恵贈・尾上昇著『追憶のヒマラヤ マカルー裏方繁忙録1970』2020年12月11日

 このほど尾上昇著『追憶のヒマラヤ マカルー裏方繁忙録』(中部経済新聞社)が発刊された。
 まずは発行元の売りを引用してみると
「中部経済新聞社は、日本山岳会会長も務めた尾上昇氏の著書「追憶のヒマラヤ マカルー裏方繁忙録一九七〇」を発刊しました。

 今から50年前、日本山岳会東海支部の登山隊が、ヒマラヤにある世界第5位の8千メートル峰「マカルー」の南東稜からの登頂に、世界で初めて成功しました。本書は、当時その登山隊の裏方として活躍した著者が、計画や準備、現地への渡航から登頂成功までの悪戦苦闘を、自身の半生とともに振り返った回想録。海外登山の魅力や組織運営の難しさ、その後の山との関わりについてを描いています。」
とある。
 目次を見ると第一部マカルー1970にP22からP200まで割いた。全頁335Pあるから約60%と大半を傾けた。但し著者は登攀はしていないから客観的な傍観者的な把握に努める。本人ならばいかに困難な壁、氷雪の山稜を突破したとかの勇ましい表現で語られることになるがそれなない。登山の武勇伝ではない。東海支部50年史から関係分を引用してみる。
「  マカルーへの序曲
 1967年はぱっと開花したような華やかな印象を与える。4月23日の通常総会で支部長に熊沢正夫(1129東海中学、八高、東大)が選任される。東大OBで植物学の専門家であり、名大教授、戦前の日本山岳会会員ながら戦中のどさくさで退会となっていたが支部長就任を契機に復会する。『上高地』なる本も上梓している。5号の尾上昇の書いた追悼文から少しだけ引く。「「おい、尾上君、名古屋大学にうってつけの人がいるぞ。」。
 これが熊沢先生と東海支部とのお付き合いの始まりである。」そう言ったのは原真だった。そこで原真、尾上昇、湯浅道男の3人で名大まで口説きに行く。以下は熊沢先生の側の回想である。「ある日、大学の研究室に東海支部員と名乗る若者の来訪を受けた。用向きは翌年度から支部長を引き受けよというのである。私も今まで数え切れないほど生命保険の勧誘員に訪問された。「生命保険は一度も入ったことがないし、これからも入る気はない。その私を加入させるよう君が説得するというなら、一つやってみなさい」と。
 ところが今回の件についてはそんな態度はとれなかった。もともと自分自身特別な登山歴はないながら山好きだったことや、損得かまわずひたむきに山を愛しこれに登ろうとする若者の心情に今でも惹きつけられる弱点がこちら側にもあった。」として快諾された。そしてご遺志で1ヶ月その死を伏せられ、葬儀の類も一切行われなかった。(1982年11月5日死去)
 彼を見出した原真も2009年3月20日に死亡したがマスコミに知れ渡ったのは4月2日のことでしかも葬儀、告別式も本人の遺志で行われなかった。医師のプライドで延命治療を嫌ったこともあろうが師と仰いだ熊沢に倣ったとの思いもするのである。
 副支部長には伊藤洋平が就任。京都大学の医学生のころ昭和22年に『岳人』を創刊した。『岳人』50号(昭和27年6月80円)に寄稿された伊藤洋平の誕生秘話を引いておく。「前略、私はふとIに、かねて夢に描いていた若い登山家の手で、純粋な山岳雑誌を創り上げる構想について話した。「そりゃ面白い」とIは即座に賛成してくれた。中略。それでは、誌名は何とつけるか。『蒼氷』『岩壁』そんな尖鋭な感覚を表現する名前が私の脳裏に浮かんだが、やはり何となく幅に乏しい感じで、いずれも気がすすまない。そのときルックザックにもたれて腕ぐみをしていたIが「山岳の岳に人―『岳人』というのはどやろ」と呟いた。がくじんーなんという力強い親しみのある響きであろう。このようなよい言葉が手近にあるのをどうして気づかなかったのか。「『岳人』そうだ、それに決めた」私は思わず車内で立上がって叫んだ」「今にして思えば、『岳人』が今日あるのもあるいは当然かも知れない。そして私もIもただ花粉を運ぶ蝶の役目を果たしたに過ぎず、本当に『岳人』を生み出したのは、わが登山界の新しい息吹に他ならなかったということもしみじみと理解されるのである。」と締めくくった。
 『岳人』は14号から名古屋の中部日本新聞社(現中日新聞、後に東京新聞に移管)に移った。
 同28年にアンナプルナ遠征に参加している。マカルー遠征では遠征隊長になる。後に愛知県がんセンターの初代所長となる。
 新役員のその他の欄に尾上昇(日本大学6001)の名前を初めて見る。後のマカルー隊員で、第五代と第七代支部長を通算18年務めた。2009年には第23代日本山岳会会長に選ばれている。
 5月17日に支部通信編集会議を行う。6月に第一号を創刊した。湯浅道男、矢入憲二とある。
 5月19日の役員会の出席者の中に谷久光の名前をはじめて見る。朝日新聞記者で後のマカルー隊員である。
 9月1日に支部ルームが原病院地下図書室に移転された。
11月に支部報2号が発刊された。(湯浅道男)
     ヒマラヤ登山解禁の予告
 1968年2月29日ネパール政府は日本外務省に対して部分的な登山解禁を予告。
 3月17日通常総会を開催。尾上昇、湯浅道男が常任委員になる。1969年春を目指してマカルー計画実施を決定した。
 3月23日 原病院で臨時役員会を開催。ヒマラヤ登山実行委員会を設置し、熊沢正夫が委員長に就任。4月8日にマカルー隊員を公募。6月14日の役員会に小川務(東京理科大学6633)の名前を初めて見る。後のマカルー遠征隊員で調査隊員として1969年に遠征。第十一代支部長である。
 8月24~27の山行 剣岳西面を登攀。参加者の中に徳島和男の名前を見る。後の日中友好皇冠峰登山隊1993の隊長であるが穂高涸沢で雪崩にて遭難死。
 1969年2月23日 マカルー調査隊日本出発。隊長松浦正司、小川務ら5名。28日に日本外務省はネパール政府にマカルー隊の推薦を打電。3月12日 ネパール政府は新登山規則を発表、マカルー調査隊に対する登山許可と本隊に対する仮登山許可が出る。アメリカ、ダウラギリにも登山許可が出る。
 4月13日の通常総会で委員が24名と大幅に増員された。出席者も多数に上る。
5月17日 第1回海外登山研究会がもたれる。マカルー隊員の浅見正夫(6856)が参加。24日 第2回には中世古直子(名古屋山岳会6739)、越山将男(早稲田大学6782)が参加。以後、11月16日まで継続的に実施された。会を追う毎に出席者数が増えていった。第10回でKJ法、梅棹式による資料整理法の採用が行われた。
    マカルー隊出発
 6月3日 マカルー調査隊はネパール政府から本隊の登山許可証を入手。12月20日 マカルー隊荷、名古屋港を出発(日光山丸)
 1970年1月1日 マカルー隊員発表される。2月14日にマカルー本隊、熊沢正夫以下十五名、羽田空港を出発した。伊藤洋平、谷久光は後発。
   ☆   ☆   ☆
隊の名称 マカルー学術遠征隊1970年
主催   日本山岳会東海支部
後援   愛知県、名古屋市、NHK、朝日新聞
ヒマラヤ委員会 熊沢正夫(委員長、遠征隊総指揮)、原真(事務局長)、伊藤洋平(遠征隊長)、村木潤一郎、沖允人、贄田統亜(6497)、渡辺興亜(6576)、田中元、松浦正司、尾上昇 
 学術研究担当者 御手洗玄洋(高所医学)、樋口敬二(地球科学)、木崎甲子郎(地球科学)、伊藤洋平(血清疫学)
登山隊員 調査隊(1969年) 松浦正司(隊長)、尾崎祐一(5822)、山田勇、生田浩、小川務
     本隊(1970年)  
原真(隊長)、市川章弘(登攀隊長)、田中元、尾崎祐一、松浦正司、尾上昇、川口洋之助、後藤敏弘、吉原正勝、長谷川勝、橋本篤孝、越山将男、生田浩、浅見正夫、中世古直子、芹谷洋子、白籏史郎(6068)、谷久光
地球科学隊員(1970年) 相馬恒雄(隊長)、五百沢智也、加藤喜久雄、沢田豊明、奥平文雄、森林成生、加納隆
シェルパ 調査隊二名、本隊二十七名、地球科学隊一名、リエゾン・オフィサー調査隊一名、本隊一名     以上
   ☆    ☆    ☆
 このように優れた登山家と学者をそろえた布陣の遠征隊は空前絶後の大規模なものとなった。2月22日からはダラン・バザールからポーター400名によるキャラバンが開始された。3月22日マカルー先発隊
によってBCの建設がなされた。25日には登攀を開始。5月18日に標高7950mの地点にC6を建設。
 5月23日には尾崎祐一(5822)と田中元の隊によってついにマカルーに登頂した。29日にはBCの撤収、帰路のキャラバンが開始された。6月16日にはダラン・バザールで隊員解散。7月13日には朝日新聞講堂にてマカルー報告会が出席者多数のもとに行われた。早速出版物の刊行にもとりかかる。
 12月20日にはマカルー地球科学班も帰国した。年初からの一連の行事や活動を眺めると1970年はマカルー一色に塗りつぶされた感がある。
 しかし、ある会員は支部ルームに行ってもマカルーやヒマラヤに関係のない会員は近づきがたい雰囲気が醸成されていたと証言する。マカルー成功に酔う影で支部に亀裂が入り始めていたのだった。マカルーの報告会は名古屋だけではなかった。11月になると松本市、大阪市、神戸市で、翌年2月には札幌市でも行われた。異様な雰囲気にもなるだろう。
 1971年2月になると第一回マカルー公式報告書編集会議がもたれた。原真、尾上昇、越山将男、市川章弘、浅見正夫、伊藤洋平らが出席した。尾上昇は十二回まで連続的に出席し、遠征の成果に熱心に関わろうとした姿勢が見える。十三回からは原真、浅見正夫、松浦正司に絞られていた。最終は8月の11日で第十七回の会議がもたれた。1972年の12月25日に装丁も立派な『マカルー遠征隊公式報告書「遥かなる未踏の尾根―マカルー1970年」』(編集者 原真、浅見正夫)が茗溪堂(東京・神田)から刊行された。写真は白籏史郎の手になる豪華なカラー写真入りである。
    マカルー遠征後の虚脱感
 2011年支部報No・124「東海地方の登山史と東海支部21」によると「編集した原真はこの報告書は以降10年ヒマラヤ登山の教科書になると高らかに宣言した。事実、内容の濃い優れた報告書ではあった。 しかし実態は原真編集というより原真著作といったほうが当たっている内容で、実際に隊員が提出した報告も彼の意に沿わぬところは全て書き直されてしまい、中心メンバーからも不満の声が出てくるようになり、隊員の多くの気持ちも支部から次第に離れていってしまった。設立以来意気軒昂であった東海支部にも危機が訪れんとしていた。」
 内容的には冗長のそしりを逃れない。原真が一貫して関わってきたことは何だったのか。KJ法が生かされたとはとても思えない。マカルーという山以外のことに主張が多すぎるのだ。報告書なのだから写実に徹して編集するべし。
 もう一つ特筆すべきは熊沢正夫支部長が2期目に入った年だった。通常4年で交代するがマカルーの余韻であろうか。その余韻も冷めるときがきていた。
 年末になってルームが移転した。1972年6月になると委員会が熊沢支部長宅で行われている。東海山岳3号の編集が3回行われたが年内刊行はならなかったようだ。
   東海支部解散の危機
 1973年になると年間を通じて5回の記述を残すのみであった。一体何が起こったのか。
3月3日の常務委員会には「東海支部の休会中の運営について検討」が行われた。3月29日に秘書解雇、4月11日の委員会も熊沢宅であった。そしてこれがこの年の最後の委員会でもあった。熊沢正夫、小栗嘉浩、中世古隆司、山田勇、郡正也、浅見正夫の六名。
 4月15日の通常総会は「1973年度の支部運営に関して中世古隆司氏に一任」の決議があるのみだった。4月30日には「事務所閉鎖」とだけある。事務所は翌年6月には池沼慧宅に移転した。
 東海支部は目標を失い迷路に入ったのだ。だが中世古らによって、すぐ再建の道が探られる。
 それを証言するのは次の記事。2009年支部報No・119「東海地方の登山史と東海支部16」によると「支部最大の実力者原真と私が対立し、原病院地下のルームも追い出され、東海支部崩壊の危機に直面した時、湯浅、尾上両君が強力にバックアップしてくれ」たと書いている。
 1974年総会では名大教授の樋口敬二が第四代支部長になった。地球科学の学者であった。常務委員は浅見正夫、池沼慧の2名、委員は石本恵生、蟹江武士、郡正也、石川博、国島陽三、会計監事は後藤敏弘だった。マカルーで活躍した会員はわずかに浅見ただ一人となった。10月26日から27日に御在所の日向小屋で焼肉を食う会が開催された。石岡繁雄、原真ら30名の参加者を見た。参加者の中には東京から神崎忠雄(日大、現在日本山岳会副会長6002)、池田常道(「岩と雪」編集者、7641)、京都から塚本圭一(4482)が来ている。
 1975年も東海山岳3号の編集など低調な活動実態が叙述されるのみだった。3月に会員間の懇親を狙いとする「山と探検の集い」が開催された。31名の参加者をみたが尾上、中世古の名前はなく、又はマカルーで活躍した会員の名前はわずか3名のみだった。」

 引用は終わり。この後は支部長に就任する。その後も海外遠征は数々あるが尾上氏の手のひらの上で処理できたであろう。本書ではマカルーがすべてである。
 
 著者は何が書きたかったのか。それは読者それぞれの感想があるが、人間の面白さである。マカルー登山を通じての赤裸々な人間のドキュメントを描きたかったのである。言わば、北杜夫『白きたおやかな峰』の尾上版である。

 第二部は私と山、若き冒険の日々と山岳会。ここは日大山岳部、東海高校山岳部などの山を通じた交遊録になる。

 あとがきの中で本書は遺言のつもりでまとめた云々とある。人間は余命が残り少なくなるとそういうものを書きたくなるのか。JACの先達の今西錦司も『山岳省察』(講談社学術文庫)という本を、戦死するかも知れないとしてまとめたらしい。実際には長命を得ているが。
 しかし、世の中には松尾芭蕉のように韜晦した人物もいた。「韜晦は「とうかい」と読み、自分の本心、才能、実力、地位などをつつみかくすことを言います。また、人の目をくらますとか、姿をくらますという意味。」らしい。今でこそ芭蕉の本はあふれているが、ひとかどの人物は韜晦しても後世になって研究者により掘り返されるものである。
 さて尾上氏の遺言はどう評価されるか。

朝日遺跡ミュージアムを見学2020年12月12日

 以前に整備中の朝日遺跡を訪れたことがあるが、このほど整備されてオープンしたというので行ってみた。植田インターから名二環で清州まですぐの距離である。
 入館料は300円。入館するとなぜか家族連れが多かった。展示室にはいると照明を落としてあるが分かりやすくなっている。とはいえ、ここもボランティアで良いので解説員が欲しかったな。予備知識がないと楽しめないのは先週行った愛知県陶磁美術館と同じである。団体には付くそうだが個人にも配慮が欲しい。
 旧館にも行ってみた。展示は変わらないが、参考書籍類が見るものがあった。中でも春日井市は古跡に力を入れていることが分かった。春日井シンポジュウムという。森浩一氏が提唱した東海学という言葉にも初めて接した。書籍化された本は流通している。
1継体大王と尾張の目子媛
2ヤマトタケル
3壬申の乱
4渡来人
5古代史のなかの女性たち
6旅の古代史
7継体王朝
8東海学の創造をめざして
9東海学が歴史を変える
10東海学と日本文化
11地域学から歴史を読む
12水とまつりの古代史
13伝説に歴史を読む
14海人達の世界
15日本の食文化に歴史を読む
16東海の神々をひらく
 今日の新聞にも豊田市に縄文遺跡があり展示中と報じられた。尾張地域は弥生遺跡の西の境界、三河地域は縄文遺跡の東の境界か。すると東西文化の間の山としての猿投山の持つ意味は大きい。
 東海地方にヤマトタケルを祭る神社が多いのも東征の出発地なのだ。恵那山の胞衣を埋設する伝説も西日本の境界なのだろう。あの山脈で谷と沢の文化に分かれる。愛知県三河地方に混在しているのは相互に行き来があったのだ。
 焼き物(瀬戸物)の産地の分布を見ても愛知県以西の西日本に濃密で東日本は極めて少ない。文化の伝播がシナ、コリアから来たのだろう。手に職のある異邦人は受け入れられ易かったとみている。

冬将軍の到来か?2020年12月13日

https://tenki.jp/forecaster/k_shiraishi/2020/12/13/10783.html
日本気象協会 本社白石 圭子

12/13の予想は「急に真冬の寒さに 厳しい寒さ続く 古都京都でも雪か 雪雲は名古屋にも」だったが寒いことは寒かった。

12/6の予想は「本格的な冬の寒さはまだ先、と思いきや!13日(日)から日本列島に西まわりで強い寒気が流れ込むでしょう。今のところの予想では、九州などでも平地で雪が降るほどの寒気です。」これは当たりです。

・・・今日の寒さはこれだったのですね。本当なら若狭の横谷山に行きたかったが、日中は雨の予報だった。小浜市、美浜町、敦賀市、福井市と北に天気予報をチエックしてゆくと悪くなるばかりだった。そこで日本分水嶺の東の蛇谷ヶ峰ならばと高島市を見ても日中はよろしくなさそうだ。湖東の押立山になるとさすがに悪くはないが行ってみよう、というモチベーションが湧いてこない。奈良県の天川村の八経ヶ岳は快晴である。冬型の気圧配置になると東海地方や南紀は快晴になり、岐阜県でも美濃以北、福井県寄りは悪いのが相場である。
 そろそろスタッドレスタイヤに交換する時期になったが何となく気乗りしないのは年を取ったからかな。交換して汗をかいたらスーパー銭湯にでも行って体をほぐしたい。

冬型の気圧配置2020年12月14日

 いよいよ冬入りですね。北陸では雪が降り始めたそうです。窓から眺める北の空も黒っぽい雪雲です。猿投山の左の奥は恵那山があるはずです。木曽山脈も雪雲に覆われているのでしょう。名古屋の空はやはり高曇りとなっている。日が差さず寒いわけです。
 部屋の暖房も石油ストーブですが、灯油の補給のサイクルが早まりました。自宅にいる時間が長ければあっという間に消費してしまいます。外出すれば軽油を消費するし、どっちにせよエネルギーは使います。

朝日遺跡ミュージアムを見学②2020年12月15日

猿投神社所蔵の絵図は1300年前。
 朝日遺跡がこの位置にあること、2400年前の人たちの生活の場だったことで、想像力を巡らせて頭で考えることは大変に楽しい。雑駁な知識、断片的な知識がくっつきあってまとまってゆく好奇心が刺激されます。
 何でこの清州の位置に、というのは2400年前は干潟が広がっていたというのです。そうか、今の五条川も自然河川ではなく、木曽川の古い流れの1つという。「一方、尾張側では、この御囲堤の完成で木曽側の氾濫は無くなりましたが、逆に尾張平野はそれまで派川であった五条川、青木川、日光川、三宅川、領内川などの八流が無くなり水不足になる」(水問題研究所:木曽川物語から)ので取込み口を設けて用水化したのです。
 地質学の本には東海湖という絵図があります。今の白鳥町あたりまで長良川は入江だった。鷲ヶ岳山麓の阿多岐では藻が珪藻土になり切り出してコンロに利用されています。「美濃白鳥湖に堆積した成分が重なって,約300万年~150万年前に形成」されたので相当古い話です。
 時代が進んで、最後にアップした猿投神社所蔵の717年(古事記は712年、日本書紀は720年)の絵図になると1300年前の地形になります。清須(清洲)も津島も水っぽい地名ですが実際に昔は島だった。それも木曽川の氾濫で、長良川は西に押し出されて、沖積平野になります。秀吉の頃から尾張国側は堤防を高くして囲い込みます。前述の通り濃尾平野は巨大な造成地になった。
 愛西市教委の学芸員、石田泰弘さんは「東方からやってきた人たちが道中、尾張国と伊勢国を行き来する際、七里の渡しを使った記載があったのはわずか五十五点。最多は、同県清須市付近から甚目寺(同県あま市)を経て同県津島市に至る津島街道で、実に三百九十五点もあ」ったとして津島街道が主流だったことを明らかにされた。古代史と古絵図からの推移を見てもむべなるかな、と思います。4月ごろ、中区丸の内の事務所から津島神社(疫病退治の神様)までサイクリングして参拝しましたが緩やかな下り坂でした。往きは休まず走ったが帰りは喫茶店で一休みしました。
 こうしてたかが遺跡ではあるが、雑駁な知識が積り重なって、それはまるで地層のように、想像を膨らませることができるようになってきた。それと改めて再発見したのは西日本には陶器の産地が多いのに東日本にはほとんどない。これも弥生文化を考えるヒントになります。瀬戸市の猿投山山麓の赤津は有名ですが、なんでこんな山奥に津の地名があるのか不思議でした。しかし猿投神社の絵図には掲載されています。海に面していたのです。
 赤津、瀬戸市(陶器生産の本場)、日進市(陶土採取場がある)、東郷町(古窯がある)、常滑市(常滑焼がある)と陶土の地質が続いているそうです。これが海浜だったのか。

名古屋市も降雪2020年12月16日

 昨夜は大雪注意報まで出る天気だった。午後4時ごろか、買い物に出かけて出てくると雪交じりの雨というか霙になった。今夜は雪だな思った。後で天気予報で見ると予報通りだった。
 あちこちで雪の便りが届いた。今年は少し早めだという。スキー場経営も斜陽産業であるが、昨シーズンは散々だったが今シーズンは取り返してもらいたい。こっちも出かけたい。

スタッドレスタイヤ交換2020年12月17日

 16日は名古屋市でも降雪になった。見た目には霙に近い感じである。三日くらい前から12階にある住まいの窓から猿投山を眺めているが北の空が雪雲っぽい気がしていた。やっと冬らしくなった。
 昨日は午後からスタッドレスタイヤに交換作業を実施した。今春に買った油圧ジャッキがかなり楽をさせてくれた。まだ使い慣れていないが、車載のジャッキをアップ&戻すを4回繰り返すことを考えるとお金(アマゾンで約8000円弱)には代えられない。
 何分、ディーゼル3000ccの4WDのバンなので、タイヤも大きく重いし、ボルトも6本ある。冬でも汗をかいていたが今日は寒いこともあるが汗もかかず、さっさと終わった。後はタイヤのエアアップをするだけだ。
 今も窓から尾張北部が黒っぽい雲で覆われて来た。猿投山はすっぽり隠れた。雨雲レーダーを見ると若狭湾から伊吹山にかけて寒気が流れ込んできているみたいだ。いわゆる伊吹おろしである。
 夕方になってから桃山の湯というスーパー銭湯(平日500円、土日祝日550円)に行った。少し離れているが買い物ついでに行くにはいい場所である。時間帯もあってか、お客は少なめだった。Pはほぼ満車というのにどこへ行ってるのやら。朝風呂もあり、朝7:30~午前1:00まで営業する。ビールなどの飲食も提供されるのでバス、地下鉄で来られるといいが経路が複雑なので面倒だな。

丸の内事務所へ2020年12月18日

 午前中に事務所へ行く。またぞろ、コロナ禍が蔓延してきたので用心のためにマイカーで行く。三の丸に駐車。事務所ではまず暖房だ。寒いのでエアコンに加えて石油ストーブも点けるが、エアコンは老朽化で騒音が激しい。石油暖房が温まった段階で切る。
 少し来ない間にたまった会計事務、雑務を処理しておく。約束の時間帯に来客があり、書類を返却し、進捗度を確認した。内務が終わったので、外出ついでに固定資産税の支払い、銀行の通帳記入、預入と払出などを片付ける。
 栄から大須まで徒歩で行く。途中、名駅から大須北へ店舗移転の終わった駅前アルプスをのぞく。昔ながらの雰囲気演出のある店内にほっとした。山屋さん向けに先祖返りしたのかな。最近はスーパーの雑貨、衣料品売り場的な店づくりが多い。これで良いんじゃない。
 大須商店街に行く。マウスコンピューターの実店舗をのぞいた。ネットで見るよりも実物を見てみたいと思うからだ。実店舗だが意外に安い。店員と性能や価格について掛け合うのも楽しい。
 大須から栄行きのバスに乗る。栄で下車し、丸善書店に行く。気になった書物を物色した。3冊購入。喫茶店で一休みして事務所へ帰る。さてパソコンの購入とデータの移動など年末年始の仕事が決まってきた。来年はズームやネット対応の会議、研修に参加する体制を整えたい。

考古学者・森浩一の東海学の提唱2020年12月19日

 朝日遺跡に行った際にたくさんの知見を得た中に森 浩一「(もり こういち、1928年7月17日 - 2013年8月6日)は、日本の考古学者。」の提唱した東海学がある。氏は春日井シンポジュウムを主導し、たくさんのシンポを主宰し、成果は10冊以上の書籍にまとめられた。
 柳田国男はたくさんの著書を著し、柳田学から後には日本民俗学と呼ばれた。今西錦司は探検、登山での観察による知見を著書に著し、自然学を提唱した。民俗学の赤塚氏は「東北学(とうほくがく)は、民俗学者の赤坂憲雄が提唱した東北地方の、文化、地理、歴史、経済的な学際的総合研究の方法で、その呼称。」をまとめた。
 専門領域だけにとどまっていては分からないこともシンポで多面的な人材が参加することで全体像が明らかになる。今ここに考古学の成果を東海学という学問にまとめた事を知った。
 19日はそんな成果を見たくて直接春日井市立図書館に行った。郷土資料コーナーは膨大な書籍で埋まっている。そこにシリーズの書籍が並んでいた。欠本もあった。隣には春日井市内の古墳の発掘資料の冊子も並んでいた。森氏が春日井市に入れ込んだのは古墳があったせいかと思われた。
 森氏は今は亡く、蔵書は春日井市に寄贈され、中央公民館に森浩一文庫として整理されているらしい。一度は拝見して見たい。
 考古学は書斎や研究室にこもってなせる学問ではない。フィールドワークが重要である。縄文時代、弥生時代と来て、古墳時代がある。
 東海学という書名の本の目次を眺めてみて、関心のある東山道の項目だけを拾い読みしてみた。その中の地図で時代の変遷で街道がどう変わったかが図示されて興味深い。
 東海道は大阪から鈴鹿峠を越えて伊勢を北上し、熱田の渡しで名古屋に入る。愛知県からは主に遠州灘沿いに東進する。箱根越えはするがずっと南よりなので海道というわけだ。
 反対に山中を縫うようにあるから東山道というのである。海を見る街道から山を眺める街道である。
 1300年前の尾張国の絵図には一宮と清洲は島だった。昔は島伝いに古東山道があったはずである。津島辺りで熱田の渡しのある桑名へ南下し、東海道に合流したらしい。また関ヶ原方面の中山道にも分かれただろう。
 文化は辺境に残るというから今は神の神坂峠辺りが名残りとしてある。岐阜県側は車道でズタズタだが長野県側は少しは原型をとどめているだろう。地質学でいえば、神坂峠には古代の歴史(地層)の露頭が観られるのである。あそこは古代遺跡もあったはずである。

整理整頓2020年12月20日

 年末だからというわけではないが、少し雑然とした部屋の整理整頓を心掛けた。特に新聞は毎日律義に配達されるからどんどんたまる。重ねて結わえてまとめて出すというのは案外厄介である。
 メモの整理もスマホのスケジュール表に書き込むようになって減ってきたはずだが、ぼーっとしていると溜まる。やりたいこと、やらねばならないこと、などをパッパッと紙に書いておく。スマホだと整理してからでないと入力できない。一長一短はある。
 当面は
1 年賀状を買うこと、スタンプを押すこと、あて名書きすること、年末までに投函すること
2 山積した雑誌、書籍を読むこと、
3 パソコンを買うこと、現在のパソコンからデータを移行すること
4 原稿を書くこと(山岳会2件、俳句会)
5 1月の予定を立てること
6 業務用ブログを立ち上げること
7 12/22はスキーの談話会
  12/25までにスキー懇親会の会費送金
  12/27はゲレンデスキー
8 年初は登山と初詣のセットで出かけること
などあるある。雑用ばかりだ。