秋の雨 ― 2009年10月02日
秋は晴天のイメージがあるが意外にも雨は多い。10/1は蒸し暑い1日であったが今日は雨となった。明日も雨の予報である。日曜日が晴れるので登山日和を願いたい。
9/30で勤務も終り、定年までは有休休暇の消化となる。やることは一杯あるが何も片付きそうにない。今日はとりあえずどこかへしまい込んでいたダッチオーブンを探し出した。記憶では大きなもの、重いものであるが意外にコンパクトな箱に収納していた。
最近閉店したIBS石井で物色中に衝動買いしたものである。購入価格は当時は6000円程度であるが今はHPで見ると10000円近い。改良も何もないのに価格は上がるのはご時勢であろう。シーズニングをやっておいたお陰で錆びずに済んだ。あのときも丸鳥を1回蒸し焼きにして賞味した。味付けしなくとも美味しいものである。
忘年山行あたりでこいつを使って何か特製料理を考えた。スーパーで丸鳥を探したが480円のブラジル産の冷凍品が見つかった。これでまづはまた蒸し焼きでも作ろう。次は虹鱒が5尾で380円と安いので買った。腸を抜いてこれも塩焼きを基本にカレー味の蒸し焼き、バター焼などが楽しめる。
日曜日はキノコ狩りに誘われた。飛騨山中の一角に持ち山があるというが手入はなく藪だからサポートの依頼である。しかし、藪山にキノコは生えない気もする。落葉樹が多い山ということを信じていってみるか。図鑑持参で行くべきかな。採れればキノコご飯が楽しめる。
ダッチオーブンを探す過程で様々な不用品、未使用品、未開封の贈答品が見つかった。これを処分して行こう。膨大な書籍はまだ未練があるが衣類はどうしようもない。リサイクルか捨てるしかない。サラリーマン時代に駆け抜けてきたツケを払いながら少しづつ老後と向き合うことになろう。
キッチンから美味そうな匂いが漂い始めた。今夜はこれで一杯やろう。
秋雨やダッチオーブン探し居り 拙作
9/30で勤務も終り、定年までは有休休暇の消化となる。やることは一杯あるが何も片付きそうにない。今日はとりあえずどこかへしまい込んでいたダッチオーブンを探し出した。記憶では大きなもの、重いものであるが意外にコンパクトな箱に収納していた。
最近閉店したIBS石井で物色中に衝動買いしたものである。購入価格は当時は6000円程度であるが今はHPで見ると10000円近い。改良も何もないのに価格は上がるのはご時勢であろう。シーズニングをやっておいたお陰で錆びずに済んだ。あのときも丸鳥を1回蒸し焼きにして賞味した。味付けしなくとも美味しいものである。
忘年山行あたりでこいつを使って何か特製料理を考えた。スーパーで丸鳥を探したが480円のブラジル産の冷凍品が見つかった。これでまづはまた蒸し焼きでも作ろう。次は虹鱒が5尾で380円と安いので買った。腸を抜いてこれも塩焼きを基本にカレー味の蒸し焼き、バター焼などが楽しめる。
日曜日はキノコ狩りに誘われた。飛騨山中の一角に持ち山があるというが手入はなく藪だからサポートの依頼である。しかし、藪山にキノコは生えない気もする。落葉樹が多い山ということを信じていってみるか。図鑑持参で行くべきかな。採れればキノコご飯が楽しめる。
ダッチオーブンを探す過程で様々な不用品、未使用品、未開封の贈答品が見つかった。これを処分して行こう。膨大な書籍はまだ未練があるが衣類はどうしようもない。リサイクルか捨てるしかない。サラリーマン時代に駆け抜けてきたツケを払いながら少しづつ老後と向き合うことになろう。
キッチンから美味そうな匂いが漂い始めた。今夜はこれで一杯やろう。
秋雨やダッチオーブン探し居り 拙作
ポタリング ― 2009年10月03日
今日は少し雨が残ると思われたが案に相違して良く晴れたし暑くもあった。午後は久々にポタリングに出かけた。自転車を新調したものの盗難を恐れて屋内に保管するばかりであった。
最近は余り行かない喫茶店に入って新聞各紙、週刊誌などをまとめて読んだ。行く途中、レストランから転業したインターネット喫茶が廃業していた。かと思えば天然にこだわった喫茶店が開業しお客を集めている。入った喫茶店も18時には閉店する堅気の店に変わった。近くに事務所やターミナルなどが無ければ集客力に限界があり、食事も出さず、人件費のかさむ夜間の営業は止めたのかな。純喫茶ここにありの気概を感じる。
店を出て天白川両岸にあるサイクリングロードを走る。以前はなかった人道橋があり平成9年の建設と知ってホントにしばらく来なかったと思う。島田橋の橋脚下のブルーシートの住民は拡張したらしくベランダ風の園芸までやっている。恐怖の洪水は無かったと見える。想像だが家賃なし、地代なし、借金なし、納税なし、究極のお気楽人生。厭世観の強かった荷風先生もここまでは徹底できなかった。
交差点に迂回して音聞橋まではしる。以前お世話になっていたM歯科医院は廃院と知ってショックだった。玄関周りはまだ人の住んでいる気配があったのに今は植栽にも雑草が侵入して廃屋に見える。張り紙を見ると院長は急病とあった。Pは外車が数台置いてあり明らかに人手に渡ったものと感じた。10年前20年前はここしかなく、良く流行っていた頃を知る者には寂しい風景である。今は通勤圏内に6軒以上ある。病気で倒れて淘汰されるなんて医業も楽じゃない。
もう一走りしてDVD1本100円のメールが来たレンタル店で物色するが気乗りせず帰宅。明日以降の山の準備に地図などをチエックする。
松茸の具のおにぎりを購ひぬ 拙作
最近は余り行かない喫茶店に入って新聞各紙、週刊誌などをまとめて読んだ。行く途中、レストランから転業したインターネット喫茶が廃業していた。かと思えば天然にこだわった喫茶店が開業しお客を集めている。入った喫茶店も18時には閉店する堅気の店に変わった。近くに事務所やターミナルなどが無ければ集客力に限界があり、食事も出さず、人件費のかさむ夜間の営業は止めたのかな。純喫茶ここにありの気概を感じる。
店を出て天白川両岸にあるサイクリングロードを走る。以前はなかった人道橋があり平成9年の建設と知ってホントにしばらく来なかったと思う。島田橋の橋脚下のブルーシートの住民は拡張したらしくベランダ風の園芸までやっている。恐怖の洪水は無かったと見える。想像だが家賃なし、地代なし、借金なし、納税なし、究極のお気楽人生。厭世観の強かった荷風先生もここまでは徹底できなかった。
交差点に迂回して音聞橋まではしる。以前お世話になっていたM歯科医院は廃院と知ってショックだった。玄関周りはまだ人の住んでいる気配があったのに今は植栽にも雑草が侵入して廃屋に見える。張り紙を見ると院長は急病とあった。Pは外車が数台置いてあり明らかに人手に渡ったものと感じた。10年前20年前はここしかなく、良く流行っていた頃を知る者には寂しい風景である。今は通勤圏内に6軒以上ある。病気で倒れて淘汰されるなんて医業も楽じゃない。
もう一走りしてDVD1本100円のメールが来たレンタル店で物色するが気乗りせず帰宅。明日以降の山の準備に地図などをチエックする。
松茸の具のおにぎりを購ひぬ 拙作
飛騨・滝ヶ洞山を歩く ― 2009年10月04日
午前5時半過ぎ、同行のHさんが来た。東海北陸道・飛騨清見ICを出たのは8時過ぎであった。ICの近くで午前5時頃から待っていたU氏と合流。まずはU氏の持ち山の探索に行く。何でも仲間内で山林を買ったらしいが一向に手入もしないで放置しておいたそうで林道は藪が茂り、山の植生も育ちの悪い2次林であった。これではキノコも生える隙間がない。区分外の山の尾根に登り、持ち山を遠望。沢筋よりも尾根筋の方が近づきやすいことが分かった。
尾根を下りつつ、キノコ狩りする。「ねずみたけ」が見つかった。子供の頃に採ったかすかな記憶だけである。ホウキタケが正式名で「ねずみたけ」はICの近くの食堂のおばちゃんに教えもらった名前。もちろん食用。他に「ほこりたけ」も見つけるがこれはX。後怪しいのが1個見つかる。おばちゃんの選定眼では食用?。
素人キノコ狩りは午前中に完了。食堂で食事後、U氏と別れ、滝ヶ洞山に向った。R158から小鳥峠に向かい、右側の林道入口を探す。何箇所かあるので分り辛い。一旦は地形図で一番はっきりした林道まで行く。そこからUターンして徐行で清見ICへ下りつつ行くと地味ながら見つかった。傍らの地図にも滝ヶ洞の名前が入っていた。チエーンで閉鎖されているので車を置いて12時35分出発。傾斜の余りない林道をドンドン登る。右へ別れるが出合いが早すぎるのでパスする。(これが計画のコースの林道だった。そして地図の最初の分岐は不明なまま)
ほぼ直線に登るので折々地形図でチエックしたがもう分岐はないので登り切ってしまおうとコース変更。途切れそうになりながらもかなり高い所まで続いて不安になり適度な尾根を試しに直登してみた。樹林の隙間から背後に三角錐の滝ヶ洞らしいのが見える。このまま登るとどうも1233m標高点に行きそうだ。稜線でつなぐ案も浮ぶが下って登り返した。
尾根の取り付きに戻ってしばらく廃道となった不安定な林道を歩くが平坦な所で終点になる。近くに青空も見えて稜線はすぐに見える。傾斜のきついボサ尾根を登ると果たして山頂との吊り尾根のピークに着いた。もうすぐ目の前である。ここからはボサを除けながら東峰を経て三角点のある西峰に14時40分に登頂。1233mへの試登がなければ1時間半程度か。
古い山頂標が一枚あるだけの質素な山頂に満足。但し樹林が茂って眺望はない。落葉期ならいいだろう。少し西に寄ると猪臥山、漆洞がよく見えた。角度を変えると槍穂高連峰、笠ヶ岳などの北アの山も見える。休憩後15時に東峰に突き上げる尾根を下降。途中では白山らしい山も見えた。ひどいボサをしのぎながら下ると林道へ降りた。左へ下ると地形図の林道と合流し、登りにとった林道とも合流した。
行き過ぎた林道を登って結果オーライであった。ボサのない林道は結果的に早く高度を稼ぐ。回り道のようだがこれで良かったのである。因みに下山は1時間ジャスト。
まあどうと言うこともないボサ山でしたが気になっていた一山ではある。
尾根を下りつつ、キノコ狩りする。「ねずみたけ」が見つかった。子供の頃に採ったかすかな記憶だけである。ホウキタケが正式名で「ねずみたけ」はICの近くの食堂のおばちゃんに教えもらった名前。もちろん食用。他に「ほこりたけ」も見つけるがこれはX。後怪しいのが1個見つかる。おばちゃんの選定眼では食用?。
素人キノコ狩りは午前中に完了。食堂で食事後、U氏と別れ、滝ヶ洞山に向った。R158から小鳥峠に向かい、右側の林道入口を探す。何箇所かあるので分り辛い。一旦は地形図で一番はっきりした林道まで行く。そこからUターンして徐行で清見ICへ下りつつ行くと地味ながら見つかった。傍らの地図にも滝ヶ洞の名前が入っていた。チエーンで閉鎖されているので車を置いて12時35分出発。傾斜の余りない林道をドンドン登る。右へ別れるが出合いが早すぎるのでパスする。(これが計画のコースの林道だった。そして地図の最初の分岐は不明なまま)
ほぼ直線に登るので折々地形図でチエックしたがもう分岐はないので登り切ってしまおうとコース変更。途切れそうになりながらもかなり高い所まで続いて不安になり適度な尾根を試しに直登してみた。樹林の隙間から背後に三角錐の滝ヶ洞らしいのが見える。このまま登るとどうも1233m標高点に行きそうだ。稜線でつなぐ案も浮ぶが下って登り返した。
尾根の取り付きに戻ってしばらく廃道となった不安定な林道を歩くが平坦な所で終点になる。近くに青空も見えて稜線はすぐに見える。傾斜のきついボサ尾根を登ると果たして山頂との吊り尾根のピークに着いた。もうすぐ目の前である。ここからはボサを除けながら東峰を経て三角点のある西峰に14時40分に登頂。1233mへの試登がなければ1時間半程度か。
古い山頂標が一枚あるだけの質素な山頂に満足。但し樹林が茂って眺望はない。落葉期ならいいだろう。少し西に寄ると猪臥山、漆洞がよく見えた。角度を変えると槍穂高連峰、笠ヶ岳などの北アの山も見える。休憩後15時に東峰に突き上げる尾根を下降。途中では白山らしい山も見えた。ひどいボサをしのぎながら下ると林道へ降りた。左へ下ると地形図の林道と合流し、登りにとった林道とも合流した。
行き過ぎた林道を登って結果オーライであった。ボサのない林道は結果的に早く高度を稼ぐ。回り道のようだがこれで良かったのである。因みに下山は1時間ジャスト。
まあどうと言うこともないボサ山でしたが気になっていた一山ではある。
『東海・北陸の200秀山』いよいよ発刊へ ― 2009年10月06日
名古屋の中日新聞社からまもなく刊行。日本山岳会東海支部の会員約80名以上がこの1年間余り、力を合わせて取材、執筆、撮影、調査を行い10/23上梓する。
『東海・北陸の200秀山』の東海北陸編と東海信州編の同時発売。各1800円。東海北陸編は奥美濃から飛騨一円、若狭から白山周辺の北陸をカバーした。東海信州編は南は三重県熊野市辺りから北は安曇野を眺める信州の中南部から選定。西は鈴鹿、東は伊豆半島までをカバーした。北アルプスの常念岳、南アルプスの塩見岳、中央アルプスの主要山岳を網羅した。
中には天狗岩、からたきの峰、高三郎山、奈良岳、奥三方山、大笠山大洞山など東海では余り馴染みのない中級山岳も含まれて好事家も満足の行く内容となっている。
200座を謳うが実際には縦走で踏む山頂を含めると220座を超えるので日帰りや1泊山行なら当面は間にあうだろう。
書店には10/23に置かれる運びとなっているが中日新聞社のサイトではすでに注文を受け付けし始めた。
http://www.chunichi.co.jp/nbook/shoseki/chu2009102301.html
『東海・北陸の200秀山』の東海北陸編と東海信州編の同時発売。各1800円。東海北陸編は奥美濃から飛騨一円、若狭から白山周辺の北陸をカバーした。東海信州編は南は三重県熊野市辺りから北は安曇野を眺める信州の中南部から選定。西は鈴鹿、東は伊豆半島までをカバーした。北アルプスの常念岳、南アルプスの塩見岳、中央アルプスの主要山岳を網羅した。
中には天狗岩、からたきの峰、高三郎山、奈良岳、奥三方山、大笠山大洞山など東海では余り馴染みのない中級山岳も含まれて好事家も満足の行く内容となっている。
200座を謳うが実際には縦走で踏む山頂を含めると220座を超えるので日帰りや1泊山行なら当面は間にあうだろう。
書店には10/23に置かれる運びとなっているが中日新聞社のサイトではすでに注文を受け付けし始めた。
http://www.chunichi.co.jp/nbook/shoseki/chu2009102301.html
台風 ― 2009年10月07日
台風の雨ベランダへ吹き降りに
行く山を地図に照らすや秋の夜
早生ミカン酸っぱし是ぞ秋の味
銀杏を無心に拾ふ老婆かな
名月や飛騨美濃なべて山の国
飛騨の山あら珍しきねずみたけ
台風18号知多半島に上陸 ― 2009年10月08日
飛騨の山歩き 4座 ― 2009年10月12日
10/10 福地山1671.7m
10/10から10/12はGW,SWに続いてブロンズウィークというらしい。金、銀、銅の順である。銅の英語はコッパーであるがオリンピックで渡す銅メダルは青銅だという。だからブロンズになるというのだ。
BWの初日はKさん宅を午前6時に出発する。目的地は飛騨の山。朝発では現地着は遅いので先ず福地山を登る。北アルプスの展望が売り物の山で登山道は近年の開削らしい。
9:50に朝市のPから出発。古い案内板にしたがって歩き出す。最初は杉林をジグザグに登るが次第に雑木林に変わる。黄葉にはまだ早い。早くも汗が出てくるので調節のためにシャツ1枚になる。ジグザグを繰り返しながら高度を上げると焼岳2393mが見えてきた。山腹から白い噴煙を出している。穂高は厚い雲が閉ざすので遠望は効かず。笠ヶ岳ももちろん雲が閉ざす。山頂には沢山のハイカーが到着して食事中であった。一応は三角点にあいさつするが先行者の食事の飯台代わりに使われていた。山頂から高原川の付近にきれいな虹が浮んだ。しかし、ダイナミックな展望なくしてはただ登っただけの福地山である。
同行者は山栗を拾いながら下ったので大変遅かった。明日の登山に備えてテント場を探したが適地は得られないので止むを得ず、国道から隠れた空き地で一夜を過ごす。
10/11 安房山2219.4m
朝4時30分起床。手早く朝食をとり、現地を出る。平湯に戻る。R158から安房峠(1790m)を目指す。一度はバスで越えた気がするがもう記憶はない。黄葉には早いが最盛期は素晴らしいだろう。安房峠へは道も急に細くなる。峠を6:40に出発。巨大な円筒形の建物のための歩道を歩く。カメラマンがシャッターチャンスを待機中であった。
施設を過ぎると途端に山道になるが登山者向きの登山道ではないので荒れた感じである。斜面を横切ると尾根を忠実に辿る道を攀じ登る感じだ。縄梯子、トラロープのフィックスなどに頼りながらたちまち高度が上がる。ササヤブの切れ目からは目前の焼岳2393m(△2455.4m)、白谷山2188m、アカンダナ山2109.4m、槍、穂高連峰(西穂から奥穂、前穂と連なる)、霞沢岳2645.6mなどが居並ぶ。地形図のイメージどおりに登る。約1時間30分。意外に短時間であった。笹に囲まれた山頂は三角点はあるが見晴らしは今一なので山上の携帯電話の中継施設への踏み跡を辿る。何の施設なのか外部からは一向に分らない。但し、霞沢岳と西穂2908.6mに囲まれた上高地が穂高連峰とバランスよく配置された景観は絶景である。
W・ウェストン『日本アルプス 登山と探検』(平凡社ライブラリ)の第五章で平湯から槍ヶ岳に登山のため旧の安房峠(本には1920mとあるが現在の地形図では2010m)を登下降する際に「中部日本で一番よい眺め」「美しいぼかし絵」が現れたと絶賛したあの風景と殆ど変わらないはずである。何枚も撮影した。それくらい美しい。雪を頂けば更に美しいだろう。彼らは安房山と十石山2524.8mの鞍部を越えたのである。踏み跡は施設で終っており、旧安房峠への踏み跡はなかった。私たちは往路をくだった。峠には沢山のマイカーが止まり、写真撮影に余念がなかった。
10/11 キラズ山 1187.8m
安房山を下山してもまだ時間が余る。明日は漆山岳であるが林道や登山道の情報は不明なのでもう一山今日中にやれそうな山座を選定しておいた。即座にヒットしたのは対岸のキラズ山である。『ぎふ百山』と『続・ぎふ百山』には収録されず、『飛騨の百山』『越中の百山』には収録された山である。
飛越国境で飛騨の最西端という。事前にネットで調べたが現地の登山口が分かりにくい。R41から宮川と高原川が合流する手前を急角度で右折して東猪谷に渡る。まず舟渡で里に建っている大きな案内地図を見るが分らず、草刈の人に聞く。すると舟渡からとか小糸からとか不明瞭な説明であった。舟渡で老婦人に問うと小糸のヤマモトさんちの家を曲がるとか具体的であるがヤマモトちが分らない。とにかく行ってみると三叉路があり、右折する。あとは車道から林道を高みを目指して走った。
結局林道は631の独立標高点を峠にして下るのみとなり、(広い地形図がないので吉野へ下ることが分からない)631を戻って行く途中、前方に登る枝道と直感。車を置いて長い林道を40分歩き、ネットで見たキラズ山登山口の道標まで来た。ここで後続を待ってまだ走るように登った。刈り払われて歩きやすい。杉林が山頂直下のブナ林まで続いていた。キラズは不伐の意味であるが今は人工林の山である。ブナ林は小規模だがないよりはいい。垂れ下がるロープで引き上げる用にピッチを高めて約35分で着いた。
三角点の周囲は切り払われて富山湾の方面に眺望が得られた。北への刈り払いもあるので入って見たがどこまでも続く別の道のようである。戻って同行者を待ったが約1時間掛けてのんびり登って来た。下山も飛ばすように下ったが30分と登りと違わない。林道をわき目もせずに歩く。突然カモシカが前に現れて驚いた。5分くらい睨めっこしながら道を譲ってくれるのを待った。下の方へのっそり下って行った。
そこからはほどなくで車に着く。10分後彼らも着いた。今夜のテント場は先程通過した631の空き地に決めた。もう午後4時を過ぎていたからだった。空き地からも富山湾が見下ろせたし、夜は星座も見えた。明日も天気は良さそうだ。
10/12 漆山岳 1393.3m
午前4時30分起床。すぐさま朝食の用意、片付けとやって6時過ぎには出られた。再び小糸、舟渡を通り、対岸のR41へ戻る。すぐに急なカーブで神岡町中山からソンボ谷林道を走る。入口で工事通行止めのバリアがあったが簡単に通過。狭い林道をゆっくり走ると看板どおり工事でUターンして止めた。法面のの増強工事で10/28までの工期であった。
今日は休日でも祭日は工事をやるので隅っこにきっちり止めた。7:10林道を歩き出すが周囲は自然林ばかりで何のための林道かと疑う。谷の相も美しい。台風直後で増水して水がきれいである。
いくつかの橋を渡ると水無谷橋の分岐である。ここから尾根を行くか、左折してしばらく林道を歩いてから尾根に取り付くか思案の為所であるが尾根に惹かれる気がして様子見に入る。8:10最初は杉林であるが尾根の取り付きに赤テープがありそれに引かれていくが途中でなくなる。但し、ぶなの原生林が続いて見事なので登って行くと踏み跡らしいものが続くのでこのまま続行した。
ブナの原生林の疎林の中のヤブは大したことはない。熊を警戒して笛を吹きながらの登行を続ける。すると突然、10mくらい先を黒い獣が横切り、こちらを見ている。カモシカか、いや熊だった。身の毛がよだつような恐怖感に襲われ、後続に向って「熊だ」と叫んだ。離れていたので聞こえなかったようだ。熊は杉の植採地へ逃げた。
そんなこともあってあまりはなれずに登った。そのうち、ブナの大木の陰で熊の糞が見つかったと叫んでいる。白っぽいが大きくて正しく熊の糞だった。
原生林は別の尾根との合流地で絶えて小ぶりになった。自然林も細くなり、カラマツとの混淆林に変化した。そんな植生が続いた。あの感動は長くは続かず、段々ヤブがひどくなるばかりとなった。90度直角に曲がり、尾根の凹凸がなくなり、1307mの独標に吸収されていく過程ではヤブの密生に泣かされた。Kさんは赤布の間隔を短めにして対応した。すべては下山のためである。
1307mへはヤブの密生をかき分けて到達した。すると山頂につながる尾根上は杉の植採地となっている。お陰で密度の濃いヤブからは解放された。しかいs、そうは簡単には登らせてもらえなかった。地形図で1360mの等高線に到達したばかりの場所からはこれから行く山頂から右に派生する尾根が随分遠くに見える。距離にして約500mはある。標高差も約40m以内となり、射程距離に入ったのであるが距離があった。往復約1時間半はかかる。すると14時半となる。15時頃、ヤブの密生地帯を順調に下ればいいが迷うと大変だ。Kさんらと相談して時間切れの撤退を話す。12:33承知を得て残念ながら下山した。赤布を回収しながらかなり早く水無谷橋へ2時間30分で下る。赤布の威力である。
後は坦々と林道を戻る。工事現場は予想通り仕事中であった。大型ダンプが来て土砂を運んでくる。隅っこに寄せて置いてよかった。R41に出て割石温泉で汚れを落とし名古屋に帰った。
俳句 飛騨の秋 ― 2009年10月13日
「岳人」11月号(NO749)を読む ― 2009年10月16日
今月号の第一特集は「山にひそむ危険」。これまでの山岳雑誌は特に冬山でも晴れた美しい雪山の写真をクローズアップして登山に誘う傾向があった。現実の冬山は荒天続きと思うのだが。そして実際に気象が急変すると四季を通じて山岳遭難が多発した。山岳雑誌が招く遭難もあり、と思う。商業誌の記事を鵜呑みにしてはいけない。
それが一転して登山の危険を前面に打ち出すことに転換したのは編集子に中高年層の山岳遭難の多発傾向に歯止めを掛けたい思いがあるからだろう。自己責任で突き放すのも常識であるが商業誌としての贖罪意識もあろう。読み進むと単なる山の危険への警鐘と指導でなく”防衛登山の勧め”が意図として見える。
中でも身近な”鈴鹿山行から学ぶ”や併行してコラムで”自然にまつわる危険”がベテラン登山家・高桑信一から発せられる記事は薀蓄が深い。思わず膝を叩いたのは”積極的なビバークのすすめ いざとなったら眠っちゃえ”が特筆される。8月に亡くなった私の大先輩のMさんは自らツエルトを常に携え、「幕営学博士」を自称してたほどで手慣れたものだった。
昨年の秋も昨今のベテラン登山者の高齢化で思わぬ遭難死にショックを受けてリーダー級の人らに踏み跡程度の藪山登山と赤谷でツエルトビバークの講習の機会を持ったばかりであった。そこで焚火の実践と持ってはいるが使ったことがないツエルトを張って一晩を過ごしてもらった。殆ど廃道になった登山道では赤布を結び、地形図とコンパスの限界を知り、記憶や経験に頼らないで藪山登山の実践を通して山の危険を学んでもらった。座学と2日間の講習で言ったことはそれこそサバイバル登山家・服部文祥のいうように”無理して下山するな!適地でビバークしちゃお”ということであった。
折りしもこの時節は日没で下山できず、という遭難或いは遭難騒ぎが多い。それに狙いを定めたわけでもあるまいが心ある人は購入し良く読んで実践するといい。
他には和田城志の「剣沢幻視行」が面白かった。この秋に溯行した黒部川を厳冬に渡渉している。しかも同年齢ということに驚く。あんな場所に冬に入山する人がいるのである。登山のスキルとレベルの違いというよりは志の高さの違いに敬意さえ抱く。
「越後の紅葉登山に外れなし」と先輩がいうが浅草岳の秋の紅葉も素晴らしい。去年の春にスキーで喘いだ浅草岳と初めて登った5年前も春スキーを楽しんだ鬼ヶ面山も全く違う山に思える。季節を変えて行きたい気がする。
上田茂春の「山書つれづれ」では小島烏水の『山水無尽蔵』が」紹介されている。明治35年、小島は岡野金次郎と槍ヶ岳登山を目指す。そのルートは霞沢を溯行して霞沢岳に登ってから上高地に下って槍に向ったという。槍の登山は果たしたが実は明治25年にW・ウェストンらは平湯から安房峠を越えて徳本峠を経て上高地入りし、槍ヶ岳登山を果たしている。
そのことを知るのは岡野が勤めていたスタンダード石油で偶然に見た『日本アルプス 登山と探検』(明治29年)の原書であった。その中の槍の写真を見て驚き、著者のW・ウェストンに近づいていく。苦労して登った槍を彼はもう10年も前に楽なルートから登っていたのだった。情報収集力の違いに愕然とした。これが機縁となって明治38年の山岳会創立につながっていく。日本近代登山史の記念碑的な本なのである。この件は同じ日本山書の会の水野勉が平凡社ライブラリー版『日本アルプス登山と探検』の解説に詳述している。
それが一転して登山の危険を前面に打ち出すことに転換したのは編集子に中高年層の山岳遭難の多発傾向に歯止めを掛けたい思いがあるからだろう。自己責任で突き放すのも常識であるが商業誌としての贖罪意識もあろう。読み進むと単なる山の危険への警鐘と指導でなく”防衛登山の勧め”が意図として見える。
中でも身近な”鈴鹿山行から学ぶ”や併行してコラムで”自然にまつわる危険”がベテラン登山家・高桑信一から発せられる記事は薀蓄が深い。思わず膝を叩いたのは”積極的なビバークのすすめ いざとなったら眠っちゃえ”が特筆される。8月に亡くなった私の大先輩のMさんは自らツエルトを常に携え、「幕営学博士」を自称してたほどで手慣れたものだった。
昨年の秋も昨今のベテラン登山者の高齢化で思わぬ遭難死にショックを受けてリーダー級の人らに踏み跡程度の藪山登山と赤谷でツエルトビバークの講習の機会を持ったばかりであった。そこで焚火の実践と持ってはいるが使ったことがないツエルトを張って一晩を過ごしてもらった。殆ど廃道になった登山道では赤布を結び、地形図とコンパスの限界を知り、記憶や経験に頼らないで藪山登山の実践を通して山の危険を学んでもらった。座学と2日間の講習で言ったことはそれこそサバイバル登山家・服部文祥のいうように”無理して下山するな!適地でビバークしちゃお”ということであった。
折りしもこの時節は日没で下山できず、という遭難或いは遭難騒ぎが多い。それに狙いを定めたわけでもあるまいが心ある人は購入し良く読んで実践するといい。
他には和田城志の「剣沢幻視行」が面白かった。この秋に溯行した黒部川を厳冬に渡渉している。しかも同年齢ということに驚く。あんな場所に冬に入山する人がいるのである。登山のスキルとレベルの違いというよりは志の高さの違いに敬意さえ抱く。
「越後の紅葉登山に外れなし」と先輩がいうが浅草岳の秋の紅葉も素晴らしい。去年の春にスキーで喘いだ浅草岳と初めて登った5年前も春スキーを楽しんだ鬼ヶ面山も全く違う山に思える。季節を変えて行きたい気がする。
上田茂春の「山書つれづれ」では小島烏水の『山水無尽蔵』が」紹介されている。明治35年、小島は岡野金次郎と槍ヶ岳登山を目指す。そのルートは霞沢を溯行して霞沢岳に登ってから上高地に下って槍に向ったという。槍の登山は果たしたが実は明治25年にW・ウェストンらは平湯から安房峠を越えて徳本峠を経て上高地入りし、槍ヶ岳登山を果たしている。
そのことを知るのは岡野が勤めていたスタンダード石油で偶然に見た『日本アルプス 登山と探検』(明治29年)の原書であった。その中の槍の写真を見て驚き、著者のW・ウェストンに近づいていく。苦労して登った槍を彼はもう10年も前に楽なルートから登っていたのだった。情報収集力の違いに愕然とした。これが機縁となって明治38年の山岳会創立につながっていく。日本近代登山史の記念碑的な本なのである。この件は同じ日本山書の会の水野勉が平凡社ライブラリー版『日本アルプス登山と探検』の解説に詳述している。
第50回木暮祭に参加 ― 2009年10月18日
日本山岳会山梨支部などが主催した第50回木暮祭に参加した。10/16の夜発、中央道の諏訪湖SAで仮眠後、10/17横尾山を登山してから会場入りの予定であったがあいにく空は曇りであった。八と南アなどの展望がウリの山なのでピークハントだけの登山は中止。しかし、地図を持たなかったので晴れている長野県佐久地方の山の登山口を確認しただけで終った。
会場入りしてその日は前夜祭で昭和34年に行われた第1回木暮祭の模様を撮影した8m/mフィルムの映写会があった。フィルムが劣化し、映写機もだめなのでメーカーに持ち込んでDVD化してもらったという。つまり50年前の映像が甦ったのである。
金山平の今は白樺林であるが当時は何もない平であった。鉱山ということで伐採されて2次林もなかった。廃鉱になり、荒地には真っ先に樺類が生えるという植生どおり、白樺が美しい林になっている。その代わり木暮さんが好きだった金峰山が今は見えなくなっている。
他に木暮家の子孫や群馬県からの招待者の講話などがあった。
10/18は瑞牆山のカンマンボロンという岩場にガイドしてもらった。カンマンボロンとは大日如来という意味らしい。自然石に梵字のように見える窪みが信仰の対象となっているとか。但し、祠などはない。修験者がいたことを示すものもないようだ。巨岩信仰の一面であろうか。この地方は今は北杜市であるが昔は北巨摩郡であった。コマは高麗に由来する説もある。日本の中の朝鮮文化の臭いがする。
山頂には立たず、下山後は金山平で甲斐名物のほうとうをいただく。白味噌仕立てで野菜、キノコなどをたっぷり入れて煮込む。きしめんに良く似た食べ物であった。
その後は碑前祭であった。関係者のあいさつ後花一輪を手向けた。昭和19年に死去、65年経過した今も慕われる。奥秩父の父といわれたが地域研究の嚆矢でもある。昭和10年に会長となって9年も継続したのは木暮さんただ一人だった。「山が好きだから登る。」という哲学の持ち主。
そして午後2時解散となった。快晴であったが今からではもう一座もやれず増富温泉で一浴後はおとなしく帰った。
会場入りしてその日は前夜祭で昭和34年に行われた第1回木暮祭の模様を撮影した8m/mフィルムの映写会があった。フィルムが劣化し、映写機もだめなのでメーカーに持ち込んでDVD化してもらったという。つまり50年前の映像が甦ったのである。
金山平の今は白樺林であるが当時は何もない平であった。鉱山ということで伐採されて2次林もなかった。廃鉱になり、荒地には真っ先に樺類が生えるという植生どおり、白樺が美しい林になっている。その代わり木暮さんが好きだった金峰山が今は見えなくなっている。
他に木暮家の子孫や群馬県からの招待者の講話などがあった。
10/18は瑞牆山のカンマンボロンという岩場にガイドしてもらった。カンマンボロンとは大日如来という意味らしい。自然石に梵字のように見える窪みが信仰の対象となっているとか。但し、祠などはない。修験者がいたことを示すものもないようだ。巨岩信仰の一面であろうか。この地方は今は北杜市であるが昔は北巨摩郡であった。コマは高麗に由来する説もある。日本の中の朝鮮文化の臭いがする。
山頂には立たず、下山後は金山平で甲斐名物のほうとうをいただく。白味噌仕立てで野菜、キノコなどをたっぷり入れて煮込む。きしめんに良く似た食べ物であった。
その後は碑前祭であった。関係者のあいさつ後花一輪を手向けた。昭和19年に死去、65年経過した今も慕われる。奥秩父の父といわれたが地域研究の嚆矢でもある。昭和10年に会長となって9年も継続したのは木暮さんただ一人だった。「山が好きだから登る。」という哲学の持ち主。
そして午後2時解散となった。快晴であったが今からではもう一座もやれず増富温泉で一浴後はおとなしく帰った。






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