俳句 岩小谷山2009年11月01日

  岩小谷の文字が浮ぶや星明り

  友と行く朝寒の道岩小谷山

  朝寒の山路やヘッドランプの灯

  東雲の三河の空や秋の山

  天高し宵の明星のみ残る

  三河から信濃を覆う鰯雲

  秋暁彼方に三ッ瀬明神山

  雲海や山家の秋の灯り点く

  設楽なる田口の街や秋深し

西三河・富士塚を歩く2009年11月04日

富士山大権現の石碑
 朝起きてみると今日も快晴である。ハローワークへ先に行く予定が山の方を優先してしまった。こんな快晴の下で屋内には居れない。
 県道58からR419に左折。コンビニでちょっと買い物。ほとんど信号のない道を快調に走る。旧小原村に入ると四季桜まつりののぼりがはためく。四季桜とは冬も咲くのだろう。
 目指す富士塚553.5m(2.5万図:猿爪)は3等三角点の点名である。とりあえずは上仁木町の交差点はやり過ごして北面の粉野からの破線路を探ろうと走ってみたがそれらしい道は見つからず、谷合の山間部に乗越してしまい、岐阜県に入ってしまうので戻る。
 やはり、上仁木町の交差点を小村峠に向う。峠から左折して細い道に入る。舗装路である。若干下ったところは富士塚の南の浅い谷である。ここで標高は約500mあるからその差は53mしかない。谷に沿う下苅線と書かれた林道が見えたが右の尾根に取り付いてみた。下草は全くないし、藪もない。そのまま尾根に沿い、小笹をかき分けて高みを目掛けて行くと富士山大権現と彫られた小さな石碑があった。となりには三角点もあった。約10分もかかっただろうか。11時57分に入って時計を見ると12時過ぎでいくらもかかっていない。山頂は樹林の中で何も見えず。かつては富士信仰があったのだろうか。山やさんが来た気配は全くない。
 長居してもおれないのですぐに元の尾根を辿った。赤い布もなく一旦下ると尾根が不明瞭なので谷に入りそうになる。また尾根に戻ると山頂へきてしまった。いわゆるリングワンダリングである。今度はドンドン下るといい道が現れた。作業道である。これを辿ると林道に広がった。明るい場所に着いてみると何と出発前に見た下苅線であった。ラッキーだった。かなり下のムラまで下っている錯覚があったが。1時間もかかっていない。
 地形図ではほぼ三方向に尾根が広がり、この辺では最高所であるからかつては富士山を崇める信仰の山だったかもしれない。
 下山後はR419に戻り、松名で左折。杉田久女の句碑を訪ねた。新しく長女の石昌子さんの墓も建立された。2007年1月28日に95歳で死去された。いつきても誰も居ないが墓域に草が生えた感じはなく、山門には訪問者へのささやかな案内書きもある。
 活動の拠点が九州だったために愛知県に研究者やファンはいても弟子がいないことが災いしているのだろうか。久女はここに嫁ぎ、石昌子さんはここで生まれたのだ。もう少し整備が行き届かないものか。
 句碑を辞するとPの四季桜が青空に映えて美しい。

PC故障2009年11月08日

 11/4の夜、PCの画面がおかしい。ウイルスかなと思ったがそうでもない。11/5にはサポートセンターに問い合わせてみたらHDDの劣化をにおわせる。何しろ5年半も使ったから。そろそろ買い替え時期を探っていたのである。しかし、XPで作ったデータ資産は多いからこの環境も残しておきたい。
 インターネット環境を早く復帰させたいので新品を注文しておいた。それが10日後というのが今日入荷した。早速起動を開始し、再設定をして復旧は終わった。後はワードやエクセルの資産を引き継ぐ環境を作ることが残る。
 それにしてもメールをGoogleのホームページ上のGメールにしておいて助かった。HPを呼び出すだけでメールが再開する。アウトルックエクスプレスのソフトはもうないからどうやって復活させるか。そこは疑問が残る。

ハローワーク行き2009年11月08日

 11/5は好天なので自転車で名東区のハローワークに走った。11/4も行ったのだが車は渋滞でPも失業者も溢れていた。Pに入れるまでもなく退散したのである。自転車はさすがに早い。但し、高針から西山、平和が丘へと丘陵地の登りがきつい。しかし、いい運動にはなった。その日は不足の写真を届けるだけで帰った。
 後は銀行、郵便局からの送金や手続きなど雑用がまだまだある。帰宅後は家電店を回ってPCの物色であった。結局運よく回復などはないと注文しておいた。64800円であった。品質など不安はあるがスペック的には申し分ない。
 それでもONしてみると回復したかに起動するが最後は画面が乱れた。機嫌のいいうちにCDにデジカメ写真をコピーしたり、USBメモリーにバックアップをとった。画像などは大胆に削除してやった。
 11/6に再びONすると順調に立ち上がった。削除してHDDの負荷が減って機能が回復かと期待を持たせたがやっぱりだめだった。心残りはメールソフトのバックアップやお気に入りのバックアップを取り忘れたことである。

西三河・白鳥山を歩く2009年11月08日

白鳥山にある案内板
 PCの不調で体までリズムが狂いそうである。幸い今日も好天なので足助の香嵐渓から綾渡界隈を歩いた。出発したのが遅かったから足助に着いたのは11時を回っていた。
 11時35分に巴川にかかる橋を渡り、安実京(あじきょう)から急斜面の山畑を登る。すると車道にでるのでそのまま歩く。有洞は「うとう」と読む。文字を変えてあちこちで見かける地名である。さわらの大木を横に見て急斜面の道を登ると峠のような乗り越しを越える。
 越えたところは山ヶ谷(やまがい)で右折していくとなにやら看板がある。白鳥山という。展望台もあるという。行ってみよう。狭い谷間の休耕田の脇の山道を5分で峠につき右折すると明るい山頂である。御嶽山の信仰に因む霊神碑がいくつも立っている。しかも巨岩にへばりつくように多数の石碑が安置されている。南西に樹木が伐開されてすこぶる展望がいい。名古屋、鈴鹿山脈などが見える。こりゃいい山だと思った。
 下山すると登山口に地元の人らがいるので聞いてみると50年間放置されていて地元でも知らずに過ごしていたのを郷土史家が調べて村の人たちと共同で再開発したのだった。巨岩信仰の一種かも知れない。明日は白鳥山まつりをやるというので私も参加を打診したら歓迎であった。
 次は鉢ヶ峰を目指した。車道を歩いていくと東海自然歩道の入り口があり入る。しばらく利用者がないせいか山道はあまり踏まれていないし荒れた印象である。しかしさすがに道標はしっかりしていて迷うことはない。すぐに山頂であったが三角点をそれていくので探したが標柱だけしか見つからなかった。
 平勝寺への道標を頼りにすすむと山郷に下りた。ゲートボール場の脇を右折すると綾渡の平勝寺だが今日はパスして直進するがどんどん下るのでバックし左折した。よく見ると観世音菩薩の石仏が安置されている。ここは観音の里でもある。すべては平勝寺につながるという。
 山ヶ谷の分岐で下ってみるとここも急であった。すぐに山家が現れたがひっそりしている。さらに下ると破線路にもかかわらず、ビニール線でトウセンボである。私有地かなと引き返して別の道を下る。大城の地名があるが車道はその家で行き詰る。家人に聞くと神越渓谷を渡渉するという。なるほど川の中にコンクリートの橋桁が残っていたが今は車の文化の恩恵を浴しているのだろう。橋をかけてもらわずに高いところからの山道を開通してもらうなんてどんな意図があったのか。白鳥山で尋ねてみると川に架かるために水害が激しく流されることがあった。橋がないと退路は山道しかないが鉢ヶ峰の斜面は垂直に近い。鉄砲水が怖い住民としては山道の安全を選択したのだろう。
 県道をたどり、長い道のりを歩くとR420へ出てまだしばらくは車道歩きが続いた。軽い山行のつもりがかなりロングランになった。

足助町の秘峰・白鳥山祭り2009年11月09日

白鳥山祭りの風景
 11/7に偶然に知った白鳥山(はくちょうさん)祭りは平成18年に発見された聖地の再整備以来今年で3回目という。みなムラの人の奉仕活動である。これからも毎年開催できるかどうかは分からないという。
 9時には登山口にまだ車がちらほらある程度なので平勝寺に行って撮影した。これも新品の三脚を試した。朝からムラのお婆さんが読経中であった。
 登山口に戻ると車が増えていた。9時30分に登る。ムラのおばさんたち、神主さんがぞろぞろ登っていく。峠に着くと軽四が止まっている。反対側は軽四くらいは通行できるのだ。
 山頂からの展望は昨日よりは悪い。やや水蒸気が多く気温も高い影響だろう。白鳥山の周辺には数十名は集まっていた。岩盤の前にはブルーシートが敷かれて準備が進む。この場に珍しいのは20歳代の男女のグループであった。聞いてみると「共存の森」の研究班だった。村人から昔話や山の生活を聞き書きするらしい。大学ではフィールドワークと称して研究する話をちょくちょく聞くが趣味としてサークルで活動するのは珍しい。
 準備が整い、10時の定刻どおりに式が始まった。神主さんの祝詞が唱えられて厳かな雰囲気が流れる。順番に榊を捧げて祈る。最後には私にも機会が与えられて捧げた。
 式が終わると一段下の台地で酒盛りと、キャベツ、焼肉などの鉄板焼き、焼きそば、などなどてんこ盛りのご馳走が振舞われた。ご先祖の霊への感謝と生きる喜びを味わうのである。
 下山して車で椿立などをめぐった。古い小学校の校舎跡を利用したUHがあった。食事もでるようだ。若いグループは昨夜はここに泊まったらしい。名古屋、尾張小牧、関東など各方面から来ている。
 その後は葛沢の大杉を見学した。山の上に開けた村で数百mの標高の高原である。その奥まった辺りに大杉はある。なるほど大杉と謳ってもオーバーではない。写真で見る屋久杉の雰囲気がある。
 R420を香嵐渓に向かったが渋滞につかまった。R153で右折して稲武方面に走りバイパスで左折した。比較的渋滞は回避できた。これからはもっと激しくなるだろう。
 国道を走っていて気づいたことはサイクリストがかなりいることである。朝から夕刻まであちこちで独特のヘルメットを被り、パンツに伸縮のあるタイツを履いて颯爽と風を切って走っている。近づくと白髪のおじさんもいるからたぶん定年退職者のいい暇つぶしになっている気がした。こちらは山歩きだがあちらはサイクリングである。
 週刊ダイヤモンドにも自転車が熱い、なんて特集もあった。戦後何度かあったブーム再来だ。今はファッションも整えてのひそかなブームなんだろう。

PC環境の回復2009年11月09日

 PCの環境がようやく回復してきた。今は便利なものでマイクロソフトの代理品でキングソフトとは笑わせる。使い勝手もそっくりで違和感はない。M/Sを買うと数万円は取られるから同じ製品を何度も何年にも亘って使うことになる。しかしそれは著作権に違反するというのである。それならばもっと安価な製品を出せばいいのである。M/S社は儲けすぎであろう。
 昨夜はDVDの映画鑑賞をチエックした。音声が出ないので接続をチエックしたらやはり端子が違っていた。「ローマの休日」を起動してみた。永遠の名作である。ストーリーは実に単純でラブコメディなのだがヘップバーンといい、グレゴリーペックといい名演で退屈させない。映画はエンターテイメントなんだと教えてくれるのだ。
 次はインターネット接続であるがこれもファイルに控えたパスワードやナンバーの入力で何とかなった。プリンターもヒューレットパッカード社製の10年も前の製品であるがウインドウズアップデートのシステムに自動的にダウンロードされていた。
 データの復旧はUSBメモリーをUSBポートに差し込んで待機すると画面で指示がでる仕掛けである。大量のデジカメ写真は無事に新宅に避難した。ワードのデータもキングソフトのライターという初期設定の中にあるソフトを動かすと比較的簡単に移行できた。但し、あと30日以内にソフト料を支払うことになる。しかし、それでもワード、エクセル、パワーポイントのセットでも5000円以内である。実に10分の1である。
 お気に入りに入れていたよく利用するHPと重要なHPは必要に応じて検索で呼び出してまたお気に入りに入れるしか手はなさそうだ。あとはXPパソコンをどう処分するかを考えねばならない。HDDの修理は高くつくそうだし、ウインドウズ7の使い勝手と経費は意外に少なくて済みそうだ。廃棄処分が適当かも知れない。
 午後は自転車で買い物に行く。自転車の鍵をツーロックにするために鍵をもうひとつ買った。これで樹木、柱、などに絡めて駐輪しておける。そろそろ戸外にとめることになる。
 帰りに喫茶店に寄ると70歳代の男のグループが屯していた。何かのスポーツの仲間らしい。元気な大声でしゃべり終えると出て行った。途端に静かになった。10年後は自分もああなるかな。
 自宅に戻るとまたXPのPCで失われたデータの原稿を書き直しした。こうしてだんだん落ち着きを取り戻した。

   立冬やパソコンを立ち上げてゆく

ハローワークの説明会2009年11月10日

 今朝は比較的早起きしてポタリングに出かける。なにぶん仕事がないと動くことがない。日々スポーツを取り込まないと肥満になりそうだ。だからといってジョギングなど続きそうにない。ある程度のスピードで移動できる自転車は最適な運動になる。平針までは天白川沿いに走った。駅前の喫茶店で熱いコーヒーを飲む。そして帰る。
 これをいずれは知多半島、渥美半島、三河山間部に広げてゆこう。マイカーに自転車を積んで出かける。最寄のPに車は駐車しておく。おそらくそんなスタイルのサイクリストが多いんじゃないか。
 午後からはハローワークの説明会というので東小劇場へ出かけた。夕刻から降雨率が高いので折角だが自転車でなく地下鉄にする。13時30分の開始だったが途中で知人につかまり、若干遅れた。話の内容は「しおり」の説明でいかに早く就職をしてもらうかということになった。受講生はかなりの人数であったから間借りしての説明会になったのだろう。
 とにかくこのご時勢では簡単に見つかりそうもない。
①好きなことをやる・・・・・食べてゆけない。消費するばかりで経済が苦しい。
②国家資格を生かして独立・・・・足の裏についた米粒というように取らないと気持ち悪い、取ったからといっても食えない。元手もいる。
③結局人に使われるしかない・・・・時間的経済的に不自由な生活を強いられる。
 漱石ではないがとかくこの世は住みにくいのである。30年前も3ヶ月ほど失業して2回はもらった。あの当時も2度目の石油ショックで日本経済が混乱した。それでも以前の会社に拾われた。派遣などなかった時代である。今はもっとひどい。今の経営者はすぐに人員整理をする。外国と競争しているといって人件費を抑制し、悪くなるとすぐに解除である。ドライな世の中である。会社社長は人を雇用し、世の中の経済の安定に寄与したから世間から尊敬のまなざしで見られた。社長とは身分でもあった。
 失業給付も来年3月にはなくなる。それまでに決断が迫られる。午後4時きっかりに終わったので丸善に周って帰宅した。外を見ると予報通り雨になった。

     初時雨左回りの線に乗る

足助晩秋2009年11月11日

有洞で見た渋柿
  綿虫の飛ぶや足助の谷間にも

  秋深し葛沢の千年の杉

  実南天足助のここもあの家も

  余りある地の勢いの穭(ひつぢ)かな

  禰宜さんも高きに登る村祭り(白鳥山祭り)

  秋の日や老いも若きも集うべし

  天高く祝詞の声の響きけり

  干し柿を吊るす有洞の山家かな

  渋柿や熟するまでは待機して 

  秋の朝読経の主は嫗(おうな)なり(平勝寺)

近藤信行編『山の名著』(自由国民社)2009年11月11日

 丸善でふと目に入った本。編集者の顔ぶれにどこかで見た気がした。自宅に帰って探すとあった。『日本の山の名著』(1984)の後継の本である。およそ25年ぶりに装丁もあらたに刊行された。大森久雄、岡沢祐吉、片山全平、近藤信行(責任編集)、滝川清、中村純二、平井吉夫、松屋晋、横山厚夫各氏の執筆者は同じ。旧著の皆川完一氏は新著では田辺則夫、節田重節(ママ:郎か)に入れ替わった。写真に羽田栄治氏が加わった。
 旧著ではⅠ近代登山のあけぼの、Ⅱ山に憑かれた人たち、Ⅲ戦後の山の本の3部構成であった。基本的に1冊を1ページから2ページで解説を試みた。約130冊もあったが今回は78冊に絞られた。解説もページ数が増えて詳細になった。字のポイントも大きくて読みやすい。旧著からはナンダ・コット登攀がヒマラヤの旅の次に入り、西蔵旅行記がW・ウエストンの極東の遊歩場の後ろに入れ替わった。
但し、副題に明治・大正・昭和戦前編とあるので旧著のⅠとⅡを集成した。おそらくⅢの昭和戦後編も用意されていると思う。海外遠征、日本百名山、山靴の音、風雪のビバーク、等々が収録されないと画竜点睛を欠くからだ。
 近藤信行氏は岩波文庫からも『山の旅-大正・昭和編』と『山の旅-明治・大正編』をアンソロジーでまとめた。この種の本はなるだけ買っておきたい。