奥美濃・徳山富士に登る2008年09月28日

 9/27から9/28にかけて所属の山岳会のリーダー向けのビバーク講習会を持った。昨年、多発する山岳遭難に危機意識をもって持ちかけたものであり、1年後に実現できてよかった。実際、2007年度は転倒、転落、滑落、道迷いで72%近い。これは道に迷った結果の転落、滑落、転倒もある。事故は複合していると思う。
 9/27は徳山富士925mに登った。馬坂トンネルの徳山側が登山口である。ここには登山口の看板や赤テープもない。地形図だけの登山である。車2台は置けるスペースの先に踏み跡があり、左から小さな溝が出合う。大水で荒れている。ここから踏み跡が続いていそうなので注意深く登ると急な溝となるが他に踏み跡らしい道はないので強引に登ると左からいい踏み跡が来ている。どこかで見落としたらしい。
 この踏み跡に従うとすぐに馬坂峠に着いた。石碑には「ういは馬坂・・・」と刻まれている。『徳山村史』にも載っていた俗謡である。なんとも峠らしいこの風情は嬉しい。
 ここから右へ(南)急な尾根を登る。もう踏み跡とというよりは山道である。休み場はなく、一本調子の登りである。しかし、短いのですぐに山頂の一角にある電波反射板に着いた。この道は反射板の作業のためにつけられたようだ。
 三角点へは少し戻って藪の薄いところに入る。地形図では山頂は平坦で三角点は南東よりと思われた。旧根尾村側の界へ赤布をつけながら寄れるだけ寄って行く。すると古い赤テープがあったり、木札が落ちていた。少しのヤブコギで三角点に着いた。展望は樹林に囲まれて皆無である。
 昼食は電波反射板に行って摂る事にした。反射板からは徳山ダム湖が俯瞰できた。堰堤も見える。この反射板はダム湖から発信される様々な情報を受けてどこかへ伝えているのだろう。看板には平成18年塗装とあるからダム完成と歩調を合わせながら完成したものであろう。すると登ってきた道もその作業員のための道に違いない。北のちょっとした伐採跡にはおそらく小屋掛けでもしたことが想像された。
 蕎麦粒山、上谷山、鏡山、天狗山、黒津山、伊吹山などが見えた。これだけ見えればいい方だろう。私たちは運がよかったと喜んだ。
 下山は転落に注意しながら下った。峠からも何か明瞭な道はないかと探したがない。急な溝の所に来て、いい踏み跡を辿ると木の階段もある山道であった。そして溝が急になるところでまた浅い溝に戻れた。余り、利用されないともう2年でこんな有様である。
 RFの大切さ、赤い布の的確な付け方を学んでもらった。ダム湖畔まで下りて徳山会館に寄った。さっき登った徳山富士を見上げてまた愉しんだ。
 ビバークの場所は赤谷の源流部である。ウソ越えから徒歩で若干下って、渡渉して着いた小広い平地が適地である。30mのザイルに参加者11名の1人用ツエルトの通気穴に通して両端を大石で固定。中間では木やストックで支持した。11枚のツエルトが並ぶ光景は壮観である。
 一方で焚き火の準備をした。小石を敷き詰めて地面からの水蒸気の上昇を抑えることと、石の熱気の伝わり易さを活用するためである。小枝、枯れ枝、太い流木を集めてもらった。まず、古新聞紙を丸めて着火。小枝を乗せて延焼を待つ。今回は成功した。豪勢な焚き火となった。ビバーク訓練なので共同の調理はせず、個食で対応する。
 焚き火が大きくなると赤谷下流から3人の岩魚釣り師が上がって来た。しばし、歓談した。夜空は星が瞬くほど美しい。焚き火の火勢が衰えると周囲に集まり、久々に山の歌を歌った。落ち込みがちなビバークで元気付けるには歌うのが一番である。
 星空のビバークとなった。
 9/28の午前3時頃はよく冷えた。木綿のズボンを通して寒気が沁み込んで来た。上着は冬の下着と羽毛ジャケットで万全、下は木綿のズボンのままシュラフカバーに潜り、ザックに足を入れるとあったかい。丁度腹部が良く冷えた。雨具のズボンでも履けばよかったかも知れない。
 5時過ぎ起きる。今日は日ノ窪権現でヤブ山登山の実践である。7時過ぎウソ越えに戻る。
 7時50分、高倉峠から笹のヤブに突っ込む。以前より踏み跡は見出しにくくなった。一旦戻って右、左も探るが中央の踏み跡が結局は本命らしい。赤い布を付けながらヤブをこいだ。ロボット跡からはやや平坦になり、順調に進んだ。権現山の頂上は素晴らしい展望だ。金草岳が立派。赤い布を回収しながら下った。
 R417を南下。藤橋のお湯で汗を流して帰名した。