トムラウシ遭難事故最終報告 追記2010年02月26日

 前日書いた指摘の中の④と⑤はD.リースマンの『孤独な群集』の分析を応用できるのではないか。
 D・リースマンはWIKIによると「代表的な著作『孤独な群衆』(1950年)において、現代社会に支配的な社会的性格を「他人指向型」と規定し、次のように表している。工業化に成功し、豊かさと利便さに浸った都市生活を享受するアメリカ人の想像力の枯渇と砂をかむようなむなしさ、そして資源と時間の浪費、偽りの人格化、欲求不満と阻害といった特徴をもつ。「伝統指向型」「内部指向型」の社会的性格との対比も論じられている。」と紹介する。
 別のサイトでは「リースマン(國弘正雄・久能昭訳)『群衆の顔』サイマル出版会(1952/1968) p32

《伝統指向型》
 伝統指向の性格に依存している型の社会では、個人生活の変動は極めて激しく、破局的ですらあるかもしれないが、社会全体の変化は微々たるものである。この社会の同調性は、個人の生まれつきの性別と身分に由来する特定の社会的役割に限定されているが、若い者に、伝統に対する自動的ともいえるほどの服従を教え込むことによって支えられている。伝統に対する服従は、それに伴う報酬とともに幼児においては、その周囲にいる一族の人たちによって、また、おとなになるにつれて、それぞれの性別集団によって教えられることが多い。

 こうして、人は他人からほめたたえられるような、難しい、いろいろな技術を身につけるとともに、その社会のある規範を破った際に、自分の身にふりかかる辱めを避ける知恵をも学びとるのである。こういう社会は、その始原的形態のままでは、今日のアメリカにはほとんど存在しない。

《内部指向型》
 時が移るにつれて、伝統指向の社会は「たえず強制された慣習への服従」ということよりも、むしろ幼年時代に、両親その他、おとなの権威によって「内面化された規範への服従」に支えられた、新しい型の同調性へと変化していった。指向にかかわるこの本質的変化は、西ヨーロッパやその属領地で、歴史的に新しい社会的役割が生まれてきたことの原因ともなり、結果ともなった。その役割とは、それまでのように伝統的慣習(mores)に硬軟いずれにせよ注意を払うだけでは、とても子弟に対する十分な準備にはなりかねるようなたぐいの、全く新しい役割であった。そこで始めて、大家族の権威ではなく独自の権威をもった親が出現し、その子弟に、拡大していく社会が期待するどんな目標をも必ず成し遂げるという固い意志を、植え付けるにいたったのである。

 内部指向型は、仕事、自己、余暇、子供、歴史などに対する姿勢によって説明することができる。だからといってこれらの姿勢には、明確に、すぐ単独で取り出せる基準は一つもない。だが、こういうことはいえるのではないか。内部指向型という概念の中心は、その是非はともかく、個人の全生活が、ごく一般化された目標─たとえば富、名誉、善、成功─によって導かれているということである。このことは、両親やその他の影響力のあるおとなたちと同一視し、彼らを模範とすることにより、早くから植え付けられたのである。人は、この目的の中で、悩みもすれば、目的を成し遂げるために失敗もしながら、とにかく苦心惨憺して努力するものなのである。

 こうした社会では、人生とは、目的を指向するものであり、その方向を定めるものは内なる声であるということを疑うものは一人もいない。比喩的にいえば、このような人はジャイロスコープ(羅針盤)で操作されている人に例えられよう。そしてそのジャイロスコープは成人によって与えられたものである。そして、青年が人生を航海するとき、職業のうえからも、社会的にも、また彼が遠く代々住み慣れた故郷を離れる場合には地理的にも、青年を安定させるのはこのジャイロスコープなのである。

《他人指向型》 
 すでに指摘したように、内部指向型の人は急速な社会変動にうまく対処することができるのみならず、その変動を、個人的な目的の達成のために利用することを心得ている。しかし、その変動が急激すぎる場合には、内部指向型の人の方が他人指向型の人よりも、弾力性に乏しいといえる。というのは、他人指向型の人がもつ同調性は、成人の権威を受け入れることよりは、むしろ同時代の人たちが抱く期待に敏感に反応するからである。他人指向型の人間は、ジャイロスコープ(羅針盤)で舵をとりながら生涯の目的に向かって進む代わりにレーダーによって捉えられた、手近にある目標(それは常に動揺し、変化するものであるが)に従うのが常である。このレーダーも同じく幼年期に据え付けられたものであるが、両親や他のおとなたちは、いつでも周囲の人々に調子を合わせ、彼に対する親やおとなたちの反応と親とおとなたちに対する自分の反応をたえずにらみ合わせていくようにと教え込むのである。

 こういう他人指向型が増え、それに伴って他人に対する敏感さが増大したのは、現代産業社会の広範囲かつ加速度的な社会構造の変化の結果でもあり、また原因でもあった。その変化とは、「新」中産階級の増大、生産よりも消費に対する関心の増大、子供に対する親の自信と監護力の弱体化、など列挙すれば際限がない。この場合にも、仕事、消費、性、政治、そして自己など、生活の主要な側面すべてに対する新しいさまざまの態度がみられ、性格構造と社会構造の変化を反映し確認している。かくして対人関係の世界は、人間劇の舞台装置としての物質的自然界と超自然界とを、我々の視界から見えなくしている。

 他人指向は、ある社会が衣食住など生存に不可欠な問題はもとより、大規模な産業組織と生産の問題すらがほとんど解決され、少数の有閑階級と広範なレジャー大衆とが、それ以外のことがらに関心を抱く余裕を与えられるようになってはじめてその姿をみせる。このような社会では、いつまでも勤倹(仕事にはげみ、また、倹約につとめること。勤勉で倹約なこと。)の精神と欠乏恐怖観念とにとらわれ、禁欲主義的なピューリタニズムを頑固に守るような消費者は、その存在が否定されるのである。アメリカ以外でこのような事情にあるのは、スウェーデン、オーストラリア、ニュージーランド、、その他の少数の国々に限られ、それも部分的に実現されているにすぎない。しかし、アメリカにおいてさえ、他人指向はまだいわゆる「アメリカン・ウェイ」の同意語にはなっておらず、内部指向が依然として重要な位置を占めているといえよう。」
 以上の分析を現代登山事情に適用すると
伝統指向は伝統的な大学山岳部がすぐに浮かぶ。彼らがOBとなって日本山岳会の指導層に君臨する。閉鎖的集団の中で登山技術やマナーを叩き込まれ先輩=集団的権威への恭順が重視される。
内部志向はもっぱら初登頂、初登攀などを目的、目標とする人々である。自分が所属する団体に目標がなくても外部にあればそれを権威として努力目標に据える。女性でエベレスト世界初登頂の田部井淳子さんはその典型であろう。
他人指向は⑤で指摘されたような日本百名山などを権威として靡いていく人たちである。若い頃は身を立てることに忙しく登山など意識外であったが子育て一段落、仕事で見通しがついた、などで初めて登山に目が向く。しかし経験や技術の蓄積がないから勢いプロガイドに依存していくことになる。目標もみんなが言っている日本百名山の踏破へと倣う。
 半世紀前のアメリカの社会学者の分析ながら現代でも当てはまるのは慧眼というほか無い。
 内部指向や伝統指向(節田座長は伝統指向)の人がこれまでに何度も警告を発してきたがカイゼンされた風潮は無い。法的に整備しても事故は繰り返し起きる気がする。他人指向の人らはこれまでの事故を教訓にして安全な山旅への知恵を身に付けるしかない。内部指向の人らも苦心惨憺して高めている。やっぱり登山は自己責任を意識して地域に精通したいいガイドを選ぶことだ。