飛騨・六谷山を歩く2009年06月01日

 前夜は流葉の旅館で旧交を温めた。一等三角点教の草分け的な教祖・坂井久光氏はお元気であった。85歳になるとか。1等三角点研究会の定例山行であるがエントリーしたのは39名で西は山口県から北は新潟県、東は東京と幅広く集まった。中でも関西勢は50%になる。旅館はOFFシーズンとあって貸切になった。
 早朝から目覚めたが外は雨。80%の降雨率がよく当った。スタッフが協議して出発を1時間遅らせた。どうせ午後からは晴れるとの淡い期待もある。
 東茂住まではR41を走り、近くのPで車両の再編成を行う。27名が登山に向った。茂住峠までの林道はさほど荒れているとは思わないが雨ゆえの心配もある。何とか無事に峠着。雨は小雨。
 雨具、傘、登山靴、長靴と様々ないでたちで9時37分出発。欝蒼とした登山口を入るとすぐに旧峠にお地蔵さん2体が旅人なき今も見守る。登山道は中部電力の鉄塔巡視路でよく整備されている。以前に登った際は藪っぽい道で半袖シャツのせいで漆に被れてひどい目にあった記憶がある。
 急な所は強化プラスチックのような物質の階段があって楽だ。登山道は山頂手前のピークまではほぼ樹林に覆われる。ナナカマドの花、ヤマツツジ、萎れかけたタムシバ、ドウダンツツジ、ガマズミの花など。高まると次第に中位のブナが現れた。ブナの好事家のO氏は巻尺で幹周りを計るが3mはない、とのこと。昨夜は懇親会で橅讃歌をご披露された。1番だけ。
           橅讃歌
         1 bunabunabu-na
            白山の5月
            根回りの中にすっと立つ橅
            雪解けの水は橅の白い幹を伝う  
            ふきのとうの黄緑
            芽吹きはもうすぐ
            春の陽が心の隅々まで照らし
            恋の予感がする 
  
 △1374mの中間ピーク辺りはブナ林もあって自然環境も素晴らしい。そこを過ぎると急降下してやせ尾根を辿る。11時過ぎ、いくらもなく1397.6mの山頂である。雨は止んだが残念ながら眺めはない。1等三角点の山の最大の価値は展望のよさだから今日は無念というしかない。しかし、そこは1等三角点フリークの会だ。測量士が何か専門的な数値のプレートを出して撮影する。山頂に溢れんばかりが並んで記念写真を撮影して昼食後下山した。恐らく1年で一番賑わった日ではないか。
 地形図をよく眺めるとなぜ六谷かいやでも分る。岐阜県側は茂住谷1つだが富山県側は弥谷、かや原谷、クスリ谷、キャク谷、大池谷と5谷を数える。これで6谷である。基準点成果等閲覧サービスにアクセスして「一等三角点の記」を見ると点名も六谷山=ろくたにやまである。住所は富山県側になり、明治27年9月5日に選点(舘潔彦)、同28年10月31日に埋標(古田盛作)された。笹地、展望良好とあるからやはりいい山である。このコンビは立山など1等三角点を多く手がける。
 舘潔彦については以下のHPで見られる。
 http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaempfer/suv-hanashi/koumori.htm
 三重県人と知れば親しみも湧く。
 峠に戻る。下りは約1時間。
 マイカーでまた東茂住のPまで走る。登る時はよく分らなかったが栃の花、朴の花が美しい。下の方では右の谷底に沈殿池が見えた。イタイイタイ病の原因である鉱毒(カドミウム汚染)をこの池で沈殿させて神通川に流さない対策である。
 Pに着いた。ここで解散となった。JR高山線で帰る人を飛騨古川駅まで送り、飛騨清見ICから帰名した。

尾上昇氏日本山岳会の会長に就任2009年06月01日

 5/23に日本山岳会東海支部の尾上昇氏が第23代目の会長に就任。新聞各紙で紹介されている。6/1の朝も隣りの81歳の社員からほい、と切抜きを渡された。今回の報道である。     
 尾上氏は日大OBで会社経営する傍ら登山活動をルーム提供などで支援。自らも総隊長として各海外遠征に同行する。一方ではボランティア活動にも熱心に取り組む。JACの活動の理論的な提案も行う。ただの山好きな親父に留まらない幅広い活動が支持されたか。
 そこでどんな時代にどんな人が会長になったを振り返る。*印はコメントである。

        日本山岳会(JAC)の歴史

1905年(M.38)10月14日 日本山岳会最初の会合が行われた。この日を以て創立日とする。(創立時の会員393名)
*発足はイギリス人、W・ウエストンによって提案された。
1906年(M.39)4月 「山岳」第1年第1号発行
*JACの歴史は山行報告の歴史である。情報発信こそ大きな命題をもつ。登るだけで発信しなければただの趣味の会に終る。
1909年(M.42)6月1日 会の名称を日本山岳会とし、会則制定する
*組織での活動を開始。
1910年(M.43)3月 ウォルター・ウェストン師名誉会員に推挙。「高山深谷」第1輯を発行
1931年(S.6) 会則を変更し、会長・理事制となる。初代会長に小島久太就任
*槍ヶ岳に充分な情報を得ずに苦労して登った。後に英文の『日本アルプス登山と探検』を偶然知ってショックを受ける。情報収集の重要さを学ぶ。
1933年(S.8)12月 高頭仁兵衛 会長に就任
*第二代目。新潟の豪農。元祖『日本山嶽志』を私財を投げ打って発刊。これも重要な情報発信となる。
1935年(S.10)12月 木暮理太郎 会長に就任
*第三代目。東大OB。登山しては書き、何より山が好きという人で大衆登山家に支持された。田部重治と共に静観派の指導者であった。
1941年(S.16)1月 社団法人認可。木暮理太郎 会長に就任
1944年(S.19)5月7日 木暮理太郎の急逝に伴い槙副会長が会長を代行
*第4代目。慶大OB.アルピニズムを海外の山で実践。マナスル初登頂の隊長。
1946年(S.21)2月3日 常任役員会にて槙会長の辞任を受理、西堀副会長が会長を代行
*京大OB.
1946年(S.21)6月1日 会員総会にて松方三郎を会長に推薦
*第5代目。京大OB.
1946年(S.21) 新会長に武田久吉就任
*第6代目。
1951年(S.26)4月 槙有恒 会長に就任
*第7代目 。慶大OB.
1955年(S.30)5月 別宮貞俊 会長に就任
*第8代目 。
1958年(S.33)10月 別宮会長の逝去に伴い、日高信六郎 会長に就任
*第9代目 。東大OB。
1962年(S.37)4月 松方三郎 会長に就任
*第10代目。京大OB。
1967年(S.42)2月 東海支部アンデス学術遠征隊アコンカグア(6959m)南壁登頂
1968年(S.43)4月 三田幸夫 会長に就任
*第11代目。慶大OB。
1970年(S.45)5月23日 東海支部(原真等)マカルー峰(8463m)東南稜より登頂
1970年(S.45)4月 今西錦司 会長に就任
*第12代目。京大OB。
1977年(S.52)4月 西堀栄三郎 会長に就任
*第13代目。京大OB。
1981年(S.56)5月 佐々保雄 会長に就任
*第14代目 。北大OB。
1984年(S.59)10月 東海支部(湯浅道男隊長)ガウリサンカール(7134m)南東稜より登頂
1985年(S.60)5月 今西壽雄 会長に就任
*第15代目。京大OB。
1990年(H.2)5月 山田二郎 会長に就任
*第16代目。慶大OB。
1993年(H.5)5月 藤平正夫 会長に就任
*第17代目。京大OB.
1995年(H.7)5月 村木潤一郎 会長に就任
*第18代目 。
1996年(H.8)7月11日 ウルタルⅡ峰(7388m)に東海支部(隊長・山崎彰人)登頂
1997年(H.9)5月 齋藤惇生 会長に就任
*第19代目。京大OB。
1999年(H.11)5月 大塚博美 会長に就任
*第20代目。明大OB。
2003年(H.15)5月 平山善吉 会長に就任
*第21代目。日大OB。ライブドアニュースから「登山は多様化している。会の中枢にいる人がこの日本山岳会を利用し、商業登山を推し進めている。いかがなものか」と問題点を投げかけた。
 「最近はヒマラヤ登山で、中高年齢の登山者の死傷者が出ている。一部マスコミからは、高年齢者の安易なヒマラヤ登山、公募登山に警鐘を鳴らす。8000メートル級の登攀技量は厳しい訓練と経験と体力が必要だ。力量不足でも、お金を出せば、鋭峰にも登らせてもらえる。そこには商業主義によるヒマラヤへの甘い誘いがあるのだ。
 会長を引退するとはいえ、平山さんの発言は同会内部から商業登山を問題視する、積極的かつ適切な忠告だろう。」
2007年(H.19)5月 宮下秀樹 会長に就任
*第22代目。76歳。慶大OB。
2009年(H21)5月 尾上昇 会長に就任
*第23代目。66歳。日大OB.
 学歴では判明した範囲では7名の京大OBが大活躍。続いて4名の慶大OBの活躍が目立つ。 学生山岳部が強かった大学が排出するのもやむをえない。海外遠征する際の企業からの寄付も有名大学OBなら有利である。伝統ある大学なら大企業の社長になる例も多い。
 ちなみに社長が一番多い大学は日大らしい。大企業に絞ると慶応、東大、早稲田、同志社、明治など。かつて海外遠征登山華やかなりし頃のJAC会長の仕事はは金集めであったようだ。
 しかし時代は変わった。ヒマラヤの巨峰はすべて登山された。もはやアルピニズムは終焉したの声しきり。6~7000m級ならまだあるそうだが金集めの意味はない。マナスルなら人類のため、という殺し文句が効いた。今じゃヒマラヤも個人山行である。
 3月に亡くなった原真はかつてJACの中高年山岳会化を提案されたし、尾上氏もアメリカのシエラクラブにヒントを得てネイチャークラブを提案された。どうやらその流になりそうだ。
 しかし戦前に亡くなるまで会長を9年間務めた木暮理太郎はもう出ないだろうか。山が好き、だから山に行く。それだけで良い。と主張している。もっぱら奥秩父の渓谷を好んで歩いた。田部重治と共に日本的登山の有り様を示している。登山とは山で寝ることである。焚き火をすることである。などなど。
 又今西錦司も会長在任は7年間と長い。金集めがうまかったようだ。彼もマナスルに執念を燃やしたが中年以後は国内の山を愛した。この点では木暮に引けをとらない。また100年以上前の登山、山岳風景賛美への熱狂は志賀重昂の国内礼賛だった。そろそろ国内重視の人材が選任されてもいい。『新日本山岳誌』は今西の遺言のようなことだったと思う。
 JACの歴史は初めから離合集散の歴史でもある。当初は植物研究家の団体が富裕層と結んで発足。学生が台頭して戦後まで続いた。その流とは別に大衆化も進んだ。今はスポーツマン、オーガナイザー(政治家)として有能な人材が好まれる。すでに登山の文化的な側面は分離独立していった。山岳文化人には居場所がないのだ。
 何に求心力を求めるか。特に若い人の関心はどうか。逆説的に考えると今流行ることを止めることだ。
 ○商業登山の制限=商業登山は山岳会の敵である。JACの実力者がプロガイド団体の会長になる例がある。これを放置して会の発展はない。百名山旅行なども止めたが方が良い。
 海外トレッキングにも有名な登山家を客寄せパンダにしている例があるようだ。
 ○山小屋の廃止ないしは制限=登山を堕落させた。避難小屋程度でいい。登れなきゃ登れないでもいいではないか。
 ○登山道の開発の制限と閉鎖=登山者に迎合して多くの登山道が開発された。八ヶ岳は良い例だ。人を見ることが多い観光登山になってしまった。
 この3つを実施するだけでも山の環境は一変する。
 2年の任期では大したことはやれない。とりあえずは社団法人から公益社団への移行が進捗することの後押しとなろうか。