飛騨・六谷山を歩く2009年06月01日

 前夜は流葉の旅館で旧交を温めた。一等三角点教の草分け的な教祖・坂井久光氏はお元気であった。85歳になるとか。1等三角点研究会の定例山行であるがエントリーしたのは39名で西は山口県から北は新潟県、東は東京と幅広く集まった。中でも関西勢は50%になる。旅館はOFFシーズンとあって貸切になった。
 早朝から目覚めたが外は雨。80%の降雨率がよく当った。スタッフが協議して出発を1時間遅らせた。どうせ午後からは晴れるとの淡い期待もある。
 東茂住まではR41を走り、近くのPで車両の再編成を行う。27名が登山に向った。茂住峠までの林道はさほど荒れているとは思わないが雨ゆえの心配もある。何とか無事に峠着。雨は小雨。
 雨具、傘、登山靴、長靴と様々ないでたちで9時37分出発。欝蒼とした登山口を入るとすぐに旧峠にお地蔵さん2体が旅人なき今も見守る。登山道は中部電力の鉄塔巡視路でよく整備されている。以前に登った際は藪っぽい道で半袖シャツのせいで漆に被れてひどい目にあった記憶がある。
 急な所は強化プラスチックのような物質の階段があって楽だ。登山道は山頂手前のピークまではほぼ樹林に覆われる。ナナカマドの花、ヤマツツジ、萎れかけたタムシバ、ドウダンツツジ、ガマズミの花など。高まると次第に中位のブナが現れた。ブナの好事家のO氏は巻尺で幹周りを計るが3mはない、とのこと。昨夜は懇親会で橅讃歌をご披露された。1番だけ。
           橅讃歌
         1 bunabunabu-na
            白山の5月
            根回りの中にすっと立つ橅
            雪解けの水は橅の白い幹を伝う  
            ふきのとうの黄緑
            芽吹きはもうすぐ
            春の陽が心の隅々まで照らし
            恋の予感がする 
  
 △1374mの中間ピーク辺りはブナ林もあって自然環境も素晴らしい。そこを過ぎると急降下してやせ尾根を辿る。11時過ぎ、いくらもなく1397.6mの山頂である。雨は止んだが残念ながら眺めはない。1等三角点の山の最大の価値は展望のよさだから今日は無念というしかない。しかし、そこは1等三角点フリークの会だ。測量士が何か専門的な数値のプレートを出して撮影する。山頂に溢れんばかりが並んで記念写真を撮影して昼食後下山した。恐らく1年で一番賑わった日ではないか。
 地形図をよく眺めるとなぜ六谷かいやでも分る。岐阜県側は茂住谷1つだが富山県側は弥谷、かや原谷、クスリ谷、キャク谷、大池谷と5谷を数える。これで6谷である。基準点成果等閲覧サービスにアクセスして「一等三角点の記」を見ると点名も六谷山=ろくたにやまである。住所は富山県側になり、明治27年9月5日に選点(舘潔彦)、同28年10月31日に埋標(古田盛作)された。笹地、展望良好とあるからやはりいい山である。このコンビは立山など1等三角点を多く手がける。
 舘潔彦については以下のHPで見られる。
 http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaempfer/suv-hanashi/koumori.htm
 三重県人と知れば親しみも湧く。
 峠に戻る。下りは約1時間。
 マイカーでまた東茂住のPまで走る。登る時はよく分らなかったが栃の花、朴の花が美しい。下の方では右の谷底に沈殿池が見えた。イタイイタイ病の原因である鉱毒(カドミウム汚染)をこの池で沈殿させて神通川に流さない対策である。
 Pに着いた。ここで解散となった。JR高山線で帰る人を飛騨古川駅まで送り、飛騨清見ICから帰名した。

尾上昇氏日本山岳会の会長に就任2009年06月01日

 5/23に日本山岳会東海支部の尾上昇氏が第23代目の会長に就任。新聞各紙で紹介されている。6/1の朝も隣りの81歳の社員からほい、と切抜きを渡された。今回の報道である。     
 尾上氏は日大OBで会社経営する傍ら登山活動をルーム提供などで支援。自らも総隊長として各海外遠征に同行する。一方ではボランティア活動にも熱心に取り組む。JACの活動の理論的な提案も行う。ただの山好きな親父に留まらない幅広い活動が支持されたか。
 そこでどんな時代にどんな人が会長になったを振り返る。*印はコメントである。

        日本山岳会(JAC)の歴史

1905年(M.38)10月14日 日本山岳会最初の会合が行われた。この日を以て創立日とする。(創立時の会員393名)
*発足はイギリス人、W・ウエストンによって提案された。
1906年(M.39)4月 「山岳」第1年第1号発行
*JACの歴史は山行報告の歴史である。情報発信こそ大きな命題をもつ。登るだけで発信しなければただの趣味の会に終る。
1909年(M.42)6月1日 会の名称を日本山岳会とし、会則制定する
*組織での活動を開始。
1910年(M.43)3月 ウォルター・ウェストン師名誉会員に推挙。「高山深谷」第1輯を発行
1931年(S.6) 会則を変更し、会長・理事制となる。初代会長に小島久太就任
*槍ヶ岳に充分な情報を得ずに苦労して登った。後に英文の『日本アルプス登山と探検』を偶然知ってショックを受ける。情報収集の重要さを学ぶ。
1933年(S.8)12月 高頭仁兵衛 会長に就任
*第二代目。新潟の豪農。元祖『日本山嶽志』を私財を投げ打って発刊。これも重要な情報発信となる。
1935年(S.10)12月 木暮理太郎 会長に就任
*第三代目。東大OB。登山しては書き、何より山が好きという人で大衆登山家に支持された。田部重治と共に静観派の指導者であった。
1941年(S.16)1月 社団法人認可。木暮理太郎 会長に就任
1944年(S.19)5月7日 木暮理太郎の急逝に伴い槙副会長が会長を代行
*第4代目。慶大OB.アルピニズムを海外の山で実践。マナスル初登頂の隊長。
1946年(S.21)2月3日 常任役員会にて槙会長の辞任を受理、西堀副会長が会長を代行
*京大OB.
1946年(S.21)6月1日 会員総会にて松方三郎を会長に推薦
*第5代目。京大OB.
1946年(S.21) 新会長に武田久吉就任
*第6代目。
1951年(S.26)4月 槙有恒 会長に就任
*第7代目 。慶大OB.
1955年(S.30)5月 別宮貞俊 会長に就任
*第8代目 。
1958年(S.33)10月 別宮会長の逝去に伴い、日高信六郎 会長に就任
*第9代目 。東大OB。
1962年(S.37)4月 松方三郎 会長に就任
*第10代目。京大OB。
1967年(S.42)2月 東海支部アンデス学術遠征隊アコンカグア(6959m)南壁登頂
1968年(S.43)4月 三田幸夫 会長に就任
*第11代目。慶大OB。
1970年(S.45)5月23日 東海支部(原真等)マカルー峰(8463m)東南稜より登頂
1970年(S.45)4月 今西錦司 会長に就任
*第12代目。京大OB。
1977年(S.52)4月 西堀栄三郎 会長に就任
*第13代目。京大OB。
1981年(S.56)5月 佐々保雄 会長に就任
*第14代目 。北大OB。
1984年(S.59)10月 東海支部(湯浅道男隊長)ガウリサンカール(7134m)南東稜より登頂
1985年(S.60)5月 今西壽雄 会長に就任
*第15代目。京大OB。
1990年(H.2)5月 山田二郎 会長に就任
*第16代目。慶大OB。
1993年(H.5)5月 藤平正夫 会長に就任
*第17代目。京大OB.
1995年(H.7)5月 村木潤一郎 会長に就任
*第18代目 。
1996年(H.8)7月11日 ウルタルⅡ峰(7388m)に東海支部(隊長・山崎彰人)登頂
1997年(H.9)5月 齋藤惇生 会長に就任
*第19代目。京大OB。
1999年(H.11)5月 大塚博美 会長に就任
*第20代目。明大OB。
2003年(H.15)5月 平山善吉 会長に就任
*第21代目。日大OB。ライブドアニュースから「登山は多様化している。会の中枢にいる人がこの日本山岳会を利用し、商業登山を推し進めている。いかがなものか」と問題点を投げかけた。
 「最近はヒマラヤ登山で、中高年齢の登山者の死傷者が出ている。一部マスコミからは、高年齢者の安易なヒマラヤ登山、公募登山に警鐘を鳴らす。8000メートル級の登攀技量は厳しい訓練と経験と体力が必要だ。力量不足でも、お金を出せば、鋭峰にも登らせてもらえる。そこには商業主義によるヒマラヤへの甘い誘いがあるのだ。
 会長を引退するとはいえ、平山さんの発言は同会内部から商業登山を問題視する、積極的かつ適切な忠告だろう。」
2007年(H.19)5月 宮下秀樹 会長に就任
*第22代目。76歳。慶大OB。
2009年(H21)5月 尾上昇 会長に就任
*第23代目。66歳。日大OB.
 学歴では判明した範囲では7名の京大OBが大活躍。続いて4名の慶大OBの活躍が目立つ。 学生山岳部が強かった大学が排出するのもやむをえない。海外遠征する際の企業からの寄付も有名大学OBなら有利である。伝統ある大学なら大企業の社長になる例も多い。
 ちなみに社長が一番多い大学は日大らしい。大企業に絞ると慶応、東大、早稲田、同志社、明治など。かつて海外遠征登山華やかなりし頃のJAC会長の仕事はは金集めであったようだ。
 しかし時代は変わった。ヒマラヤの巨峰はすべて登山された。もはやアルピニズムは終焉したの声しきり。6~7000m級ならまだあるそうだが金集めの意味はない。マナスルなら人類のため、という殺し文句が効いた。今じゃヒマラヤも個人山行である。
 3月に亡くなった原真はかつてJACの中高年山岳会化を提案されたし、尾上氏もアメリカのシエラクラブにヒントを得てネイチャークラブを提案された。どうやらその流になりそうだ。
 しかし戦前に亡くなるまで会長を9年間務めた木暮理太郎はもう出ないだろうか。山が好き、だから山に行く。それだけで良い。と主張している。もっぱら奥秩父の渓谷を好んで歩いた。田部重治と共に日本的登山の有り様を示している。登山とは山で寝ることである。焚き火をすることである。などなど。
 又今西錦司も会長在任は7年間と長い。金集めがうまかったようだ。彼もマナスルに執念を燃やしたが中年以後は国内の山を愛した。この点では木暮に引けをとらない。また100年以上前の登山、山岳風景賛美への熱狂は志賀重昂の国内礼賛だった。そろそろ国内重視の人材が選任されてもいい。『新日本山岳誌』は今西の遺言のようなことだったと思う。
 JACの歴史は初めから離合集散の歴史でもある。当初は植物研究家の団体が富裕層と結んで発足。学生が台頭して戦後まで続いた。その流とは別に大衆化も進んだ。今はスポーツマン、オーガナイザー(政治家)として有能な人材が好まれる。すでに登山の文化的な側面は分離独立していった。山岳文化人には居場所がないのだ。
 何に求心力を求めるか。特に若い人の関心はどうか。逆説的に考えると今流行ることを止めることだ。
 ○商業登山の制限=商業登山は山岳会の敵である。JACの実力者がプロガイド団体の会長になる例がある。これを放置して会の発展はない。百名山旅行なども止めたが方が良い。
 海外トレッキングにも有名な登山家を客寄せパンダにしている例があるようだ。
 ○山小屋の廃止ないしは制限=登山を堕落させた。避難小屋程度でいい。登れなきゃ登れないでもいいではないか。
 ○登山道の開発の制限と閉鎖=登山者に迎合して多くの登山道が開発された。八ヶ岳は良い例だ。人を見ることが多い観光登山になってしまった。
 この3つを実施するだけでも山の環境は一変する。
 2年の任期では大したことはやれない。とりあえずは社団法人から公益社団への移行が進捗することの後押しとなろうか。

俳句 飛騨山吟2009年06月02日

  山頂に蝿群がるや漆洞

  万緑に閉じ込められし漆洞

  彦谷の流の上に藤の花

  山深く飛騨で見てこそ朴の花

  切越の青葉若葉のナラ太し

  シャンデリアめく栃の花咲きにけり

  ハルニレの札や若葉の杜の中
  
  朴葉寿司飛騨に無情の雨が降る

  卯の花や猪臥山麓道の駅

  流葉のスキー宿今夏炉燃ゆ

  乾杯の一口で飲む梅酒かな

  山上で頬張る飛騨の朴葉寿司

  夏の雨煙る山路を歩くなり

  夏木立今も見守る地蔵かな

  好き物が幹を計りしブナ青葉

  筒鳥に耳を澄ますや飛騨の山

飛騨・茂住雑感(1等三角点標石が語ること)2009年06月03日

 六谷山は1等三角点の山である。この山に1等三角点の標石を埋めると、選点したのは明治27年のことだった。ふと閃いたのは明治27年という時代である。志賀重昂の『日本風景論』が出版された年ではないか。この本から日本の近代登山は始まった。
 W・ウエストンの『日本アルプス 登山と探検』を読むと明治21年に来日し、明治24年から同28年まで日本の山々を登山した。明治26年8月には笠ヶ岳に登山するために富山から船津(今の神岡)までは人力車に乗っている。猪谷を越えた辺りから茂住までは降りて徒歩で行く。「茂住は小奇麗な小さな部落」と書残す。跡津川付近でも徒渉を余儀なくされて58Kmに12時間もかけた困難な旅であった。何と六谷山に1等が埋まる前にもうW・ウエストンはこの神通川の峡谷を通過しているのだった。
 小島烏水の友人の岡野金次郎がこの本を偶然見つけたのは明治35年のことであった。
 烏水の『アルピニストの手記』を読むと明治33年には乗鞍岳登山のために初めて飛騨入り、明治35年には槍ヶ岳登山のために、また大正3年には双六谷探検もしている。飛騨への径路はいずれも富山経由と見られる。(そうは書いてないが)
 面白いのは俳人でもない烏水が高原川左岸にある西茂住の野沢凡兆の文字書岩(いわゆる句碑)を何度も飛騨入りしながら見落としてきたことへの後悔の念から再訪していることである。同書の中の「飛騨山中にある凡兆の句碑」と題した随筆がそれだ。
 実は5/30に漆洞を下山してまだ宿へ行くには時間が早いので年来の希望を果たすために寄り道を企てた。いつもR41を通過するたびに文字書き岩の案内板を目で追いながらドライブしていた。いつも発見できなかったから神岡町の図書館で下調べした。茂住駅の1.7K南とある。R41を富山に向って走るが茂住駅は発見できない。猪谷まで行き過ぎた。地図を良く見ると旧神岡線はもう廃線であり、高原川の左岸にあったのだ。戻って茂住の手前に川にかかる橋を渡るとすぐに茂住駅だった。廃線で鉄路は錆びていた。
 駅からしばらく走り、お堂で車を停めて探す。見つからず、近くの家で訪ねると庵谷ダムの向こうだという。降雨で道は不安なので置いたまま歩いた。ダムから先は鉄塔巡視路の歩道であった。約20分歩いたが見つからず引き返す。すぐ見つかると気楽に探した結果が宿へは30分以上遅刻になってしまった。
 雨であわてて歩いたが恐らく江戸時代のこととて地味なものであり、良くある礎石の上に建てた自然石の立派なものでは無さそうだ。検索で見ると崖に近い雰囲気でそれなら見たような気もする。  
    わしの巣の樟(くす)のかれ枝に日は入りぬ   凡兆
 金沢生まれで京都の医者を営んでいた凡兆は江戸時代の秘境に近い飛騨の旅に来たもののこの付近の籠の渡しで前途を見切り、引き返してこの句を詠んだ、という。それを130年後に飛騨高山の国学者で俳人の加藤歩簫が彫らせた、という。岐阜県の史跡であるにしては粗末な扱いだ。R41の辺に案内板位は設置して欲しい。
 今度はゆっくり時間をとってまた行きたい。

野沢凡兆の俳句2009年06月06日

 登山家の小島烏水や山岳俳人と呼ばれた前田普羅も訪れた凡兆の俳句の魅力はなんだったのか。
 参考にしたのは嵐山光三郎の労作『悪党芭蕉』という本。凡兆は芭蕉が高く評価したという。芭蕉七部集の最高傑作とされる『猿蓑』に入集した最多の俳人は編者となった凡兆の41句であった。芭蕉は40句、同じ編者の去来は25句であるから破格の出世であろう。
 もっとも『猿蓑』編集の場所も凡兆宅だし芭蕉が旅から帰ると凡兆宅を定宿にしたという。芭蕉より4歳年長ということもある。パトロンとしての役得ともいえる。
 このことは『悪党芭蕉』の獄中俳人凡兆に書いてある。さらに読むと京都で安定した医者の生活のかたわら俳諧を楽しむゆとりがあるかと思えば関係者の罪に連座して獄中生活も体験した波乱の人生である。これほどの名誉を得ても以後は芭蕉と袂を分つ。芭蕉に心酔しながらも盲従はしなかったようだ。
 蕉門つまり芭蕉をめぐる弟子の人間関係の消長を描いたこの本はただの俳句の本ではない。作家が書くのだからやっぱり人間を描くことが中心になるのは当然だろう。
 代表句を見てみよう。

  かさなるや雪のある山只の山

*重畳たる山なみ、という表現がある。それを俳句にした感じであるが雪山とまだ積もってない山と対比して遠近感を示す。正岡子規が凡兆を称賛したというのはこんな手法であろう。

  炭窯に手負いの猪の倒れけり

*鈴鹿の山中でも炭焼き窯は良く見る。その窯に(猟師が放った)矢が刺さった猪が力尽きて倒れているという。むごい風景である。今なら猟銃で一発で即死だろう。猪は山中で何度か見た。八風南峠の近くで寝ている猪を見たときはびっくりしてそっと去った。争えばこっちが手負いになりそうである。

  ながながと川一筋や雪の原

*石徹白の和田山牧場辺りは雪原の中に一筋の流があってまさにそんな風景である。こないだ行った蓮華温泉からの兵馬の平の風景も雪原(夏は湿原)の中央部をながながと川が流れていた。今もどこかで見る懐かしい風景である。

  鷲の巣の樟の枯枝に日は入ぬ

*問題の高原川左岸の句碑の句である。これも『猿蓑』の中に入集された1句だった。前書きの「越より飛騨へ行くとて籠のわたりのあやうきところあやうきところ、道もなき山路にさまよひて」とある。それで諦めて引き返した地点で詠んだ。
 現地で印象は両岸切り立った感じで今はダム湖になったが昔は滝が見えた峡谷そのもの。『日本風景論』6版の表紙に描かれた風景である。烏水も普羅もこだわるわけである。

中央アルプス・念丈岳縦走2009年06月07日

 大島山は遠い山だった。
 2001年9月24日に飯田松川から支流の兎沢を遡行して笹を漕いで行くと笹を切り払った登山道に出た。そのお陰で大島山に登れた。念願だった大島山に登れて一山落着したのだが2006年9月、本高森山と大島山の間の登山道の整備が終ったと知る。念丈倶楽部の多年にわたる奉仕活動であった。(06.9.12ブログ)以来、鳩打峠から本高森山を周遊する案はずっと温めてきた。5/23.5/24のテント泊は雨で中止。
  「伊那の山仲間」の掲示板に6/6の念丈岳縦走計画が書き込まれた。これに参加しない手はない。早速メールで参加を申し込む。S君とYさんの3人で参加申込。ところが6/6が雨で6/7に順延となり、S君は法事のため取り止めとなり、Yさんと参加した。中津川から飯田市周辺は豪雨である。心配しながら鳩打峠に上がった。前夜の宴会だけKさんも駆けつけた。久々の宴会で盛り上がった。
 6/7の未明、一台の車が横付けしたことも知らず寝ていた。続々到着する車。4時過ぎには目が覚め、急いで御飯をかき込む。主催者の浅井氏、酒井氏にまずはご挨拶。聞けば20名の参加であった。配布された名簿を見ると近在の人が殆どで名古屋市と下呂市が遠い方からの参加であった。
 5時、予定通り出発する。カラマツ林の中をゆっくりしたペースで登られるので助かる。以前はあったモノレールも今は撤去された。30分から40分毎にポイントで休む。烏帽子岳へは4時間余りで登頂した。あいにくガスで遠望は閉ざされる。
 烏帽子岳から池ノ平山に向う。シラベの原生林の中の笹がきれいに刈り払われて歩きやすい。これも念丈倶楽部の奉仕である。山頂までは単調な樹林の道であった。山頂は矮小化したシラベが生え、背の低い笹が覆う。ヒカゲノカズラも見た。シャクナゲも見るが今年は咲かないようだ。
 池の平とはいうが池が見えるわけではない。高層湿原である。登山道は最低鞍部まで下がって又登る。稜線上からは奥念丈、越百辺りが見えた。やがて念丈岳の一角に着いた。鳥越峠への道は刈り払いがないため藪っぽい。左へ行くと懐かしい美しい山頂である。何時登っても美しい山頂の風情だ。白砂青松である。南に見える美しい山は飯田市の風越山であった。違った角度からの風越山もいい。
 12時過ぎ、上澤新道を下る。この道は上澤さんの尽力と聞いた。平成19年3月2日に他界された。後進の人らは尊敬の念を込めて上澤新道と名付けた。やや急な道を下ると樹林帯になり、穏やかになる。笹の切開かれた道を下る。約45分後、左に谷が見え、すとんと下ると小松沢の流れを跨ぐ。貴重な水場である。上澤の岩清水と名付けられた。一杯掬って飲むと美味い。夏でも涸れることない常水として認知されれば訪れる登山者も増えるかも知れない。
 沢から稜線に向って高度を稼ぐと美しい樹林の道になる。背の低い笹と樹相が相俟って自然の美をなす。前方に崩壊箇所が見えたら大島山は近い。崩壊の縁を辿って笹の道を登るとさわやかな大島山山頂である。山頂からは伊那谷の町が見え、遠方には南アルプスも見えた。西側には安平路山がすっきりした山容で聳える。
 眼下の川は飯田松川である。南の風越山はやや大きく見えてまたもカメラを構えてしまう。手前には野底なる地名があるはず。野底の猟師安平は狼を飼い源流の広大な沖積平野・御所平で活動していた。昔は安平路山と鳥越峠間に道を作り獲物を追っていたという。安平が開いた路のある山だから安平路山という。以上は古い「岳人」に片桐盛之助が書いている話。
 大島山を下る。開かれたばかりの笹の路である。数分でテント場と水場(5分)に着く。再び長い笹の路をジグザグしながら下る。登りにとると手前のコブを大島山と間違うそうだ。本高森山までも長い下りと登り返しがある。樹林の中なので時折吹く風が涼しく疲れを癒す。
 本高森山に着いた。以前に登ったからこれで大島山との間がつながった。気になっていた未知の部分がなくなりホッとする。南アルプスでも百間洞山の家と聖岳の間がブランクで気になり、主峰は既登でもまだ南アルプスとは離れられない。山に関してはつくづくしつこい人間と思う。
 本高森を下る樹林の下にきれいな山道が続く。里山の足に優しい路である。アルプスの険しい路ではなく無理のない路である。こんな路も好きな路である。やがて林道に下った。17時25分。鳩打峠から12時間余り。長い道のりを歩き通した実感は足が教えてくれる。
 予想以上に大きなバスに驚き、路ぎりぎりの巧みな運転に感心しているうちに峠に戻った。
 念丈倶楽部代表の浅井様、事務局の酒井様ありがとうございました。
同行の20名の皆さんもありがとうございました。脱落者なく無事周遊を果たして万々歳でした。

俳句 念丈岳2009年06月08日

  続々と参加者集う夏暁

  烏帽子へのまだ薄暗き登山口

  山涼し一枚重ね着して登る

  夏雲に覆われてゐし烏帽子岳

  ボランティアにて守られし登山道

  矮小な夏木や池ノ平山

  上澤は見つけし人や山清水

  念丈の白い砂礫と青嶺かな

  虚空蔵と風越山も夏の山

  仲間より実梅一つをもらふなり

  青葉山本高森へ辿り着く

  伊那谷の遠くより聞くホトトギス

  休む度無数の蝿に集られて

  悠然と聳える夏の安平路 

  赤石の雪溪も痩せ夏の山

  コイワカガミことに赤味の強きなり

  靴擦れを起こす素足を脱ぎて見る

  カモシカのごとき登山の一日かな

訃報 Oさん逝く2009年06月09日

 昨夜元山仲間のOさんがガンで亡くなった、との訃報を聞いた。山に同行した記憶はないが編集を手伝ったことはある。会を辞めたのも闘病だったのかと振り返る。合掌!

  日焼けして負けず嫌ひの顔を想ふ

 隊長の原真さんらとソ連のコムニズム峰に登頂した。今年3月原さんが先に逝き、若い貴方までも後を追うなんて。先月亡くなったU先生とはある時、理詰めの口論をハラハラしながら聞いた。山屋同士は誰とでも遠慮なく喧嘩する。後で和解したと聞いてほっとした思い出が甦る。

山名談義 大島山と念上山2009年06月09日

 中央アルプスの参考書として永く愛読したのは『信州山岳百科Ⅱ』(信濃毎日新聞社昭和58年)であった。
 6/7の念丈岳縦走登山に参加した人達の会話に「おおじまさん」や「おおしまさん」というので調べると「伊那谷の山」のサイトでは「おおしまさん」であるが信州山岳百科Ⅱでは「おおじまさん」であった。もう一座高森町の941mのおおじまさんがあることも知った。吉田山の前衛である。それに地名の大島山もある。
 『新日本山岳誌』(ナカニシヤ出版2005年)の烏帽子ヶ岳2195mを調べると文中に念丈倶楽部が大島山周辺の登山道を整備したことも書いてある。但し、大島山の標高が2143mとある。信州山岳百科では2156m、「伊那谷の山」では2130mであった。
 2.5万図は2143mと独立標高点が印刷されているのでこれが正解であろう。2156mは北の無名の独立標高点が2158mなので書き間違いか。2130mはどこから来た数字だろうか。20万地勢図にも記載はない。
 信州山岳百科Ⅱには『大島村誌』からの引用があり、念上山と大島山が混同して用いられたことが分る。又、昔念丈岳は袴越山ともいったようである。いずれにせよ大島村の入会山であったから大島山となったのである。本来なら最高点の2158mの標高点のピークに与えたい山名である。

下條村の親田辛味大根2009年06月10日

 念丈岳の縦走はほんとに楽しかった。そして山以外にも楽しみを見出せたことは収穫であった。温泉?いや大根である。
 20人の隊列でネームプレートに氏名と住所が書いてある。その名前に下條村とあったので辛味大根のことを聞いたら図星であった。自宅でも栽培されているそうだ。
 検索で調べると「親田辛味大根 :下條村親田地区で栽培される地大根。蕪のような扁平の球形で、肉質は緻密、水分が少なく貯蔵性に優れる。一般的な青首大根に比べ、辛味成分イソチオシアネートを4倍近く含む。薬味として各種料理に添えられるが、中でも蕎麦との相性は抜群。江戸時代正徳年間(1713年頃)に尾張徳川家に献上された記録が残っている。」にアクセスできた。
 これまでにもコンニャク、鯉の旨煮、地魚、地酒、味噌、米、果物など地物を帰りがけに購入した。しかし野菜にまで及ぶとは思わなかった。きっかけは今年3月奥越の山スキーの帰りに平成の湯で食べた「越前蕎麦」である。要するにおろし蕎麦である。これが今までにない美味いものであった。特に辛味の効いた大根が美味かった。自宅でも様々に食してみたが普通の青首大根の根の部分でも辛味は今一である。
 そして偶然、新聞で下條村の辛味大根を知った。蕎麦との相性がいいようだし蕎麦屋でも用いられているとか。以来手に入れたい、と気になっていたのである。そして前を歩く人がその大根を作っているとあっていろいろ伺ったのである。駒ヶ根付近にある親戚筋の蕎麦屋にも送るとか。その蕎麦屋の名前と場所をもっと聞いておくべきであった。