信州山岳ドライブ登山②2013年04月09日

長峰山からの北アルプスの眺めー鹿島槍、右は五竜岳
4/6(土)、昨日の晴れ間は大いに楽しませてもらった。ドライブとはいえ、山を三座もゲットできた。さすがに今朝は、曇天である。しかし、雨は降っていない。どこかへ行けるんじゃないか、とまた行先の相談で、持ち出したのは荒倉山(最高峰は砂鉢山)の山腹にある鬼女紅葉(きじょもみじ)の岩屋である。これもすんなり決まった。

 県道51に出て、大町市で農免道路に入り、三日町北の交差点で県道31へ右折。美麻村を通過し、権見山の近くを走りながら、通称オリンピック道路(長野大町線)に出る。長野方面へ右折し、小川村役場の看板まで走る。ここから鬼無里村へ貫通する道路はさして広くも無く、カーブの多い山岳路であるが仁科三山(爺、鹿島槍、五竜、)を眺めるポイントが何箇所か儲けられている北アルプス展望の街道になっている。今日はあいにく、乳白色に霞んで見えにくい。天気が良ければ、五竜岳の武田菱もはっきり見えるはずだ。

 小川村から鬼無里村(現在は長野市鬼無里地区)へ峠を越えると、急カーブの連続する山坂になる。ここからは一夜山から戸隠連峰の眺めがいい。谷底に着くとR406を右折。すぐに最初の目的地の松巌寺へ着く。旧鬼無里村のHPからコピペすると
■松巖寺
この地には鬼女紅葉の五輪塔を供養する鬼立山(きりゅうざん)地蔵院がありましたが、元和元年(1615)村人たちは寺院を建てて、開祖に北安曇郡小岩獄村(現穂高町)青原寺より松巌芳祝(しょうがんぼうしゅく)禅師を迎え、師の名をいただいて松巌寺としました。徳川幕府は寺領を寄進し、帰依した真田家は高40石の諸役を免じています。

現在の本堂は、欄問を曹洞宗の開祖道元禅師一代記で飾り、格天井(ごうてんじょう)には児玉果亭(こだまかてい)の高弟藤原紫僊(しせん)が描いた花鳥画がはめられています。村内の木食仏と鬼女紅葉伝説の解説は、旅人にはありがたいガイドです。

「[[[■鬼女紅葉(きじょもみじ)
 今から千年ほど前のこと、会津の伴笹丸・菊世夫婦は第六天の魔王に祈って娘呉葉(くれは)を授かりました。娘が才色備えた美しい女性に成長したとき、一家は都に上って小店を開き、呉葉は紅葉(もみじ)と名を変えて琴の指南を始めました。

 ある日、紅葉の琴の音に足をとめた源経基(みなもとの つねもと)公の御台所は、紅葉を屋敷に召して侍女といたしました。紅葉の美しさ経基公の耳にも届き、公は紅葉を召して夜を共にしました。経基公の子を宿した紅葉は、公の寵愛を自分のものだけにしようと、邪法をつかい御台所を呪い殺そうと謀りました。

しかし比叡山大行満津師の法力で企みが露出し、紅葉は捕えられ、経基公は生まれ来る子を哀れんで、罪を減じて彼女を信濃戸隠へ流しました。

 信濃に至り、川をさかのぼると、根上り(ねあがり)の山里に出ました。「我は都のもの。御台所の嫉妬で追放の憂き目にあいなった」と語る麗人を純朴な里人は哀れみ、内裏屋敷を建てて住まわせました。紅葉は喜び、里人が病に苦しむと占いや加持祈祷をもって病を治してあげたのでした。

 紅葉は、付近の里に東京(ひがしきょう)、西京(にしきょう)、二条、三条、四条、五条などの名をつけて都を偲んでおりましが、月満ちて玉のような子を産むと、一目経基公に見せたい思いにかられました。そして、兵を集め、力ずくで都へ上ろうと考えました。

 そこで、良く尽してくれた根上りの里人には「経基公より迎えが参ったので京にもどります」と言いおき、戸隠の荒倉山の岩屋に移ると、戸隠山中の山賊を配下にし、村々を襲わせて軍資金を集めました。
 その悪事が冷泉天皇の知るところとなり、天皇は平維茂(たいらの これもち)に紅葉討伐を命じました。

 維茂軍は山賊どもを打ち破り、紅葉の岩屋へ押し寄せますが、紅葉が妖術をつかうと、たちまち道に迷いました。妖術を破るには神仏の力にすがるよりほかないと維茂は悟り、別所温泉北向観音堂に籠って満願の日に一振りの宝剣を授かりました。意気あがる維茂軍を、またも紅葉は妖術で退けようとしましたが、術が利きません。やむなく雲に飛乗って逃げ出ました。

 このときに、維茂が宝剣を大弓につがえて放つと、紅葉の胸に刺さり、紅葉は地面に落ちて息絶えました。享年33歳と伝わります。
 維茂は水無瀬(みなせ)の厳上に一堂を建立し、紅葉の持仏の地蔵尊を祀り、五輪塔を建てて「釜石紅葉大禅尼」の法名をおくり紅葉の菩提を弔いました。
以上
 次は戸隠村柵の安昌寺へ。R406から柵(しがらみ)地区へ登ってゆく。右往左往させられるが思い出したように案内板があるので行きつ戻りつしながらのんびりした高原の山里・柵へ着く。目の前には飯縄山が優しく、美しい山容ですっくと聳える。
 すぐに安昌寺に行く。ここが鬼女紅葉の本拠地で、菩提寺となっている。境内の近くに供養の塔が建っている。
 ここには本来敵同士の惟茂と紅葉が一つの位牌になって祀られている。三村養益の画幅がある。謡曲の詞に合わせて描かれた。江戸時代末期の作品。
 ここから、荒倉山の荒倉キャンプ場へ。幸い天気は持ちそうですが、春雷が聞こえます。何とかなるさと、傘も持たず、空身で登ります。紅葉の岩屋は約35分ほどかかりますが、蕗の薹を摘みながらですから中々、捗りません。一茶の句碑がありました。
  鬼の寝た穴よ朝から秋の暮     小林一茶

 一茶もここへ来たんでしょうか。鬼女の化粧水とか、後から付け足したような細い沢水に命名してあります。坂が急になると2番目の小さな鳥居をくぐり、杉林の奥に岩屋がありました。左の穴で15mの奥行きがあり、右は浅いながら、ビバークになりそうな深さはあります。もちろん今は、神聖な場所ですから使えませんよね。
 驚くのは観世流の能のサークルの札が沢山差し込まれています。能「紅葉狩」は多くの作品につながったそうです。

ウィキペディアからコピペ ○は筆者の追記
能『紅葉狩』- これを元に多くの古典芸術が成立した。
歌舞伎『紅葉狩』
神楽『紅葉狩』
『紅葉狩』上村松園の美人画
○松巌寺の中にありました。
陰陽座『紅葉(くれは)』(作詞・作曲: 瞬火)紅葉伝説と歌舞伎『紅葉狩』基にした楽曲
歌謡曲『鬼無里の道』(作詞: 佐藤順英、作曲・歌: 西島三重子)
http://www.youtube.com/watch?v=yECLEIG29X0

鳥山石燕『紅葉狩』(『今昔百鬼拾遺』より)
漫画『鬼切丸』(作:楠桂)
幻想のアヴァタール
以上

 無事、下山すると待っていたかのように雨が降ってきました。山頂にこそ立てませんでしたが、伝説と歴史を訪ねる山旅は終わりました。
 空腹を覚えたので蕎麦屋と兼ねた鬼無里の湯に行きましたが、あいにく4/9まで休業中でした。仕方ないので、R406を辿って白馬村に峠越えし、目当ての蕎麦屋は休業中で、一軒空いていた蕎麦屋で空腹を満たせました。近くの八方の湯で体を温めて、スーパーで買い物してAさん宅に帰りました。
 夜は再び、酒を飲みながらの宴会さながらににぎやかに談笑。奥さんが取って置きのワインを1本開けて下さいました。最近亡くなられた親友からの贈り物とか。