繭相場度拍子もなく上がるとか2010年02月06日

虚子五句集から。昭和19年作。
 虚子はWIKIによると「昭和19年(1944年)9月4日、太平洋戦争の戦火を避けて長野県小諸市に疎開し、昭和22年(1947年)10月までの足掛け4年間を小諸で暮した。」のでおそらく蚕都と呼ばれた上田市辺りの相場情報をを耳にしたのだろうか。
この句に続いて
 この村に一歩を入れぬ繭景気
 よき蚕ゆへ正しき繭を作りたる
なんていう俳句を発表している。
 繭相場は大正時代は上昇し続け、昭和4年の恐慌で暴落した。そして戦時下でも繭相場は上がったようだ。
 あるサイトでは「日本の最重要な輸出・輸入の国家品目の中で、米・小麦など食品以外で保護されてきたのは絹と生糸以外にはなかった。それは伝統ある民族衣装用とか、外貨獲得の輸出製品用のほか、軽目羽二重は砲弾の火薬を入れる袋やパラシュートにも使用され、非常時には貴重なタンパク源になる重要な軍事物資でもあったからです。第二次世界大戦前、日本から絹織物の輸入が止まり、困ったアメリカ政府が、デュポン社に国の総力を上げて絹に代わるナイロンを造らせたのは有名な話である。当時は細い糸が出来ず、ナイロン製のパラシュートは重く、取り扱いが大変だったと思われる。」とあるから興味深い。戦略物資だったんですね。
 昭和20年には敗色が濃くなり8月15日ついに終戦となる。繭相場も暴落したであろう。
 山岳俳人の前田普羅なども蚕の俳句を沢山残している。訪ね歩いた山村のあちこちで目にしたであろう。
  雷鳴って御蚕の眠りは始まれり   普羅
  高嶺星蚕飼の村は寝静まり     秋桜子
  繭干すや農鳥岳にとはの雪     辰之助