鈴鹿・元越谷の沢初めでスタート2008年05月27日

夢かなえ荘内の前田普羅展示室
 5/25(日)の天気予報は降雨率80%であった。沢初めは今年最初の儀式のようなものだから形だけでも沢に入っておきたい。名古屋を出発するときから雨であったがどうせ濡れるのは覚悟の上、予報では午後からからりと晴れそうであったのでGOとなった。
 こんな日でも御在所岳の登山口には駐車された車がある。さすがは鈴鹿である。武平峠を越えると霧のションベンみたいに降っている。粘りつくような梅雨時のような雨である。スカイラインを下がるとゲート跡付近の東屋が撤去されていた。前夜発で行くときは重宝な芝生の仮眠所であったが管理のための経費節減の処置だろうか。
 元越谷への橋を渡って垂れ下がった落葉樹のトンネルをこすりながらゲートまでソロソロと走る。支度を始めると沢スパッツを忘れたことに気づいた。蛭対策にもいいのに。軍手も切らしていた。本格シーズンに向けてこんな忘れ物をしないためにもチエックの意義もあるのだ。
 後のドアを開けるとすぐにW君の足に蛭が襲い掛かってきた。早速ヤマビルのご挨拶である。こんな日は花崗岩であろうと何だろうと蛭は襲ってくる。支度後入渓地まで歩く。谷の流れは多めであるが濁流でもない。山には藤の花とタニウツギが至る所に咲いていた。
 いつもの所から入るとヒエーと叫ぶほど水が冷たい。今日は沢スパッツをしていないので余計に冷たい。手慣れたルートを行く。流れを横切る際に多少抵抗が強い感じである。水には落ち葉が多く混じっていた。やや笹濁りの感じである。
 いつもの乗越しで新しいザイルをおろして懸垂下降の練習だ。深い淵はいつもは泳ぐが今日は高巻きになる。いよいよ大滝が近づいてきた。水しぶきが凄い。辛うじて左岸の高巻ルートは確保できるが滝上のルンゼ、スラブ、ナメが水に浸かって足場がなさそうと見通しを相談した。普段でも草や苔が着かず、大水では完全に洗われているだろう。ここで撤退だ。
 少し戻って左岸の殆ど水のない小谷を遡って林道に上がった。雨はあがっており、そこで昼食とした。小さなヤマビルが1匹手に触れた。もしやと思って沢靴下をチエックすると1匹食いついていた。ああ、ここにも居たか。今日は大活躍のヤマビル達である。大して献血はしなかったが。
 林道を下って車に戻ってまたスカイラインを帰った。武平峠で変わった雲が覆っているので撮影の為に休む。いい眺めである。下って行くと初めて見る大きな滝に注目した。帰宅してから調べると西多古知谷の50mの大滝と分かった。大雨でも降らないとこうは見えない。普段は単なる崖にしか見えないだろう。
 厚い雨雲の中から降りて平野部のR306号を行く。周囲の田園は麦秋の最中である。実に美しい。R365号になって藤原町鼎に向った。まだ午後間もないので久々に俳人前田普羅が度々訪ねて句会や講演会を催した竜雲禅寺に寄りたかった。交差点から約7kmあり岐阜県境に近くかなり奥が深い山里である。
 近くの老人ホームで問うと親切に掛け合ってくれた。「夢かなえ荘」なる公民館に行った。鼎の地名を掛けた名前に微笑した。管理人は留守だったがたまたま老婦人が数人集まって針仕事をやっていたので中へ入れてもらえたのである。
 普羅の肖像写真、俳句の展示、句碑の拓本、2mはある杉の柾目板に墨で書かれた俳句の写本が展示されていた。和尚の長屋佳山とは親交を結び、泊まっては漢籍を借りたり、俳句を書き付けたりしていたようだ。周囲の学校の先生達を集めて句会や講演も行われたらしい。老婦人の中のTさんが管理人に引き合わせると案内してくれたが不在。Tさんの夫は若い頃句会の世話人兼リーダーだったというので昔話をせがんで弾んだ。そのうち管理人のNさんも合流されて大いに俳句談義の花を咲かせた。三重県では無名に近い存在のせいでこれ以上の顕彰活動は無理らしい。いなべ市となって益々予算的に窮屈らしい。
 昭和50年発刊の岡田日郎『山の俳句歳時記』の中の序に水原秋桜子が「大正時代から昭和時代にかけて、真に山を愛し、名作を多く残したのは、前田普羅氏1人だけ」と賞賛する。『日本風景論』で山に目覚め、近代登山草創期の小島烏水、田部重治の著作で浅間山、甲斐の山や谷、飛騨の山にのめりこんで行った。登山を愛すると共に俳句でも虚子の絶賛で全国にあまねく知られた存在だった。二人にはそんな話をして顕彰にこれ努めて欲しいと激励した。時の立つのも忘れて話に夢中になったので18時を回り19時近くなった。
 桑名に向う途中、いつも寄る中華料理屋「四川」で夕飯とした。今日はマイカーの出足も悪いので空いているR1で帰った。