忘年山行1霊山を歩く ― 2019年11月30日
朝8時過ぎ、私、M野、K,M本、T、I島の6人が集結し、金山駅前を出発。9時過ぎ亀山PA着。ここでIさんとSさんに合流し8名になる。東名阪高速を出て名阪国道(R25)へ行く。快調に飛ばして伊賀(柘植)ICを出る。スマホのナビで地理勘もなく霊山寺へ導かれる。
霊山寺には数台の先行車が止まっていた。手軽なハイキングの山である。私たちも支度して出発。境内の長い階段を登ると本堂の横の大銀杏が黄金色に輝くような黄葉が素晴らしい。一度も吠えず老犬が見守ってくれる。登山道は左へ少し下った林道である。
林道の終点から杉の植林の中の登山道が始まる。というより参詣の道だろうか。200mごとに号数が増える。とにかく異口同音に寒いと訴える。中腹まで登ると温まり一枚脱ぐ。
中途には寺院遺跡のような名残りの名前がある。山頂直下には湿地帯もあったから夏は僅かでも湧水があるのだろう。山岳霊山が成立するには水源が大きな条件になる。
伊賀上野観光協会のHPには霊山寺は「創建は古く、霊山山頂(765.8m)には、平安時代〜江戸時代にかけての一大寺院跡(面積11,200m2)があります。奥之院には、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)(延宝3年〈1675年〉)を安置し、石造台座には永仁3年(1295年)5月10日の銘があります。
その後、霊山寺は現在のように霊山中腹に再興され、天台宗より黄檗(おうばく)宗に改宗されました。
本尊、十一面観世音菩薩は寄木造で、像高1.8m、江戸時代初期の作です。ほかに普賢(ふけん)菩薩や、平安時代の銅鏡が保管されています。」と約700年の歴史を誇る古刹である。
山頂へは雑木林に変わった辺りから緩やかに登り石段を登ると萱とのの平らな山頂だった。南西の隅っこに一等三角点が埋まっていた。経塚を中心に塁が築かれている。そこに腰を下ろして休む。寒いのでやることもなく早々に下山した。
本堂では俳句の投句箱があったので2句を即吟で投句しておいた。滋賀の大津市で4句、今日で2句と投句した。果たして結果は如何に。
ゲストハウス関ロッジに行くにはまだ時間が早いので芭蕉公園を散策した。芭蕉は韜晦したので生まれた家、場所も定かではないらしい。そこで上野市は生家を具体的に挙げ、ここ柘植町にも生誕地を訴えます。
観光資源になるほどの大物は違います。
案内板には
「俳聖松尾芭蕉翁は、1644(正保1)年に伊賀国柘植郷拝野の里(現在の三重県阿山郡伊賀町大字柘植町)松尾儀左衛門の二男として生まれました。翁を偲び毎年11月12日に松尾家の菩提寺である萬寿寺などにおいて、しぐれ忌が開催されます。また、伊賀町内には句碑や像の他に、生誕地の碑・生誕宅址碑等が建てられ、翁の遺徳を讃えています。」
園内には有名な
「古里や 臍のをに泣く としのくれ」
という、芭蕉が親不孝を詫びて詠んだ句碑が建っていました。旅の途中で訃報を聞いたにも関わらず死に目にも会えず、葬儀に来れなかった。兄からこれが母が大事に持って居たお前の臍の緒だと渡されて泣いたというのである。
その後、伊賀IC近くのレストランで蕎麦を食べて温まりました。そろそろ時間と関ロッジへ向かいました。このところ数年は常宿みたいになりました。自炊ながら風呂、布団もある立派なお宿です。
今日は新人2名も含めて15名もの盛会になりました。かつては旧人ばかりだったこともあり10名前後で推移してきました。もう1名の新人候補もいたのですがあいにく風邪でドタキャンになりました。鋤鍋を囲んで今年の反省や来年の抱負など語らいました。例年になく充実した忘年山行になりました。その一方では70歳代後半から80歳代の3名の古参会員の退会を聞かされたので喜びも半ばですが。
霊山寺には数台の先行車が止まっていた。手軽なハイキングの山である。私たちも支度して出発。境内の長い階段を登ると本堂の横の大銀杏が黄金色に輝くような黄葉が素晴らしい。一度も吠えず老犬が見守ってくれる。登山道は左へ少し下った林道である。
林道の終点から杉の植林の中の登山道が始まる。というより参詣の道だろうか。200mごとに号数が増える。とにかく異口同音に寒いと訴える。中腹まで登ると温まり一枚脱ぐ。
中途には寺院遺跡のような名残りの名前がある。山頂直下には湿地帯もあったから夏は僅かでも湧水があるのだろう。山岳霊山が成立するには水源が大きな条件になる。
伊賀上野観光協会のHPには霊山寺は「創建は古く、霊山山頂(765.8m)には、平安時代〜江戸時代にかけての一大寺院跡(面積11,200m2)があります。奥之院には、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)(延宝3年〈1675年〉)を安置し、石造台座には永仁3年(1295年)5月10日の銘があります。
その後、霊山寺は現在のように霊山中腹に再興され、天台宗より黄檗(おうばく)宗に改宗されました。
本尊、十一面観世音菩薩は寄木造で、像高1.8m、江戸時代初期の作です。ほかに普賢(ふけん)菩薩や、平安時代の銅鏡が保管されています。」と約700年の歴史を誇る古刹である。
山頂へは雑木林に変わった辺りから緩やかに登り石段を登ると萱とのの平らな山頂だった。南西の隅っこに一等三角点が埋まっていた。経塚を中心に塁が築かれている。そこに腰を下ろして休む。寒いのでやることもなく早々に下山した。
本堂では俳句の投句箱があったので2句を即吟で投句しておいた。滋賀の大津市で4句、今日で2句と投句した。果たして結果は如何に。
ゲストハウス関ロッジに行くにはまだ時間が早いので芭蕉公園を散策した。芭蕉は韜晦したので生まれた家、場所も定かではないらしい。そこで上野市は生家を具体的に挙げ、ここ柘植町にも生誕地を訴えます。
観光資源になるほどの大物は違います。
案内板には
「俳聖松尾芭蕉翁は、1644(正保1)年に伊賀国柘植郷拝野の里(現在の三重県阿山郡伊賀町大字柘植町)松尾儀左衛門の二男として生まれました。翁を偲び毎年11月12日に松尾家の菩提寺である萬寿寺などにおいて、しぐれ忌が開催されます。また、伊賀町内には句碑や像の他に、生誕地の碑・生誕宅址碑等が建てられ、翁の遺徳を讃えています。」
園内には有名な
「古里や 臍のをに泣く としのくれ」
という、芭蕉が親不孝を詫びて詠んだ句碑が建っていました。旅の途中で訃報を聞いたにも関わらず死に目にも会えず、葬儀に来れなかった。兄からこれが母が大事に持って居たお前の臍の緒だと渡されて泣いたというのである。
その後、伊賀IC近くのレストランで蕎麦を食べて温まりました。そろそろ時間と関ロッジへ向かいました。このところ数年は常宿みたいになりました。自炊ながら風呂、布団もある立派なお宿です。
今日は新人2名も含めて15名もの盛会になりました。かつては旧人ばかりだったこともあり10名前後で推移してきました。もう1名の新人候補もいたのですがあいにく風邪でドタキャンになりました。鋤鍋を囲んで今年の反省や来年の抱負など語らいました。例年になく充実した忘年山行になりました。その一方では70歳代後半から80歳代の3名の古参会員の退会を聞かされたので喜びも半ばですが。
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