前田普羅・句集「飛騨紬」鑑賞 ― 2008年05月07日
解題から。句集「飛騨紬」は昭和22年6月30日刊行。飛騨地方に関係ある215句を四季季題別に収録。昭和2年著者44歳の頃より戦前の作品を集める。普羅が飛騨に関心をよせたのは少年時代に読んだ志賀重昂の『日本風景論』(明治27年)を読んでからという。
本格的に飛騨を踏破したのは昭和4年、報知新聞社を退社してからであった、という。その後普羅は折にふれて飛騨に遊び、その風土と生活に肌を接して作品を成した。と沢木欣一が紹介。
『春寒浅間山』『能登蒼し』と三部作を構成する。沢木は『春寒浅間山』の紹介も書いている。中でも「自然を愛するという以前にまづ地貌を愛する」「一つ一つの地塊が異なる如く、地貌の性格も又異ならざるを得なかった。空の色も花も色をたがえざるを得なかった。「事も無げに、自然と称へて一塊又一塊の自然を同一視することが出来ない」。
旅行者の眼でなく、生活する者の温もりのある心で飛騨の風土と一体になって詠っているところに意義がある、と丁寧な解説ぶりである。沢木欣一も富山県出身であり東大国文学出の俳人である。
序文は紀行文「奥飛騨の春」の序を転用した。中でも少年時代に『日本風景論』を読んだというのは興味深い。年譜によると明治18年2月18日生まれ。明治30年頃両親と別れ、親類に寄食する。後に東京、神田開成中学に通う。とあるからこの頃に読んだだろうか。『日本風景論』は明治27年に発売されるとたちまちベストセラーになった。発売されて3年後のことであるから可能性は高い。
親の愛に飢えて寂しい境涯の人と見ることもできるが自然により深く傾倒することで癒されたであろう。植物の牧野富太郎博士も孤独をむしろ愛した人だった。風土の自然に傾倒することで孤独は癒されていたのであろう。
雪解くる音絶え星座あがりけり
鑑賞:飛騨の夜は冷え込む。気温格差が大きい。昼間は雪が解けて流れていた小沢も凍結が始まると流れる音も消える。そして星座があがる、というのである。人工的な照明等なかった時代は美しい夜空であっただろう。
汽車たつや四方の雪解にこだまして
鑑賞:高山本線の全通は昭和8年だった。昭和4年にようやく富山猪谷間が開通している。つまり高山線(当時は飛越線)の開通とともに飛騨へ入り始めたのである。谷間を行くSLの汽笛が雪解の山間にこだまする、というのだ。わくわくした気分の普羅の様子も伝わるではないか。たつやは発つやである。
雪つけし飛騨の国見ゆ春の夕
鑑賞:すでに名作としてよくとられる一句である。国とはすなわち山野のことであろう。この5月3日は4時過ぎになって観音山から白い笠ヶ岳など北アルプスを見たがまさにこの句のとおりであった。
昭和5年に発表されたらしいが紀行文「奥飛騨の春」の俳句版であろうか。疑問は奥飛騨の春としているが実は5月20日のことである。5月6日に立夏となるから本来は夏の季語で表現されるべきであった。ただし、雪深い山国飛騨は平野部の季語とずれがあるので春の季語で創作したかに思える。
乗鞍のかなた春星かぎりなし
鑑賞:神岡町の円城寺に句碑があった。2回ほど訪ねた。文句なしに名句である。5月3日は春星を見るチャンスであったが長旅で疲れて眠ってしまい神岡の夜空を堪能できなかったのは残念。
普羅は神岡高山の人たちに俳句指導で度々神岡に行った。当時のことで日帰りはならず、神岡に泊まって飛騨の夜を味わったことだろう。
春寒し人熊笹の中を行く
鑑賞:5月4日は大洞山の熊笹の中を歩いたが晩春のこととて暑かった。若干は雪残る4月上旬の句であろう。この句も昭和5年の発表という。ならば八尾から白川村、河合村を歩いた「奥飛騨の春」の旅で創作かもしれない。
雪つけて飛騨の春山南向き
鑑賞:これも素直に解釈すると北の富山県八尾から来て、南の方角の飛騨の山国に入って山を見れば南向きではある。例えば白木峰など。
行く春や旅人憩う栃のかげ
鑑賞:以前に水無山や金剛堂山に行った際、水無の廃村に大きな栃が残っていた。花が咲いていたと記憶している。ああこれが栃の花かと思ったものだった。この句は「奥飛騨の春」の紀行文に挿入されている。文中からは天生峠の一角と見られる。
花桐や重ね伏せたる一位笠
鑑賞:この句も「奥飛騨の春」に挿入されている。天生峠付近の山清水で二人の杣が竹筒に水を満たしていることが描写されている。桐の花が咲いている側で杣が水を飲んでいる。一位笠は杣のものであろう。それが重なっている情景。
藤さげて大洞山のあらし哉
鑑賞:岐阜県には洞の地名が多いし山名も多い。大洞山というだけでは一般の人には分からない。しかし飛騨に限定するなら神岡の裏山的な存在の大洞山であろう。神岡は俳句指導で来ることが多かった思う。
その解釈であるがあらしがポイント。あらしとは何か。嵐か。否。アラシとは岩科小一郎著『山ことば 辞典』(復刻版)によれば沢の小なるものにして傾斜烈しく平時多くは水なきもの。山の急 斜面の上から木材などを投げ下ろす場所、又はそうする場所に生じた溝なのである。藤を手折って下げて急傾斜の道(あらし)を歩いたのだろうか。
もう一つは句集では藤の小題で6句並べられる。同時期かは不明であるが前後の句が説明するでもない。風雨の夜明け、尾越の声の遠ざかる、雨風の夜、落花のふじなど。単純に藤があらしに吹かれて落花しかかっている、と解釈もできる。そうかも知れない。
紺青の乗鞍の上に囀れり
鑑賞:この句もよく知られた名句。大洞山でも百千鳥が奏でた。普羅はよほど乗鞍が好きと見える。紺青とは空の色か。残雪のたっぷりある白い乗鞍岳の上に囀るとは。
神岡町の大洞山での体験から。登山中に乗鞍、御嶽展望台があって休む。そして展望を愉しむのであるが尾根の樹林帯であるから天上から小鳥のさえずりが聞こえるのである。遥かに望む乗鞍の上の空は青空であり、さえずりはあたかも乗鞍の上であるかのごとく思える、というのだ。
本格的に飛騨を踏破したのは昭和4年、報知新聞社を退社してからであった、という。その後普羅は折にふれて飛騨に遊び、その風土と生活に肌を接して作品を成した。と沢木欣一が紹介。
『春寒浅間山』『能登蒼し』と三部作を構成する。沢木は『春寒浅間山』の紹介も書いている。中でも「自然を愛するという以前にまづ地貌を愛する」「一つ一つの地塊が異なる如く、地貌の性格も又異ならざるを得なかった。空の色も花も色をたがえざるを得なかった。「事も無げに、自然と称へて一塊又一塊の自然を同一視することが出来ない」。
旅行者の眼でなく、生活する者の温もりのある心で飛騨の風土と一体になって詠っているところに意義がある、と丁寧な解説ぶりである。沢木欣一も富山県出身であり東大国文学出の俳人である。
序文は紀行文「奥飛騨の春」の序を転用した。中でも少年時代に『日本風景論』を読んだというのは興味深い。年譜によると明治18年2月18日生まれ。明治30年頃両親と別れ、親類に寄食する。後に東京、神田開成中学に通う。とあるからこの頃に読んだだろうか。『日本風景論』は明治27年に発売されるとたちまちベストセラーになった。発売されて3年後のことであるから可能性は高い。
親の愛に飢えて寂しい境涯の人と見ることもできるが自然により深く傾倒することで癒されたであろう。植物の牧野富太郎博士も孤独をむしろ愛した人だった。風土の自然に傾倒することで孤独は癒されていたのであろう。
雪解くる音絶え星座あがりけり
鑑賞:飛騨の夜は冷え込む。気温格差が大きい。昼間は雪が解けて流れていた小沢も凍結が始まると流れる音も消える。そして星座があがる、というのである。人工的な照明等なかった時代は美しい夜空であっただろう。
汽車たつや四方の雪解にこだまして
鑑賞:高山本線の全通は昭和8年だった。昭和4年にようやく富山猪谷間が開通している。つまり高山線(当時は飛越線)の開通とともに飛騨へ入り始めたのである。谷間を行くSLの汽笛が雪解の山間にこだまする、というのだ。わくわくした気分の普羅の様子も伝わるではないか。たつやは発つやである。
雪つけし飛騨の国見ゆ春の夕
鑑賞:すでに名作としてよくとられる一句である。国とはすなわち山野のことであろう。この5月3日は4時過ぎになって観音山から白い笠ヶ岳など北アルプスを見たがまさにこの句のとおりであった。
昭和5年に発表されたらしいが紀行文「奥飛騨の春」の俳句版であろうか。疑問は奥飛騨の春としているが実は5月20日のことである。5月6日に立夏となるから本来は夏の季語で表現されるべきであった。ただし、雪深い山国飛騨は平野部の季語とずれがあるので春の季語で創作したかに思える。
乗鞍のかなた春星かぎりなし
鑑賞:神岡町の円城寺に句碑があった。2回ほど訪ねた。文句なしに名句である。5月3日は春星を見るチャンスであったが長旅で疲れて眠ってしまい神岡の夜空を堪能できなかったのは残念。
普羅は神岡高山の人たちに俳句指導で度々神岡に行った。当時のことで日帰りはならず、神岡に泊まって飛騨の夜を味わったことだろう。
春寒し人熊笹の中を行く
鑑賞:5月4日は大洞山の熊笹の中を歩いたが晩春のこととて暑かった。若干は雪残る4月上旬の句であろう。この句も昭和5年の発表という。ならば八尾から白川村、河合村を歩いた「奥飛騨の春」の旅で創作かもしれない。
雪つけて飛騨の春山南向き
鑑賞:これも素直に解釈すると北の富山県八尾から来て、南の方角の飛騨の山国に入って山を見れば南向きではある。例えば白木峰など。
行く春や旅人憩う栃のかげ
鑑賞:以前に水無山や金剛堂山に行った際、水無の廃村に大きな栃が残っていた。花が咲いていたと記憶している。ああこれが栃の花かと思ったものだった。この句は「奥飛騨の春」の紀行文に挿入されている。文中からは天生峠の一角と見られる。
花桐や重ね伏せたる一位笠
鑑賞:この句も「奥飛騨の春」に挿入されている。天生峠付近の山清水で二人の杣が竹筒に水を満たしていることが描写されている。桐の花が咲いている側で杣が水を飲んでいる。一位笠は杣のものであろう。それが重なっている情景。
藤さげて大洞山のあらし哉
鑑賞:岐阜県には洞の地名が多いし山名も多い。大洞山というだけでは一般の人には分からない。しかし飛騨に限定するなら神岡の裏山的な存在の大洞山であろう。神岡は俳句指導で来ることが多かった思う。
その解釈であるがあらしがポイント。あらしとは何か。嵐か。否。アラシとは岩科小一郎著『山ことば 辞典』(復刻版)によれば沢の小なるものにして傾斜烈しく平時多くは水なきもの。山の急 斜面の上から木材などを投げ下ろす場所、又はそうする場所に生じた溝なのである。藤を手折って下げて急傾斜の道(あらし)を歩いたのだろうか。
もう一つは句集では藤の小題で6句並べられる。同時期かは不明であるが前後の句が説明するでもない。風雨の夜明け、尾越の声の遠ざかる、雨風の夜、落花のふじなど。単純に藤があらしに吹かれて落花しかかっている、と解釈もできる。そうかも知れない。
紺青の乗鞍の上に囀れり
鑑賞:この句もよく知られた名句。大洞山でも百千鳥が奏でた。普羅はよほど乗鞍が好きと見える。紺青とは空の色か。残雪のたっぷりある白い乗鞍岳の上に囀るとは。
神岡町の大洞山での体験から。登山中に乗鞍、御嶽展望台があって休む。そして展望を愉しむのであるが尾根の樹林帯であるから天上から小鳥のさえずりが聞こえるのである。遥かに望む乗鞍の上の空は青空であり、さえずりはあたかも乗鞍の上であるかのごとく思える、というのだ。
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