塩の道調査2023年07月08日

 7/8は梅雨末期の変化しやすい天気で登山にはあいにくの空模様でした。それでも出かけたのは6/26の塩の道(中馬街道)の古道調査で漏れた場所の再調査でした。
    豊田市平沢町の忘れられた古道へ
 まずは豊田市平沢町の阿摺川左岸に残る古道の確認です。R153沿いの平沢町は自動車修理工場があって入り口が隠れて分かりにくかった。交通量が多いので流しながらR153の空き地に車を停めて左岸に渡り八柱神社にも参拝して目的を達成。この神社は山中にありR153からは見えない。古道はよく整備されているが、途中で民家のある対岸に渡ってR153に合流する。井戸洞付近があいまいなまま通過した。稲武の小田木にあるという馬の水飲み場は確認できなかった。
    根羽村で古道整備に汗をかく篤志家に出会った話
 次は根羽村に入った。R153から分かれて民家沿いにある道をたどった。これは成功した。なぜなら「中馬街道(ちゅうまかいどう)」という案内板を見たからだった。しかも新しい。特に根羽村中野から右へ入るとしばらく道幅があるがより細い道へと「中馬街道」が導く。小川川の右岸の横旗の橋を渡る手前で車道は終わった。橋のたもとに「中馬街道」の看板があり、草が刈ってあるので歩いて見たらすぐ草茫々になり左から流れる谷川に杉の丸太の橋がかけて在りそこで引き返した。
 横旗の最奥の民家のSさん宅に尋ねたらそれは自分でボランティアでやったとのことだった。阿智村、平谷村の三村の有志が集まって古道で村おこしを始めたらしい。馬頭観音の解説などができる古道ガイドも養成するとか。古道に理解のある良い人に出会えて嬉しかった。村や県から補助金をもらったのか問うと「否、それはもらわない方が長続きする」「もらって実施しても無責任な結果に終わる」と中々に辛口の反応があり、信州人の自立心の強さを垣間見る気がした。看板だけでも120万円はかかったらしい。日当はなし、ガソリン代は自前だ。つまり手弁当で自分たちの村にある「塩の道」の歴史遺産を都会人に示そうというのだ。
 何時に集合し、何時間で歩いて、温泉宿で旨いものを食っているだけなら観光である。「お前さんの口から木地師の言葉が出て来た」「橋の上で滑って怪我しても自己責任ですよ」という。自分は山岳会会員で「山での事故と弁当は自分持ち」と教えられています。と回答。木地師に関心を持ったのは随分昔のことである。南信州の各村々には木地師の存在が濃厚である。名古屋、岡崎、豊橋などの大消費地があるから木地製品で食べていけたのだ。
 飯田市と遠山谷を結んだ秋葉街道の小川路峠への途中で11体の木地師の墓石群を見たことがある。誰も供養されないままに山の人生をひっそりと終えて山に埋もれる。三河の段戸山中でも菊の御紋入りの墓を見た。誇り高い職業人なのである。おそらく明治になり、焼き畑農業の禁止、戸籍の編製、納税、兵隊の招集とともに木地師は山中をさすらう人生を終えねばならなかった。墓も木地から石になった。
 閑話休題。「名刺は持っているか」というので名刺交換すると肩書は根羽村村議会議長とあった。当方も山岳会と行政書士の名刺ですっかり信用されたようだった。
     矢作川源流の平谷村へ
 根羽村の次は平谷村だ。地形図で921mある西川から右の脇道に入ってみた。ここにも古道の痕跡があった。入川を渡り向町に行くと大きな馬頭観音を見た。そして柳平の民家の並ぶ風景は言わずもがなの古道の痕跡である。柳平の地名は山間に珍しい平地であるが矢作川源流の柳川の氾濫で形成された沖積地であろう。ここは役場、道の駅など主要な建物が並ぶ。柳川右岸の道(古道)を行くと平谷村最奥の靭(うつぼ)に着く。ここでフロヤ沢に右折して平谷の大滝を見に行った。宣伝するだけに立派な瀑布を掛けている。
 戻って靭の古道を行くと廃業した旅館風の屋号の廃屋が数軒はあった。かつては賑わったであろう馬方衆は歴史の彼方に消えて忘れられていった。この先の浪合までは旅館はないからここで泊る馬方も多かっただろう。
 この先で「矢作川源流の看板のある」村道と古道に分かれるので右折。すぐに二岐になる。廃道になった村道には車両が入れないようにゲートが打ち込んである。右の古道は林道になっており村役場に許可を得よ、とあった。車で入る場合は許可制になっている。鍵は掛けてないので歩行者は入れる。おそらくR153の1163mへつながるのだろう。次の機会に歩いて見たい。現在の治部坂峠の北に実線があるのでこれが古道かも知れない。
   阿智村の古道上の関所跡を探る
 これで終了と思ったが、旧浪合村まで足を伸ばした。目的地は治部坂川右岸の深沢の浪合の関所跡だ。信玄は西へ西へと攻めて足助の出来山まで侵攻している。出来山は金鉱山の山であり、足助側に信玄沢の名前も残る。そもそも沢は木曽山脈の東側の呼称である。西は谷という。同じものでも東西で違いがある。西から攻めてくるのを防ぐ目的で関所がある。
 根羽村と稲武町との長野愛知の県境はずいぶんおかしな設定で、郷土史家に疑問をぶつけると根羽村は元々は足助庄だった。つまり三河国であったが信玄に攻められて境界が移動したという説を聞かせてくれた。
 中々に立派だが史実通りのものだろうか。すると関所の延長が古道だからトンネル手前の車道は古道ではないと分かった。
 寒原峠から先の脇道は村道になっている。結局大野まで走ってしまった。落石、路肩決壊等はなく安全に歩けそうだ。3箇所のトンネル内の徒歩での通過を回避できる見込みが付いた。
 すっかり暗くなり、平谷温泉(夜8時までだが受け付けは夜7時)には10分遅れで入湯できなかった。

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