逆転の発想2024年03月26日

 若い頃、営業マンになるための入門書を読んだ。その本の内容で今も記憶に残ることは、例えば欧州の女性下着メーカーは売上増大を図るために考えたことはアフリカの土人の女性に売るということであった。
 しかし、裸で暮らしている人々にどうしてわざわざ下着を付けさせるのか、という突っこみがある。答えは裸で暮らしているからこそ無限の市場があるというのである。
 同様にアメリカの靴メーカーも文明国には行きわたった段階で売上増加を図るために黒人の裸足で生活している人々に履かせることを考えた。現代ではもう裸の黒人女性はいない?だろう。裸足で生活する黒人も極めて少ないと思う。
 常識的には考えもつかない発想である。
 山岳古道を調査する過程でも逆転の発想を思ったことがある。近江商人は東海地方にモノを売るために鈴鹿山脈の峠越えが障壁としてあった。だが商人は山は高ければ高いほど良い。その分高く売ってやるという意気込みである。
 西堀栄三郎の両親は近江商人だった。そんな親から生まれた故に南極越冬隊の準備では専門家に頼らないで知恵を出して成功させた。
 松阪商人の小津家は江戸時代でも牛の飼育が盛んだったと見えて、牛糞を船で江戸にまで運んだ。それがいい値で売れて商売になった。建物の骨格になる木材なら売れて当然とも言える。牛糞のような捨て場に困るような産業廃棄物でもカネを産んだ。

 ネットから拾うと「「荷物輸送用として、江戸市中には牛馬が闊歩していました。牛馬が歩けば、彼らが落とす糞も町中に溢れます。けれど当時の江戸には、この馬糞を、自主的に拾う人々がいました。
 それは子供たちでした。子供たちはアルバイトで馬糞を集めていたのです。何のために馬糞を集めるのかと言えば、それは「燃料」にするためでした。牛馬は藁や草を主食にしています。ですから糞には、藁や草がたくさん含まれていて、よく燃えたのです。落ちている馬糞を集めては、それらを乾かして燃料として販売する業者もいたのです。」

 小津家からは本居宣長が出た。小津宣長を名乗ったこともある。但し宣長は商人向きではないと母親が心配して京都に医者の修業に出した。地域医療をこなしながら好きな日本の古典研究の泰斗になった。