亀山(越前大野城)に登城②2022年04月11日

 大野市へ戻る際に見た九頭竜川は雪解け水で増水し勢いがあった。小京都といわれるごとく複雑な市街地を経て大野市歴史博物館に入館。城の創建は
「福井県大野市にあった安土桃山時代の山城(やまじろ)。江戸時代には大野藩の藩庁が置かれた城である。大野市街近くの亀山(標高249m)に築かれていた。1573年(天正1)8月16日、戦国大名の朝倉義景は刀禰坂(とねざか)の戦いで織田信長に敗れ、一乗谷館・一乗谷城(福井市)を放棄し大野へ逃れたが、一族の朝倉景鏡の裏切りにより大野六坊の一つである賢松寺にて自刀した。こうして朝倉氏が滅ぼされたのち、その戦いで戦功により、大野市周辺を与えられた金森長近が1576年(天正4)に築いた城である。長近は小規模ながら大天守・小天守を持った堅固な大野城を築き、城下町をつくり上下水道を整備するなど、今日の大野市街の原形をつくった。
 信長の死後、北ノ庄城(福井市)を本拠とした柴田勝家と羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が対立し、賎ヶ岳の戦いが起こったが、その際、長近は勝家方として従軍した。戦後、長近は敵方であったものの秀吉から城と領地を安堵され、1586年(天正14)に飛騨高山(岐阜県)に転封した。その後、大野城には長谷川秀一、青木一矩、織田秀雄(信長の孫・信雄の長男)が入城し、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いの後、大野一帯が福井藩の直轄領となったことから、福井城の支城となった。1624年(寛永1)には結城秀康三男の松平直政が5万石の大野藩の藩主として入城、その後、譜代や親藩の大名が城主となり、土井氏4万石の時代に明治維新を迎えた。
 この間、1775年(安永4)に火災により大天守・小天守などを失った。現在、城跡には1968年(昭和43)に建設された鉄筋コンクリート造の復興天守群と天狗櫓(てんぐやぐら)があるが、その石垣は当時のものである。また、城門2基が同市内の光明寺および真乗寺に山門として移築され現存している。JR越美北線越前大野駅から徒歩約20分。山頂まで徒歩約10分(4ヵ所の登城口がある)。◇亀山城ともよばれる。」
 少しは歩こうと越前大野城に登城した。登ると何と三等三角点もあり、249mの山だった。城からは大野盆地を囲む残雪の毘沙門岳、荒島岳、経ヶ岳、銀杏峰(げなんぽ)、部子山(へこやま)などの名山、遠景には姥ヶ岳、堂ヶ辻山、屏風山、取立山などの無名峰が並んだ。ミニハイキングになった。
 下山後は大野市内で名物のおろしそばを食べた。最後は数ある湧水地の本願清水イトヨの里に寄り、取水して土産にした。
 地図を見ると大野市は地下水脈の上に成り立つ水上都市と言える。九頭竜川、真名川などの河川が洪水の度に押し出し、土砂が堆積し、伏流水の豊かな土地が形成された。名古屋市中区の鶴舞もツルマという。水の湧く土地であり、以前はビール会社の工場があった。富山県入善町は黒部川の伏流水が豊富で至る所に湧き水がある。郡上八万市、大垣市もそうだし、外国ではナイロビが水の湧く土地という意味らしい。

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