『飛騨國中案内 (大正6年の復刻版)』受領2023年08月13日

 飛騨國中案内 (大正6年の復刻版)からP115の5の3

   角川村より二ツ屋村え   一里

[角川村]高・反別共に先書に記置。角川より二ツ屋村迄之間道並、谷越所々有之、道の左右は山高く谷合故道悪敷候。
   二ツ屋村より国境迄    二里

[二ツ屋村]高四石六斗二升六合、内田高二斗五合、畑高四石四斗一升六合、此反別三町九反一畝二十四歩、内一反三畝十四歩田方、三町七反八畝十歩畑方なり、田は稗田なり、非平地山畑同様の地面なり、中田二・下一・上畑二・中一・下一・下々一・山畑一、桑三十束、此反別二畝歩、十束に一、屋敷二の位、高に一ッ三分七厘内、屋敷大、小五軒あり、寺・宮森なし、

[口留番所]一ヶ所あり、高八合、此反別十二歩あり、高山より二ツ屋村迄七里三十一町有、二ツ屋村より国境迄二里二町有り、此間一里、行くて大峠あり、字[楢か峠]といふ、楢ヶ峠より境谷迄の間を原といふ、且又、古人の曰く、高麗に檳榔子(びんろうじ)きれたれは飛騨の白木ヶ原に有へし、かうらいに肉桂きれたらは白木か原に有へし、高麗に人参きれたらは飛騨の角川有峯に有へし。此角川有峯とは此境谷原の事なり、此白木か原は則此所の原にて候、左手の大山は[金剛ヶ嶽]右手の大山は[白木ヶ嶽]なり、上白木・下白木二山あり、唐の川とは前に記し置候通り、小鷹利郷の内谷村より、谷川上信包村より奥にて、黒内村山内なり、此二ヶ所を尋ね度もの歟(や)、古人の言傳は予より外に此事聞傳申間敷者也、穴賢々々。右原の内道より左手の山に[金山]一ヶ所あり、九十年餘以前に金山稼いたし候事なり、国境に石塚あり、字[境谷]といふ、二ツ屋村より楢ヶ峠まて一里、此間谷越八ヶ所あり、楢ヶ峠より境谷原の小屋場迄一里半、此間谷越三十三ヶ所あり、此小屋場は先年越・飛両国の境論有之節より山番小屋あり、その砌(みぎり)より往来の[改番所]も此所にあり、口留番所は其後二ツ屋村へ引る、山番所は御料所に成り、元禄九子の年引る、金山間歩ある所は此小屋場より左手の山にあり、此際に青兀といふはげ山あり、山の犬といふ獣晝夜に此所へ来、此兀山の土を喰ふことなり、此所に小谷あり、白水谷といふ、常に此水白し、小屋場の前に白き石磨一ッ有り、是は金土をひきたる磨の由、此所より境谷石塚ある所まて十丁餘、境石より越中切詰村迄二里、此間大難所の道筋なり、切詰よりすが平此次庵谷、此次に番所あり、此次はなつまい、此次は東原、此次は荒屋、次は西ヶ原、次は田の頭、次は水無、次は内名、次は島地、次はいちごぞうれ、次は二ツ屋、此次は横平、次は大だも、次は小畑、次は三ツ松、次はにんぶ、次はしんめう、次は元坂、此次は八尾なり、切詰より八尾迄五里、二ツ屋より以上八里有之候。先年飛騨國荒城郡小豆澤村・桑ヶ谷村・三川原村・角川村・二ツ屋村と、越中國婦負郡桐谷村・布谷村・荒屋村・須郷村と國境論有之、干時延寶二寅年の事、公儀御吟味の上國境相極、其節御評定之衆中両國の村々共に御朱印之寫、我等手前に所持す、外に繪圖一枚共有之候。
[二ツ屋]越中國長谷切詰え出る、高山より境迄十里三十町あり、二ツ屋村より切詰まで四里。
二ツ屋村より大無雁村へ戻り、下山中筋を記す。

・・・・・大正6年に出版された飛騨のガイドブックでした。8/5に車で通過した楢峠とか白木峰の様子がうかがえる。楢峠を越えても続くから二ツ屋はかなり広域の村だった。水系は富山側に流れるが岐阜県の中でした。
 やはり国境論争があったのです。楢峠が国境かと思うのですが当時の力関係で万波川一帯が飛騨に組み込まれた。現在は白木峰が富山県と岐阜県の県境になっている。これはこれでそれらしい。金山があったからでしょう。

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