになった。着いたら18時50分でした。約11km、2時間半の車道歩きで足が棒になった。
揖斐川歴史民俗資料館 ― 2025年04月20日
正午から再び美濃へ出かけた。名二環から名古屋高速に入り、R22に降りた。R156沿いのガソリンスタンドで軽油を給油。141円/リットルと激安なので目を付けていた。そこから本巣市の図書館を目指す。探し求めるのは根尾谷の歴史の本だがなかった。
それで揖斐川歴史民俗資料館へ移動。そこにはすぐにお目当ての資料が見つかった。先ずは発見したのは揖斐川、根尾川などにまたがった江戸時代の絵図である。
大野郡はやっぱり根尾川と揖斐川に挟まれた、というか能郷白山に端を発する雷倉山脈が大野郡だった。
近世の根尾谷の大部分は本巣郡のエリアだった。ウィキペディアには「山口村、神海村、佐原村、木倉村、川内村、奥村、金原村、平野村、板所村、市場村、神所村、中村、越卒村、門脇村、長嶺村、天神堂村、長島村、黒津村、越波村、上大須村、下大須村、松田村、西小鹿村、東小鹿村、東板屋村、西板屋村、口谷村、奥谷村、樽見村、内野村、木知原村、日当村」が入っている。
絵図にない能郷村は旗本領寺社領として徳山出羽守の下にあったので別格だった。同じく大河原村は美濃大垣藩のエリアにある。
もう一つの目的の水戸天狗党の件は水戸方面から1000人の武装集団は揖斐川町に来たという。彼らの宿泊だけでも大変な世話が必要だった。そこは棚橋天籟の活躍があってのことだった。同館に『筑波の嵐』が復刻版で頒布されていたので購入(500円)した。その中のはじめにを天籟の曽孫(ひまご)の棚橋嘉明氏が書いている。顛末が簡潔に書いてあるので転載しておきたい。
「天狗党の乱というのをご存知だろうか。時は幕末、元治元年常陸国筑波山で挙兵した水戸天狗党千人余の大砲、小銃で武装した軍勢は、京都にいた十四代将軍家茂後見役で水戸藩主六男一橋慶喜を頼って尊王攘夷を訴えるべく中山道を上京。十二月一日、戦を避けて間道を通った一行には幕府より追討命令が出され、行く手を阻まれることとなった。十二月一日揖斐宿で一泊することになった。揖斐宿では近くに大垣藩の鉄砲隊が出陣していて大騒動となったが、天狗党の軍勢と折衝し、双方の応戦次第では宿場が火の海となるところを救い、被害を最小限に止めるため奔走したのが棚橋衡平(こうへい。天籟)である。天狗党の総大将武田耕雲斎はその夜衡平の助言もあって、根尾を抜け、蠅帽子峠の難関を突破。越前の敦賀にたどりついた一行を待ち受けていたのは、頼りとする慶喜が禁裏御守衛総督として天狗党を逆賊としたことに愕然となり加賀藩に投降。逆賊として三百五十二名の斬首という残忍な結末となった。
これが天狗党の乱といわれる事件だがその悲劇は歴史の表舞台には登場しない。しかし、この事件はやがて歴史の転換期明治維新の先駆けになったともいわれる。
以下略。
天狗党は苦労して越前へ峠越えしたのにその先の民家は焼き払われていたという。敦賀で命運尽きた悲劇である。その後揖斐川町立図書館にも寄って『棚橋天籟翁』の小冊子を発掘した。
それで揖斐川歴史民俗資料館へ移動。そこにはすぐにお目当ての資料が見つかった。先ずは発見したのは揖斐川、根尾川などにまたがった江戸時代の絵図である。
大野郡はやっぱり根尾川と揖斐川に挟まれた、というか能郷白山に端を発する雷倉山脈が大野郡だった。
近世の根尾谷の大部分は本巣郡のエリアだった。ウィキペディアには「山口村、神海村、佐原村、木倉村、川内村、奥村、金原村、平野村、板所村、市場村、神所村、中村、越卒村、門脇村、長嶺村、天神堂村、長島村、黒津村、越波村、上大須村、下大須村、松田村、西小鹿村、東小鹿村、東板屋村、西板屋村、口谷村、奥谷村、樽見村、内野村、木知原村、日当村」が入っている。
絵図にない能郷村は旗本領寺社領として徳山出羽守の下にあったので別格だった。同じく大河原村は美濃大垣藩のエリアにある。
もう一つの目的の水戸天狗党の件は水戸方面から1000人の武装集団は揖斐川町に来たという。彼らの宿泊だけでも大変な世話が必要だった。そこは棚橋天籟の活躍があってのことだった。同館に『筑波の嵐』が復刻版で頒布されていたので購入(500円)した。その中のはじめにを天籟の曽孫(ひまご)の棚橋嘉明氏が書いている。顛末が簡潔に書いてあるので転載しておきたい。
「天狗党の乱というのをご存知だろうか。時は幕末、元治元年常陸国筑波山で挙兵した水戸天狗党千人余の大砲、小銃で武装した軍勢は、京都にいた十四代将軍家茂後見役で水戸藩主六男一橋慶喜を頼って尊王攘夷を訴えるべく中山道を上京。十二月一日、戦を避けて間道を通った一行には幕府より追討命令が出され、行く手を阻まれることとなった。十二月一日揖斐宿で一泊することになった。揖斐宿では近くに大垣藩の鉄砲隊が出陣していて大騒動となったが、天狗党の軍勢と折衝し、双方の応戦次第では宿場が火の海となるところを救い、被害を最小限に止めるため奔走したのが棚橋衡平(こうへい。天籟)である。天狗党の総大将武田耕雲斎はその夜衡平の助言もあって、根尾を抜け、蠅帽子峠の難関を突破。越前の敦賀にたどりついた一行を待ち受けていたのは、頼りとする慶喜が禁裏御守衛総督として天狗党を逆賊としたことに愕然となり加賀藩に投降。逆賊として三百五十二名の斬首という残忍な結末となった。
これが天狗党の乱といわれる事件だがその悲劇は歴史の表舞台には登場しない。しかし、この事件はやがて歴史の転換期明治維新の先駆けになったともいわれる。
以下略。
天狗党は苦労して越前へ峠越えしたのにその先の民家は焼き払われていたという。敦賀で命運尽きた悲劇である。その後揖斐川町立図書館にも寄って『棚橋天籟翁』の小冊子を発掘した。
能郷の猿楽を鑑賞 ― 2025年04月13日
先週に能郷の手前の倉見山へ登った際、来週の13日の日曜日は能狂言の奉納の日だな、また行ってみようと急に思い立った。
前は2014年4月13日に初見だった。この時は天気が良くて多くの来場者があり、地べたに座って鑑賞した記憶がある。
https://koyaban.asablo.jp/blog/2014/04/13/7274185
今日は朝から雨の予報だった。能郷白山神社の能狂言の奉納は毎年4月13日と決まっているので雨天決行です。能狂言保存会の人らも半年前から仕事が終わった後、一定の場所に集まって練習をして来たわけです。所作、セリフ、間合いに乱れがあっては芸にならないので真摯に練習されてきたと思います。
予定の7時半には出発できず8時半になってしまった。名古屋高速から名神・一宮ICを経由して東海北陸道から美濃関JCTから東海環状の山県ICで降りた。地方道を走って金坂峠を越えると金原である。ここからはR157を一本道になる。雨のせいか、根尾川も濁流と化した。薄墨桜の公園付近も車は少ない。
出発して約2時間後の10時30分過ぎに白山神社に到着。高速道路をフルに利用して片道95km。地道だけなら3時間だが、そんなに急ぐことも無かった。開演までの待つ時間も実は面白い。
関係者らが集まって準備中だった。指定のPに案内してもらって簡単な服装で神社に戻る。10時から予定の神事はすでに終わっていたのでカッパを着て本殿に参拝。非常階段みたいな急な石段を登って参拝を済ませる。また車に戻って羽毛ジャケット、雨合羽上下、登山靴姿で戻った。
開演前に神社脇の受付に係りが着席したので金五千円を寄進。お返しに小さな羊羹をくれた。これには「撤饌」と印刷されている。撤饌とは本来ならお米、清酒、お餅などの神饌(供物)に対するお下がりの意味。神社の方から手渡される際の箱に『撤饌(てっせん)』と書かれてある。神様にお供えされたものを食べる=神様の力を体の中に取り込むということになります。神社から、神様から分けていただいたありがたいお下がりです。美味しく食べることにします。前は落雁という粉菓子でしたが今回は井村屋の羊羹でした。
12時前後、根尾谷最奥の村となった能郷付近にコンビニや飲食店はないので予め用意したパンとミルク、バナナを車内で昼食は済ませた。
本当は屋台でも出ると良いのだが。
開演13時が近づくと、参加者らのクルマが続々着いた。Pには岐阜ナンバーに交じって神戸ナンバーもあったからファンがいるのだろう。参加者は120人と中日新聞は伝える。
定刻通り上演される。
1.能:式三番(露払い・翁・三番叟)
2.狂言:丹波淡路
3.能:高砂
4.狂言:宝槌
5.能:田村
6.狂言:鐘引き
7.能:羅生門
以上の演技を順次鑑賞。やっぱり能は厳かであり、狂言は諧謔的な面があって違いを楽しんだ。特に能は後半になるに従い動きが派手になり、衣装も彩色されて華麗な雰囲気がある。
書いている途中で白洲正子の『かくれ里』や『お能/老木の花』『世阿弥』などを手にしてみた。しかし、能郷の能は芸として確立させる前の素朴な形式なんだそうです。そのままに味わう方が良いようです。世阿弥の能はまた機会があれば鑑賞してみたい。
約2時間たっぷり中世以前の古式ゆたかな世界に浸った。
目の前は依然として大雨である。世俗の垢を洗い落とせたんではないか。一斉に能郷を後にして帰る車が列をなした。その中に私もまじって帰名した。冷えた体を温めに一週間ぶりに根尾川谷汲温泉に立ち寄り入湯した。R157を南進、R21に左折し忘れたのでそのまま南進し、安八スマートICから名神に入った。大降りであった。
前は2014年4月13日に初見だった。この時は天気が良くて多くの来場者があり、地べたに座って鑑賞した記憶がある。
https://koyaban.asablo.jp/blog/2014/04/13/7274185
今日は朝から雨の予報だった。能郷白山神社の能狂言の奉納は毎年4月13日と決まっているので雨天決行です。能狂言保存会の人らも半年前から仕事が終わった後、一定の場所に集まって練習をして来たわけです。所作、セリフ、間合いに乱れがあっては芸にならないので真摯に練習されてきたと思います。
予定の7時半には出発できず8時半になってしまった。名古屋高速から名神・一宮ICを経由して東海北陸道から美濃関JCTから東海環状の山県ICで降りた。地方道を走って金坂峠を越えると金原である。ここからはR157を一本道になる。雨のせいか、根尾川も濁流と化した。薄墨桜の公園付近も車は少ない。
出発して約2時間後の10時30分過ぎに白山神社に到着。高速道路をフルに利用して片道95km。地道だけなら3時間だが、そんなに急ぐことも無かった。開演までの待つ時間も実は面白い。
関係者らが集まって準備中だった。指定のPに案内してもらって簡単な服装で神社に戻る。10時から予定の神事はすでに終わっていたのでカッパを着て本殿に参拝。非常階段みたいな急な石段を登って参拝を済ませる。また車に戻って羽毛ジャケット、雨合羽上下、登山靴姿で戻った。
開演前に神社脇の受付に係りが着席したので金五千円を寄進。お返しに小さな羊羹をくれた。これには「撤饌」と印刷されている。撤饌とは本来ならお米、清酒、お餅などの神饌(供物)に対するお下がりの意味。神社の方から手渡される際の箱に『撤饌(てっせん)』と書かれてある。神様にお供えされたものを食べる=神様の力を体の中に取り込むということになります。神社から、神様から分けていただいたありがたいお下がりです。美味しく食べることにします。前は落雁という粉菓子でしたが今回は井村屋の羊羹でした。
12時前後、根尾谷最奥の村となった能郷付近にコンビニや飲食店はないので予め用意したパンとミルク、バナナを車内で昼食は済ませた。
本当は屋台でも出ると良いのだが。
開演13時が近づくと、参加者らのクルマが続々着いた。Pには岐阜ナンバーに交じって神戸ナンバーもあったからファンがいるのだろう。参加者は120人と中日新聞は伝える。
定刻通り上演される。
1.能:式三番(露払い・翁・三番叟)
2.狂言:丹波淡路
3.能:高砂
4.狂言:宝槌
5.能:田村
6.狂言:鐘引き
7.能:羅生門
以上の演技を順次鑑賞。やっぱり能は厳かであり、狂言は諧謔的な面があって違いを楽しんだ。特に能は後半になるに従い動きが派手になり、衣装も彩色されて華麗な雰囲気がある。
書いている途中で白洲正子の『かくれ里』や『お能/老木の花』『世阿弥』などを手にしてみた。しかし、能郷の能は芸として確立させる前の素朴な形式なんだそうです。そのままに味わう方が良いようです。世阿弥の能はまた機会があれば鑑賞してみたい。
約2時間たっぷり中世以前の古式ゆたかな世界に浸った。
目の前は依然として大雨である。世俗の垢を洗い落とせたんではないか。一斉に能郷を後にして帰る車が列をなした。その中に私もまじって帰名した。冷えた体を温めに一週間ぶりに根尾川谷汲温泉に立ち寄り入湯した。R157を南進、R21に左折し忘れたのでそのまま南進し、安八スマートICから名神に入った。大降りであった。
奥美濃・倉見山に登る ― 2025年04月05日
名古屋高速から名神高速一宮ICに入る積りが大渋滞でした。花見シーズンたけなわでどっとお出かけでしたか。名古屋高速の車線にまで溢れていたのでそのまま終点へ行きR22に降りた。R22から一宮木曽川ICからも入れずそのままR156、地方道からR157へ合流、ここはまだ渋滞にはならず。根尾川を左にみながら溝田に来ると真っ白な能郷白山が見えたので思わず写真撮影。うすずみ桜への入り口では誘導員が立ち、出口からは入れさせないように整理していた。6日は見ごろで大渋滞か。
淡墨桜を過ぎるとガラガラで道の駅「うすずみ桜の里·ねお」に到着。うすずみ温泉は今も休業中。ホテルも休業と寂しい。それでもドライバーはどんどん来る。少し先で左折して上へ行きまた左折すると貯水タンクの施設のP(3台位)とベンチに着く。ここが登山口。
本巣七名山ということで道標もある。本巣七名山は、本巣市観光協会が能郷白山開山1300年イベントのために選定した。
〇能郷白山
〇雷倉
〇大白木山
〇倉見
〇岩岳
大茂山
〇文殊山
というわけで残りは大茂山のみ残る。
道標に導かれてネットをくぐり更に植林帯の用水路に沿って歩くと山頂への一本道の入り口に着く。ここからは急登に次ぐ急登を強いられた。溝状になった登山道は落葉で滑りやすく歩きにくい。しばしば脇に反れて登る。標高800m付近から思いがけない残雪が現れた。多分、この付近から尾根の東は植林帯、左は雑木林で且つ北西の季節風の影響で雪が多いのだろう。登山道を部分的に覆っている。ノーマルの登山靴でも踏み抜きはない。山頂手前の850mのコブからは東西とも全面的な雑木林の中の雪の上を歩いた。そんな中に開き始めたマンサクの花が咲いていた。
やがて山頂へ。三角点は土の上に顔を出してるが80%は雪で覆われる。山頂の端に行くと樹間越しに北西に真っ白な能郷白山が見えた。雷倉は南西の方向に見える。これも大きな山容である。実は雷倉の手前のツルベ岳(1032.3m)の三角点を狙っていた。しかし、減量中で体調不十分なので一ランク落とした。この時期はまだ葉が茂らず樹間越しに何とか見えて良かった。ヤマヒルが出る前に登っておきたい、として登った。1000m未満ながらブナが残り、意外に良かった。残雪期なら岩岳と結んで歩ける。
下山は転倒転落に注意しながらまっしぐらに下りた。帰路、根尾川谷汲温泉(700円)で一風呂浴びた。体重は72kg台で昨年の今頃から約7kgは減らした。5kgの米袋一つ分余計に背負っていたから昨年は散々だった。後5kg減れば良いペースで登れるようになる。
淡墨桜を過ぎるとガラガラで道の駅「うすずみ桜の里·ねお」に到着。うすずみ温泉は今も休業中。ホテルも休業と寂しい。それでもドライバーはどんどん来る。少し先で左折して上へ行きまた左折すると貯水タンクの施設のP(3台位)とベンチに着く。ここが登山口。
本巣七名山ということで道標もある。本巣七名山は、本巣市観光協会が能郷白山開山1300年イベントのために選定した。
〇能郷白山
〇雷倉
〇大白木山
〇倉見
〇岩岳
大茂山
〇文殊山
というわけで残りは大茂山のみ残る。
道標に導かれてネットをくぐり更に植林帯の用水路に沿って歩くと山頂への一本道の入り口に着く。ここからは急登に次ぐ急登を強いられた。溝状になった登山道は落葉で滑りやすく歩きにくい。しばしば脇に反れて登る。標高800m付近から思いがけない残雪が現れた。多分、この付近から尾根の東は植林帯、左は雑木林で且つ北西の季節風の影響で雪が多いのだろう。登山道を部分的に覆っている。ノーマルの登山靴でも踏み抜きはない。山頂手前の850mのコブからは東西とも全面的な雑木林の中の雪の上を歩いた。そんな中に開き始めたマンサクの花が咲いていた。
やがて山頂へ。三角点は土の上に顔を出してるが80%は雪で覆われる。山頂の端に行くと樹間越しに北西に真っ白な能郷白山が見えた。雷倉は南西の方向に見える。これも大きな山容である。実は雷倉の手前のツルベ岳(1032.3m)の三角点を狙っていた。しかし、減量中で体調不十分なので一ランク落とした。この時期はまだ葉が茂らず樹間越しに何とか見えて良かった。ヤマヒルが出る前に登っておきたい、として登った。1000m未満ながらブナが残り、意外に良かった。残雪期なら岩岳と結んで歩ける。
下山は転倒転落に注意しながらまっしぐらに下りた。帰路、根尾川谷汲温泉(700円)で一風呂浴びた。体重は72kg台で昨年の今頃から約7kgは減らした。5kgの米袋一つ分余計に背負っていたから昨年は散々だった。後5kg減れば良いペースで登れるようになる。
新穂峠のこと ― 2024年06月02日
6/1の新穂峠の歴史を調べて見た。『坂内村誌』民俗編のP91に
”新穂峠の地蔵堂は、峠を下った甲津原側にある。昔から坂内へ牛の来る道、”西牛”といって良い仔牛を江州・関西から坂内へ移入したのである。繭の道・紙の道であり、教如様お廻りもこの峠を往き来した。風流芸能や俳壇も、この道があることで江濃一体であった。諸家から峠の上りも甲津原への下りも炭窯の跡がいくつもある。
近世初期から焼き続けてきた山であった。坂内側の炭も向こうへ出していたことは浅又山と同様である。”
・・・今よりも昔の方が峠を往来した物資の流通のお陰で人影はずっと多かった。獣の気配におびえる自分には想像もできない豊かな街道だった。その中には富を蓄積して俳句の会を催した成功者もいた。言わば俳諧を介した異業種交流会のような文化交流も盛んだった。明治15年頃の観察記では製紙で潤っている、とあった。楮三椏のような商品作物がよく売れたのだろう。それが今は廃屋の目立つ寒村になっている。
白川沿いの水田は植えたばかりで鏡面のように美しい風景である。こんな奥山でも稲作ができるようになったことは進歩であろう。
”新穂峠の地蔵堂は、峠を下った甲津原側にある。昔から坂内へ牛の来る道、”西牛”といって良い仔牛を江州・関西から坂内へ移入したのである。繭の道・紙の道であり、教如様お廻りもこの峠を往き来した。風流芸能や俳壇も、この道があることで江濃一体であった。諸家から峠の上りも甲津原への下りも炭窯の跡がいくつもある。
近世初期から焼き続けてきた山であった。坂内側の炭も向こうへ出していたことは浅又山と同様である。”
・・・今よりも昔の方が峠を往来した物資の流通のお陰で人影はずっと多かった。獣の気配におびえる自分には想像もできない豊かな街道だった。その中には富を蓄積して俳句の会を催した成功者もいた。言わば俳諧を介した異業種交流会のような文化交流も盛んだった。明治15年頃の観察記では製紙で潤っている、とあった。楮三椏のような商品作物がよく売れたのだろう。それが今は廃屋の目立つ寒村になっている。
白川沿いの水田は植えたばかりで鏡面のように美しい風景である。こんな奥山でも稲作ができるようになったことは進歩であろう。
旧坂内村の新穂峠を歩く ― 2024年06月01日
先週の殿又谷の沢登りで坂内川の支流・白川の源流の殿又谷を遡行して自然の良さを満喫した。谷歩きのみならず諸家もまだ行ったことがなかったので心残りでした。坂内村の名前の通り外から入村するには峠越えが条件という厳しい環境だった。数ある峠の中の一つである新穂峠を歩いてきた。
梅雨入り前の晴天が期待できたので6/1に新穂峠往復のみ実施できた。計画では新穂山往復でしたが高速道路の工事と事故の渋滞での遅れもあったが早朝なので割と早く抜けだせた。
先週の疲れも抜けきらず、老体ではピッチが上がらず。新穂峠のみで下山した。
ヤマップの報告で峠までは舗装路で落石もあまりない。純粋な山路よりもむしろ歩き易い。人工植林があるが、新緑の落葉広葉樹が多く、美しい自然が保たれている。新穂谷は上から見ると花崗岩の美しい溪谷だった。ここも沢登りの対象として楽しめそうだ。
栃の花、藤の花、谷空木、空木など木の花が目立った。峠付近で2ヶ所路肩決壊があり危険個所があった。何のために舗装したのか想像すると風化花崗岩の特長で崩壊し易いと考えた。建設してすぐに舗装しないと路肩決壊があちこちで起きただろう。
新穂峠へも車道建設でえぐられて段差があった。段差を登るのにスムーズには行かず、木の枝などで確保して登った。昔を偲ぶ情緒はなし。むしろ近江側の方が道形が保たれている様子です。
結局峠往復のみにとどめて前途の計画は中止して近江側から周回の形で出直すことにした。下山時にちかごろニホンシカに追われて見なくなったカモシカを見た。体形が黒いので一瞬熊かと身構えた。路上ではとぐろを巻いているまむしを見た。枯れ葉色になっているので分からない。まむしは注意喚起の看板もあったので多いのでしょう。
ヤマッパー上級生の報告を読むと昔乍らの古道の存在があった。往きも帰りも注意しながら歩いたが糸口は見いだせず舗装路のまま下山した。
午前中に下山できたので道の駅「さかうち」に寄り、道の駅「ふじはし」ではふじはしの湯に入湯して村を出た。平野に出たら高速道路のあちこちで交通事故や工事の渋滞が起きていた。名神は工事で13kmの大渋滞でした。当面利用できません。
梅雨入り前の晴天が期待できたので6/1に新穂峠往復のみ実施できた。計画では新穂山往復でしたが高速道路の工事と事故の渋滞での遅れもあったが早朝なので割と早く抜けだせた。
先週の疲れも抜けきらず、老体ではピッチが上がらず。新穂峠のみで下山した。
ヤマップの報告で峠までは舗装路で落石もあまりない。純粋な山路よりもむしろ歩き易い。人工植林があるが、新緑の落葉広葉樹が多く、美しい自然が保たれている。新穂谷は上から見ると花崗岩の美しい溪谷だった。ここも沢登りの対象として楽しめそうだ。
栃の花、藤の花、谷空木、空木など木の花が目立った。峠付近で2ヶ所路肩決壊があり危険個所があった。何のために舗装したのか想像すると風化花崗岩の特長で崩壊し易いと考えた。建設してすぐに舗装しないと路肩決壊があちこちで起きただろう。
新穂峠へも車道建設でえぐられて段差があった。段差を登るのにスムーズには行かず、木の枝などで確保して登った。昔を偲ぶ情緒はなし。むしろ近江側の方が道形が保たれている様子です。
結局峠往復のみにとどめて前途の計画は中止して近江側から周回の形で出直すことにした。下山時にちかごろニホンシカに追われて見なくなったカモシカを見た。体形が黒いので一瞬熊かと身構えた。路上ではとぐろを巻いているまむしを見た。枯れ葉色になっているので分からない。まむしは注意喚起の看板もあったので多いのでしょう。
ヤマッパー上級生の報告を読むと昔乍らの古道の存在があった。往きも帰りも注意しながら歩いたが糸口は見いだせず舗装路のまま下山した。
午前中に下山できたので道の駅「さかうち」に寄り、道の駅「ふじはし」ではふじはしの湯に入湯して村を出た。平野に出たら高速道路のあちこちで交通事故や工事の渋滞が起きていた。名神は工事で13kmの大渋滞でした。当面利用できません。
奥美濃の大日ヶ岳~鮎走古道を歩く ― 2021年11月06日
奥美濃の名山である大日ヶ岳。大抵は積雪期にスキーで登った。今回はふとしたことで鮎走古道を知った。白山を開山した僧泰澄が開いたという山岳古道という。
ブナの森の黄葉が素晴らしいとのことで登ってみた。R156を左折すると中山間地の田畑が広がり豊かな山村と知った。山里の中間に鮎走白山神社があった。一礼後、大洞林道に入り、標高1200m超まで走ると林道終点。駐車する際に藪に隠れた穴へ脱輪してしまった。4輪駆動でも脱出は出来ず、スノーモードにしてみたらすっと脱出できた。
ここから前谷に並行する尾根の枝尾根に取り付く。
最初は杉の植林であるが、次第にブナ林が広がる。足元には天辺を赤く塗った標石が埋まる。これは宮標石で昔は御料林だったことが分かる。今は国有林だろう。登るにつれて山毛欅も太くなった。やがて前谷からの尾根に合流するが、前谷の下部へは藪が阻んで登山道はない。右折すると良い道が続く。突然、下山者に会った。Pのクルマの人だ。もう降りてきたから早くに行動したんだろう。情報を交換して別れる。
彼が指摘していたスキー場からの登山道との分岐まではコブを巻く道が笹を刈ったばかりで足場も少なく、急斜面ではロープが渡してあった。500mはあるだろうか。やがて分岐に着く。
スキー場からの登山道は歩きやすい。手前のコブに立つと展望が広がる。更に先のコブへ急登すると真の山頂が見えた。多数の登山者が休んでいた。ひるがの高原からの登山者が多いように見えた。
ここからは白山や別山が見える。さらに奥越、奥美濃、奥飛騨と360度の大展望である。雪のない山頂は記憶がないので多分初めて登ったのだろう。
写真に収めた後はわっぱに詰めた自製の弁当を食べた。ウインナと卵焼き、牛肉のすき焼きの惣菜だった。ところが腹筋が締まってそうは食えない。半分は残してしまった。
しばらくは大展望に酔わせてもらった。その後、往路を戻った。心配した熊には遭遇しなかった。林道で真っ黒なカモシカを見た。熊かと思う。朝方寄った白山神社にまた寄った。しっかりした神社だ。R156に戻った。
ブナの森の黄葉が素晴らしいとのことで登ってみた。R156を左折すると中山間地の田畑が広がり豊かな山村と知った。山里の中間に鮎走白山神社があった。一礼後、大洞林道に入り、標高1200m超まで走ると林道終点。駐車する際に藪に隠れた穴へ脱輪してしまった。4輪駆動でも脱出は出来ず、スノーモードにしてみたらすっと脱出できた。
ここから前谷に並行する尾根の枝尾根に取り付く。
最初は杉の植林であるが、次第にブナ林が広がる。足元には天辺を赤く塗った標石が埋まる。これは宮標石で昔は御料林だったことが分かる。今は国有林だろう。登るにつれて山毛欅も太くなった。やがて前谷からの尾根に合流するが、前谷の下部へは藪が阻んで登山道はない。右折すると良い道が続く。突然、下山者に会った。Pのクルマの人だ。もう降りてきたから早くに行動したんだろう。情報を交換して別れる。
彼が指摘していたスキー場からの登山道との分岐まではコブを巻く道が笹を刈ったばかりで足場も少なく、急斜面ではロープが渡してあった。500mはあるだろうか。やがて分岐に着く。
スキー場からの登山道は歩きやすい。手前のコブに立つと展望が広がる。更に先のコブへ急登すると真の山頂が見えた。多数の登山者が休んでいた。ひるがの高原からの登山者が多いように見えた。
ここからは白山や別山が見える。さらに奥越、奥美濃、奥飛騨と360度の大展望である。雪のない山頂は記憶がないので多分初めて登ったのだろう。
写真に収めた後はわっぱに詰めた自製の弁当を食べた。ウインナと卵焼き、牛肉のすき焼きの惣菜だった。ところが腹筋が締まってそうは食えない。半分は残してしまった。
しばらくは大展望に酔わせてもらった。その後、往路を戻った。心配した熊には遭遇しなかった。林道で真っ黒なカモシカを見た。熊かと思う。朝方寄った白山神社にまた寄った。しっかりした神社だ。R156に戻った。
野伏ヶ岳の捜索は? ― 2021年05月09日
早朝5時30分に名古屋を出発。石徹白へは8時30分に着いた。高速道路のおかげで早いものである。石徹白は何年振りかで訪れる。アルペンスキー場はウイングヒルズ白鳥リゾートスキー場に名を変えてやっている。石徹白スキー場は閉鎖し、白山スキー場はスノーウェーブパーク白鳥高原スキー場に名が変わった。
以前との違いは別荘がとても増えたことである。以前に来た際に石徹白川右岸に別荘が並んでいて驚いたものだった。こんな豪雪地帯なので利用できるのは6カ月くらいだろう。
白山中居神社に着いてみたが、Pには車2台あるのみ。対岸に渡ると品川ナンバーが1台置いてあった。これが行方不明者のマイカーだろうか。他には誰もいない。時折、釣り人らしいのが通りかかる。捜索本部があり、多数の捜索隊をイメージしていたが、これではどうしようもない。
中居神社の社務所の人に聞くと5/5に一度ヘリコプターは飛んだがすぐに解散してしてしまったらしい。今は山頂への尾根も藪が出ているので、山菜とりと同じで捜索隊の二次遭難を考慮したとも言われた。どこで聞いても同じだと、自信ありげにいう。これではモチベーションが一気にしぼんだ。
北陸へのドライブに切り替えた。中在所まで戻ると、鮎川信夫への詩碑への案内板があったので見に行った。
山を想う 鮎川信夫
帰るところはそこしかない
自然の風景の始めであり終りである
ふるさとの山
父がうまれた村は山中にあり
母がうまれた町は山にかこまれていて
峰から昇り尾根に沈む日月
おーいと呼べば
精霊の澄んだ答えが返ってくる
その谺のとどく範囲の明け暮れ
在りのままに生き
東洋哲人風の生活が
現代でも可能であるのかどうか
時には朝早く釣竿を持ち
清流をさかのぼって幽谷に魚影を追い
動かない山懐につつまれて
残りすくない瞑想の命を楽しむ
いつかきみが帰るところは
そこにしかない
石徹白は父親の出生地らしい。
http://itoshiro.net/map/map0310.html
詩碑に佇んでいると、ぽつりと冷たいものが降ってきた。今日は雨になるのか。長良川流域では晴れていたが、日本分水嶺を越えると日本海側の気候になり、じめじめと湿った雨が降り、悪いのである。
以前との違いは別荘がとても増えたことである。以前に来た際に石徹白川右岸に別荘が並んでいて驚いたものだった。こんな豪雪地帯なので利用できるのは6カ月くらいだろう。
白山中居神社に着いてみたが、Pには車2台あるのみ。対岸に渡ると品川ナンバーが1台置いてあった。これが行方不明者のマイカーだろうか。他には誰もいない。時折、釣り人らしいのが通りかかる。捜索本部があり、多数の捜索隊をイメージしていたが、これではどうしようもない。
中居神社の社務所の人に聞くと5/5に一度ヘリコプターは飛んだがすぐに解散してしてしまったらしい。今は山頂への尾根も藪が出ているので、山菜とりと同じで捜索隊の二次遭難を考慮したとも言われた。どこで聞いても同じだと、自信ありげにいう。これではモチベーションが一気にしぼんだ。
北陸へのドライブに切り替えた。中在所まで戻ると、鮎川信夫への詩碑への案内板があったので見に行った。
山を想う 鮎川信夫
帰るところはそこしかない
自然の風景の始めであり終りである
ふるさとの山
父がうまれた村は山中にあり
母がうまれた町は山にかこまれていて
峰から昇り尾根に沈む日月
おーいと呼べば
精霊の澄んだ答えが返ってくる
その谺のとどく範囲の明け暮れ
在りのままに生き
東洋哲人風の生活が
現代でも可能であるのかどうか
時には朝早く釣竿を持ち
清流をさかのぼって幽谷に魚影を追い
動かない山懐につつまれて
残りすくない瞑想の命を楽しむ
いつかきみが帰るところは
そこにしかない
石徹白は父親の出生地らしい。
http://itoshiro.net/map/map0310.html
詩碑に佇んでいると、ぽつりと冷たいものが降ってきた。今日は雨になるのか。長良川流域では晴れていたが、日本分水嶺を越えると日本海側の気候になり、じめじめと湿った雨が降り、悪いのである。
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