乙字忌の猿投の山のすっきりと 拙作2022年01月20日

 乙字についてまとまった記事は以下
http://ogurin1961.blog129.fc2.com/blog-entry-5795.html?sp

1881年7月29日~1920年1月20日

 河東碧梧桐の門下として、喜谷六花、小沢碧童と共に「碧門三羽カラス」と称された。

 碧梧桐の主宰する自由律俳句の結社「海紅」に属したが、海紅堂事件など結社内部抗争により「海紅」を離れた後、俳誌「石楠」を臼田亞浪と創刊したが、亞浪とも袂を分かつ。また、「層雲」の荻原井泉水も対立・・・結局「ホトトギス派」に収まる。

 エリート意識、もしくは元来の気性ゆえか、各結社の主宰や同人を撫で斬りの如く扱い、激しい主張と対立を繰り返した。

 新傾向俳句の旗手となり運動のロ火を切ったが、後に伝統を尊重する側に変った・・・40歳で夭折。
以上

 名うての俳論家でもあった。この理論は今でも生きている。

http://0209ko.sakura.ne.jp/haiku/ikku1.htm

 俳句の重要な概念である二句一章は大須賀乙字が提唱し、それを受けて臼田亜波が一句一章を提唱したのである。
 この二句一章とは、俳句の中に句切れを入れて季語を含む部分とそれ以外の部分に分けると、二つの概念が融合して一章を形成するという考え方である。また、一句一章とは、句切れを入れず十七音で自由に表現しようとした考え方である。現在では、句に句切れがあるかないかでこの二つの概念を区別する傾向にある。またこれらに似た概念として「取り合わせ」と「一物仕立て」という捉え方もある。
  私は一句一章の俳句を好む傾向にあり、たくさん作っている。この概念には純粋なる一句一章とそうでないものがあるのではないかと考えた。
 私は、純粋一句一章とは一つの対象(季語である場合がほとんど)の特徴のみを純粋に表現している句であり、そこには意図的な設定がないものであると規定した。さていくつかの例を出そう。
 純粋一句一章の句

 滝の上に水現れて落ちにけり        後藤夜半
 だぶだぶの皮の中なる蟇           長谷川櫂
 風車止つてゐても美しく            小山孝治

  一句一章の句

 くろがねの秋の風鈴鳴りにけり       飯田蛇忽
 鶏頭の十四五本もありぬべし        正岡子規
 流れ行く大根の葉の早さかな         高浜虚子

 夜半の滝の句は、滝の特徴を的確に表現している。それ以外は何もないのである。余計な説明はないのである。
 また櫂の蟇の句は、蟇の特徴を比喩を使用し、的確に表現しているのである。だぶだぶの皮を被っているような存在が蟇というものであると。
 三つ目の私の句は、風車とは回っている時だけでなく、止まっていても美しいものであり、それが風車の一つの特性であると説明しているのである。風車以外何もないのである。
 さて純粋でない普通の一句一章の句とはどんなものであろう。
 蛇忽のすすきの句は一見風鈴を説明しているように見えるが、「秋」という季語があり、「風鈴」というものがある。この二つは大きな要素であり、風鈴が秋のものである必要はなく、春でも夏でもよいのである。よって風鈴の特性を説明しているとことではなく、場面を意図的に設定しているといってもよいであろう。
 また子規の鶏頭の句は、鶏頭が十四五本である必要はなく、一本でもよいのである。これも意図的に設定しているといえるであろう。鶏頭の特性を純粋に説明しているということではないのである。
虚子の大根の句は、川にたまたま大根の葉が流れていて、それが早く流れていたということである。これも意図的に設定されている。
 このように普通の一句一章の句は作者の意図が示されている場合が多いのである。純粋なる一句一章の句にはそれがないのである。ありのままにその特性を説明しているのである。このような句を作るには観察が重要である。観察は俳句の基礎基本である。純粋なる一句一章の句を作ることは俳句のよい学習になるであろう。
以上

  私が好きな句は

妙高の雲動かねど秋の風

火遊びの我れ一人ゐしは枯野かな

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