原稿作成 ― 2025年03月19日
かねてから考えていた所属の歴研の投稿用原稿をしたためた。「さんえん」用に縦書き原稿と「研究輯録」用に横書き原稿の2本を書いた後、プリントアウトして編集者あて郵送した。
三遠歴研の研究発表会 ― 2025年03月08日
今朝は名古屋では傘が欲しいほどの小雨だった。午後から新城市で歴研の研究発表会があるので行きがけに里山登山を予定した。朝晴れなら早朝出発だったが雨ではモチベーションが下がる。ハイキングは中止。遅めにゆっくり出発。R153、R301で新城迄70km余りの約2時間程度。10時過ぎでも十分間に合う。
矢作川の橋を渡るとR301一本道だ。松平町からかなり急坂の根引峠を登る。旧下山村から旧作手村を快適に走る。時速50kmから70kmくらいの中低速域にはディーゼルエンジンは向いている。
道の駅でトイレ休憩。ついでに鶏卵を購入。5kgの米も3800円とリーズナブル。名古屋市内のスーパーでは5000円と狂乱物価である。いつか冷めるだろうが。
作手高原を過ぎると新城市街へ下る一方となる。タイトなカーブの連続するR301を走る。R151に出て左折、回転ずしの看板を見て12時ちょうどということもありちょっと食べて行く。会場の新城市文化会館には20分前に到着。会費も納付。
研究発表会の題目は豊橋・牟呂の大貝塚群。講師は森田勝三氏。豊橋支部の会員でもある。日本考古学協会員、石巻地区文化財保存会 代表、牟呂八幡宮神幸祭神事相撲保存会 会長、と多彩な経歴の持ち主だ。
総じていえば貝塚は人間の生活の歴史そのものではあるがだから何かを学びとるのは深奥な感じがする。むしろ地名のイメージに惹かれて参加したのであるが講師は民俗的な領域には踏み込むことはなかった。
かつて愛知県埋蔵文化センターを訪ねて素焼きの壷の民俗的な意義を問うたのであるが、愛知県職員(公務員)でもある彼らは壷と言う物質のみに関心を寄せて歴史や民俗にまでは解説がなかった。講師も同じことであろう。考古学では出土品が語る以外のことはない。
『地名の語源』(角川小辞典13)によれば、ムロは
①朝鮮語のmuro,maru(山)より。山に囲まれた所で、小さい入り江や河谷の小盆地をいう。室生、牟婁。
②神社またはその森(ブロ、ムロ)。御室、三室山
③古墳の石室、堅牢住居。室、氷室、日室、室野、室原、無路原
北海道以外の全国に多い。
以上
金達寿『日本の中の朝鮮文化4』(講談社文庫)の中で和歌山県の牟婁に触れて、朝鮮語由来と書いている。村または人々の集落という意味である。だから牟呂もやはり朝鮮語に由来していると考えると自然である。
そしてもう一つ、菅江真澄の出生地が書籍では愛知県豊橋市又は三河国渥美郡と記載されている。
検索すると、角館 総鎮守 神明社のHPでは
「菅江真澄は本名を白井秀雄、幼名は英二といい(知之、白超とも名乗った)、宝暦4年(1754)三河国渥美群牟呂村字公文(現在の豊橋市牟呂公文町)に生まれたと伝えられ、定住の地はなく、行脚に明け暮れる一生を送った。父の名は秀真、母は千枝といい、 家職は祈祷施薬、白太夫の家筋であった。少年時代は岡崎城下成就院の稚児となり、吉田藩の文化人植田義方に和学、和歌を学んだ。思春期に尾張へ移り、国学者で熱田神宮の祠官粟田知周の知遇を得、明和7年(1770)頃から尾張藩の薬草園で薬草栽培にたずさわり、本草学を修めるという経験をつみ、また、丹羽嘉信について漢学、画技を、浅井図南から本草学、医学を修得した。生家に戻ったのは安永9年(1780)であった。この頃から各地をしばしば巡って紀行を執筆した。天明3年(1783)のとき、30歳で故郷を出奔した。」
と紹介されている。
ここにきて現在の牟呂公文町と具体的になっている。JR豊橋駅のやや西南の位置、標高は5.1mと低地である。
菅江真澄は牟呂公文町に生まれたのは事実であろう。幼いころから無尽蔵にある貝塚を遊びの場として育ったに違いない。大波があれば飲み込まれそうなほどの低地であるから過去には被災して全滅したこともあったと思われる。或いは生活の根拠はないとも言われたから別の高台へ移り住んだだろう。少年の好奇心は日本人はどこから来たのだろうか、へ高まった。学問を積み上げていくうちに北へ関心が向いた。両親を置いて治部坂峠を越えて東国へ、陸奥へと旅立って行った。特に信濃国の茅野市、諏訪市周辺は縄文文化のメッカである。東山道もあった。当時の水準は分からないが考古学的な関心を向ける学者もいただろう。
帰路はR151からR257で設楽町へ走った。次に登る大野山の登山口の下見をした。名倉で県段戸山牧場を経て、小田木でR153に出合い、足助を経て帰名。
追記
1972年ごろ、豊橋市に住んでいた。ミシン会社の戸別訪問をして契約を取る仕事である。東三河一円を回った。はっきりした記憶はないが、海辺に近い牟呂近辺も回ったと思う。そんな中に在日朝鮮人の家を訪問した。家にあげてもらい家のミシンに油を指し、調子を見てあげて奥さんや娘さんに契約を促す。奥の部屋へ案内されるとまず、金日成主席の写真、別の部屋には朴正煕大統領の写真が掲げてあった。それで初めて在日朝鮮人の御宅と分かったのである。その家の生業は貝のむき身をやっていた。今思うと貝塚のある牟呂らしい風景ではある。
矢作川の橋を渡るとR301一本道だ。松平町からかなり急坂の根引峠を登る。旧下山村から旧作手村を快適に走る。時速50kmから70kmくらいの中低速域にはディーゼルエンジンは向いている。
道の駅でトイレ休憩。ついでに鶏卵を購入。5kgの米も3800円とリーズナブル。名古屋市内のスーパーでは5000円と狂乱物価である。いつか冷めるだろうが。
作手高原を過ぎると新城市街へ下る一方となる。タイトなカーブの連続するR301を走る。R151に出て左折、回転ずしの看板を見て12時ちょうどということもありちょっと食べて行く。会場の新城市文化会館には20分前に到着。会費も納付。
研究発表会の題目は豊橋・牟呂の大貝塚群。講師は森田勝三氏。豊橋支部の会員でもある。日本考古学協会員、石巻地区文化財保存会 代表、牟呂八幡宮神幸祭神事相撲保存会 会長、と多彩な経歴の持ち主だ。
総じていえば貝塚は人間の生活の歴史そのものではあるがだから何かを学びとるのは深奥な感じがする。むしろ地名のイメージに惹かれて参加したのであるが講師は民俗的な領域には踏み込むことはなかった。
かつて愛知県埋蔵文化センターを訪ねて素焼きの壷の民俗的な意義を問うたのであるが、愛知県職員(公務員)でもある彼らは壷と言う物質のみに関心を寄せて歴史や民俗にまでは解説がなかった。講師も同じことであろう。考古学では出土品が語る以外のことはない。
『地名の語源』(角川小辞典13)によれば、ムロは
①朝鮮語のmuro,maru(山)より。山に囲まれた所で、小さい入り江や河谷の小盆地をいう。室生、牟婁。
②神社またはその森(ブロ、ムロ)。御室、三室山
③古墳の石室、堅牢住居。室、氷室、日室、室野、室原、無路原
北海道以外の全国に多い。
以上
金達寿『日本の中の朝鮮文化4』(講談社文庫)の中で和歌山県の牟婁に触れて、朝鮮語由来と書いている。村または人々の集落という意味である。だから牟呂もやはり朝鮮語に由来していると考えると自然である。
そしてもう一つ、菅江真澄の出生地が書籍では愛知県豊橋市又は三河国渥美郡と記載されている。
検索すると、角館 総鎮守 神明社のHPでは
「菅江真澄は本名を白井秀雄、幼名は英二といい(知之、白超とも名乗った)、宝暦4年(1754)三河国渥美群牟呂村字公文(現在の豊橋市牟呂公文町)に生まれたと伝えられ、定住の地はなく、行脚に明け暮れる一生を送った。父の名は秀真、母は千枝といい、 家職は祈祷施薬、白太夫の家筋であった。少年時代は岡崎城下成就院の稚児となり、吉田藩の文化人植田義方に和学、和歌を学んだ。思春期に尾張へ移り、国学者で熱田神宮の祠官粟田知周の知遇を得、明和7年(1770)頃から尾張藩の薬草園で薬草栽培にたずさわり、本草学を修めるという経験をつみ、また、丹羽嘉信について漢学、画技を、浅井図南から本草学、医学を修得した。生家に戻ったのは安永9年(1780)であった。この頃から各地をしばしば巡って紀行を執筆した。天明3年(1783)のとき、30歳で故郷を出奔した。」
と紹介されている。
ここにきて現在の牟呂公文町と具体的になっている。JR豊橋駅のやや西南の位置、標高は5.1mと低地である。
菅江真澄は牟呂公文町に生まれたのは事実であろう。幼いころから無尽蔵にある貝塚を遊びの場として育ったに違いない。大波があれば飲み込まれそうなほどの低地であるから過去には被災して全滅したこともあったと思われる。或いは生活の根拠はないとも言われたから別の高台へ移り住んだだろう。少年の好奇心は日本人はどこから来たのだろうか、へ高まった。学問を積み上げていくうちに北へ関心が向いた。両親を置いて治部坂峠を越えて東国へ、陸奥へと旅立って行った。特に信濃国の茅野市、諏訪市周辺は縄文文化のメッカである。東山道もあった。当時の水準は分からないが考古学的な関心を向ける学者もいただろう。
帰路はR151からR257で設楽町へ走った。次に登る大野山の登山口の下見をした。名倉で県段戸山牧場を経て、小田木でR153に出合い、足助を経て帰名。
追記
1972年ごろ、豊橋市に住んでいた。ミシン会社の戸別訪問をして契約を取る仕事である。東三河一円を回った。はっきりした記憶はないが、海辺に近い牟呂近辺も回ったと思う。そんな中に在日朝鮮人の家を訪問した。家にあげてもらい家のミシンに油を指し、調子を見てあげて奥さんや娘さんに契約を促す。奥の部屋へ案内されるとまず、金日成主席の写真、別の部屋には朴正煕大統領の写真が掲げてあった。それで初めて在日朝鮮人の御宅と分かったのである。その家の生業は貝のむき身をやっていた。今思うと貝塚のある牟呂らしい風景ではある。
三遠研の総会 ― 2024年04月20日
豊橋市方面に向かう時に県道56号から片側2車線のR155に右折。このままでは知立へ行くので左折、地道を抜ける内に三河線をまたぐ。伊勢湾岸道へ左折して並行線から離れてようやく矢作川を渡った。
岡崎市市街地も混雑気味である。岡崎IC手前でR1に合流。その先で喫茶店で一休み。モーニングサービスはオプションだったがコーヒー代プラス180円、360円、500円とうぉっという価格設定だった。しっかり腹づくりしたい人には良いかも。赤坂付近から東の空を見るとどんより雲が厚そうである。今日も黄砂が降っているのだろうか。
R1から左折して御油駅周辺の渋滞を回避。山間部を迂回して本宮山の山懐を走り、豊川を渡った。秀麗な山容の吉祥山が目の前に見える。13時まではまだ時間があるので新城市図書館へ寄った。地域資料コーナーの中で研究輯録の創刊以来のバックナンバーをチエックした。2号の目次に響くものがあったので閉架図書の開示請求をして閲覧。読んでみると資料解釈が精細すぎてこなれていない。研究者の域を出て作家的な視点で書いてないと素人には読みづらい。
時間が迫ったので富岡ふるさと会館に行く。総会なので令和5年度の事業報告と会計報告、次年度の事業計画と予算案の読みあげと説明があった。特に会計では現金不足が深刻である。印刷した『研究輯録10』が売れて資金回収できないとカネが回らない。
これは山岳会の上部団体でも資金不足で幹部は資金調達に苦労している。どこもコストダウンに知恵を絞る。
続いて、「ええじゃないかの始まりと広がり」と題して、豊橋市二川宿本陣資料館館長の和田 実氏の講演があった。江戸時代の末期に全国規模で起きた狂乱的な民衆運動だった。その中でも豊橋市に的を絞っている。
余談メモ
名古屋市博物館のHPから
https://www.museum.city.nagoya.jp/exhibition/owari_joyubi_news/eejyanaika/index.html
「ええじゃないか150年
平成29年9月27日(水)~10月22日(日)
いまから150年前の慶応3年(1867)7月14日、三河国渥美郡牟呂村(現豊橋市)へ伊勢神宮のお札が降り、二夜三日の祭礼が行われました。人々はお札降りを神仏の出現ととらえて祭礼を行います。お札降りが連続するとお祭りも連続し、日常生活が麻痺する熱狂的な騒ぎへ発展します。これが幕末に流行した「ええじゃないか」です。
全国に伝播した「ええじゃないか」ですが、名古屋へは8月末に伝わり11月まで続きました。名古屋では、お札が降ると町奉行所へ届けて祭礼を行います。町奉行で集計されたお札は三千枚を超え、いかに「ええじゃないか」の騒ぎが大きかったかがうかがえます。加えて、名古屋の「ええじゃないか」祭礼は七日七夜にわたり、降札による祭礼の連続、祭礼の長期化が城下を祝祭空間に変えてしまったのです(図1)。
こうしてみると「ええじゃないか」は、お札降りを口実に人々が勝手に遊びくるったようなイメージをもつかもしれません。しかし、名古屋の「ええじゃないか」祭礼は、地域の伝統的な祭礼のルールのもとで行いました。名古屋城下茶屋町をみてみると、町で管理する屋根神の中へ「ええじゃないか」のお札を納め、関係の寺社へとお礼参りをして「ええじゃないか」の一連の行事は終了しました。」以下略。
慶応3(1867)年は日本が近世(封建制)から近代に生まれ変わった年でした。
・坂本竜馬、新政府綱領八策(しんせいふこうりょうはっさく)を起草
・大政奉還(たいせいほうかん)
・王政復古(おうせいふっこ)の大号令
慶応4(1868)年は
・鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)を機に戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まる
・江戸を東京と改称し、年号を明治とする
今の日本の世相と幕末はよく似ていると思います。消費税率が打出の小槌のようにアップしてきた。大企業には減税しているし、諸外国にカネをばらまくわでいい顔したがる岸田政権。江戸時代の大衆も重税に悩んでいた。
昨年春から長良川や津保川流域の里山を歩いていると郡上一揆の石碑を多数発見します。
郡上一揆は18世紀半ばに起きた農民の減税運動でした。
農民は結束し秘密裏にことを進めめ公事(今の弁護士で宿泊所付きの法律事務所)に頼んで籠訴を準備。しかし籠訴は首謀者は獄門晒し首の掟がある。首謀者の実家の墓に行ったこともある。
これは大衆への見せしめには効果があった。権力に逆らうと只では済まんぞ。というわけだ。その後に下流の美濃市で流行った大衆芸能の「美濃流しにわか」では時事、世相批判が材料で藩(支配者)をチクる。証拠を残さないために一回限りとした。おそらくですが権力への忖度があったのでしょう。
さらに時代が下がると「ええじゃないか」が起こる。権力者を批判するでもない。戦後の学生運動は左翼運動でしたから大衆の支持を得られないままに終焉した。ええじゃないかは徳川幕府をつぶすためでもなかった。
マルクスは「万国の労働者よ団結せよ」、と共産党宣言(1848年)を書いたが、そんな高邁な思想はない。
江戸時代の大衆は絶望感の共有から変革への願望がええじゃないかにつながり、明治維新が生まれた。変わるべくして変わった。
岡崎市市街地も混雑気味である。岡崎IC手前でR1に合流。その先で喫茶店で一休み。モーニングサービスはオプションだったがコーヒー代プラス180円、360円、500円とうぉっという価格設定だった。しっかり腹づくりしたい人には良いかも。赤坂付近から東の空を見るとどんより雲が厚そうである。今日も黄砂が降っているのだろうか。
R1から左折して御油駅周辺の渋滞を回避。山間部を迂回して本宮山の山懐を走り、豊川を渡った。秀麗な山容の吉祥山が目の前に見える。13時まではまだ時間があるので新城市図書館へ寄った。地域資料コーナーの中で研究輯録の創刊以来のバックナンバーをチエックした。2号の目次に響くものがあったので閉架図書の開示請求をして閲覧。読んでみると資料解釈が精細すぎてこなれていない。研究者の域を出て作家的な視点で書いてないと素人には読みづらい。
時間が迫ったので富岡ふるさと会館に行く。総会なので令和5年度の事業報告と会計報告、次年度の事業計画と予算案の読みあげと説明があった。特に会計では現金不足が深刻である。印刷した『研究輯録10』が売れて資金回収できないとカネが回らない。
これは山岳会の上部団体でも資金不足で幹部は資金調達に苦労している。どこもコストダウンに知恵を絞る。
続いて、「ええじゃないかの始まりと広がり」と題して、豊橋市二川宿本陣資料館館長の和田 実氏の講演があった。江戸時代の末期に全国規模で起きた狂乱的な民衆運動だった。その中でも豊橋市に的を絞っている。
余談メモ
名古屋市博物館のHPから
https://www.museum.city.nagoya.jp/exhibition/owari_joyubi_news/eejyanaika/index.html
「ええじゃないか150年
平成29年9月27日(水)~10月22日(日)
いまから150年前の慶応3年(1867)7月14日、三河国渥美郡牟呂村(現豊橋市)へ伊勢神宮のお札が降り、二夜三日の祭礼が行われました。人々はお札降りを神仏の出現ととらえて祭礼を行います。お札降りが連続するとお祭りも連続し、日常生活が麻痺する熱狂的な騒ぎへ発展します。これが幕末に流行した「ええじゃないか」です。
全国に伝播した「ええじゃないか」ですが、名古屋へは8月末に伝わり11月まで続きました。名古屋では、お札が降ると町奉行所へ届けて祭礼を行います。町奉行で集計されたお札は三千枚を超え、いかに「ええじゃないか」の騒ぎが大きかったかがうかがえます。加えて、名古屋の「ええじゃないか」祭礼は七日七夜にわたり、降札による祭礼の連続、祭礼の長期化が城下を祝祭空間に変えてしまったのです(図1)。
こうしてみると「ええじゃないか」は、お札降りを口実に人々が勝手に遊びくるったようなイメージをもつかもしれません。しかし、名古屋の「ええじゃないか」祭礼は、地域の伝統的な祭礼のルールのもとで行いました。名古屋城下茶屋町をみてみると、町で管理する屋根神の中へ「ええじゃないか」のお札を納め、関係の寺社へとお礼参りをして「ええじゃないか」の一連の行事は終了しました。」以下略。
慶応3(1867)年は日本が近世(封建制)から近代に生まれ変わった年でした。
・坂本竜馬、新政府綱領八策(しんせいふこうりょうはっさく)を起草
・大政奉還(たいせいほうかん)
・王政復古(おうせいふっこ)の大号令
慶応4(1868)年は
・鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)を機に戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まる
・江戸を東京と改称し、年号を明治とする
今の日本の世相と幕末はよく似ていると思います。消費税率が打出の小槌のようにアップしてきた。大企業には減税しているし、諸外国にカネをばらまくわでいい顔したがる岸田政権。江戸時代の大衆も重税に悩んでいた。
昨年春から長良川や津保川流域の里山を歩いていると郡上一揆の石碑を多数発見します。
郡上一揆は18世紀半ばに起きた農民の減税運動でした。
農民は結束し秘密裏にことを進めめ公事(今の弁護士で宿泊所付きの法律事務所)に頼んで籠訴を準備。しかし籠訴は首謀者は獄門晒し首の掟がある。首謀者の実家の墓に行ったこともある。
これは大衆への見せしめには効果があった。権力に逆らうと只では済まんぞ。というわけだ。その後に下流の美濃市で流行った大衆芸能の「美濃流しにわか」では時事、世相批判が材料で藩(支配者)をチクる。証拠を残さないために一回限りとした。おそらくですが権力への忖度があったのでしょう。
さらに時代が下がると「ええじゃないか」が起こる。権力者を批判するでもない。戦後の学生運動は左翼運動でしたから大衆の支持を得られないままに終焉した。ええじゃないかは徳川幕府をつぶすためでもなかった。
マルクスは「万国の労働者よ団結せよ」、と共産党宣言(1848年)を書いたが、そんな高邁な思想はない。
江戸時代の大衆は絶望感の共有から変革への願望がええじゃないかにつながり、明治維新が生まれた。変わるべくして変わった。
三遠研の連絡会に出席 ― 2024年03月25日
朝から雨で芳しくない天気。朝7時30分に出た。豊橋市市民文化会館での会合は10時なので早めに出た。雨のせいでマイカーが多く、裏道をくぐりながらR153に行くまでも大変だった。R153もトヨタの工場が8時始業なので出社前のクルマでぎっしり詰まる。東郷町周辺は渋滞しながら進んだ。
東名三好ICは8時過ぎに通過。名古屋ICよりは早い気がする。東名も車は多くスピードは出せない。岡崎ICを過ぎて流れは良くなった。音羽蒲郡ICからR1へ。そこで9時過ぎになる。後10km以内だが豊橋迄何とか着いた。9時半前なので喫茶店でティータイム後市民文化会館へ。連絡会で会費納付、支部長から活動報告、予定、会計報告などある。
どこの団体でも共通の悩みは会員の減少である。この会でも同じである。研究輯録10が難産の末に発刊されたが拡販の必要が求められた。自分も名古屋市内での書店廻とメディアの紹介への協力を申し出た。
散会後、愛知大学の東亜同文書院記念センターを再訪。2011年の辛亥革命シンポジュウームに見学以来だから13年ぶりである。そんなに変わったものはないが、愛大事件の中部日本新聞の記事のスクラップの文中に(日共)とあったことが目を引いた。1952(昭和27)年当時の論調は反共の時代背景だった。中国共産党軍が朝鮮半島に攻めて来た朝鮮戦争があったし、アメリカも日本を防共の砦と考えていた。
ネットからのコピペ
「愛知大学事件は,昭和27(1952)年5月7日午後11時30分ごろ,制服の警察官2人が愛知大学豊橋の構内に入ったことに端を発する。このため寮生ら30人と小ぜりあいになった。警察官1人は脱出したが,他の1人は学生側に短銃・手帳・警棒を奪われた。翌5月8日午前1時,警察は70人の体制で大学を包囲したが,短銃などの返還交渉が成立して,午前6時30分ごろ引き上げた。また,5月19日には警察官600人による大規模な捜査も行われた。
この事件は,東大ポポロ演劇事件,早大事件とともに公安三大事件とよばれ,「大学の自治と警察権」という重要課題をめぐって司法判断が求められる刑事事件へと発展し,事件発生から結審までに21年間を要した。
昭和36(1961)年8月14日,第一審判決,同45(70)年8月25日,第二審判決,同48(73)年4月28日の最高裁判決をもって終審した。判決主文で,7人の学生に無罪,犯人を匿(かくま)った2人に罰金5000円・執行猶予1年が言い渡された。
参考文献 - 愛知大学事件を記憶する会「抵抗―愛知大学事件一九五二・五・七」」
引用以上
そんなところへ藤田名誉教授が来られたので立ち話で愛大事件にまつわる話を伺った。愛大事件でもっとも力量を発揮されたのが本間喜一元学長だった。最高裁判事でしたから裁判での応酬はプロです。警察も検察も手が出なかったであろう。
警察にしてみれば、日本社会が朝鮮戦争で共産主義の恐怖を感じていた社会的背景を考えて手柄を挙げたかったのである。検察も歯ぎしりして悔しがったと思われる。
また近衛文麿と学祖篤麿との時代差も話題になった。父の篤麿は外国旅行で伝染病にかかり明治37年(1904年)1月1日)に42歳で死去。長男の文麿は1891年(明治24年)に誕生。文麿は13歳だった。
色んな近衛文麿の本が出ているが、戦争責任ありき、優柔不断説が多い。それは事実だろう。しかし、父と死別した13歳を考慮に入れると帝王学を学ぶことなく成長したであろう。
文麿のような名門の出には様々な人が本音を隠してすり寄って来たであろう。尾崎秀実はその代表である。人物の真贋を見分けるのは難しいが政治家や人の上に立つものは通過するべきことである。そうじゃないと亡国、会社なら倒産である。
政治家の世襲が大問題になっている。これも甘言で他人に利用されるだけで終わるからだ。経済人で自殺した人はいないが政治家は自殺他殺は結構ある。カネと信用を失っても生きていける。政治家は多数の国民の生死を握るゆえに憎しみを買う。心すべきである。
短時間だったが東亜同文書院記念センターを後にした。
東名三好ICは8時過ぎに通過。名古屋ICよりは早い気がする。東名も車は多くスピードは出せない。岡崎ICを過ぎて流れは良くなった。音羽蒲郡ICからR1へ。そこで9時過ぎになる。後10km以内だが豊橋迄何とか着いた。9時半前なので喫茶店でティータイム後市民文化会館へ。連絡会で会費納付、支部長から活動報告、予定、会計報告などある。
どこの団体でも共通の悩みは会員の減少である。この会でも同じである。研究輯録10が難産の末に発刊されたが拡販の必要が求められた。自分も名古屋市内での書店廻とメディアの紹介への協力を申し出た。
散会後、愛知大学の東亜同文書院記念センターを再訪。2011年の辛亥革命シンポジュウームに見学以来だから13年ぶりである。そんなに変わったものはないが、愛大事件の中部日本新聞の記事のスクラップの文中に(日共)とあったことが目を引いた。1952(昭和27)年当時の論調は反共の時代背景だった。中国共産党軍が朝鮮半島に攻めて来た朝鮮戦争があったし、アメリカも日本を防共の砦と考えていた。
ネットからのコピペ
「愛知大学事件は,昭和27(1952)年5月7日午後11時30分ごろ,制服の警察官2人が愛知大学豊橋の構内に入ったことに端を発する。このため寮生ら30人と小ぜりあいになった。警察官1人は脱出したが,他の1人は学生側に短銃・手帳・警棒を奪われた。翌5月8日午前1時,警察は70人の体制で大学を包囲したが,短銃などの返還交渉が成立して,午前6時30分ごろ引き上げた。また,5月19日には警察官600人による大規模な捜査も行われた。
この事件は,東大ポポロ演劇事件,早大事件とともに公安三大事件とよばれ,「大学の自治と警察権」という重要課題をめぐって司法判断が求められる刑事事件へと発展し,事件発生から結審までに21年間を要した。
昭和36(1961)年8月14日,第一審判決,同45(70)年8月25日,第二審判決,同48(73)年4月28日の最高裁判決をもって終審した。判決主文で,7人の学生に無罪,犯人を匿(かくま)った2人に罰金5000円・執行猶予1年が言い渡された。
参考文献 - 愛知大学事件を記憶する会「抵抗―愛知大学事件一九五二・五・七」」
引用以上
そんなところへ藤田名誉教授が来られたので立ち話で愛大事件にまつわる話を伺った。愛大事件でもっとも力量を発揮されたのが本間喜一元学長だった。最高裁判事でしたから裁判での応酬はプロです。警察も検察も手が出なかったであろう。
警察にしてみれば、日本社会が朝鮮戦争で共産主義の恐怖を感じていた社会的背景を考えて手柄を挙げたかったのである。検察も歯ぎしりして悔しがったと思われる。
また近衛文麿と学祖篤麿との時代差も話題になった。父の篤麿は外国旅行で伝染病にかかり明治37年(1904年)1月1日)に42歳で死去。長男の文麿は1891年(明治24年)に誕生。文麿は13歳だった。
色んな近衛文麿の本が出ているが、戦争責任ありき、優柔不断説が多い。それは事実だろう。しかし、父と死別した13歳を考慮に入れると帝王学を学ぶことなく成長したであろう。
文麿のような名門の出には様々な人が本音を隠してすり寄って来たであろう。尾崎秀実はその代表である。人物の真贋を見分けるのは難しいが政治家や人の上に立つものは通過するべきことである。そうじゃないと亡国、会社なら倒産である。
政治家の世襲が大問題になっている。これも甘言で他人に利用されるだけで終わるからだ。経済人で自殺した人はいないが政治家は自殺他殺は結構ある。カネと信用を失っても生きていける。政治家は多数の国民の生死を握るゆえに憎しみを買う。心すべきである。
短時間だったが東亜同文書院記念センターを後にした。
青崩峠へ ― 2023年11月18日
11/18 浜松市天竜区は快晴
名古屋の自宅を6時30分頃出発。R153を走って東名三好ICから新東名経由で浜松北ICで出た。1820円。西鹿島駅へ8時50分頃着。102km。
9時過ぎ東京のPT7名と合流。青崩峠を目指しR152を北上。青崩トンネルの工事が真っ最中です。
峠直下まで車道はあるが足神神社でデポ。そこから徒歩40分で峠へ。石畳の遊歩道でした。峠では寒気のために降雪があり、初冬の気候と冬黄葉の残る自然林がマッチして美しい。東京組は峠から信州側へ下山、私は青崩れの地層が見える四阿で別れた。
車に戻って赤石山脈の兵越えを越えてR152に下った。下った辺りから先は青崩トンネル(2023年5月に貫通)の工事の真っ最中でした。ダンプが行きかうので一般車は立入禁止でしたが恐る恐る入っていくと東京組に出合えた。そこでピックアップして宿のある和田へ向かった。途中でも番所跡を見学したりして有意義なことでした。
宿はかぐら山荘。飲み代込みで10000円位。宿の風呂が壊れていたので平岡駅まで走って温泉に入湯できました。往復20km。
名古屋の自宅を6時30分頃出発。R153を走って東名三好ICから新東名経由で浜松北ICで出た。1820円。西鹿島駅へ8時50分頃着。102km。
9時過ぎ東京のPT7名と合流。青崩峠を目指しR152を北上。青崩トンネルの工事が真っ最中です。
峠直下まで車道はあるが足神神社でデポ。そこから徒歩40分で峠へ。石畳の遊歩道でした。峠では寒気のために降雪があり、初冬の気候と冬黄葉の残る自然林がマッチして美しい。東京組は峠から信州側へ下山、私は青崩れの地層が見える四阿で別れた。
車に戻って赤石山脈の兵越えを越えてR152に下った。下った辺りから先は青崩トンネル(2023年5月に貫通)の工事の真っ最中でした。ダンプが行きかうので一般車は立入禁止でしたが恐る恐る入っていくと東京組に出合えた。そこでピックアップして宿のある和田へ向かった。途中でも番所跡を見学したりして有意義なことでした。
宿はかぐら山荘。飲み代込みで10000円位。宿の風呂が壊れていたので平岡駅まで走って温泉に入湯できました。往復20km。
秋葉街道踏査の計画 ― 2023年11月10日
11/18~11/19の秋葉街道の踏査の計画がまとまった。東京の古道調査PTら7名と私で8名(男4名、女4名)の久々の大人数になった。浜名湖の北で落ち合い、青崩峠を越えて遠山谷で一泊。翌日は和田から小川路峠を越えて飯田市へ出る。
小川路峠は過去に数回は行った。
①思い出深いのは飯田市と遠山谷の合同で峠まで登ってジンギスカンの焼肉を食わせてもらったこと。
②今は亡きU先生と小川温泉1泊で往復した。この時に松濤明『風雪のビバーク』の春の遠山入りに出てくる街道と知った。
③ある時は『岳人』の”本を片手に”という特集でこの本と街道を取り上げた。取材で登山した。
④また、『ひと味違う名古屋からの山旅』三十三山の1つで曽山1601mを取り上げて登った。
⑤ある時は小川路峠の南のピークである金森山1703mに登るために登山したこともある。
途中にある木地師の墓が何とも哀れな気がしたものだった。供花一つなき小さな墓は供養する人もないまま時代の推移を見守ってきた。33観音は馬を引いて登る人、秋葉信仰の人への慰みになった。また登山者の安全を見守った。松濤明は登りに、深田久弥は下りに利用した。松濤明の頃はまだ宿があった。しかし、お客が少なくなったと嘆く宿のオーナーの言葉もあはれである。
青崩峠は豊橋市に住んでいた頃に1回だけ行った。飯田線を利用したからフルに一日かかった。久々に地質学的に特異な地域の山へ行ける。楽しみなことである。
小川路峠は過去に数回は行った。
①思い出深いのは飯田市と遠山谷の合同で峠まで登ってジンギスカンの焼肉を食わせてもらったこと。
②今は亡きU先生と小川温泉1泊で往復した。この時に松濤明『風雪のビバーク』の春の遠山入りに出てくる街道と知った。
③ある時は『岳人』の”本を片手に”という特集でこの本と街道を取り上げた。取材で登山した。
④また、『ひと味違う名古屋からの山旅』三十三山の1つで曽山1601mを取り上げて登った。
⑤ある時は小川路峠の南のピークである金森山1703mに登るために登山したこともある。
途中にある木地師の墓が何とも哀れな気がしたものだった。供花一つなき小さな墓は供養する人もないまま時代の推移を見守ってきた。33観音は馬を引いて登る人、秋葉信仰の人への慰みになった。また登山者の安全を見守った。松濤明は登りに、深田久弥は下りに利用した。松濤明の頃はまだ宿があった。しかし、お客が少なくなったと嘆く宿のオーナーの言葉もあはれである。
青崩峠は豊橋市に住んでいた頃に1回だけ行った。飯田線を利用したからフルに一日かかった。久々に地質学的に特異な地域の山へ行ける。楽しみなことである。
歴研の総会へ ― 2023年07月15日
今日は午後から開催の歴研の総会へ出席する。三連休の初日で、車の通行量が増えたので少し早めに出て、三好ICから高速に入った。案の定岡崎IC付近でつかまった。
何とか渋滞を抜け出して豊川ICで出て新城市富岡ふるさと会館へ向かった。周辺は田園地帯で山の庭園のように美しい。12時30分過ぎには着いた。13時30分開催には余裕で臨める。
総会では新しい役員提案と会計報告があった。会長の交代もあった。その後は14時から設楽原歴史資料館の湯浅氏を招いての講演である。テーマはやはり設楽原合戦における人間ドラマである。16時に解散。
解散後は治部坂峠に向かう。ナビ任せにしたら豊川左岸を走り、新城市街地を回避してくれた。そして長篠城の手前で右岸に渡ったら鳥居強右衛門の磔のモニュメントを見学できた。それは良いのだが、明日の食料調達を忘れたことに気が付いた。R257のこの先のスーパーは設楽町の田口までない。新城総合公園を経てR151バイパス付近まで戻って買い物を済ませた。
R151からR257、田口、名倉の大桑から右折して古町高山の南側を走るスーパー林道を経て旧津具村に入った。ナビは行人原から折本峠への旧道を指示する。走ったことはないが結果的に早く越えられた。檜原川沿いに根羽へ。途中ではキャンパーらで賑わうキャンプ場があった。3連休だもんな。
矢作川の橋を渡って左折すると坂町の中心街に着いた。ここでも煌々と灯りが点いて何やら村のお祭りの雰囲気であった。坂町を右折するとR153へ。道の駅平谷では7時20分頃通過。Pは行楽客で埋まる。温泉を楽しんでいる人も多いだろう。休みたかったがパス。治部坂峠へ。やっと治部坂峠のPへ着いた。8時くらいだった。Pは3台から4台位で閑散としている。端っこに停めてニーモの新品のテントを設営した。封もそのままで慣れないが15分で張れた。食料やシュラフを持ち込んでやっと夕食だ。
缶酎ハイのロング缶1つですぐに酔いが回りひと眠りした。起きたら12時だった。ここからが長い夜の時間である。おまけに準幹線登路なので結構車が走る音がうるさい。また出入りする車もあるので安眠はできずPを選んだのは失敗だった。
翌朝起きて峠の登山口の手前に東屋とPがあったことに気が付いた。国道に近いのは同じだが東屋があるのは頼もしい。山やさんしか来ないから安心でもある。
何とか渋滞を抜け出して豊川ICで出て新城市富岡ふるさと会館へ向かった。周辺は田園地帯で山の庭園のように美しい。12時30分過ぎには着いた。13時30分開催には余裕で臨める。
総会では新しい役員提案と会計報告があった。会長の交代もあった。その後は14時から設楽原歴史資料館の湯浅氏を招いての講演である。テーマはやはり設楽原合戦における人間ドラマである。16時に解散。
解散後は治部坂峠に向かう。ナビ任せにしたら豊川左岸を走り、新城市街地を回避してくれた。そして長篠城の手前で右岸に渡ったら鳥居強右衛門の磔のモニュメントを見学できた。それは良いのだが、明日の食料調達を忘れたことに気が付いた。R257のこの先のスーパーは設楽町の田口までない。新城総合公園を経てR151バイパス付近まで戻って買い物を済ませた。
R151からR257、田口、名倉の大桑から右折して古町高山の南側を走るスーパー林道を経て旧津具村に入った。ナビは行人原から折本峠への旧道を指示する。走ったことはないが結果的に早く越えられた。檜原川沿いに根羽へ。途中ではキャンパーらで賑わうキャンプ場があった。3連休だもんな。
矢作川の橋を渡って左折すると坂町の中心街に着いた。ここでも煌々と灯りが点いて何やら村のお祭りの雰囲気であった。坂町を右折するとR153へ。道の駅平谷では7時20分頃通過。Pは行楽客で埋まる。温泉を楽しんでいる人も多いだろう。休みたかったがパス。治部坂峠へ。やっと治部坂峠のPへ着いた。8時くらいだった。Pは3台から4台位で閑散としている。端っこに停めてニーモの新品のテントを設営した。封もそのままで慣れないが15分で張れた。食料やシュラフを持ち込んでやっと夕食だ。
缶酎ハイのロング缶1つですぐに酔いが回りひと眠りした。起きたら12時だった。ここからが長い夜の時間である。おまけに準幹線登路なので結構車が走る音がうるさい。また出入りする車もあるので安眠はできずPを選んだのは失敗だった。
翌朝起きて峠の登山口の手前に東屋とPがあったことに気が付いた。国道に近いのは同じだが東屋があるのは頼もしい。山やさんしか来ないから安心でもある。
飯田街道へ ― 2023年06月25日
豊田市足助町を起点に飯田街道を歩いて見たい。豊田市、根羽村、平谷村から治部坂峠までが難しく、阿智村はR153と旧道の棲み分けが比較的シンプルである。中でも稲武までが錯綜している。人が住んでいる山里では町道、県道、国道、林道、旧街道などは交じり合い錯綜している。トイレもどこでもというわけにはいかない。ルートファインディングが大変困難であろう。そこで実地に車で走ってみた。
稲武の郷土資料館「ちゅうま」にも寄ってみた。帰路は豊田市立図書館で資料を漁ったが満足できるものは得られなかった。
阿智村の昼神に着いたら一応終点。ここが登山でいうエスケープルートになる。疲労を感じたら高速バスで帰名する。一泊して温泉に浸かるも良し。園原周辺の民宿を調べると一泊素泊まりで3000円というのもある。温泉付きは15000円以上で上は限がない。
余力があれば網掛峠を経由して園原から東山道で神坂峠を越え、中央道神坂バス停、馬籠を経由してJR落合川駅で終点。足助から約100kmになる。
完踏できれば世界遺産の大峰奥駈け道が視野に入る。吉野から熊野まで山中4泊5日の100kmのロングトレイルである。
稲武の郷土資料館「ちゅうま」にも寄ってみた。帰路は豊田市立図書館で資料を漁ったが満足できるものは得られなかった。
阿智村の昼神に着いたら一応終点。ここが登山でいうエスケープルートになる。疲労を感じたら高速バスで帰名する。一泊して温泉に浸かるも良し。園原周辺の民宿を調べると一泊素泊まりで3000円というのもある。温泉付きは15000円以上で上は限がない。
余力があれば網掛峠を経由して園原から東山道で神坂峠を越え、中央道神坂バス停、馬籠を経由してJR落合川駅で終点。足助から約100kmになる。
完踏できれば世界遺産の大峰奥駈け道が視野に入る。吉野から熊野まで山中4泊5日の100kmのロングトレイルである。
豊橋市の連絡会に出席 ― 2023年06月12日
歴研の支部の連絡会が豊橋市の市民会館で行われた。リアルな会合は3年ぶりのことになる。今後の方向、会費納付、7/15の本会、研究輯録10号発刊、新人は5名入会されてうち3名が出席、全員が自己紹介で締めくくった。
会議は10時に間に合うように名古屋の自宅を午前7時50分に出発。天白区内も交通量が多く、名古屋ICは混雑することから県道57号、R153,県道520を経て三好ICから東名高速に入った。渋滞気味で時間がかかった。高速道路も豊田ICまではR23並みに交通量が多い。
音羽蒲郡ICで出てR1へ。R1は意外にも空いていたので豊橋市入りは早かった。10分前に到着。1時間くらい早めについて喫茶店で休みたかったがギリギリである。
会合が終わった後は、豊橋駅前の山の店のモンタニアに寄る。昭和50年代には松葉公園の前の小さな店だった。ニッカ―ボッカとかキスリングを買った覚えがある。何と47年前だ。今は3階建てで店舗は1Fと2Fで営業中。登山ブームで大きく発展したのだろう。
次は精文館書店の郷土本コーナーに寄る。特に食指の動く本は無かった。昼食時間になったので近くのパスタやで腹を満たす。
相変わらず雨が降るので旧作手村の長の山湿原に向かう。R301沿いにあるのでそのまま豊田市経由でR153に合流して帰名できた。
会議は10時に間に合うように名古屋の自宅を午前7時50分に出発。天白区内も交通量が多く、名古屋ICは混雑することから県道57号、R153,県道520を経て三好ICから東名高速に入った。渋滞気味で時間がかかった。高速道路も豊田ICまではR23並みに交通量が多い。
音羽蒲郡ICで出てR1へ。R1は意外にも空いていたので豊橋市入りは早かった。10分前に到着。1時間くらい早めについて喫茶店で休みたかったがギリギリである。
会合が終わった後は、豊橋駅前の山の店のモンタニアに寄る。昭和50年代には松葉公園の前の小さな店だった。ニッカ―ボッカとかキスリングを買った覚えがある。何と47年前だ。今は3階建てで店舗は1Fと2Fで営業中。登山ブームで大きく発展したのだろう。
次は精文館書店の郷土本コーナーに寄る。特に食指の動く本は無かった。昼食時間になったので近くのパスタやで腹を満たす。
相変わらず雨が降るので旧作手村の長の山湿原に向かう。R301沿いにあるのでそのまま豊田市経由でR153に合流して帰名できた。
津島の歴史遺産 ― 2023年01月10日
御醍醐天皇の皇子の宗良親王から孫の尹良親王、その皇子の良王親王の戦記物語である『浪合記』のことを調べたら津島市の良王親王の良王神社を知った。
舞台は伊那谷の
①大鹿村の信濃宮
②浪合村の尹良親王の墓
③稲武の三河宮などにまたがる。
④良王親王の足跡を追って昨年は津島市を訪ねて街歩きしてみた。
良王神社は探したが細い路地の中の狭い敷地に肩をすぼめて御座した。PAもない。路地が狭いから車で探索することはできない。おそらく空爆を受けたことがないからだろう。津島市が歴史的に古い面影を残していることを知った。余り知られていない良王親王のことで津島市のHPに問うと観光に活かすとの回答だった。
この記事を読むと現状を地道に調査されたらしい。加えて歴史上の伝承でも良いから紹介に努めてに欲しいものだ。皇族を預かる津島市のレガシーはもっと知られて良い。
https://www.yomiuri.co.jp/local/aichi/news/20230109-OYTNT50139/?fbclid=IwAR2Zpw_udTgPcvrxPeVD4QlaG6kaEsko1WGdLopQ5pDH_kDj-wmTQNFGG9k
舞台は伊那谷の
①大鹿村の信濃宮
②浪合村の尹良親王の墓
③稲武の三河宮などにまたがる。
④良王親王の足跡を追って昨年は津島市を訪ねて街歩きしてみた。
良王神社は探したが細い路地の中の狭い敷地に肩をすぼめて御座した。PAもない。路地が狭いから車で探索することはできない。おそらく空爆を受けたことがないからだろう。津島市が歴史的に古い面影を残していることを知った。余り知られていない良王親王のことで津島市のHPに問うと観光に活かすとの回答だった。
この記事を読むと現状を地道に調査されたらしい。加えて歴史上の伝承でも良いから紹介に努めてに欲しいものだ。皇族を預かる津島市のレガシーはもっと知られて良い。
https://www.yomiuri.co.jp/local/aichi/news/20230109-OYTNT50139/?fbclid=IwAR2Zpw_udTgPcvrxPeVD4QlaG6kaEsko1WGdLopQ5pDH_kDj-wmTQNFGG9k
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