新穂峠のこと ― 2024年06月02日
6/1の新穂峠の歴史を調べて見た。『坂内村誌』民俗編のP91に
”新穂峠の地蔵堂は、峠を下った甲津原側にある。昔から坂内へ牛の来る道、”西牛”といって良い仔牛を江州・関西から坂内へ移入したのである。繭の道・紙の道であり、教如様お廻りもこの峠を往き来した。風流芸能や俳壇も、この道があることで江濃一体であった。諸家から峠の上りも甲津原への下りも炭窯の跡がいくつもある。
近世初期から焼き続けてきた山であった。坂内側の炭も向こうへ出していたことは浅又山と同様である。”
・・・今よりも昔の方が峠を往来した物資の流通のお陰で人影はずっと多かった。獣の気配におびえる自分には想像もできない豊かな街道だった。その中には富を蓄積して俳句の会を催した成功者もいた。言わば俳諧を介した異業種交流会のような文化交流も盛んだった。明治15年頃の観察記では製紙で潤っている、とあった。楮三椏のような商品作物がよく売れたのだろう。それが今は廃屋の目立つ寒村になっている。
白川沿いの水田は植えたばかりで鏡面のように美しい風景である。こんな奥山でも稲作ができるようになったことは進歩であろう。
”新穂峠の地蔵堂は、峠を下った甲津原側にある。昔から坂内へ牛の来る道、”西牛”といって良い仔牛を江州・関西から坂内へ移入したのである。繭の道・紙の道であり、教如様お廻りもこの峠を往き来した。風流芸能や俳壇も、この道があることで江濃一体であった。諸家から峠の上りも甲津原への下りも炭窯の跡がいくつもある。
近世初期から焼き続けてきた山であった。坂内側の炭も向こうへ出していたことは浅又山と同様である。”
・・・今よりも昔の方が峠を往来した物資の流通のお陰で人影はずっと多かった。獣の気配におびえる自分には想像もできない豊かな街道だった。その中には富を蓄積して俳句の会を催した成功者もいた。言わば俳諧を介した異業種交流会のような文化交流も盛んだった。明治15年頃の観察記では製紙で潤っている、とあった。楮三椏のような商品作物がよく売れたのだろう。それが今は廃屋の目立つ寒村になっている。
白川沿いの水田は植えたばかりで鏡面のように美しい風景である。こんな奥山でも稲作ができるようになったことは進歩であろう。
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