三遠研役員会2026年04月02日

 午前中は早めに出発。県道58号で岡崎市日影町に行く。松平往還の出入り口が不明瞭なので再度現地調査である。案内書を読みながら現地を観察。3/15は迷いながらもなんとか往還の道につながった。結局、よく読むと県道が拡幅されて削られてしまった。鍋蓋のような道路を山を削って直線的に切通しにしてある。見ただけでは分からないわけだ。
 この際県道338の旧道も走って見た。郡界川沿いの一車線の細い道だった。二畳ヶ瀧も見えたが降水後で濁っていた。どこまでも行くと奥殿陣屋の三差路へ出た。一周したわけだ。また瀧脇を経て林夫添のR301の信号に出て新城に向かった。 
 午後から新城市民文化会館で役員会を開催。4/18の総会の段取りを話し合う。

与良木を走る2026年02月26日

 午後から新城市文化会館で会合。早めに出て、R153、R473、R420、R257から道の駅したらへ行く。天神山を歩いて見たかったがゆっくりもできないので又与良木トンネルを越えて与良木を走った。前回は急な左折をパスしたためにR257へ出る市道を走ったが古道の面影はなかった。
 今回は一旦パスして、やや広いところでUターン、やっと与良木の村落に入れた。赤い梅が満開だった。但し道路幅は4ナンバーでも一杯、しかも急坂だった。地形図の実線の道に入ろうとしたが、登りが急すぎて元の道にバック。すると後輪が空回りする。4駆に入れて脱出。その先でもヘアピンがあり一回では通過できなかった。
 後日下の道に車を置いて歩いて見たい。今回は後期伊那街道、先回は前期伊那街道になる。いずれも田口で合流する。一般道の崖にはかつての塩の道の馬頭観音がいくつも組み込まれて面影を残している。
 R257に出て新城市文化会館へ。4/18の総会へ向けて会の大綱を話し合った。新役員、規約の見直し等。帰路はR301.県道20.R1.県道39、同56を経て帰名。

研究発表会2026年02月07日

 午後から新城市で研究発表会。午前中に設楽町の古道を歩けないか、と考えていた。咳が酷くて就寝が遅れてしまい、起きるのも遅くなった。そうではあるが道の駅したらを目指して走った。R301からR420に入ると途端に交通量が減る。多くはないが雪も残っている。R420に合流してR257へも同じで閑散として山路を走るとR257だ。道の駅したらはすぐだ。
 観光コーナーの案内所にあったパンフには清崎の里山である天神山が紹介されている。ちょっと歩いて見ようか、と車を向けたが道標はないし、地元のおじさんに聞くが整備はされていないらしい。時間も11時になり延期した。与良木峠を越えて海老へ走った。結果、稲目トンネル寄りの町道を走ったらしい。道中に石仏などの昔のよすがを示すものはなかった。
 標高点182mから下って信号で左折、清水川に沿う道を遡って・216地点で左折すると旧街道になるようだ。またの機会に歩きたい。
 設楽から約30km、30分で新城市。1時間弱あるのでコメダで喫茶を楽しむ。会場入り。
 テーマは東栄町の花祭りの話と豊橋市牟呂地区の相撲神事の研究が発表された。
 花祭りは天竜川水系だけに伝わる民俗芸能であるが、伊勢神楽の流れをくむという。2回ほど見学したことがある。
 花祭りの研究者は『御杣山』の小冊子を頒布されたので1冊購入。伊勢神宮の遷宮の歴史で1回だけ奥三河の「設楽」から御用材が搬出されたというのだが謎に包まれている。それを掘り下げる研究者が居て、継承している人なのである。いずれも豊川に筏を組んで鉄砲流しのような方法で三河湾に流したと思われる。その山は鴨山という説がある。一方で自分の推測ではあるが、鷹ノ巣山から澄川を経て豊川へ、きららの森から椹谷を経て豊川へと。夢のある研究である。
 相撲神事の伝わる豊橋市牟呂は和歌山県にも同じ地名がある。朝鮮文化につながる。日本民俗学の草分けの菅江真澄も牟呂の出身である。
 帰路はR301を経て帰名。エンジンは快調だ。これだけ信号のない国道のドライブはディーゼルエンジン車には快適である。

新城市へ~創業は易く継続は難し2026年01月27日

 午後から新城市で役員会に出向く。午前中は風邪のせいか、少しもたついてしまった。10時45分に出発。往きはR301で直進、スムーズに走れたが出発が遅いのであまり余裕がなく、いつもはトイレ休憩する作手の道の駅もパス。途中では道路工事も2ヶ所あってますます余裕がない。そのまま会場へ直進、13時15分に到着。
 会議内容は運営の事務的なことがらに終始。山岳会でも短歌会、俳句会でも少子高齢化と財政難はひたひた押し寄せて来る。山岳会の上部団体は約50年前で90団体あったが今は40団体と半減した。40歳代で在籍していた名古屋市と東三河にまたがる老舗の短歌会は何年か前に解散、名古屋市の俳句会も早くに解散している。今所属の富山市に本部がある俳句会は100年前に創立したが少人数でも継続している。
 1 人数が多い
 2 資金力がある
 3 変化に対応できる
のうち、1と2は組織力、もっとも重要なことは3である。氷河期が来て恐竜、マンモスは滅びた。氷河期の生き残りといわれるのは岩魚、雷鳥、ヒカゲノカズラ、カモシカなど。エサは豊かではないし生息環境もよろしくない。だからライバルは生きられない。知恵を出して生きて行けるか。
 帰路はR301ではなく、R257,R420と足助経由で帰名。

「永正三河大乱ゆかりの岡崎岩津地域」散策秋の研修会2025年11月29日

 9/6の「永正三河大乱」のテーマで研究発表会を開催、講師はI氏。受講生は37名と賑わった。今日はどの実地研修の日である。21名が1台のバスで乗り合い岡崎の岩津天神のPに集合。

 あらまし:1467年の応仁の乱以降の乱が地方にも及んで三河も戦いがあった。そんな複雑な内容の話を立て板に水を流すごとく解説。その時は予備知識が無いのでさっぱりついていけなかった。当方は司馬遼太郎の『覇王の家』で松平親氏の話、同『徳川慶喜』で最後の将軍を読んでいた。水戸光圀は水戸学でかじった程度。
 当時のレジュメから
1 永正三河大乱の背景
      ~京における混乱の影響~
2 永正三河大乱における戦い
a今橋城の戦い→永正三年(1506)
b岩津合戦→永正五年(1508)
  今川、東三河連合軍VS松平親長、岩津松平氏
※奥平氏率いたのは奥平貞昌
※戸田氏率いたのは戸田堯光
◎今川氏の目的は

そもそも三河を手に入れる事ではなかった

京に復帰した、義材(足利義稙)に接近した本家、吉良義信が松平一族
の動きを封じたかったから、今川氏親へ遠江守護を確約し、義材の命令により、今川軍を動かしたいという狙いがあったから

3 今川氏はこの戦いで何を得たのか
以上

 岩津天神に参拝。バスはPで待機。徒歩で東名高速を跨ぐ橋をわたるとすぐ右手の竹藪のこんもりした盛り上がりが岩津城址である。岡崎市の観光資源にもなっている。そうかといって過度な案内の林立する観光地風ではなく、素朴な雰囲気のまま保存されている。ここに松平信光らが岡崎平野への進出の機会を伺いながら居城としていた。竹林が無ければ矢作川以西の平野が見渡す限りに見えるだろう。
 次は信光明寺である。松平信光らの墓を今に伝える。ここも観光寺ではなく、おカネを落とす仕掛けもないから閑散としている。歴史の愛好者が居ないと何も分からない。その次は円福寺であるが信光明寺の墓をここに移したとかいう。説明板があるわけではないから資料を読んでふむふむとその場では分かった積りになる。
 そして近くの飲食店で会食となった。食後は奥殿陣屋へ移動。そこはなんと村積山の北麓だった。
AIの概要
「奥殿陣屋(おくとのじんや)は、愛知県岡崎市にある奥殿藩(おくとのはん)の陣屋跡地を整備した公園です。徳川家康の祖先である大給松平家の本拠地として栄え、その歴史と文化を伝えています。現在は「花園の里」として知られ、書院や日本庭園、資料展示室などが整備されており、季節の花々や史跡、抹茶などを楽しめます。
奥殿陣屋の概要
歴史:1711年に松平盛実によって開かれた奥殿藩の政治・行政の中心地でした。
立地:徳川氏発祥地である松平郷の近くにあり、持統天皇が命名したとされる「花ぞの山」の麓に位置しています。
現在の姿:陣屋跡地が公園として整備されており、当時の建物の一部(書院など)が復元されています。」

以上で解散。
豊田市松平郷から山間の地を抜けて岩津の地へ。そして安城へ、更に岡崎へと進出していった。
 ①松平親氏→②松平泰親→③松平信光→④親忠→⑤長忠→⑥信忠→⑦祖父・清康→⑧父・広忠→松平後に徳川家康

本坂峠から富士見岩ハイキング2025年11月18日

 10月3日の坊ケ峰に続いて18日も午後からの所用で新城市へ。午前中をフルに使って先月の心残りの本坂峠から富士見岩の間の部分を歩いた。先月は峠直下の旧トンネルまで車で上がったが今日はR362のトンネル手前にP。しばらく車道を歩くとR362の下をくぐってすぐにトイレがある。ここで左が姫街道、右が嵩山の蛇穴へと行く。
 車道を歩くと行き止まりになるので戻って、山側に続く踏み跡をたどると国の史跡に指定された嵩山(すせ)の蛇穴だった。ここには嵩山自然歩道の道標がある。自然歩道は桧の植林で手入れがされて美しい冬木立になっている。歩いて行くと浅間神社への分岐、姫街道への分岐を見送り、頭浅間の古社のある稜線(豊橋自然歩道)に到達した。途端に強い北風が吹きさらされて寒い。
 ここまでが1時間弱でベンチで休むと冷えるのですぐ南に向けて歩き出す。愛知県側は桧の人工林だが静岡県側の境内周辺は常緑照葉樹林が覆う。この植生は427.2m(4等三角点:本坂峠)を越えてもしばらくは続く。かつて日本列島の西南はこのような植生が占めていた。樹齢の古そうな太い幹も多い。保全されているのだろうか。
 柴田明彦『旗振り山と航空灯台』(ナカニシヤ出版。令和3(2021)年出版)によると米相場の情報伝達の場として嵩山の山上とだけの記載があり、427.2mの本坂峠のピークを推定されている。周囲より20m以上高いのでそうかも知れないが現状は愛知県側は桧の人工林が高く、静岡県側は前述の通り照葉樹の高木が生えている。ただ三角点の先が膝くらいの笹原になっている。そして静岡県側に広い地形は想定通りか。ここ以外に良い場所はない。ここから中山峠の南の旗振山(点名:中山峠。393m)につなげるのは無理がない。
 嵩山町側へのバリルート(破線路)の案内もある。常緑照葉樹林から抜け出すとパッと明るくなり、下り気味に歩いて登り返すと富士見岩だった。南側に回って岩に攀じ登り素晴らしい展望を得た。眼下には三ヶ日町の猪鼻湖、広大な浜名湖は冬の太陽に鈍く照り返し光る海に見えた。山の中の山も良いが海の見える山も良い。
 冬晴れには違いないが遠方は冬霞ではっきりしない。それでも黒っぽい富士山が見えた。まだ雪が少ない。これで一応の目標は達成できた。
 下山時は12時30分。新城市の歴研の会合まで1時間あるが昼食を食べている時間は無さそうだ。ナビを見ると27分とあった。信号が殆どないから早い。途中、次郎柿の露天売り場が続くのでつい一袋買った。200円で6個は入っていた。13時20分に無事会場入りできた。
 会議後、100km先の奥大井の山を予定していたが冬型の気圧配置の影響か冷たい雨がぱらついて中止にした。名古屋への帰途はR23に周ったが刈谷市周辺から大渋滞。東名高速も豊田市周辺が大渋滞だったらしい。R301が良かったかな。R23は刈谷で降りて徳重経由で帰った。

岩津城址をめぐるハイキング案2025年09月10日

 岩津城は豊田市松平町で興った松平氏が岡崎平野に進出する足掛かりになった重要な城だと知った。松平から岩津城、安祥城、そして岡崎城へ。どちらもそんなに離れてはいないので一気に回れるだろう。涼しくなったら行きたい。

第9回 三遠研発表会2-22025年09月06日

 第二部は石黒 妙氏の「永正三河(の)大乱」について
 
1 永正三河の大乱の背景
~京における混乱の影響~

 ・・・応仁の乱は一夜空しい、と覚える。1467年から始まり約11年続いた。呉座勇一『応仁の乱』のはじめにも書いてある。
”応仁の乱勃発当初は京都のみが戦場であったが、やがて戦乱は地方に波及し、全国各地で合戦が行われた。”とあるから石黒さんは三河を掘り下げたというわけです。

2 永正三河大乱における戦い
a"今橋城の戦い→永正三年(1506年)
 今川氏親、伊勢宗端VS牧野古白

b"岩津合戦→永正五年(1508年) 
 今川、東三河連合軍VS松平親長、岩津松平

 ※奥平氏率いたのは、奥平貞昌
 ※戸田氏率いたのは、戸田堯光

 ◎今川氏の目的は
    そもそも三河を手に入れることではなかった!
                 ↑」
    京に復帰した、義材(足利義稙か)に接近した本家、
    吉良義信が、松平一族の動きを封じたかったから、
    今川氏親へ遠見守護を確約し、義材の命令により
    今川軍を動かしたい狙いがあったから  

3 今川氏親はこの戦いで何を得たのか
以上を順次話された。予備知識がないために頭が混乱してしまった。

 新城市からの帰路はやはりR1に戻り、岡崎市の岩津城址を探し当てた。GPSでは竹藪に覆われた丘というイメージだが、歩いて行くときちんと入口もあり歩道も整備されている。次の機会に探訪して見たい。
 司馬遼太郎『覇王の家』が参考になる。豊田市松平の地から松平親氏から広忠まで8代。約200年をかけて1603年に徳川幕府成立し、徳川家康につないだ。その間に永正三河の大乱もあるわけだ。
 岩津城のHP「 まもなく松平宗家二代泰親、三代信光の手によって岩津城が築城されて600年を迎えようとしています。岩津城は家康(九代)誕生に繋がる松平氏発展の礎となった極めて歴史的価値の高い城郭です。」
 岡崎おでかけのHP「築城は、松平2代泰親が応永28年(1421)に加茂郡松平郷から岩津に進出を果たしたことに始まると伝えられています。
山城跡は戦国時代の様相を示す優れた縄張構成をもつ城郭で、中世城郭のほぼすべての要素が揃っている重要な遺構。
 南側にある信光明寺とあわせ、松平氏の三河平定の歴史を語る際、欠かせない場所の一つです。」
 2025-1421=604年という計算なわけです。

第9回 三遠研発表会2-12025年09月06日

 新城市で研究発表会を開催。今日はいつものR153からR301のドライブではなく、県道56号線を岡崎市まで走った。行きがけに岩津天満宮に寄って参拝した。この近くに岩津城跡があると聞いたが、道路案内があるだろうと事前に調べて行かなかったので分からず仕舞い。地理感を得ただけで終わった。
 R1に出て豊川市方面へ。R23開通のお陰で長距離のトラックが無くなりスイスイ走れるようになった。途中から近道で新城市文化会館へ。
 13時に到着。13時30分から大会議室がほぼ埋まる37名が参加して活況を見せた。白井会長のあいさつで始まった。
 第一部は新城支部の富安秀直氏の「武田信玄の終焉地は今水寺か?」。
1 信玄の終焉の地は
①阿智村の駒場「長岳寺」・・・・信玄を火葬に付した寺
②根羽村の横畑の信玄塚
③阿智村(旧浪合村)

2  野田城攻めの際の今水寺の地理的条件と規模
3 厳冬期に一ヶ月以上の滞陣
4 双方に多大な戦死者が出ていない
5 野田城攻めの不可解な戦の収め方
6 今水寺の残留遺物の様子
7 武田軍の退路について
順次話された。
 配布された地図を見るとかつて登ったことがある吉祥山の北西の山麓だった。ここなら一度行った記憶もあるが予備知識がないためさらっと見ただけに終わった。
 また西の金沢町は俳人の富安風生の生家がある。風生には子がいないために別の相続人に渡った。家の近くには風生の生家である石碑が建っていた。
 世に知られた有名な句は”まさをなる空よりしだれざくらかな”


 終焉の地は他に
④奥三河から信州にかけての何箇所かに、武田信玄の死にまつわる伝承地が残されており、福田寺にある墓はその中のひとつ。伝承では、天正元(1573)年武田信玄が野田城攻略中に病に侵され甲州へ戻る途中、この寺に立ち寄ったが、ここでさらに重篤となって病没したとされています。本堂脇の池のほとりに墓が建てられており、これは屈指の戦国大名のものとは思えないほど小さく簡素なものです。(設楽町HP)

 ネットでも歴史街道のHPで「野田城を攻城中に重態に陥った武田信玄。その終焉地の謎に迫る!
 遠江の三方原の戦いに勝利した後、野田城を攻城中に重態に陥った武田信玄が、伊那街道から三州街道を経て本国の甲斐に引き揚げる道すがらの元亀4年(天正元=1573年)4月、一体どこで死んだのか、その謎は解明されずに今日にいたる。

そして信玄塚や死亡伝承地が沿道の随所に点在する。

 信玄は風林火山の旗を都に掲げる野望を抱いた。将軍・義昭の求めに応じ、本願寺、朝倉義景、浅井長政らと呼応して、比叡山焼打ちなど仏法を軽視する織田信長に対して、上洛の兵を動かしたのだ。
 元亀3年12月22日、2万5千の軍勢は天竜川を渡り、三方原台地に上がり、家康の浜松城を無視して、姫街道を通り三河に向かう姿勢をみせた。これに家康は自分の庭を土足で踏み荒らすのは許せぬとして、1万1千の兵を率いて追跡した。31歳と若い家康の心理を読み切っていた信玄は、計算通りに軍勢を返し、三方原で家康軍に痛烈な打撃を与えて大勝利をおさめた。
歴史街道のURL
https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4942
以上

新城市2025年08月26日

 役員会で新城市へドライブ。途中、新東名の事故をラジオが報じた。「26日今朝、愛知県岡崎市の新東名高速の下りで産業廃棄物を載せたトレーラーが横転する事故がありました。この影響で、現在一部区間が通行止めとなっています」とのこと。高速を利用しなくて良かった。 
 暑い時期と寒い時期は必ず、大きな交通事故が発生する。高速道路、船、航空機など。
 天白区からR153を経て豊田市まで渋滞もあるがR301は信号もなくストレスなく走れる。高原の空気を吸いながらのドライブだ。
 今日は午後から新城市市民文化会館の三遠研の役員会の会合。機関誌の発行、事業の企画、遂行などを話し合う。資金難だが会員の執筆意欲は高い。何とか継続して欲しい会である。