第50回木暮祭に参加2009年10月18日

木暮理太郎を讃える碑文
 日本山岳会山梨支部などが主催した第50回木暮祭に参加した。10/16の夜発、中央道の諏訪湖SAで仮眠後、10/17横尾山を登山してから会場入りの予定であったがあいにく空は曇りであった。八と南アなどの展望がウリの山なのでピークハントだけの登山は中止。しかし、地図を持たなかったので晴れている長野県佐久地方の山の登山口を確認しただけで終った。
 会場入りしてその日は前夜祭で昭和34年に行われた第1回木暮祭の模様を撮影した8m/mフィルムの映写会があった。フィルムが劣化し、映写機もだめなのでメーカーに持ち込んでDVD化してもらったという。つまり50年前の映像が甦ったのである。
 金山平の今は白樺林であるが当時は何もない平であった。鉱山ということで伐採されて2次林もなかった。廃鉱になり、荒地には真っ先に樺類が生えるという植生どおり、白樺が美しい林になっている。その代わり木暮さんが好きだった金峰山が今は見えなくなっている。
 他に木暮家の子孫や群馬県からの招待者の講話などがあった。
 10/18は瑞牆山のカンマンボロンという岩場にガイドしてもらった。カンマンボロンとは大日如来という意味らしい。自然石に梵字のように見える窪みが信仰の対象となっているとか。但し、祠などはない。修験者がいたことを示すものもないようだ。巨岩信仰の一面であろうか。この地方は今は北杜市であるが昔は北巨摩郡であった。コマは高麗に由来する説もある。日本の中の朝鮮文化の臭いがする。
 山頂には立たず、下山後は金山平で甲斐名物のほうとうをいただく。白味噌仕立てで野菜、キノコなどをたっぷり入れて煮込む。きしめんに良く似た食べ物であった。
 その後は碑前祭であった。関係者のあいさつ後花一輪を手向けた。昭和19年に死去、65年経過した今も慕われる。奥秩父の父といわれたが地域研究の嚆矢でもある。昭和10年に会長となって9年も継続したのは木暮さんただ一人だった。「山が好きだから登る。」という哲学の持ち主。
 そして午後2時解散となった。快晴であったが今からではもう一座もやれず増富温泉で一浴後はおとなしく帰った。

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ヒント:芙蓉峰の別名があります。

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