飛騨・茂住雑感(1等三角点標石が語ること)2009年06月03日

 六谷山は1等三角点の山である。この山に1等三角点の標石を埋めると、選点したのは明治27年のことだった。ふと閃いたのは明治27年という時代である。志賀重昂の『日本風景論』が出版された年ではないか。この本から日本の近代登山は始まった。
 W・ウエストンの『日本アルプス 登山と探検』を読むと明治21年に来日し、明治24年から同28年まで日本の山々を登山した。明治26年8月には笠ヶ岳に登山するために富山から船津(今の神岡)までは人力車に乗っている。猪谷を越えた辺りから茂住までは降りて徒歩で行く。「茂住は小奇麗な小さな部落」と書残す。跡津川付近でも徒渉を余儀なくされて58Kmに12時間もかけた困難な旅であった。何と六谷山に1等が埋まる前にもうW・ウエストンはこの神通川の峡谷を通過しているのだった。
 小島烏水の友人の岡野金次郎がこの本を偶然見つけたのは明治35年のことであった。
 烏水の『アルピニストの手記』を読むと明治33年には乗鞍岳登山のために初めて飛騨入り、明治35年には槍ヶ岳登山のために、また大正3年には双六谷探検もしている。飛騨への径路はいずれも富山経由と見られる。(そうは書いてないが)
 面白いのは俳人でもない烏水が高原川左岸にある西茂住の野沢凡兆の文字書岩(いわゆる句碑)を何度も飛騨入りしながら見落としてきたことへの後悔の念から再訪していることである。同書の中の「飛騨山中にある凡兆の句碑」と題した随筆がそれだ。
 実は5/30に漆洞を下山してまだ宿へ行くには時間が早いので年来の希望を果たすために寄り道を企てた。いつもR41を通過するたびに文字書き岩の案内板を目で追いながらドライブしていた。いつも発見できなかったから神岡町の図書館で下調べした。茂住駅の1.7K南とある。R41を富山に向って走るが茂住駅は発見できない。猪谷まで行き過ぎた。地図を良く見ると旧神岡線はもう廃線であり、高原川の左岸にあったのだ。戻って茂住の手前に川にかかる橋を渡るとすぐに茂住駅だった。廃線で鉄路は錆びていた。
 駅からしばらく走り、お堂で車を停めて探す。見つからず、近くの家で訪ねると庵谷ダムの向こうだという。降雨で道は不安なので置いたまま歩いた。ダムから先は鉄塔巡視路の歩道であった。約20分歩いたが見つからず引き返す。すぐ見つかると気楽に探した結果が宿へは30分以上遅刻になってしまった。
 雨であわてて歩いたが恐らく江戸時代のこととて地味なものであり、良くある礎石の上に建てた自然石の立派なものでは無さそうだ。検索で見ると崖に近い雰囲気でそれなら見たような気もする。  
    わしの巣の樟(くす)のかれ枝に日は入りぬ   凡兆
 金沢生まれで京都の医者を営んでいた凡兆は江戸時代の秘境に近い飛騨の旅に来たもののこの付近の籠の渡しで前途を見切り、引き返してこの句を詠んだ、という。それを130年後に飛騨高山の国学者で俳人の加藤歩簫が彫らせた、という。岐阜県の史跡であるにしては粗末な扱いだ。R41の辺に案内板位は設置して欲しい。
 今度はゆっくり時間をとってまた行きたい。