神又谷異聞2019年06月10日

 20万地勢図「岐阜」を見ていたら、池ノ又林道通行止め地点から尾根に上がり、747mを越えて中ツ谷に下り、1048mへの独立標高点に登り、1196m(左千方)まで行って、尾羽梨川へ下る破線路があります。『坂内村誌』によれば中尾嶺越というようだ。1050.2mは中尾嶺ともいう。(滋賀県地名大辞典)
 私のは昭和48年12月現在の地図です。田戸の奥の尾羽梨は廃村です。昔は近江の村と結ぶ山道があったのです。

 坂内村誌(民俗編)には
 神又谷は昭和10年代は木材搬出の道があったそうです。古くは江州谷とよばれたほど滋賀県側から木炭や、薪材を切り出しに来ていたらしい。近江は金糞岳があり、土倉鉱山もあり金属精錬が盛んだった。魚を焼く、お茶を淹れる、暖房、炊事など需要は旺盛だった。
 それで近江だけでは足りず、山越えで炭を生産したのでしょう。そしてリッカ谷から1050.2mの南の鞍部を越えて、神又谷と往来があったらしい。あの見事なブナ林は二次林なんですね。それにしては注意していたが炭焼き窯跡は見つからなかった。

 皆さんと眺めたブナ原生林は他の樹種が混じらない純林と呼ばれる。
 ウィキぺディアには「森林の樹木群集がほとんど陰樹で構成されるようになり、それ以降樹種の構成がさほど変化しない状態になったことを「極相に達した」といい、極相に達した森林を極相林という。 また、主に極相林で生育する樹木種を極相種という。」
 つまり下山の際に見た無尽蔵に林立していたあのブナ林は極相に達しているのです。
 だから眺めて美しいし、青森県の白神山地も同じく極相林でしたから、あそこにいる限りは白神山地と変わりない環境だったのです。
 
 滋賀県の廃村・奥川並(おくこうなみ)は川上の人等が峠を越えてつくった村でした。ですから中津谷との交流の道もあったのです。1060mは多分ですが、中津山かも知れません。するとあの尾根は中津尾かな。坂内村誌はそこまで記載はないが詳細な山名考証がある。昔は近江と美濃の山村民は縦横に山を歩いていたのでしょう。

 点名の大岳は滋賀県側の名称です。前述したように中尾嶺も文献に出ている。

 木炭の生産は江戸時代から盛んだった。秀吉は薪炭材の本数を把握するために1000本の紐を作り、山の木に巻いて残った本数を引いて実際の本数を把握したという。知恵者です。

 古くはヤマトタケルの時代、伊吹山の魔物を征伐するために出かけますが、死に至るケガをさせられて退散します。伊吹神は金属の神様で南宮大社も金属の神様を祭っています。伊吹山の北には金糞岳があります。金属の精錬には木炭が必須です。長浜市は鉄砲の生産で有名です。鉄砲鍛冶にも大量の木炭が必要です。大量の木炭を消費する環境だったことは想像できます。今と違って往時は山に多くの人が入っていたでしょう。今は野生動物の天国です。

 戦後に石油の輸入が再開されると木炭の生産は急激に淘汰されてしまいます。この山も需要の急減した木炭の原料として利用価値のない(文字どうり、ブナは木で無い、橅があてらる)山になった。伸びるままに伸びて、戦後は74年間に他の樹種を抑えて極相に達した。

奥美濃・神又峰を歩く2019年06月09日

 今年2月滋賀県側から田土まで入れた。スキー登山を試みたが中津谷の終点で時間切れで撤退。さらに3月にも入山したが田土へは工事中で全面通行止めになったので賤ヶ岳に変更した。そして沢登りシーズンになったので岐阜県側から挑んだ。

 6/8に夏山フェスタ会場を辞して、16時に集合場所へ行く。仮泊は池の又林道の通行止めに近い坂内バイクランドの一角で仮泊。6/9、暗いうちに起き、軽く朝飯を取り出発。夜叉ヶ池への林道の通行止め地点が神又峰の入り口だった。既に1台止まっていて聞くと蝶々の採集のようだ。身支度を整えていると夜叉ヶ池に向かう若者等も来た。

 出発したのは5時15分。地形図にもある左岸の林道の廃道を進むとすぐ堰堤で行き止るので少し戻って巻き道に入る。明瞭な道で釣り師か山菜取りだろう。堰堤を越えると河原に降り立つ。しばらくは平らな河原歩きが続き、流れの膨らんだ草深い踏み跡をたどった。そのうち明瞭な林道の廃道を歩く。奥にまだ堰堤があるからだ。
 二股になった。地形図には土蔵岳から北へ流れる谷の水を塞き止めた池がある。その池に廃道は続く。歩いてきた廃道はセメントの基礎部分を残して草むらに消えた。ここからは本流の水に浸して溯る。辺りはうっそうとしたブナ林、栃の巨樹、沢ぐるみが見られる。以前にも書いたが、まるで緑のうわばみに吸い込まれて行くようだ。
 地形図を食い入るように見ながら周囲の地形をチエックする。今、自分たちはどの辺か。やがて標高700mの二股に着いた。右へ。谷が立ち始めて750m付近で滝を8mと5mくらいのを2つ突破。また平流が続く。ぬるぬるとしたいやらしい滝をWリーダーのみ右岸を大きく高巻きして、ザイルで確保してもらって登攀する。そうしないと軟弱な地盤なので落石が頻繁にあるからだ。
 ザイルが滝つぼに落ちると岩魚がびっくりして浅瀬に踊り出てきた。右往左往しているのが分かる。すまん、脅かすつもりは無かった。850m付近の奥の二股も右へ。どこまでも水流のある谷を本流として溯ったが水も絶えた。空谷になったので荒れた登山道のように登って行ける。谷の窪みも無くなり藪が絡んできた。稜線らしい高みに達した。Wリーダーが先行して三角点を発見。1050.1mの大岳に登頂した。今度は5時間で登れた。どんな藪山でもある山頂標がここはない。これが本来の山頂の風景であろう。
 あいにく周囲はブナ林でしかも霧が深い。藪も絡んで山頂らしい開放感はない。写真だけを撮るとすぐに下山する。まだ長い尾根の下山が待っているからだ。
 ここが滋賀県との県境という表示、赤テープは一切無い。しかし、事前の検索で、1060mとの鞍部までは滋賀県側の中津谷へたどれる踏み跡があった、との情報を記憶していたので、探ると微かな踏み跡が認められる。そこをたどるとスイスイ歩ける。小枝が多少は絡むがこのまま続いて欲しいとの錯覚に陥る。
 三角点・大岳から約400mで1060mの広大な北峰に着いた。そして北東へのやぶこぎが始まる。1000mのコブまでは迷走しながらルートを探る。等高線がゆるいのでヌタバが多い。ここからほぼ真東に方向を定めると獣道ではなく、人間が拓いた道が現れた。枝を鋸で切断した跡があったからだ。踏み跡程度だが歩きやすい。しかし、倒木があるとそこだけ他の樹種が繁茂して踏み跡を乱す。突破するとまた現れる。こんなことを繰り返した。1012mを越え、923m辺りまで来ると高度が下がり始めて踏み跡も明瞭に成る。倒木地帯では相変わらず、迷走するが慣れた。
 地形図で神又谷の印刷のある鞍部まで到達するともう尾根の末端だと安心させられる。ところが747mのコブを越えようとするとピーク付近のシャクナゲの藪に絡まれて前進を阻まれた。時はもう6時が迫る。日没までは1時間ほどだ。どうする、と鳩首会議。懸垂で神又谷に下降しようとなった。こんなところでビバークはできない。河原まで降りれば流木を集めて焚き火を起こし、ツエルトをかぶって一夜をしのぐこともできる。風の通りやすい鞍部では寒いだけだろう。
 ハーネスを装着し、Wリーダーは30mザイルを2本準備した上で、690mの鞍部から580mの神又谷へ比高110mの急斜面を小枝、笹をつかみながら下った。ザイルを出す場面はなかったから案外スピーディーに下れた。約20分。
 人生でも仕事でもそうだが、案ずるよりは有無が安しである。いわんや山においておや。無謀な冒険はいけないが、頭であれこれこねくり返しても進まない。やってみるきゃないと腹をくくることだ。
 河原にくだると、メンバーも安堵した。すぐに既視感のある場所に出た。それからはピッチが早い。廃道だから歩くだけだ。堰堤を越えるとクルマが見えたと女性陣が騒いだ。もう暗くなった車道に着いたのは7時を大きく回っていた。こちらは東側なので日没すると残照はなく真っ暗になる。すぐに着替えて帰路に着いた。今回も「藤橋の湯」に入れなかった。全員が無事に下山できたことをお土産にして帰名した。

奥美濃・黒津山~激登13時間、戦い済んで日が暮れて2019年05月26日

 黒津山なんて聞いたこともない山名だった。調べてみると五蛇ヶ池山と天狗山の中間に座す1197mの独立標高点だった。
 五万図「横山」の地図には黒津山と書き込みがある。2.5万図「美濃広瀬」(昭和48年測量。現地調査は昭和48(1983)年6月)には4等三角点 黒津山と書き込みしてる。この山は以前は無名の独立標高点でしかなかった。それがこの時期から4等三角点(点名は黒津)に昇格し、標石が埋設された。標高も1193.4mと変わった。山名の記載はないが登山の対象としては比較的新しい山である。

 藤橋村の最高点(徳山村と合併前の)という以外は食指も動かない。よく同行する人と行く先を検討するとお互いに登っていないという条件にはまるには黒津山になった。
 記録としては日比野和美編『記録 奥美濃の山と谷 百山百渓』(1986.10.08 私家版)があるのみ。まずは2011年3月に親谷側からスキー登山を試みたが見事に敗退させられた。次は2018年2月にわかん山行を試みたがこれも6時間、12時までに登頂できなければ下山の掟にしたがって下山のやむなきに至った。
http://koyaban.asablo.jp/blog/2018/02/19/8790659

 久々に沢初めを奥美濃の沢でやろうということになった。それじゃ、2度時間切れで敗退した黒津をやろうとなった。
 5/25の夜、地道で揖斐川に沿う国道を走る。テントで仮泊の予定だった道の駅「ふじはし」は若い人たちがたむろして異様ににぎわっていた。スルーして横山ダムを過ぎるとPにも若者らが集まって今にも暴走族の走りそうな雰囲気だった。
 奥へ走ると、新川尻橋に替わって新しく川尻橋が架かり、川尻トンネルが貫通していた。ダム湖も無名だったが今は奥いび湖に命名された。夜の国道では鹿が2頭見た。彼女らも大変化についていけるだろうか。
 結局適地を得られず、親谷に入った。ところが奥までは行けず、地形図で建物の記号の山家のある少し先で杉の倒木が道を防いでいた。ああ、これでは明日の登山に黄色信号が灯った気がした。粛々とテントを張って缶酎ハイを飲んでシュラフにもぐりこんだ。
 5/26、4時起床。薄明るい中で小鳥たちが朝の寝覚めに鳴き始めた。自然のままの暮らしはこうであっただろう。コンビニで買った寿司を食べ、白湯を飲んでテントをたたんで出発したのは5時20分であった。ちょっと遅いかな、という気もした。
 林道から沢にもっとも近づく標高730mの入渓地まではおよそ10kmはある。ハイエースの残骸のある渡渉地まで1時間強、さらにジグザグを切りながら入渓地へ急ぐ。林道は今は草地で真っ青である。クマかサルの糞が多い。鈴を鳴らしながら行く。
 入渓地へは林道から明瞭な踏み跡があった。これは獣道か、登山者だろうか。多分登山者だろう。谷名は日比野さんの本ではケツロ谷の名前があった。入渓した途端に涼しくなった。段差の大きな滝はなく、みな直登が可能である。しかも高度がぐんぐん上がってゆく。沢登りのだいご味である。
 順調に詰めてゆくと二俣になり、左へ。ところがしばらくで伏流になる。荒れた登山道という感じでどんどん登るとまた水が出てきたが長くは続かなかった。この空洞(からほら)はさらに見上げるような高さにまで続いてゆく。さっきから風の音かと聞いてきたが、隣の谷の流れの音だった。一輪だけのシャクヤクの花に癒された。
 音のする隣の谷へ踏み跡があった。辿ると何とミズゴケの緑に満ちた谷が続いていた。ここを遡ることにした。但し水は冷たかった。源流に残雪でもあるかと思った。高度差は大してなく、順調に遡る。すると1000m付近で突然15mの美しい滝が現れた。右から確保支点はあり、先ずはWリーダーがフリーで登攀した。私はザイルを出してもらい手の切れるような冷水の滝を登攀仕切った。
 ところが登りあがった所は土の中からの湧き水だけであった。多分GWのころは残雪があっただろう。谷はそこで終わった。時刻は10時。比高200m、2時間あればなんとか登れる。左の空洞に戻るか、藪を突破するか。リーダーは藪ルートを選んだ。赤布は付けないから闇雲である。コンパスで方向は見る。すると突然、目の前に現れたのはまた空洞だった。そこに降りて、登り返すとやっと稜線に着いた。完全な藪の稜線だが笹はないので漕ぎやすい。ようやく黒津山の看板のある山頂に着いたのは12時前になった。しかし三角点がない、とRがいうので、4等三角点は必ずしも最高所にはなく、少し北の低いところに埋設されていた。時は12時になった。昼食タイムもなく、撮影するとすぐ下山である。
 下山ルートは林道の終点に下ることだった。先ず南東の1180mのコブに着いて、方向を見て尾根に乗った。ところが左(西)に地形図に表現されてない明確な溝(空洞)がある。これは何だ、と協議した結果、上りなおして、林道をパスして登ってきた谷に戻ることも考慮しながら左側に振りながら、笹薮と格闘しながら激下降した。
 やや笹が空いて来た辺りから林道がある尾根が視野に入り、今度は右寄りに振って下降。するとあの冷たい水の谷につながった。ああ、これで下れる。
 適当に下降しながら見覚えのあるところを空洞へ移動すると正しく登ってきた谷になった。これを下った。やっぱり谷は早い。そして入渓地に付けた赤い布が見えてほっとする。後はもう林道を延々下るだけだ。車に戻ったのは13時間後の18時40分になった。3度目のトライでようやく落ちた。執念が実った。

 反省点は、山頂直下の地形図にない空洞と登りにとった空洞はつながっていると思った。しかし、現地では逆に戸惑いになった。私には真東のテーブルランドが雷倉とすぐわかった。尾根の方向の先の目の前の山はミノマタだ。
 だから現在地の確信は持ったがW君は不安そうだった。よく読図技術というが、違うと思う。周囲の山を見て自己の位置を判断するのだから、地図を読むのではなく、地形を読むのである。
 ミノマタも鏡山も登っているからそう判断できる。但し、雷倉を同定したのだからその先は能郷白山ということは決まっている。しかし、イソクラが判然としないので一縷の疑問はあった。あの良い山は何だろうと。帰宅して20万地勢図でチエックすると、そのはずだ、完全に重なっていたのだ。少し靄っていたのも原因だ。地勢図も持つべきだったというのが反省点になる。

奥川並から湖北・神又峰(点名:大岳)を目指すが撤退2019年02月11日

         夜の余呉湖畔
 2/9夜9時、名古屋を発つ。名神で一宮ICから関ヶ原ICを経て、R365を走ると今夜の宿の予定地の余呉湖には近い。2月というのに雪のかけらも見ない。R365から左折して余呉湖畔のビジターセンターへ着く。11時半。トイレと広いPがあり、テントビバークにはもってこいだが、すでに数台は止まっているし、路面が濡れている。
 そこで別の場所を探す湖畔のドライブになった。余呉湖あじさい園は先着車があった。次はバンガロー風の廃屋があったが、大きな熊の檻に仰天して退散。賎ヶ岳ハイキングマップのトイレマークらしい所に落ち着く。照明はないがトイレがあるし、水も出る。しかも路面が乾いていた。さっさとテント設営してビバークする。往来するクルマは1台限だった。
         高時川水系の山村へ
 2/10の朝5時、夜中は強風にあおられて固定を忘れたフライが飛ばされた。時折はフレームがしなるほど強い風が吹いた。また雪が飛んできたから非常に寒い夜を過ごす。
 熱いお湯でカップ麺を胃にそそぐ。体温が少しは温まる。すばやく撤収。また周回の道を行くと、昨夜の閑散が信じられないほど公魚(ワカサギ)釣りで車も人も多かった。
 R365から上丹生に行く県道を走る。七々頭ヶ岳を仰ぎみて高時川奥へと良い道を走る。人家のある最奥の村の菅並に着く。良い道に誘われてうっかり洞寿院に入ってしまった。戻ると北海道(多分きたかいどう)トンネルがあるが???。Uターンして、神社のある寂れたような細道に入るとこれが目的地の田戸(たど)への県道であった。ところどころ通行止めの表示はあるが、横は通過できる幅があり、注意して行けよ、事故っても自己責任だぞ、とのサインか。
     雪解けの水を集めて流れる高時川中流の廃村田戸へ
 高時川は水量も豊かに蛇行しながら滔々と流れている。寡雪とはいえ、県境は相当な降雪があり、すでに雪解けが始まっているのだろう。上谷山、三国ヶ岳、左千方などの融雪を集めて雪解川となって琵琶湖に注ぐ。
 目的地の田戸へは意外に早く着いた。途中での路面の凍結や落石もなくスム―ズに走れた。ここから中河内までは走ったことがある。かつては安蔵山へ登りにも来たことがある。自分のブログをググってもヒットしないから15年前になるだろう。こんなマニアックな山に登れたのは何と言っても、1985(昭和60)年の山本武人『近江 湖北の山』のガイドがあればこそだった。
      廃村奥川並へ
 奥川並へは橋を渡り、歩くこと約2時間はあると、先行者の記録にある。山の尾根を眺めても雪は少ない。この時点で、スキー登山は断念した。奥まで行けば雪はあるが、2時間も重いスキーをかつぐのは愚かなことだ。というわけだがわかんを忘れたのでつぼ足覚悟で歩くことになった。相方は夏山用の登山靴もなく、スキー登山靴になった。
 安蔵山の南尾根を巻くように奥川並川沿いの林道を延々歩いた。林道は徐々に雪が現れた。山腹の電話線の垂れたのを見ると廃村も近いだろう。杉の林の中に各戸の墓の共同の碑を見た。廃村奥川並はすぐだった。今は石垣だけが残っている。検索すると「ブログこの道往けば」の「滋賀県道285号中河内木之本線 忘らるる村編」によれば、田戸は平成7年に、奥川並は1969(昭和44)年に離村した、と記載。
 廃村になって今は地形図にも奥川並の名前はない。段々雪深くなり、約20センチから30センチはある。0.7kmも歩くとリッカ谷と中津谷の出合に着く。ここまでで10時。
       中津谷林道を行く
 当初の計画ではリッカ谷林道を歩く予定だったが、相談で中津谷林道を上がることに変更。出合を左折。西尾根の末端を目で探ると踏み跡が登っている。しかしパス。中津谷と足ノ又の落合の蛇行する沖積平野を雪が覆って美しい。積雪がどんどん増えた。夏山用登山靴は雪で湿りはじめた。雨具のズボンを履くが靴下が濡れてきた。この辺が限界である。
 標高550m付近から積雪はどんどん増えた。ついに600m付近で林道は終点になり、谷奥には堰堤が見えた。ネットの記録には谷の奥の稜線に中尾峠があったが今は廃道。ここからヤブを分けて西尾根に合い、神又峰へ登山している。そして西尾根に踏み跡があったそうだ。その登り口は多分、大栃の辺か。或いは落合付近か。
      神又峰(大岳)は撤退
 11時を過ぎて、標高差450mの山頂往復は約4時間もかかるので撤退を決めた。足元の準備不足もある。奥川並に入ってから空が曇ったり晴れたり、雪が舞ったりする。中津谷でもリーダーが素っ頓狂な声を挙げた。ほらほら雪の結晶だ、と。六角形のあの雪印そのものを見せてくれた。標高があがると気温がグンと下がり結晶のままを見られるのだ。
      雪の結晶は六花という
 さて、リッカ谷出合に戻った。そこで昼食とした。カタカナのこの地名も六花(リッカで雪の結晶の意味)に由来するのだろう。横山岳にぶつかったマイナス30℃から50℃の寒気団が雪を降らせるのではないか。だとしたら美しい地名である。
 又しても撤退に意気消沈してしまう。延延林道を歩いて廃村田戸に戻った。この少し下流の小原で締め切って丹生ダムが予定されていたが今は中止となった。世が世なら湖底に沈むはずだった。前回来た時に家があったかどうか。もう記憶はない。
      公魚(わかさぎ)の天ぷらに舌鼓を打つ 
 再びR365に出て、余呉湖に寄った。何と昨夜ビバークを予定していたPは公魚(わかさぎ)釣りの車で満杯だった。釣り場にもひとだかりが見えた。近くの民宿「文右衛門」に入って、わかさきの天ぷらを頼んだ。これは美味かった。ヒマラヤの岩塩もよく効いた。白味噌のしじみ汁も味噌の香りが臓腑を刺激した。これで800円だった。撤退を慰めてくれた。ここはマガモ料理も食べさせてくれる。アイガモ(アヒル)か、と聞いたら内は使わない、マガモだと反論されたので本物だろう。値ははるが食べてみたい。帰路はあねがわ温泉で一と風呂浴びた。湖北は温泉施設が少ないので大繁盛していた。
 長浜市のR365を走ると、鈴鹿の霊仙山の前衛にある阿弥陀山が均整の取れた山容を見せる。見えなくなると岐阜県は近い。浅春の湖北の山旅を終えた。

烏帽子岳スキー登山はヤブで撤退2019年02月05日

 2/5の朝、未明の6時過ぎに出発。しかし、予想以上にクルマが多い。そうか、今日は平日なんだ、多分通勤の車である。高速道路が普通に通勤に利用されている。名二環の松川を過ぎてようやく東の空から日が昇った。一宮JCTを経て東海北陸へ。まだクルマは多い。
 郡上八幡ICを出てまた渋滞、トンネルを出て左折したが、道間違いと遅れた。本当は2つ目のトンネルだ。通いなれたはずの奥美濃ではあったがもう記憶から遠くなった。途中でリーダーのYさんに遅刻の連絡。スキー場に向うのに雪がほとんどない。やれるのかな。
 10分遅れでめいほうスキー場に着いた。すぐに着替えて、結局出発は30分遅れてしまった。リフト2本を乗りついで頂上へ。スキー場トップは幸い雪晴れの好天である。御嶽、中ア、乗鞍、北ア、白山、三方崩山、ほぼ360度雪山で囲まれる。
 シールを貼っているとスキー場の係りの人が近寄って来た。登山届を出せ、という。岐阜県警には届けてあるとYリーダー。計画書のコピーを渡して届けた。オフピステ否スキー場外滑走禁止の立て札はないが、どこのスキー場でも粉雪を求めるスキーヤーの事故が多く、苦慮されているのだろう。
 男性はYリーダー、IS、KI、IT、私の5人。最年少、紅一点のSさんが山スキ―に染まっていたとは知らなかった。計6人で笹やぶの隙間をぬう林間を歩き始める。周囲は細幹の岳樺や大き目のブナなどが生い茂る高原である。緩斜面を行き、オサンババにつながるポイントから別れると大きく下降する。最初の鞍部に到達する。またゆるやかに1553mのコブに登り、下降する。2つ目の鞍部までは笹やぶの密度が濃くなり難渋する。鞍部でYリーダーが口火を切って鳩首協議する。4等三角点「床辺山」へはもっとブッシュが濃くなり、雪もはげている感じに見えた。烏帽子岳ははるかなる高みに見える。結果、全行程の5分の1も消化しないで撤退を決めた。天気は良いのだが。
 ふたたび笹やぶを分けて登り返す。スキー場トップ(4等三角点で点名は山中峠)へはゆるやかな登りである。つまりはじめて登った。トップに戻ってシールを剥がし、ゲレンデを滑降。雪質は硬く、アイスバーンの状態であった。多分、暖かいから雪も解けるので、夜間はスノーマシンで雪を確保しているのだろう。
 センターに戻り、Pへ。帰路は久々に名宝温泉に入湯した。R472,R156を美濃ICまで走り高速に入る。大した渋滞も無く帰宅。土日と違い、絶望的な渋滞はないのでスキーは平日が良い。但し、高速料金の割引がない。
 帰宅後は庫内で解凍のラム肉をジンギスカン鍋で焼いての焼き肉で空腹を満たす。山中ではパン2個をかじっただけであった。行動中はのんびりと食べて居れず、また腹筋がしまるせいか、空腹を感じにくいので飲み物だけになった。

鹿の角拾えばピイと鳴くなめり2018年11月03日

 11/2夜から11/3にかけて奥美濃の笹ヶ峰(ロボットまで)行って来た。今夏の沢登りでの登山は諦めてヤブ尾根覚悟で行った。
 この界隈の山の名には丸が付く。北から焼小屋丸(笹ヶ峰)、夏小屋丸1294m、ヨセン谷丸(大河内山)1288m、美濃俣丸、バンドー丸、金ヶ丸(三周ヶ岳)、夜叉ヶ丸。ロボットには名前がないので通称ロボットで知られる。
 今ではバイブルとなった『秘境奥美濃の山旅』のP128の「笹ヶ峰」には「日野川の奥深く、濃緑の谷間から望まれる、柔らかいライトグリーンを敷き詰めたような山なみを、流域の人々はいつのころからか「笹ヶ峰」と呼んでいる。
 五万図<冠山>ではそれは1285mの三角点の山に冠せられた名前であるが、、土地の人々は、美濃俣丸をも含む、笹ヶ峰周辺の越美国境稜線を総称する」と定義した。
 今夏は沢から挑んだが跳ね返された。
 それで秋山に再度挑戦した。日の短い時期にこの山はなあ、と思ったがこのところ行けていないので思い切って同行した。 
 私が初めてこの山域に入ったのは約30年前の30歳代のこと。4月初旬に街道の尾の道からスキー登山で美濃俣丸に登ったのが最初だった。続いてGWの連休に70歳代の老兵と身体障害者の2人を誘った。日帰りは無理だったからロボットまでツエルトなど露営1式をボッカした。翌朝、笹ヶ峰を往復、大河内山も往復した。下から追いかけてきた登山者が美濃俣丸まで行くと言って抜いて行った。
 あの頃の大河内はまだ廃屋があり、分校も残っていた。旧住民もいて話を伺ったこともある。
 今回は広野ダムの一角でテントビバーク。オリオンの盾が鮮明に見えた。羽毛のシュラフにもぐり込んでもすぐに明ける。ぬくもりの恋しさを断ち切ってテントを出た。道路はきれいに整備されて問題ない。大河内まで無難に入山。
 登山口には新たに白谷山1050mの札があった。ぬるぬるの滑りやすい木橋を渡る。杉林の中の道を黙々登るとブナも増える。黄葉は中腹以上のブナが良かった。ブナの幹には鮮明な熊の爪痕があった。ガリガリと爪で縦に引っ掻いた痕もあった。尾根の北はまだ青々としていた。急な尾根には落葉も積もっていたから滑りやすい。
 今夏の722m付近までは無難に登ったが、段々ヤブっぽくなった。それでも登りは高みを目指せばいい。ストックもかえって邪魔になる。相棒が下山の目印に赤布を付けてくれる。1050mの等高線を越えると尾根は広くなる。踏み跡も薄くなる。1090mから一旦下って広い所にはヌタ場があり獣の足跡もある。獣臭が終始ただよう。秋山の発酵したような臭いもする。又尾根が細くなる。ロボットらしいピークが見えた。少し先で登頂の喜びの声が上がった。
 ロボットの頂上である。実に30余年ぶりに奥美濃の大パノラマを目にした。次々と山岳道定して楽しみ時間が過ぎて行く。先述したようにロボットでも笹ヶ峰に行って来たことになる。ここで充分な気がする。
 こうして眺めるとすべてとは行かないもののもう登りたい未踏の山は無くなった。あれほどあった未踏のストックが今はもうない。
 すると関東、東北、北海道、九州、中国、四国へ行かねばならないが、そんな余裕もカネもない。結局は近場の既登の山の沢登りか残雪期の尾根のスキー登山である。
 メンバーが変わり、季節が変われば違う山の味がする。
 下山は赤布のお陰であっという間だった。折に触れてふりかえるとロボットが遠ざかってゆく。遥かなる笹ヶ峰の一峰。
 722mを過ぎて鹿の角を探しながら下ったが見落とした。置いて行っておくれということだったのだろう。小さめの角だから若い鹿だろう。メスの獲得合戦に敗れたのだろうか。獣の世界も生存競争が厳しい。
 車に戻ると一安心。帰路、Yさんの出作り小屋を見たが車がなくもう山を降りたのだろう。広野ダム堰堤からまた笹ヶ峰連峰を眺めた。
 今庄ICの入り口でまた今庄蕎麦を賞味した。多分新蕎麦だろう。本物の味がした。

奥越・笹ヶ峰の長トコ谷敗退2018年08月13日

 8/11の朝6時にリーダーのWさん宅を出発。お盆休みの渋滞が始まっているので高速には入らず、地道で行く。木曽三川を渡り、関ヶ原、木之本を通過、栃の木峠越えで南越前町に入った。やがて広野ダムから廃村・大河内に着く。ここまではほとんど渋滞は無く、3時間で来れた。高速とそんなに違わない。
 さてここからどこまで行けるか。土砂の押し出しでやや傾斜面があったので、空車でも2300kgもある重量の重いマイカーがずるっと行く可能性がある。そこでマイカーの入山はストップ。徒歩で行く。
 いくばくもなく砂防ダムの手前の広場まで来れた。軽いクルマなら無難に走れるだろう。ここまでは実は整備されていたのだ。その先は草深い林道が続いていた。入渓地点まで歩いてみた。踏み跡があるので明日の偵察は終わった。先の整備された広場まで戻ると、大河内川を渡る橋があるので入って見た。入り口には笹ヶ峰登山口という消えそうな道標があって、ああ、これがロボットへの尾根コースの入り口であった。橋を渡ってみて偵察すると杉の幹に白っぽい紐が結んである。これが多分ロボットの尾根ルートであろう。予定では下山にとることになっている。
 入山情報の少なさに、湛水のはじまる二ツ家付近で車止め、そこから徒歩も覚悟していた。心配は解消した。
 まだ昼前なので今庄の宿まで行き、おろし蕎麦を食べた。久々に美味い本場の今庄のおろし蕎麦を味わう。また大河内に戻り、車の置いてあった出作り小屋の主人Y氏に声を掛けた。突然の珍客に驚かれたが、笹ヶ峰の登山に来たことを告げると気安く話に応じてくれた。
 大河内の村の歴史から笹ヶ峰一帯の山守をしていたこと、22歳まで村にいたこと、そして山が好きなこと。増永迪男氏の山の本の話もしていくらでも話が続き止まなかった。こちらも林道脇にテントを張って仮眠の予定もあり、離れがたくも話を打ち切って別れた。
 テント適地は特になく、林道脇に張った。近くを小川が流れて炊事が楽である。小さな焚火もした。こんな山なので蚊が多く、蚊取り線香を焚いた。
 8/12の朝4時起床、朝食をかきこむ。テントを片付けて出発すると5時30分になった。林道終点まで歩いて6時入渓。平凡な谷相であるが、周囲は落葉広葉樹に覆われている。ここも奥美濃の沢と同じ雰囲気を持った樹林の山旅の世界である。
 小さな滝を越え、直登のできない滝は左から巻いた。いくらもしないうちに滝谷と長トコ谷との出合に着く。滝谷を見送り、長トコ谷へ入る。うわっと見上げたのは魚止めの滝であった。10mくらいはあり滝壺に落ち、更に小さな滝で2段目の滝壺に落ちている。全体で70mとも言う。
 岩質は一枚岩が浸食されて後退したような滝で見事である。取り付くしまが無い気がする。
 Wは右岸の岩溝をたどって攻めた。そこもスラブの小さな溝になっているらしく高巻を試みるうちに滑落したという。幸い木の枝にスリングでビレイをとってあったので滝壺に落ちずには済んだという。
 いつもより時間がかかり過ぎており、岩場を様子見に攀じ登る。Wに近づけないこともないが、もし下降する場合は厄介だ。待つこと1時間も経過しただろうか。突然後退を告げて、ザイルが投げられた。それに確保して微妙なバランスの岩場を下りた。その後Wも下って来た。途中で岩のスリットにハーケンを1枚打ち、更に下降する。Wはハーケンを抜いて尻を滑らせて下って来た。高巻は困難な状況と知った。
 事前の調べてでは白崎重雄・前川宏隆『屛風山脈の旅ー越美県境稜線の山と渓谷を行く』(1978(昭和53)年)は左岸の高巻で突破している。左岸の方が傾斜が緩く、樹木も生えている。右岸は垂壁に近い。
 Wは高巻に大いにてこずって、続行のモチベーションを無くしてしまったようだ。何分、4週連続で計画が流れ、今日こそはという気が優り過ぎてしまったのだろう。体力や技術もあるのに気が優ると妙に同じ場所にこだわって時間を空費する。
 結果、敗退を決めた。
 しかし、このまま沢を下るよりは、次につなげるようにと、出合からロボットの尾根の722mを目指して北尾根を登った。少し人が歩いた跡はあり、ゴミもあった。激藪でもない。左へ滝上に下る踏み跡も捜しながらヤブ尾根を登った。上から眺める長トコ谷は緑のトンネルに覆われて、流れは見えない。
 懸垂下降2回で降りれそうな気がする。但し大高巻になるが・・・。Wは谷から離れるな、という主義なので首肯しないだろう。
 途中からシャクナゲがからまるようになり全力で登った。そこを過ぎるとしっかりした踏み跡が現れた。またコンクリートの小さな標石もあるし、なた目もある。標高700m付近の平らなところでロボットのコースに着いた。約1時間30分を費やした。
 そこで1時間ほど、涼しい風を楽しむように休んだ。その後、右ブナ等の落葉広葉樹の二次林、左は杉の植林の細道を下った。昨日の偵察の場所に出た。
 昨日の大河内のYさんの話では2年前に白谷の頭(約1000m)までコース整備をしたという。その先は武生山岳会がやったとか。ロボットまでなんとか今も行けるだろう。
 私自身は30歳代に2回GWに登っている。2回目は3人パーティでロボットにツエルトを張り、笹ヶ峰を往復、翌日は大河内山(から美濃俣丸?)を往復した。だから30年ぶりで再訪したのである。
 下山後、片付けてからまたYさんの小屋に寄って報告した。残念ながら敗退でした、と。
 いろいろ質問すると、722mの尾根の要旨を話すとあれは自分が付けた道だという。ロボットの尾根から北尾根の間に広がる山を売ったという。そのための山道の名残だった。天草山から五葉坂の間にも道を付けた。そこも売ったという。それで町で生活する資金を得たのだろう。五葉とは五葉松の意味で、北尾根にも五葉松が若干みつかった。壁小屋谷は岩壁が屹立するところがあると言う。大河内の生き字引みたいに知っていた。
 さて、再び挑戦することはあるだろうか。長トコ谷は遡行に値する気がする。何より、地名に興味がある。長トコは床であろう。滑を想像する。上杉喜寿『続 山々のルーツ』(1987(昭和62)年)には、笹ヶ峰の別称の焼小屋丸の焼小屋とはたたら製鉄の場所ではないかと想像する。Yさんはマンガン鉱山があったとも。しかも戦後のことらしい。鉱物が豊富なのだろう。
 私見では夏小屋丸の夏小屋とは夏になってから蕎麦を蒔いても収穫できるとの意味で木地師の小屋があったのではないか。長トコ谷から大倉谷を経て夏小屋谷になることからの推測である。大倉とは木地師に多い名前である。
 木地師の村には夏焼という地名が散見する。奥三河の稲武の夏焼、三重県松阪の夏明も同じ意味か。同書には大河内は木地師の村だったとの記述がある。これはYさんも認めている。Yさんの話では徳山村の枝郷という説が興味深い。徳山村自体が越前の国に属していたからだ。婚姻関係もあったらしい。下流から来て出来た村ではなかったのである。
 帰路、大河内を離れてすぐに、日露戦争出征の記念碑があった。地形図にも記載されている。まだあったのだ。Yさんの話では数名が出征し、戦死した人もいたらしい。昔は二ツ屋とは山越えでつながっていたから峠道を越える戦士を姿の消えるまで見送ったであろう。
 今庄の宿に戻った。暑い暑い。ドリンクを1本飲み干す。そして、また冷水仕立ての下ろし蕎麦を食べて同じ道を名古屋へ帰った。

竹屋谷遡行2018年08月06日

栃の大木の森を流れる滑滝を溯る
 7月半ばから山行計画がみな流れた。7/14の小秀山の沢は道路決壊で、7/21は猛暑で避暑に切り替え、7/31は台風で中止。8月の第1週は沢登りだなと提案し、山岳会でまとまった。
 この時期に、近場で、蛭がいなくて、そこそこ楽しめる。となれば竹屋谷が脳裏に浮かんだ。前夜発で提案したが、猫を飼っている人が朝発を希望。こちらも3週間以上のブランクで体力減退の懸念があってレベルダウンした。朝発ではブンゲンに登頂できないから、1095mを迂回して同じルートをたどらない計画をした。
 8/5の6時30分に金山駅前を出発、今回は3月に供用開始された安八スマートインターチエンジを経由。大垣大橋を渡るとすぐに揖斐川堤防の県道を経て粕川へ。現地には8時30分くらいに到着。こんなに早かったのは安八効果です。
 沢の方は水量は充分、沢の流れに足を浸すと冷気が全身を包んだ。最初はやぶっぽい灌木の中を流れを溯った。流れが広くなり、空間が広まった。滑滝に来た。樹高20m以上はある栃の大木が集中的に生えている。核心部の栃の原生林の中の滑滝に圧倒されながら遡行を楽しんだ。滑滝では本当に涼しい。北海道のツアー登山から帰ったばかりのKさんは北海道より涼しいと感激。北海道の夏は涼しいというイメージでいたからその暑さに裏切られた思いだったらしい。次々と現れる滝を登ったり巻いたりした。
 出発は9時前で,ブンゲンの登頂を狙うには遅いので最初から、隣の小沢に乗り換えて、地形図で1095mのコルを目指す計画だった。小沢へ乗り越す尾根を意識しながら溯った。地形図では尾根が最もくびれた箇所になる。
 二股を過ぎて観音滝を越えると左に竹屋谷と並行する尾根が沢に最も近づくところがあり、そこを乗り越すと1095のコルへの小沢になる。規模は小さいながら滑の連続する美しい谷であり、小滝が連続する。最期の方で大きく巻いた後、谷に戻らず尾根をそのまま辿った。尾根は風が無く暑いので余計なアルバイトを強いられたが、1095mに登れてしまった。
 そこからは以前にたどった踏み跡を頼りに尾根を下った。RFの失敗で双門の滝の少し上流へ下った。左岸の藪をこぎながら瀧の遊歩道入口までは大岩谷を下る。クルマへはすぐに戻れた。15時30分。まだまだ暑い時間帯だ。帰りは薬草風呂に入って汗を流して帰名した。
 帰りも安八SIC経由で走る。するとすぐに渋滞した。一宮JCTがあるためだ。一宮ICまではいつもこの有様だ。帰りは名古屋ICまで走った。970円だった。往きは1450円だったから480円の差額がある。
 反省。今日は久々の山行だった。3週間のブランクのうちに体重は2kg増となり切れが悪かった。もともと悪いうえに今日はいつもWさんが持ってくれるザイル、ハーケンの類いがプラスされたから尚重かった。それでも沢登りの醍醐味を味わった。
 日本の夏山はこれで良い。

大白木山の沢を溯る2018年06月18日

 山岳会の例会で出された大白木山(おじろぎやま)の沢登りの計画に参加した。今年はこれで2回目になる。
 前夜の6/16(土)8時、集合場所で合流。スーパーで夜食と行動食を仕入れた。同行者が最近はスマホのナビを活用し出した。頭の中にはすでに道筋が入っているが、ナビは意外にも、岐阜羽島ICを経由する。東海北陸道・美濃IC経由尾並坂越えより、ナビの方が早かった。美濃市までの市街地を一気に高速で時間稼ぎするより、地道だけでそんなに早く行けるものか、ナビに従ってみた。
 名古屋市内からR22を走り一宮ICから名神高速を岐阜羽島まで走る。ICを出てからは複雑な指示に従った。夜道なので全く地理勘が働かない。県道46、県道18と走り、長良川を渡ると、揖斐川の手前で県道220に右折。これは揖斐川左岸道路で、本巣市役所付近で、根尾川左岸にそのままつながって、県道92になるが、木知原でR157に合流するまでは、 北進するのみであった。根尾川左岸の堤防道路は狭く、ガードレールもなく、怖かったが、対向車がなく、かなり早く走れたのは幸いだった。
 R157からは勝手知ったる道で上大須ダムまで走り、ダム湖畔まで行く。夜11時半、約100kmで2時間余りかかった。が、土砂崩れで園地までは行けない。照明のあるトイレと東屋で仮泊の予定だったがしばらく右往左往した後、ダム近くの東屋に落ち着いた。
 6/17(日)朝食後6時に出発、折越林道を走る。標高点542m地点の大栃の傍らのPに駐車。大白木山に突き上げる越波谷(おっぱだに)の源流である。
 事前の調べで、大白木山 沢登りでググると、ブログ「山へ行きたい」の2012年6月23日記録がヒット、何年か前に三段滝遊歩道が開通したらしい。
 7時15分出発。10分ほど歩道を歩くと終点で、沢を渡った先に三段滝があった。岩盤を削ったような溝が3段になり、見事な滝がかかる。記録は右岸の土壁を攀じて1170mへ遡行している。
https://blogs.yahoo.co.jp/two2106_hira/30795220.html
 私どもは、本流に戻って、7時40分、遡行を開始。小さな滝をいくつも越えて行く。
 この谷は栃の大木が多い。栃の実は栗よりも一回り大きい。しかし、食用とするには渋をとる必要があり、手間暇がかかる。それでも各地に栃の地名が多いのは貴重な食料として大切にされたからだろう。
     山人に愛され栃の夏木立   拙作
 最初にして最後の核心部に来た。ゴルジュにかかる約15mくらい。直登は無理で、右岸から高巻。急斜面を木の枝を掴みながら攀じる。滝上のポイントへトラバースして、懸垂下降。30mのロープで5m余裕があったから25mほどか。
 ここからも小さな滝はあるが問題はなく突破。雨が少ないのか、否、そんなことはない。多分浸透してしまうのだろう。全体に苔むしている。地形図にある林道と交差して、現在位置をチエック。
 その後は一段と水量が減って荒れた登山道を歩くような感覚だ。荒れているのは一度は伐採されたからだろう。錆びたワイヤーロープが捨てられていた。周囲には杉の植林を確認した。谷が枯れたのは、根の浅い杉を植えたからだ。ブナ、ミズナラのような落葉広葉樹は根張りが広く保水力がある。
 完全に伏流しているかと思えばまた流れが復活するが、ついに水が絶えた。1000m付近から土の溝になり、傾斜が増した。沢筋に蕗や大きなヤブレガサが繁茂している。不思議な植物環境である。
 1100m付近から斜面が立ってきて、土の溝を登るのが困難になり、沢一筋にこだわるリーダーがいよいよ尾根に転じる時と判断。樹林帯の山腹に入り、木の枝、根っこにつかまりながら、喘ぐと呼吸を整えながら高度を上げた。12時55分、登山道に出た。ハイウェイのように見えた。5分ほどで山頂だった。
 リーダーのWさんは「ぎふ百山」を山スキーか沢登りのバリにこだわって踏破することを狙っている。この山で又1つ踏破できた。私は完登したがバリで踏破するならと2順目を同行する。隣の高屋山も谷から登った。以下の山名の(* )内はWさんの履歴である。*は同行した印。
 1234.5mの並びのよい三角点が埋まる。今年は能郷白山の開山1300年にあたるとかで、この山も本巣7山の1つと言う。それをアピールする幟が山頂標にくくられている。
http://www.motosukankou.gr.jp/01_event/01_02_05.html
 高曇りで遠望は無かった。2基の反射板のある広場から山岳同定を楽しんだ。沢の中から見た根尾富士(福井の中の谷から踏破*)も良かった。美しいコニーデ型の屛風山には癒された。山頂から眺める根尾富士はまた格別である。ほぼ真北に位置する。さらにその背後には重なって荒島岳(ナルサコから踏破*)が見えた。白山、別山は雲の中に隠れている。
 更に目を凝らし、記憶をたどると、越美国境の平家岳(日の谷から踏破)、滝波山(残雪期に踏破)、手前の左門岳(銚子洞から踏破*)、対岸のドウの天井、反射板の建つ日永岳(西ヶ洞から踏破*)が見えた。少し位置を変えて、山頂から南東に高賀山(北の沢*)も確認。能郷白山は樹林に隠れた。梅雨時の条件下では最高の展望に満足した。
 充分な山頂滞在を満喫。下山を開始。つい最近まで、廃道に近かった登山道は整備されて歩きやすかった。登山道の脇には、この山を特長づけるヤマボウシの花が盛りである。最初はハナミズキと見たのですが、時間を置いて、正しい名前を思い出した。同じ仲間だから当然である。
 登山道を下って、南東に舟伏山(初鹿谷から踏破*)を確認した。あれも「ぎふ百山」の1座だ。
 以前、荒れていた部分の植林帯はきれいに整備された。杉の倒木の切り口には2018.4.22と書かれていた。篤志家の伐採日かな。これから登る人に出会った。立ち話すると登りがきつかったとか。一旦下って登り返すと反射板への分岐(1050m)に着いた。新しい道標が設置されていた。右へ行ってみたが、何も展望は無い。反射板があるから眺めが保証されているわけではなかった。
 後は折越峠に向ってどんどん高度を下げた。根上がりの桧にも案内板があった。篤志家らの仕事だろう。816mを過ぎて、峠に近付いた。急な斜面をジグザグで下る。折越林道を歩いて542mまで行く。疲れた足には少しこたえる。
 Pに戻った。汗とヤブをこいだ際の埃で汚れた体を水で拭いた。蛭やダニもチエックしたが何もなかった。帰路は廃村・越波から廃村・黒津をめぐりR157から能郷へ走った。
 道草ついでに源屋で川魚料理を楽しんだ。一番安い定食でも、鮎塩焼き2尾、あまごの甘露煮1尾、味噌汁、デザート、漬物、等盛りだくさんのごちそうだ。季節のものの鮎に舌鼓を打つ。これで2480円。食後は白山神社へ戻って休んだ。今年も猿楽が奉能されたであろう。
 後は来た道を戻った。

黒津山は返り討ち~春北風(はるきた)の吹く尾根を歩く2018年02月19日

        厳寒の坂内村へ
 2月17日の夜、集合地の某所で4人が合流。一路、揖斐川に沿うR303を走る。往き交うクルマはほとんどない。揖斐峡に入ると雪が増えた。トンネルと橋で貫く夜の国道は風雪の状況になった。ふじはしの湯ある道の駅もクルマは見あたらず広大なPも真っ白になった。路面も白い。
 横山ダムに向うと風雪は強まった。奥いび湖を橋で渡ると坂内村だ。道の駅のPももちろん真っ白で風が強い。その一角にテントを張ってビバークする。ファミリーテントなのでは折々強風が吹くと大きくゆれた。寒いので宴会もなく早々にシュラフに潜った。
 2月18日、朝3時45分に小用で起きた。すぐに4時なので眠ることもなく出発に向けての準備に入る。お湯を沸かして簡単な食事をとる。テント撤収、身支度を整えて出発だ。旧役場の庁舎裏に登山口があった。というもの山城への遊歩道の案内である。地形図で461mの独立標高点が広瀬城跡という。
        春北風の吹く尾根を登る
 役場裏のPは除雪されていたが尾根の入り口は残雪があってワカンを付けた。午前6時15分出発だ。道標は1か所あったが竹林の斜面の道は雪で分からず適当に登って本来の登山道が雪に埋まり、その足跡に合流した。
 尾根にたどり着くと照葉樹林(あせび等)と杉の間の雪の上を登った。461mの城跡に達する。とっくりのセーターを脱いで体温調整する。しばらく歩くとそれから先は明るい雑木林の尾根になった。また城跡まであった歩道がなくなったせいか、夏道のない尾根は枝が行く手を邪魔してうるさい。登るにつれて雪が増えた。雪で明るい林は気持ちが良い。先頭はワカンで踏みしめてラッセルしてくれるから後続はさほど潜らず楽に登れる。踏み代は20センチくらいか。
 ときどき北風に乗って雪が舞う。ああ、これが俳句の季語にある春北風(はるきた)だ。北陸では暴風雪であろう。雪雲が奥美濃の空を黒く覆う。福井で雪を降らせた後北西の季節風に乗って、越美山地に吹いてくるのだ。この寒風のせいで尾根の雪も固く締まっているのだ。
        積雪が増えた尾根を歩く
 標高937mの南の900m辺りに第一の難渋場面があった。春北風のもたらす吹き溜まりが雪庇のように壁になってゆく手を阻んだ。ストックしかないと突破は難しい。先行者は1本の木があったのでそれをつかんで足場になる雪を崩して乗り越した。するとまた穏やかな尾根になり937mのコブを越えた。ここだけならスキーを持ってくればよかったと思う。
 4等三角点969.9mの「片手」は北西の季節風の影響をもろにうけて雪の壁が発達していた。先行者は躊躇していたが、左へステップして乗り越した。ヒラリーステップをもじって○△ステップとジョークを飛ばす。
 時計を見ると既に11時になった。行動予定の持ち時間は6時間と決めている。あと1時間しかない。せめて前衛のアラクラという1163m峰まででもと思う。
         アラクラの手前で撤退
 結局は1050mの等高線を越えて1080mの小さなへそのみたいなコブで12時となった。持ち時間を目いっぱい使ったがアラクラまでも踏めなかった。アラクラはすぐ目の上に聳え、黒津山ははるかに遠くにたおやかな稜線の上に見えた。
 遠い山だと思う。2011年3月に親谷から山スキーで登ったが稜線直下で6時間に達して撤退した。今回はリベンジだったが返り討ちにあった。藪が残雪に抑えられているこの時節でも6時間では登れないと悟った。大谷川の林道350m地点から4等三角点「荒倉」882.3mを経由すれば比高100mは楽できて尾根の長さも約半分と短い。残雪期だからといって優しい山ではない。
 ここで記念撮影だ。幸いにも青空が見え隠れして天気は良くなる方向である。金糞岳、貝月山と鍋倉山、その向こうの伊吹山、横山岳、高丸、烏帽子岳、すぐ近くには湧谷山、蕎麦粒山が見えた。しかし、何と言っても天狗山が左右に均整がとれて素晴らしい。それらを背景に撮影。黒津川源流の斜面はみな落葉樹林で覆われている。黒津と天狗の稜線も同じ落葉樹林である。
         青空を背景に聳える天狗山を見て下る
 下山を開始するとこれまでの景色が反対になる。尾根から眺める天狗山の山容は改めて素晴らしいと思った。黒津山から天狗山間を1日で駆けた韋駄天のような山やさんの記録もある。この眺めをみるとその野心も湧いてくるだろうに。この眺めに癒されたのか、登頂はできなかったが満足したという同行者のコメントにこちらも癒された。