総会2013年04月02日

 今日は山岳会の総会の日。午後、顧問先を出社して丸の内の事務所で雑用を済ませて、上前津の生涯センターへ。先発は会報制作で15時から来ている。総会資料、会報冬号をコピー機で制作する。
 18時半から総会。会員は退会6名、入会4名と漸減傾向で30名を割った。内、山岳共済加入のための愛知岳連会員は20名と健闘している。昨年は山岳会創立50周年記念だったが、10年前の40周年記念時には60名いた会員数は半減したことになる。高齢化(病死、病気など)で減少が加速するのは分かるが若い人が家庭や仕事に引っ張られて会に入らない。山岳会ではなく、登山の魅力を訴える努力が欠かせない。
 昨年の事業を報告、役員改選、会計報告、規約の改正などに取り組む。退会した公務員OBが作った条文が今は理解できなくなっていること、現状に合わない条文を改正した。続いて、定例会に移る。
 4月、5月にかけて多くの山行予定が挙げられる。これが会の活性度のバロメーターになる。要するに山行のお世話をする人がいなくなれば、会は有名無実になり、解散状態になる。300名の会員を擁しながら雲散霧消した会もあった。
 山に行きたい人、特に連れて行って欲しい人は数多いる。だから、バスハイク、ツアー会社は盛況である。
 仲間と行くか、お客さんとして行くか。山岳会は仲間作りの拠点としてある。今はネット上で仲間を得る人も多いが遭難時の対応が難しい。月1回、定例会に顔を出す。こんな生活を28歳以来続けてきた。これからもお迎えが来るまでは頑張るぞ。

居酒屋にて2013年04月04日

 4/2の総会のあと、W君と語らって、50周年記念誌を初代会長Iさんに贈呈しましょ、との話になった。それで4/3の夜、打ち合わせて、中村区で経営する居酒屋に繰り出した。先客はなく、やあやあ、久しぶりとご挨拶。Iさんが23歳のとき会が結成された。名古屋市交通局の市電、市バスの職員有志であった。贈呈は大層喜んでもらえた。
 それからIさんは6年ほどで会長を降り、勤務先も退職されて自営になった。幾星霜を経て、頭に白いものがちらつくお年になられた。今は山菜採りが実用をかねた趣味という。W君はフキミソのみならず、蕗の天ぷらを注文した。
 何はともあれ、ビールを注文。付け出しにはひるがの高原で採ったという蕗の薹のフキミソが出された。春の香と苦味!野生の味を堪能する。今回の行事は会員のみで、YさんのようなOBを取り持つ古参会員が退会してしまい、内輪だけで済ましたと報告。40周年の盛大さに比較すると50周年は地味に終わった。
 しかし、何せ半世紀である。大した記録も誇るべき実績もない会であるが、個人的には、山は当然として人間にも興味を持たせてくれた。血縁、地縁、職業の縁、学校の縁など人はいろいろな縁で結ばれるが、登山の会は好きなことをする縁だから好縁であろう。
 閑散とした居酒屋に突然、おなじみらしいがちょっと場違いな風情の珍客が舞い込んできた。自宅からタクシーで来られた由。マスターと懇意だから相応の年齢の老婦人である。異次元に住まう人のようだが、何かと話の中身がシンクロナイズされて、会話に断絶がない。
 1時間ほど軽く飲んで帰る積りが、何と11時近くになってあわてた。3時間も居座ったことになる。並んだビールはこちら二人で4本、老婦人の方も2本。いける口のようである。アルコールの勢いで他人の私に打ち明ける亡くなられたご主人の思い出話が切ない。この居酒屋にはご主人の思い出が亡霊のように残っているのだろう。

信州山岳ドライブ登山①2013年04月08日

長峰山からの北アルプスの眺めー左から鍋冠山、大滝山、蝶ヶ岳、常念岳、右手前の黒い山は有明山、向こうは燕岳など
 4/5から4/7まで信州の山岳路をドライブした。帰名後、メーターは900kmに及んだ。主目的は安曇野の一角に居を移した山岳会の先輩Aさん宅を訪ねることであった。しかも、予後の身の高齢の友人のNさんをともなうこともあって登山の目的は抑えたのであるが、体調不良から参加を取りやめた。結果、80歳近い人、70歳近い人との3人で行くことになった。

 4/5、好天を期待できるのは今日だけとあって、7時、名古屋を出発。確かに天気は良いが、良すぎて、車中で汗がにじみ出る。何せ、信州の春だからと3月中旬を想定したが、構えすぎた。駒ケ岳SAでTシャツに軽い上着に着替えて丁度よい。

 10時半、豊科ICから安曇野ICに変更されて、初めて利用する。最初は、光城山(ひかるじょうやま)911.7mに向かった。ICから左折、R19に出て、左折。田沢駅近くの交差点から県道57に右折するとすぐに林道入り口があるので左折。林道は走りやすい。すぐに登山口に着く。

 ここに車を置き、空身で出発。最初は遊歩道の案内に引っ張られて、右へ行くが、これは北周りコースで、山頂には向かわないので、近くの小屋を目指したのですが、どうも山頂という雰囲気ではない。おかしい、と引き返した。登山口で大きな案内の看板を見ると、山頂へ通じる車道をそのまま行けば良いと知った。

 車止めから桜並木を縫って、わずかに5分ほどで北アルプスの眺めの非常に良い山頂に着いた。山頂には古峯神社ががあり、かつては山城だった。三角点もすぐ近くにあった。山名の城山の由来である。光は山麓の地名であった。桜の開花にはまだ早いが、中々の名所らしい。

 戻って、長峰山933.5mに向かう。山上のスカイラインを行くと、長峰山直下に着く。ここの山頂は巨大な展望台を建設中で近づけなかった。(HPによると4月下旬の完成予定)虎ロープの周囲で、特に安曇野側にはハンググライダーのゲレンデとして開かれている。立木もなく、芝生の緩斜面になっていて、家族連れにはもってこいの山である。ここからの眺めは一段と北に開けている。展望盤もあり、この時期は素晴らしい。

http://www.city.azumino.nagano.jp/kanko/enjoyazumino/trekking/hikaru_nagamine.html

http://w1.avis.ne.jp/~nakajima/kaisetuchu/hikarujouyamatxt.htm

 眺めを堪能した後は、Aさん宅へ向かった。林道を道なりに下って行くと県道302に出て、R19を走ると明科駅はすぐだった。R19の塔の原の信号から県道51に右折し、Aさん宅の地へ行く。池田町の道の駅はスキーや登山の往復で仮眠したり、休憩するがすぐ近くだった。

 Aさん宅は山腹に建っていた。明らかに農家ではない、瀟洒な北欧風のデザインは、都会からの移住の家と分かる。そんな家が、農家に混じって、あちこちにある。入らせてもらうと、マンションの一室を切り取った感じで違和感はないが、田舎に来た感じもしない。家は都会的だが、眺めは北アルプスを見放題という贅沢なものである。特にいまどきは素晴らしい。そのために訪問時期も今を選んだ。

 格別の暖かさは今日だけですよ、と奥さんに言われた。梅の蕾が見る見る開いてくる。木蓮の蕾も大きくなる。木々もみな温度に気を許して開花を促されているようだ。

 桃の花の強めのピンク色に、真っ白な北アルプスと静かな山村風景のたたずまいはいつまでも失わないで欲しい。

 私が勝手に描いていたのは、入ると三和土の土間に台所、風呂などの水周り、上り框の奥に座敷があり、お茶の間、客間、仏間、といった間取りであった。要するに田舎の家である。

 この家に、高齢の御母堂を伴い、奥さんを説得して田舎暮らしを始めたのであった。息子さんは東京で職を得て自活し、娘さんは信大医学部の医師として松本市で家庭を営んでおり、中々に戦略的な人生設計に感心もする。老後の心配の一つには医療があるが、身内におればこんな心強いことはない。

 Aさんは「安曇野だより」という小冊子の発行を始めた。日常生活や登山、釣り、農作業、家族の話題、山の本、交友録を綴った。これが友人、知人らに配ると好評で、知人を通じて見知らぬ人からも催促されたらしい。なぜなら、Aさんの定年退職後のハッピーリタイアメントに好奇と興味の心をもたれたに違いない。

 私も恵贈を受けたので、丸山健二『田舎暮らしに殺されない方法』(朝日文庫)を引用して、賞賛と心配の入り混じった礼状を書き送った。
 友人の多いAさんのことだから、そして東京からも訪ねてくる友人が多いらしく、田舎暮らしにありがちな孤独感を味わうことも無さそうである。

 天気は崩れそうには無く、まだ時間もあるので、麻績村の聖山へ行きましょうと提案したら、みな賛成してくれた。Aさんの奥さんも同行してくださる。県道51をまたR19まで戻る。明科駅の先でR403に右折すると篠ノ井線や長野自動車道と並行する山岳路を走る。聖高原駅を見て、道路は山間の小盆地から羊腸の道を登り、聖湖に着く。その先に猿ヶ馬場峠がある。

 右折すると一本松峠へ行く。冠着山(姥捨山)1252.2mの登山口になっている。一本松は井上靖原作『通夜の客』の映画「通夜の客から ある愛」のロケ地であった。28歳ころの美しい有馬稲子の代表作である。この映画をTVで観た。その後、ネットで松竹からダウンロードして観たが、背景に北アルプスの山なみが出てくるのでびっくりした。山陰の中国山地では絵にならないので、ここが選ばれた由。

 聖山へはR403の聖湖から左折する。狭くて、タイトなカーブの登り坂をエンジンを唸らせながら登坂する。雪が解けて地肌がでたばかりの感じである。いくつかのポイントを過ぎると、いよいよ山頂への最後の看板を見る。白樺湖から聖山の北面に開かれたスキー場の斜面を登る。山頂直下まで道は続いていたが、小広いところに止めた。蕗の薹が一杯生えている道を徒歩で5分?ほど喘ぐこともなく、1447.1m山頂に着く。平成5年に改埋された右書きの一等三角点本点の山である。

 周囲の一等三角点を思いつくままに挙げてみると、前常念、鉢盛山、前穂高岳、白馬岳、武石峰、権見山、須坂基線、髻山、陣場平山、井上山、雁田山、斑尾山、岩菅山辺りが視野に入ると思われる。

 周囲は360度の大パノラマだ。北アルプスは言うに及ばず、戸隠高原、志賀高原、上信高原など。筑北三山の一つで最高峰、ここは2回目の登頂であるが、四阿屋山は既登、残る未踏は冠着山である。長野県のヘソのような位置にある。ちょっと開発し過ぎであるが、楽してこのパノラマは感激する。

 堪能後は、蕗の薹を摘みながらの下山となった。岐路はR403へ戻らず、北の道を辿り、狭隘なR19へ下った。そこから、枝道に入り、峠を越えると県道51へぽんとでた。Aさん宅へはすぐだった。

 夜は食事しながら、酒を飲み、山談義に花が開いた。

信州山岳ドライブ登山②2013年04月09日

長峰山からの北アルプスの眺めー鹿島槍、右は五竜岳
4/6(土)、昨日の晴れ間は大いに楽しませてもらった。ドライブとはいえ、山を三座もゲットできた。さすがに今朝は、曇天である。しかし、雨は降っていない。どこかへ行けるんじゃないか、とまた行先の相談で、持ち出したのは荒倉山(最高峰は砂鉢山)の山腹にある鬼女紅葉(きじょもみじ)の岩屋である。これもすんなり決まった。

 県道51に出て、大町市で農免道路に入り、三日町北の交差点で県道31へ右折。美麻村を通過し、権見山の近くを走りながら、通称オリンピック道路(長野大町線)に出る。長野方面へ右折し、小川村役場の看板まで走る。ここから鬼無里村へ貫通する道路はさして広くも無く、カーブの多い山岳路であるが仁科三山(爺、鹿島槍、五竜、)を眺めるポイントが何箇所か儲けられている北アルプス展望の街道になっている。今日はあいにく、乳白色に霞んで見えにくい。天気が良ければ、五竜岳の武田菱もはっきり見えるはずだ。

 小川村から鬼無里村(現在は長野市鬼無里地区)へ峠を越えると、急カーブの連続する山坂になる。ここからは一夜山から戸隠連峰の眺めがいい。谷底に着くとR406を右折。すぐに最初の目的地の松巌寺へ着く。旧鬼無里村のHPからコピペすると
■松巖寺
この地には鬼女紅葉の五輪塔を供養する鬼立山(きりゅうざん)地蔵院がありましたが、元和元年(1615)村人たちは寺院を建てて、開祖に北安曇郡小岩獄村(現穂高町)青原寺より松巌芳祝(しょうがんぼうしゅく)禅師を迎え、師の名をいただいて松巌寺としました。徳川幕府は寺領を寄進し、帰依した真田家は高40石の諸役を免じています。

現在の本堂は、欄問を曹洞宗の開祖道元禅師一代記で飾り、格天井(ごうてんじょう)には児玉果亭(こだまかてい)の高弟藤原紫僊(しせん)が描いた花鳥画がはめられています。村内の木食仏と鬼女紅葉伝説の解説は、旅人にはありがたいガイドです。

「[[[■鬼女紅葉(きじょもみじ)
 今から千年ほど前のこと、会津の伴笹丸・菊世夫婦は第六天の魔王に祈って娘呉葉(くれは)を授かりました。娘が才色備えた美しい女性に成長したとき、一家は都に上って小店を開き、呉葉は紅葉(もみじ)と名を変えて琴の指南を始めました。

 ある日、紅葉の琴の音に足をとめた源経基(みなもとの つねもと)公の御台所は、紅葉を屋敷に召して侍女といたしました。紅葉の美しさ経基公の耳にも届き、公は紅葉を召して夜を共にしました。経基公の子を宿した紅葉は、公の寵愛を自分のものだけにしようと、邪法をつかい御台所を呪い殺そうと謀りました。

しかし比叡山大行満津師の法力で企みが露出し、紅葉は捕えられ、経基公は生まれ来る子を哀れんで、罪を減じて彼女を信濃戸隠へ流しました。

 信濃に至り、川をさかのぼると、根上り(ねあがり)の山里に出ました。「我は都のもの。御台所の嫉妬で追放の憂き目にあいなった」と語る麗人を純朴な里人は哀れみ、内裏屋敷を建てて住まわせました。紅葉は喜び、里人が病に苦しむと占いや加持祈祷をもって病を治してあげたのでした。

 紅葉は、付近の里に東京(ひがしきょう)、西京(にしきょう)、二条、三条、四条、五条などの名をつけて都を偲んでおりましが、月満ちて玉のような子を産むと、一目経基公に見せたい思いにかられました。そして、兵を集め、力ずくで都へ上ろうと考えました。

 そこで、良く尽してくれた根上りの里人には「経基公より迎えが参ったので京にもどります」と言いおき、戸隠の荒倉山の岩屋に移ると、戸隠山中の山賊を配下にし、村々を襲わせて軍資金を集めました。
 その悪事が冷泉天皇の知るところとなり、天皇は平維茂(たいらの これもち)に紅葉討伐を命じました。

 維茂軍は山賊どもを打ち破り、紅葉の岩屋へ押し寄せますが、紅葉が妖術をつかうと、たちまち道に迷いました。妖術を破るには神仏の力にすがるよりほかないと維茂は悟り、別所温泉北向観音堂に籠って満願の日に一振りの宝剣を授かりました。意気あがる維茂軍を、またも紅葉は妖術で退けようとしましたが、術が利きません。やむなく雲に飛乗って逃げ出ました。

 このときに、維茂が宝剣を大弓につがえて放つと、紅葉の胸に刺さり、紅葉は地面に落ちて息絶えました。享年33歳と伝わります。
 維茂は水無瀬(みなせ)の厳上に一堂を建立し、紅葉の持仏の地蔵尊を祀り、五輪塔を建てて「釜石紅葉大禅尼」の法名をおくり紅葉の菩提を弔いました。
以上
 次は戸隠村柵の安昌寺へ。R406から柵(しがらみ)地区へ登ってゆく。右往左往させられるが思い出したように案内板があるので行きつ戻りつしながらのんびりした高原の山里・柵へ着く。目の前には飯縄山が優しく、美しい山容ですっくと聳える。
 すぐに安昌寺に行く。ここが鬼女紅葉の本拠地で、菩提寺となっている。境内の近くに供養の塔が建っている。
 ここには本来敵同士の惟茂と紅葉が一つの位牌になって祀られている。三村養益の画幅がある。謡曲の詞に合わせて描かれた。江戸時代末期の作品。
 ここから、荒倉山の荒倉キャンプ場へ。幸い天気は持ちそうですが、春雷が聞こえます。何とかなるさと、傘も持たず、空身で登ります。紅葉の岩屋は約35分ほどかかりますが、蕗の薹を摘みながらですから中々、捗りません。一茶の句碑がありました。
  鬼の寝た穴よ朝から秋の暮     小林一茶

 一茶もここへ来たんでしょうか。鬼女の化粧水とか、後から付け足したような細い沢水に命名してあります。坂が急になると2番目の小さな鳥居をくぐり、杉林の奥に岩屋がありました。左の穴で15mの奥行きがあり、右は浅いながら、ビバークになりそうな深さはあります。もちろん今は、神聖な場所ですから使えませんよね。
 驚くのは観世流の能のサークルの札が沢山差し込まれています。能「紅葉狩」は多くの作品につながったそうです。

ウィキペディアからコピペ ○は筆者の追記
能『紅葉狩』- これを元に多くの古典芸術が成立した。
歌舞伎『紅葉狩』
神楽『紅葉狩』
『紅葉狩』上村松園の美人画
○松巌寺の中にありました。
陰陽座『紅葉(くれは)』(作詞・作曲: 瞬火)紅葉伝説と歌舞伎『紅葉狩』基にした楽曲
歌謡曲『鬼無里の道』(作詞: 佐藤順英、作曲・歌: 西島三重子)
http://www.youtube.com/watch?v=yECLEIG29X0

鳥山石燕『紅葉狩』(『今昔百鬼拾遺』より)
漫画『鬼切丸』(作:楠桂)
幻想のアヴァタール
以上

 無事、下山すると待っていたかのように雨が降ってきました。山頂にこそ立てませんでしたが、伝説と歴史を訪ねる山旅は終わりました。
 空腹を覚えたので蕎麦屋と兼ねた鬼無里の湯に行きましたが、あいにく4/9まで休業中でした。仕方ないので、R406を辿って白馬村に峠越えし、目当ての蕎麦屋は休業中で、一軒空いていた蕎麦屋で空腹を満たせました。近くの八方の湯で体を温めて、スーパーで買い物してAさん宅に帰りました。
 夜は再び、酒を飲みながらの宴会さながらににぎやかに談笑。奥さんが取って置きのワインを1本開けて下さいました。最近亡くなられた親友からの贈り物とか。

信州山岳ドライブ登山③2013年04月10日

聖山の一等三角点は右書き(平成5年改埋)
4/7(日)の朝は雲が低く垂れ込めている。北アルプスも上部は隠れたままだ。天気予報は大きく外れたようである。台湾坊主といわれる二つ玉低気圧であるが、南岸の太平洋側の地域に大きな影響を与えたらしい。むしろ、北は軽微だったと思う。

 今日は、2泊のお世話になったAさん宅を去る日である。Aさんご夫婦も所用で名古屋へ帰るらしい。それでもこの4月、5月は友人らの訪問を受ける予定で忙しそうである。そして1年で一番輝かしい季節でもある。

 大雨ならば無理せず帰名と決めてきたが、持ちそうな感じなのでドライブ登山と、善光寺参りを果たしたい旨、提案するとOKとなった。

 かつて、一度は登ったことがあるようなないような陣場平山1257.5mの一等三角点を目指した。オリンピック道路までは昨日と同じルートを辿る。R19へ合流する手前の有料道路を迂回し、R19に一旦出る。明治橋の手前の交差点から七二会(なにあい)の山腹を走る道に左折。地図で見ると木綿糸が絡み合ったような細い道を駆け抜けて、地蔵峠を目指す。峠の広い駐車場に車を止める。季節が良い時期にはトレッキング大会があるようだ。

 大きな案内板のルートに従って林道を登ると約20分で山頂だった。ここは木立に囲まれて展望はない。少し先に展望台が設けられたが、今日のように春雷が鳴り、小雪か霰が降ってくるのでは、展望は望むべくもナイので割愛した。
http://www.city.nagano.nagano.jp/soshiki/naniai/23543.html

 同行の女性らは行きも帰りも蕗の薹を摘むのに余念がない。よっぽど、蕗の薹を摘むのがお好きなようだ。食べきれないと思うほどの量である。聞くと山岳会でお世話になっているIさんへの手土産にするそうである。やや寒い。これが本来の春の寒さであろう。R19へ下る。

 R19を走って長野市の市街地に向かう。善光寺は傍を通ったのみで参拝はしたことが無かった。境内に隣接した広い第一駐車場へ止めて歩く。料金は2時間まで500円。日曜日だが、入りは30%くらいで閑散としている。
 
 目の前に見上げる堂宇が本堂である。参道の周囲には桜などの花が植えてある。今は三部咲きといったところか。正面へ回り込むようにして、線香を購入し、着火し、中へくべる。その煙をいただく。次はびんずる尊者で撫で仏ともいう。自分の悪いところを撫でると治るという信仰にあやかる。靴を脱いで、「お戒壇巡り」の通路に下る。真っ暗だが、照明はなく、携帯電話での脚下照顧も駄目なようです。

 善光寺さんのHPには「お戒壇巡りとは、瑠璃壇床下の真っ暗な回廊を巡り、中程に懸かる「極楽の錠前」に触れることで、錠前の真上におられる秘仏の御本尊様と結縁を果たし、往生の際にお迎えに来ていただけるという約束をいただく道場です。」とある。そろそろ、お迎えもありうる年齢に近づいたから1回は体験するに越したことはない。

 よく「お先真っ暗」というと将来の希望のない例えであるが、御仏に委ねる心をゆうのであろうか。仏にすがって生きること。親鸞は他力本願を説いたように。他力とは仏の教えのこと。仏にすがらず、お念仏を申さない人間を自力といった。

 善光寺さんは無宗派という。広い心でお迎えをしていただける。
 
 本堂を下がって、仁王門までの参道を歩いて見た。両側に土産物店、食堂、名物のおやきを売る店も並ぶ。この界隈は中々の人通りがあった。本堂にに戻り、駐車場に帰った。

 世に名高い善光寺参りを果たした。

 最後は、髻山744.5mへ登るために、北国街道(県道60)を北へ走った。平出というところからりんご園を抜けて山に向かう。古い道標に従うが、林道が荒れているので途中で、車を置く。傍らにはカタクリの葉が沢山でている。これから咲くであろう。ぬかるみに気をつけながら約10分で雑木林の中の山頂に着いた。昔は山城だったらしい。

 HP長野県山岳ガイドINDEX「信州の山」から
「川中島合戦には重要な山城だった。山頂からは善光寺平の中央部にある川中島が見え、そこは上杉謙信と武田信玄が戦った地でもある。謙信はこの山頂に陣を設け、川中島を視察したと伝えられる。この時謙信は髻(もとどり)を切り、ここに埋めたのでこの名が付いたと言われたり、善光寺平から見た山容が髪を結った形に似ているからとも伝えられている一等三角点の山。
 歴史的に重要な山ではあったが、里にも近く標高も低いので登山の対象にはならないようである。北斜面は山頂近くまで杉植林で覆われているが、カタクリや福寿草の群生地があり、季節を選べば楽しめる山。」

 もうひとつのHPにも

【城郭の歴史】
 ここ髻山城址は戦国時代数次の川中島合戦において葛山城,大峰山城,旭山城,横山城,飯山城の諸城と共に宿敵武田信玄の野望を粉砕するため越後(現在の新潟県)の勇将上杉謙信の重要な砦であった。
当髻山城は本陣横山城と飯山城の中間に位置し、その眺望は大変優れ、東南には妻女山・犀川・千曲川・川中島平等敵味方の動静を見渡せ、西北には北信五岳から越後の空を見渡すことが出来る。眼下には自軍の動脈である北国街道を守った。

 弘治3年(1557)武田軍の髻山城攻撃の際の猛将・長尾政景の大奮戦、また永禄4年(1561)川中島大決戦後の撤兵収束の見事さを後世に残した名将・宇佐見定行の采配ぶり、打ち上げるのろし等々戦史を彩った幾コマかがこの城に残されている。
「宇佐見沢」(髻山入口)の「馬かくし」(城址北側の空掘)、「抜け穴」等の地名によって追想することが出来る。
                 長野市観光協会   現地案内板より
以上

 山城らしく平坦な山上になっている。また1等三角点の山は周囲に見晴らしがよい。善光寺平の俯瞰、小布施、須坂も俯瞰できる。要害の地だったことは間違いない。

 この山は明治維新後、日本の地形図制作の元になった須坂基線と結ぶ重要な山で、その証拠には全国で48箇所しかない、天測点が置かれている。
HP「新・高井野風土記」に詳細に紹介されているので必見だ。
http://www.okadanouen.com/takaino/suzakakisen.html
ブログ「ロゴスの散歩」から
http://blogs.yahoo.co.jp/cocologosjp/32619155.html
HP「長野県の探索ダイアリー」から「長野県の1等三角点」
http://thresholdhunter.web.fc2.com/sankaku/sankaku00.htm
上記の図は重要なものです。髻山、聖山、岩菅山の展望は半端じゃないから納得です。
 但し、今日は志賀高原の頭の部分が雲で被われている。高井富士はようやく山頂の輪郭が見えている。長野県に三十三座ある1等三角点のうち、二十五座に登れた。

 思わぬ天気予報のズレで三日間とも行動できて、5座登れたから満足して帰れる。豊野駅へ下り、橋を渡って、小布施の道の駅で休んだ。栗の銘菓のお土産が売られている。名所らしい。ソフトクリームを食べながら窓から眺めた北信五岳が素晴らしかった。
1妙高山、2黒姫山、3戸隠山、4斑尾山、5飯縄山

 小布施からはダイレクトに高速へ入れる。友良、山良、季節良、言うことの無い春の信州・ドライブ紀行でした。

パソコンのトラブル2013年04月11日

 パソコンのスイッチをONしてしばらくするといつも見る画面じゃない。インターネットに接続を試みようにもアクセスすらできない。ネットに関係ない写真や文書も消えた?。
 ありゃ、何だ、何が起きたんだ、とあちこちいじくるが解決できず、今ある画面から製造元のサポート電話に行き着き、電話した。

 一旦、シャットダウン
       ↓
 再びスイッチオン
       ↓
 画面のメーカー名が消えたらF8のキーボードを連打し続ける
       ↓
 SE用の画面がでて、真ん中に以前の状態に戻るの所まで下向き
 ↓キーで下がり、そこに来ると白く反転することを確認してエンター
       ↓
 再びウィンドウズ画面の流れになり、ようこそがでてきて回復を確認
       ↓
 写真や文書を確認して無事、回復した。やれやれ。

 かつて、勤務先で、トラブルがあった時、ソフト会社のSEと電話でやりとりしたことを思い出した。起動中にFキーを叩き続けてプログラムに行き着く仕掛けのようだ。
 F8はファンクションキーという。機能が割り当てられているというが、私はF7くらいしか使ったことがない。
 パソコンの上辺は優しく作られているが、中は想像を超える複雑怪奇なものである。今回も原因は特定できないが、昨夜「スリープ」の設定でPCを離れた。今朝スイッチONするとM/Sの更新プログラムが自動的に働いて、再起動されたようだった。この際に、従来の設定で起動できなかったようだ。

パソコンのトラブル②2013年04月12日

 泣き面に蜂、というように不幸なことがあると追い討ちを掛けるものです。昨夜、プリントしていたら、写真面に横線が入った。そこで、メンテナンスを辿って、ヘッドを清掃してみたりしたが改善されず。

 新品に交換して試みたが、全面的にピンク色になってしまった。

 プロパティで他のメンテを探るが、分からず。

 次は「プリンター ピンクになる」のキーワードで検索する。沢山の回答がヒットしたがよくあることなのだろう。

 原因はインク詰まり。しかし、ヘッドクリーニングをしたが改善されないので、新品に変えたが、改善されず。

 新品の入っていた箱を見ると保証期限が印刷されている。期限は2010年10月になっていた。新品にしては持ち重りもしないので乾燥してしまったのか。しかも2個も同じ期限である。絶望。

 販売店へ持ち込んで廃棄し、期限内の新品に取り替える。
すると綺麗に印刷できた。やはり、インクカートリッジの不全だったか。保証期間外だとクレームも付けられず。今度は黒まで擦れてきた。また買いに行こう。

岳連総会2013年04月13日

 14時から16時まで愛知県スポーツ会館で岳連総会が行われた。それに出席した。式次第に沿って議事進行が進められた。印象に残るのは石川会長の退任であった。最近体調が悪く、理事会でも欠席が多かった。病気とは聞いていた。退任のご挨拶もどこか元気がなかった。会長、副会長が新任された。
 1年間には、様々な事業が行われるが、遭難対策の位置づけが年々重要度を増してきた。昨年の御池岳遭難で、今月中に鈴鹿サミットの会合が持たれると説明があった。昨年だけで50件の遭難があり、36件が重要な遭難で、内16件が愛知県の登山者だった。愛知県は遭難当事者を送り出してる県ということであった。
 そこで三重県、滋賀県などが他県の遭難者の救助活動に駆り出されるカタチであるので対策の話し合いになった模様。来週は御池岳の現地に検証に行かれるとも言われた。
 これまでに事故があったかなかったか知らないが、レアケースといって見過ごすには余りにも多数の救助活動がショックだったようだ。新聞では延べ700名と報じられた。みんなああして助けてもらえるんだ、と誤解されないように啓蒙活動も必要だろう。登山口付近で遭難防止のチラシを配ることも考えているようだ。
 加盟の山岳団体数もジリ貧である。昨年度で57団体、1200名弱となった。今年は1団体が脱退する予定。以前は80団体以上はあったと記憶している。
 商業的な登山旅行会社は増加しているので登山愛好家はそちらへ流れているのだろうか。マイカーがなくとも名鉄バスハイクなどは気楽に安く、参加できる。世の中の流れは如何ともし難い。そして未組織の登山者が遭難事故を起こす事例が多い。ツアー会社の遭難事故は起きると派手に報道されるが事故そのものは少ない。
 山岳会、ツアー会社のいずれにも属さない、つまり、マイカーでふらっと仲間内だけで行く登山者の事故対策が問題だろう。

名優・三国連太郎逝去2013年04月16日

 4/15付け中日新聞夕刊で報じられた大物俳優・三国連太郎の死去(享年90歳)は大きな反響があったようだ。今朝の朝刊各紙も続報で報じている。多くの佳作に出演されたが、私には何といっても「飢餓海峡」だった。その圧倒的な存在感、人間の悲しさ、愚かさ、裏表を余さず演じて感動させる。
 中日新聞、朝日新聞とも中津川映画祭のエピソードを報じた。拙ブログのバックナンバーを辿ると、2007年10月7日、8日の中津川映画祭に行った記録がある。その時は出演作の神山征一郎監督の「北辰斜めにさすところ」を鑑賞した。地味なテーマの映画だったが、登場場面になるとパッと引き立つ。名優ならではのオーラを発していた。
 あの当時の中日新聞に掲載されたインタビューでは日本の映画界の現状を嘆いておられた記憶がある。立食パーティの最後に握手を求めると気楽に応じてくれた。
 ご冥福を祈る。

追記

 書き終ると、思い出したことがある。トークショーの際に被差別部落の出自を語られたことだ。国家権力から逃げた、ことを話された。

 その後、『「芸能と差別」の深層』(ちくま文庫)を沖浦和光さんとの対談方式で著わされた本を読んだ。第一章が俳優生活の原点で大変な波乱万丈の人生だったことを知った。出自が静岡県伊豆地方の被差別部落であること、そして芸能人も賤民層だったことをテーマにしている。自身も芸能論や芸能史を深く研究されたようだ。
 近世では人が生きるために必須の農産物を生産する農民は武士の次に置かれたが、芸能のようにすぐ消えてゆく刹那的な職能は高く評価されなかったといえる。
 エッタ、ヒニンも獣を取ったり、皮革の生産はしたが、殺生することを生業とする仕事は忌み嫌われた。木地師は山から山を移動しながら、臼、茶椀などを生産していたが、役所から把握されにくい所為か、被差別部落視されている。総じて言えるのは税金(社会負担金)を把握しにくい職能は賤民視されたかに思う。
 明治時代になっても差別は残り、就職、結婚などで渡世に苦労する人が多い。地方の一部は団結して利権を獲得し、逆に社会問題になっている。

 三国連太郎は社会の最下層から人の世を眺め、生きた。

P43
三国 
 映画を作る現場の仲間達は、みな素晴らしい人たちでした。まず、木下恵介さんから出発して、内田吐夢、山本薩夫、今井正、家城巳代治、今村昌平らの方々、そういう人たちから映画作りの現場を通して、実社会といいますか、この「人の世」を見る本当の目を培われていったんです。この人たちは決して自分がこの世の主役であるというような、だいそれた考え方は持っておられませんでした。つねに自分を脇役の存在として仕事をされていましたね。だけど、どこかに、人の世の真実を見抜く眼力を持っておられましたね。

 以上の語りには映画と監督らとの交流によって陶冶されたんだと伺い知る。

春の吟遊「信州の山河」2013年04月17日

永き日の頂上や聖山(麻績村)

フキノトウ摘みつつ下る聖山

眼前の名峰なべて夕霞

蒼天に残雪冴える常念岳(安曇野市光城山)

春雪嶺居並ぶごとし鹿島槍

みすずかる信濃の峠雪間かな

信州や岳は麗らか国境

柵(しがらみ)のはては飯縄雪残る

柵(しがらみ)の無住の寺の長閑さよ(安昌寺)

春雷や鬼女紅葉の怒りめく(鬼女の岩屋)

春雨や鬼無里村から峠越ゆ

濁りつつ迸るなり雪解川(据花川)

霞むまま白馬三山眺めをり(小川村)

春宵や山ほど積もる話して(Aさん宅)

若桜ちと咲き初めし善光寺

善光寺しだれさくらでもてなせり

モクレンの咲き誇る道善光寺

おやきなど食べて歩くや春の昼

額づけば善男善女春の昼

踏み場なきほどのカタクリ山に咲く(髻山(モトドリヤマ)

春泥に気をとられつつ山を行く

善光寺平長閑に見下ろせり

善光寺平らに蓋す春の雲

残雪の北信五岳欲しきまま(道の駅「小布施」から)