加賀・錦城山に登る ― 2007年09月03日
本来は俵谷の沢登りの計画であった。林道奥深く入ったものの降雨を心配して中止と相成った。夕べは名古屋を早く出ることが出来て10時30分には着いてしまったから楽しくてついつい小宴のつもりがが長々と続いて飲みすぎて頭痛がするのも気力が伴わなかった。往復10時間だから6時には入渓するべきが随分遅刻した。これも皆が油断して飲みすぎたからか?
林道の状態は両側から草が伸びていたし木の枝も張り出していた。落石も多いようだ。ドアを開けるとアブやオロロがどっと入ってきた。冷房するとおとなしくなった。目標地点までのろのろ走ったが途中でギャップの大きな所があり4WDだが普通の車高では太刀打ちできず、撤退となった。
さりとて小谷堂(こたんどう)へ戻っても何かやるあてもない。岩魚釣りがひらめいたがえさの用意がない。あちこち道草を食いながら九頭竜へ戻った。車輪に砂粒が入ったらしく異音がするのでチエック。外からは分からないのでホイールを外して見たら見つかった。W君の根気に感謝。
そうだ!こんな時こそ行ってみようか。空は鉛色の雨雲だ。もう観光しかないと腹を括った。石川県加賀市にあるの深田久弥の山の文学館だ。
http://www1.kagacable.ne.jp/~yama/
R158を行き、R364と走る。大聖寺町の駅の近くの看板で見当をつけて割りに簡単に行けた。絹織物の山長の工場だった古い建物だが風情がある。入館料は300円也を払うと係りの人があれこれ説明してくれた。代表作の『日本百名山』で山の作家として押しも推されぬ存在になったから立派なものである。
沢で食べる昼飯を庭の中で食べることを許可してくださった。おかげで随分長い時間を気持ちよく過ごせた。さて、このまま帰るには何か今ひとつ足りない。素うどんプラスせめてかやくかかつおぶしの一つまみが欲しい、と思い立ったのが錦城山登山であった。
この山は『新かが・のと百山』(平成3年)や分県登山ガイド「石川県の山」の旧版(1996年)に掲載されている。館の人に道を教えてもらい行った。簡単に登れた。何しろ標高は65mであったから。おまけに城跡だから遊歩道も整備されて歩きやすい。本丸からの展望は皆無であった。
近くには久弥が通った小学校もある。校歌の作詞もした。「白山の峰はさやかに 強き子らここに集いて」と始まるようだ。歌うたびに少年のこころに白山は根付いていくだろう。墓地も回ったが分からなかった。生家は今も健在で紙屋さんだ。その前には生誕の地の石碑が新しい。加賀市にとっては全国に名を知られた有名人であるから顕彰する価値がある人である。
帰る時は前方はるかに久弥が愛した富士写ヶ岳がすっきりした山容で「また来なさい」とあいさつされたようだ。そうか空はまずまずの晴れに好転していたのである。丸岡温泉で一浴して帰った。今日ばかりは文学の山旅であった。
林道の状態は両側から草が伸びていたし木の枝も張り出していた。落石も多いようだ。ドアを開けるとアブやオロロがどっと入ってきた。冷房するとおとなしくなった。目標地点までのろのろ走ったが途中でギャップの大きな所があり4WDだが普通の車高では太刀打ちできず、撤退となった。
さりとて小谷堂(こたんどう)へ戻っても何かやるあてもない。岩魚釣りがひらめいたがえさの用意がない。あちこち道草を食いながら九頭竜へ戻った。車輪に砂粒が入ったらしく異音がするのでチエック。外からは分からないのでホイールを外して見たら見つかった。W君の根気に感謝。
そうだ!こんな時こそ行ってみようか。空は鉛色の雨雲だ。もう観光しかないと腹を括った。石川県加賀市にあるの深田久弥の山の文学館だ。
http://www1.kagacable.ne.jp/~yama/
R158を行き、R364と走る。大聖寺町の駅の近くの看板で見当をつけて割りに簡単に行けた。絹織物の山長の工場だった古い建物だが風情がある。入館料は300円也を払うと係りの人があれこれ説明してくれた。代表作の『日本百名山』で山の作家として押しも推されぬ存在になったから立派なものである。
沢で食べる昼飯を庭の中で食べることを許可してくださった。おかげで随分長い時間を気持ちよく過ごせた。さて、このまま帰るには何か今ひとつ足りない。素うどんプラスせめてかやくかかつおぶしの一つまみが欲しい、と思い立ったのが錦城山登山であった。
この山は『新かが・のと百山』(平成3年)や分県登山ガイド「石川県の山」の旧版(1996年)に掲載されている。館の人に道を教えてもらい行った。簡単に登れた。何しろ標高は65mであったから。おまけに城跡だから遊歩道も整備されて歩きやすい。本丸からの展望は皆無であった。
近くには久弥が通った小学校もある。校歌の作詞もした。「白山の峰はさやかに 強き子らここに集いて」と始まるようだ。歌うたびに少年のこころに白山は根付いていくだろう。墓地も回ったが分からなかった。生家は今も健在で紙屋さんだ。その前には生誕の地の石碑が新しい。加賀市にとっては全国に名を知られた有名人であるから顕彰する価値がある人である。
帰る時は前方はるかに久弥が愛した富士写ヶ岳がすっきりした山容で「また来なさい」とあいさつされたようだ。そうか空はまずまずの晴れに好転していたのである。丸岡温泉で一浴して帰った。今日ばかりは文学の山旅であった。
深田久弥山の文化館を訪ねる ― 2007年09月06日
9/2(日)石川県加賀市の深田久弥山の文化館を訪ねた。その折の旅吟。
銀杏(イチヤウ)の日陰がよろし残暑かな
銀杏(イチヤウ)がマスカットほどの実をつけり
銀杏(イチヤウ)に雄と雌あり木は別に
秋日和和室で山の写真展
欧州の十六夜を撮る写真かな
秋空に富士写ヶ岳が座りをり
山房で微笑む久弥さわやかに
秋風がウッドデッキ吹き抜けり
その他の地域で
澄む水に岩魚が泳ぐ飛騨の国
秋の山オロロやアブが襲い来る
鈴虫を飼う話するリンリンと
酔うほどにお酒が進む夜長かな
銀杏(イチヤウ)の日陰がよろし残暑かな
銀杏(イチヤウ)がマスカットほどの実をつけり
銀杏(イチヤウ)に雄と雌あり木は別に
秋日和和室で山の写真展
欧州の十六夜を撮る写真かな
秋空に富士写ヶ岳が座りをり
山房で微笑む久弥さわやかに
秋風がウッドデッキ吹き抜けり
その他の地域で
澄む水に岩魚が泳ぐ飛騨の国
秋の山オロロやアブが襲い来る
鈴虫を飼う話するリンリンと
酔うほどにお酒が進む夜長かな
中央アルプス・安平路山 大西沢遡行 ― 2007年09月11日
2000年6月4日、私は飯田市の図書館を訪れた。飯田松川の源流の村、松川入の文献調査のためであった。図書館をでてからは現地に向った。ぼたもち平は整然としていたが淋しい所であった。昭和40年までは人が住んでいた。かつてはここから大西沢沿いの登山道が開かれていた。途中からシラビソ山に向う健脚向きのコースであった。もっともあの頃は摺古木山でさえ大平から約5時間はかかっていた。安平路山は遠い遠い山だった。
それが昭和44年8月5日の大西沢に起きた鉄砲水で避難小屋で就寝中に7名が流される遭難事故が発生し登山道は閉鎖。戦後盛んに伐採されて保水力を失った山は降雨量の多い日には度々洪水をもたらし、松川入を廃村に追い込んだ。
9/8.あれから38年経過した今はどうなったのだろう。大西沢と小西沢の出合には大きな砂防堰堤が築堤された。治水も兼ねているような提高である。ぼたもち平が1220mあり、目の高さで高度計では1255mある。この堰堤を越えるのは容易ではない。ちゃんと道がつけてあった。
林道を奥まで歩くと左の方へカーブする。そこで車止めである。奥では蛇洞沢の砂防堰堤の工事中である。そこまでは行き過ぎで入口の車止めから少し右を睨みながら歩くと細い山道が登っている。最初は見送ったがこれが堰堤を越すトラバース道であった。道は最初は左へ登るがすぐに右に曲がる。そのまま堰堤を越えられる。赤テープ、道標などはない。
越えるとすぐに右側に大西沢の大きな広い河原が現れる。小西沢に出合うと鉄橋を渡る。損壊しているが何とか渡れる。この鉄橋はたぶんかつての登山道の名残であろうか。渡ってすぐに大西沢に出合う。鉄砲水が流れていったからには氾濫した河原と思うがそんなに荒れた気がしない。
中央アルプスの沢らしく水は透明度が高く、冷たいし明るい渓相にほっとする。7年前から下見し、調査してやっとの思いで入渓出来た。最初は普通の川通しに溯る。特に見所はない。途中で釣師2人を追い越す。段々傾斜を強めて行くとついに大滝30mにぶつかる。滝下までは行けず、左岸を巻く。ここにも赤テープや著しい踏み跡はない。けもの道を適当に辿り、失い、また見つけては巻いた。
一旦は沢へと降りたが又15m位の素晴らしい地図にない滝が現れた。ここも滝に近づいたが近寄れないくらい飛瀑が多い。すぐにびしょぬれになりそうだ。滝に近いラインは描けず、右岸を高巻くイメージしたが奥で懸垂下降を余儀なくされる予感がするので左岸の山腹に戻った。あるかないかのケモノミチを見出しながらちらちら沢を見下ろす。そこは連瀑帯で登攀力のある力量の揃ったパーティーには直登を楽しめるだろう。
ようやく核心部を突破したがまだ12時過ぎで時間的な余裕はある。空は高曇りで時々日が差すが雲が厚そうだ。名前のある枝沢をF君が確認しつつ溯る。南沢への分岐ははっきりしていた。きれいなスジ状の滝が最後を楽しませてくれる。左岸を簡単に越える。流れが細まるがまだ先は長い。周囲は針葉樹林帯で落ち着いた樹相である。こんな所で一晩を過ごすのも悪くないだろう。
階段状になった流れを上がると周囲からクマザサに覆われるようになった。ヤブコギが始まった。疲れた体には堪える。延々笹をこいで稜線に出たらしい。先行のF君が前安平路との踏み跡でも見つかったあ、と叫んでくれないかと期待したが何もないとがっかりした様子である。ほんとに人の気配が全くない稜線であった。
止む無く丁寧に笹を分けて登る。赤テープが所々にはあった。好き物はやはり来ているのだ。前安平路山を往復するために。道草は食えないからひたすら山頂を目指した。やっとの思いで登頂。朝7時6分に出発して15時を回っていた。15時半、やたら虫の多い山頂を辞した。疲れた足に下りのフエルトシューズは負担である。滑りやすい急斜面を凌ぎ、緩斜面に出るとすぐに水場に着く。有るだけのペットボトルに水を詰めて小屋に向った。
小屋は健在であった。中ア南部縦走の際に泊まったことがある。中は先客もいないので我々の貸切となった。小屋に張られたヒモに濡れ物を干した。とりあえずは一缶だけ持参したビールで無事を祝い乾杯した。夕食は簡単なレトルトカレーで済ます。
寝る段になって雨具、冬用下着、シュラフカバー、羽毛ベストだけでは小寒いので小屋に備えてあったシュラフを拝借した。ここは標高2000m超の世界で今は気温12度。軽量化に努めたが削りすぎたようだ。羽毛ジャケット、羽毛ズボンを加えるべきだった。
9/9.シュラフのお陰でぐっすり眠れた。一回だけ小用に起きたが飯田市の夜景がきれいに見えた。午前5時起床。さっさと片付け、朝食、と手早く準備して行く。それでも出発は6時45分になった。大した手間なことはしていないのに時間がかかる。
雨具を履いて露を含んだクマザサの海を歩き出した。すぐにびしょぬれだ。シラベの森の重厚な雰囲気を味わいつつ笹の海を泳ぐ。シラビソ山は地味な山頂である。すぐに歩き出す。摺古木山に向う途中3パーティに出会った。女性中心のツアーも居た。二人連れに聞くと日本三百名山の一つであるとのこと。あまり楽しい山とは思えない山でもまじめにこなす女性登山者の健気な精神には脱帽だ。
摺古木山に着いた。ここはもう安全圏に来たと思う気分がした。実際よく登った。会員の子供も同伴でスイカを担いで登り、途中の沢に浸して冷やした。下山した際に食べて美味かった思い出がある。目の前には円い山頂のアザミ岳が聳える。足元のアザミがふと目に入る。そういえば竜胆のツボミらしいもの、花も見た。山は秋なのである。
ようやく林道に着いた。浅黄斑という珍しい蝶々を愛でながら下った。約1時間で車止めに着く。ここには飯田市から来たジャンボタクシーが待機していた。実は前安平路山への踏み跡があればクルマのある松川入に何とか下りたかった。それは断念しての大平への下山であった。だから大平から松川入への15kmの車道歩きが問題であった。時速4kmとしても4時間はかかる。目の目にタクシーを見たら交渉するしかない。何とか行ってくれるというので助かった思いがした。
松川入へは約15km、5000円であった。k当り300円と弾いていたから覚悟の出費である。お陰で松川入へは楽々帰還できた。しかし、早く戻れて出費した以上の楽しい話が待っていた。ボランティアで遭難碑を整備する丸山春雄氏に会えたのである。8年前、草に埋れかかっていた遭難碑を見て死んだ人が忘れ去られるのは可哀想、と草を刈り、花壇を設け、掃除したり、近くに別荘を建て、簡易トイレも設置しての本格的なボランティアである。度々地元紙、中日新聞、サンケイでも報道されたらしい。その心が通じないはずはなく訪問者が増えているという。トイレは増えた訪問者が落としていく必然的な環境汚染対策であった。5人の生徒は生きておればもう55歳前後のはずである。同級生や家族など様々な訪問者が今後も増えることだろう。
別荘に招かれてコーヒー、みそ汁をご馳走になった。そして遭難にまつわる話を聞いた。荘内には御影工業高校の新聞が展示されていた。当時、安平路山頂には南山大学ワンゲル部の学生も居たらしい。稜線でもくるぶしまで水に浸かったらしい。まして沢に沿う避難小屋ではたまったものではない。
私たちを招き入れたもう一つの訳は行先不明の我々のクルマであった。泊りがけの入山とは知らず、当日下山するものと思って爆竹を鳴らして人が居る気配を出したらしい。それでも下山しないのでやきもきしていたらしいのだった。こちらは無人境ゆえにそんな手配はしない。心配していただきありがとう、ごめんなさい、とひたすら感謝の気持ちを表すことでいっぱいであった。
丸山さんと再会を約して松川入を辞した。飯田市に戻り途中の砂払温泉で汗と垢を落とす。600円。ETC割引の適用時間まで時間稼ぎに園原ICまで地道を走った。園原ICから中央高速に入り帰名した。
それが昭和44年8月5日の大西沢に起きた鉄砲水で避難小屋で就寝中に7名が流される遭難事故が発生し登山道は閉鎖。戦後盛んに伐採されて保水力を失った山は降雨量の多い日には度々洪水をもたらし、松川入を廃村に追い込んだ。
9/8.あれから38年経過した今はどうなったのだろう。大西沢と小西沢の出合には大きな砂防堰堤が築堤された。治水も兼ねているような提高である。ぼたもち平が1220mあり、目の高さで高度計では1255mある。この堰堤を越えるのは容易ではない。ちゃんと道がつけてあった。
林道を奥まで歩くと左の方へカーブする。そこで車止めである。奥では蛇洞沢の砂防堰堤の工事中である。そこまでは行き過ぎで入口の車止めから少し右を睨みながら歩くと細い山道が登っている。最初は見送ったがこれが堰堤を越すトラバース道であった。道は最初は左へ登るがすぐに右に曲がる。そのまま堰堤を越えられる。赤テープ、道標などはない。
越えるとすぐに右側に大西沢の大きな広い河原が現れる。小西沢に出合うと鉄橋を渡る。損壊しているが何とか渡れる。この鉄橋はたぶんかつての登山道の名残であろうか。渡ってすぐに大西沢に出合う。鉄砲水が流れていったからには氾濫した河原と思うがそんなに荒れた気がしない。
中央アルプスの沢らしく水は透明度が高く、冷たいし明るい渓相にほっとする。7年前から下見し、調査してやっとの思いで入渓出来た。最初は普通の川通しに溯る。特に見所はない。途中で釣師2人を追い越す。段々傾斜を強めて行くとついに大滝30mにぶつかる。滝下までは行けず、左岸を巻く。ここにも赤テープや著しい踏み跡はない。けもの道を適当に辿り、失い、また見つけては巻いた。
一旦は沢へと降りたが又15m位の素晴らしい地図にない滝が現れた。ここも滝に近づいたが近寄れないくらい飛瀑が多い。すぐにびしょぬれになりそうだ。滝に近いラインは描けず、右岸を高巻くイメージしたが奥で懸垂下降を余儀なくされる予感がするので左岸の山腹に戻った。あるかないかのケモノミチを見出しながらちらちら沢を見下ろす。そこは連瀑帯で登攀力のある力量の揃ったパーティーには直登を楽しめるだろう。
ようやく核心部を突破したがまだ12時過ぎで時間的な余裕はある。空は高曇りで時々日が差すが雲が厚そうだ。名前のある枝沢をF君が確認しつつ溯る。南沢への分岐ははっきりしていた。きれいなスジ状の滝が最後を楽しませてくれる。左岸を簡単に越える。流れが細まるがまだ先は長い。周囲は針葉樹林帯で落ち着いた樹相である。こんな所で一晩を過ごすのも悪くないだろう。
階段状になった流れを上がると周囲からクマザサに覆われるようになった。ヤブコギが始まった。疲れた体には堪える。延々笹をこいで稜線に出たらしい。先行のF君が前安平路との踏み跡でも見つかったあ、と叫んでくれないかと期待したが何もないとがっかりした様子である。ほんとに人の気配が全くない稜線であった。
止む無く丁寧に笹を分けて登る。赤テープが所々にはあった。好き物はやはり来ているのだ。前安平路山を往復するために。道草は食えないからひたすら山頂を目指した。やっとの思いで登頂。朝7時6分に出発して15時を回っていた。15時半、やたら虫の多い山頂を辞した。疲れた足に下りのフエルトシューズは負担である。滑りやすい急斜面を凌ぎ、緩斜面に出るとすぐに水場に着く。有るだけのペットボトルに水を詰めて小屋に向った。
小屋は健在であった。中ア南部縦走の際に泊まったことがある。中は先客もいないので我々の貸切となった。小屋に張られたヒモに濡れ物を干した。とりあえずは一缶だけ持参したビールで無事を祝い乾杯した。夕食は簡単なレトルトカレーで済ます。
寝る段になって雨具、冬用下着、シュラフカバー、羽毛ベストだけでは小寒いので小屋に備えてあったシュラフを拝借した。ここは標高2000m超の世界で今は気温12度。軽量化に努めたが削りすぎたようだ。羽毛ジャケット、羽毛ズボンを加えるべきだった。
9/9.シュラフのお陰でぐっすり眠れた。一回だけ小用に起きたが飯田市の夜景がきれいに見えた。午前5時起床。さっさと片付け、朝食、と手早く準備して行く。それでも出発は6時45分になった。大した手間なことはしていないのに時間がかかる。
雨具を履いて露を含んだクマザサの海を歩き出した。すぐにびしょぬれだ。シラベの森の重厚な雰囲気を味わいつつ笹の海を泳ぐ。シラビソ山は地味な山頂である。すぐに歩き出す。摺古木山に向う途中3パーティに出会った。女性中心のツアーも居た。二人連れに聞くと日本三百名山の一つであるとのこと。あまり楽しい山とは思えない山でもまじめにこなす女性登山者の健気な精神には脱帽だ。
摺古木山に着いた。ここはもう安全圏に来たと思う気分がした。実際よく登った。会員の子供も同伴でスイカを担いで登り、途中の沢に浸して冷やした。下山した際に食べて美味かった思い出がある。目の前には円い山頂のアザミ岳が聳える。足元のアザミがふと目に入る。そういえば竜胆のツボミらしいもの、花も見た。山は秋なのである。
ようやく林道に着いた。浅黄斑という珍しい蝶々を愛でながら下った。約1時間で車止めに着く。ここには飯田市から来たジャンボタクシーが待機していた。実は前安平路山への踏み跡があればクルマのある松川入に何とか下りたかった。それは断念しての大平への下山であった。だから大平から松川入への15kmの車道歩きが問題であった。時速4kmとしても4時間はかかる。目の目にタクシーを見たら交渉するしかない。何とか行ってくれるというので助かった思いがした。
松川入へは約15km、5000円であった。k当り300円と弾いていたから覚悟の出費である。お陰で松川入へは楽々帰還できた。しかし、早く戻れて出費した以上の楽しい話が待っていた。ボランティアで遭難碑を整備する丸山春雄氏に会えたのである。8年前、草に埋れかかっていた遭難碑を見て死んだ人が忘れ去られるのは可哀想、と草を刈り、花壇を設け、掃除したり、近くに別荘を建て、簡易トイレも設置しての本格的なボランティアである。度々地元紙、中日新聞、サンケイでも報道されたらしい。その心が通じないはずはなく訪問者が増えているという。トイレは増えた訪問者が落としていく必然的な環境汚染対策であった。5人の生徒は生きておればもう55歳前後のはずである。同級生や家族など様々な訪問者が今後も増えることだろう。
別荘に招かれてコーヒー、みそ汁をご馳走になった。そして遭難にまつわる話を聞いた。荘内には御影工業高校の新聞が展示されていた。当時、安平路山頂には南山大学ワンゲル部の学生も居たらしい。稜線でもくるぶしまで水に浸かったらしい。まして沢に沿う避難小屋ではたまったものではない。
私たちを招き入れたもう一つの訳は行先不明の我々のクルマであった。泊りがけの入山とは知らず、当日下山するものと思って爆竹を鳴らして人が居る気配を出したらしい。それでも下山しないのでやきもきしていたらしいのだった。こちらは無人境ゆえにそんな手配はしない。心配していただきありがとう、ごめんなさい、とひたすら感謝の気持ちを表すことでいっぱいであった。
丸山さんと再会を約して松川入を辞した。飯田市に戻り途中の砂払温泉で汗と垢を落とす。600円。ETC割引の適用時間まで時間稼ぎに園原ICまで地道を走った。園原ICから中央高速に入り帰名した。
松川入・大西沢吟行 ― 2007年09月12日
「岳人」10月号を読む ― 2007年09月14日
7月初旬以来第2特集の執筆で関わってきた「岳人」10月号が一足先に届いた。いつもと違って山岳景観の表紙ではない。ちょっと拍子抜けした。
何とヒラヤマユ-ジ君のファミリーがオープニングであった。意外なまことに意外な感じである。「心とカラダと山登り」に加えて「女性よ、もっと山へ」というタイトルが踊る。岳人にかぎらず山渓でも昔から結婚は登山の敵か、といったテーマの特集があったことをちらっと思い出す。これは永遠のテーマである。今号はもう一歩踏み込んで女性のカラダを医療面からもサポートしている点で画期的である。しかし何となく一般女性誌の定番のテーマを借用した気がしないでもない。
人口の半分は女性だから女性の登山者が増えれば雑誌も売れると踏んでいるのかも知れない。しかし登山のリーダーは相変わらず男性優位だから女性が積極的に情報収集するかどうか疑問だ。
さて肝心な我々の第2特集は小津安二郎が愛した山へ!が中心である。山の雑誌を講読する中心層はおそらくこういう情報を欲しているんじゃないかと思う。つまるところ登山者をして行動に至らしめる情報である。行ってみたい、行ってみよう、そこに何があるか行ってみたい、という気を起こすかどうか。もっと知りたい、この目で見たい、と思うように。未知への探求である。
古い「岳人」を一杯集めてきたのも未知を発見した新鮮な感動があったからだ。特に昭和20年代から30年代はそういう発見にあふれたレポートが多かったと思う。今はもう多くの山の情報がインターネット、ガイドブックで発信されて新鮮味は減退気味である。そこをどうブレークスルーするかこれからも編集者達の模索が続くだろう。
昔は山(自然)を愛する人と登山(スポーツ)を愛することが渾然一体となっていた。今はどうだろう。ヒラヤマユージ君のようにクライミング(登山)という純粋なものだけを追求して環境的には自然のかけらもないところで楽しんでいる。つまりジャンルの細分化である。山渓がおかしくなったのはインターネットの影響もあるがこうした細分化した分野とのミスマッチかも知れない。今や山を愛する人は60歳以上が相場である。そして登山(スポーツ)を愛する人はヒマラヤから低山までまちまち。岩場だけでも一日楽しむ中高年もいる。
十羽一からげで中高年に焦点を当てた編集は失敗する。多様で一面的でない多層的な(クロスオーバーな)編集者の力量が試されていると思う。我々の狙いはあたるかどうか。私自身は山も登山も愛する者でありたい。
何とヒラヤマユ-ジ君のファミリーがオープニングであった。意外なまことに意外な感じである。「心とカラダと山登り」に加えて「女性よ、もっと山へ」というタイトルが踊る。岳人にかぎらず山渓でも昔から結婚は登山の敵か、といったテーマの特集があったことをちらっと思い出す。これは永遠のテーマである。今号はもう一歩踏み込んで女性のカラダを医療面からもサポートしている点で画期的である。しかし何となく一般女性誌の定番のテーマを借用した気がしないでもない。
人口の半分は女性だから女性の登山者が増えれば雑誌も売れると踏んでいるのかも知れない。しかし登山のリーダーは相変わらず男性優位だから女性が積極的に情報収集するかどうか疑問だ。
さて肝心な我々の第2特集は小津安二郎が愛した山へ!が中心である。山の雑誌を講読する中心層はおそらくこういう情報を欲しているんじゃないかと思う。つまるところ登山者をして行動に至らしめる情報である。行ってみたい、行ってみよう、そこに何があるか行ってみたい、という気を起こすかどうか。もっと知りたい、この目で見たい、と思うように。未知への探求である。
古い「岳人」を一杯集めてきたのも未知を発見した新鮮な感動があったからだ。特に昭和20年代から30年代はそういう発見にあふれたレポートが多かったと思う。今はもう多くの山の情報がインターネット、ガイドブックで発信されて新鮮味は減退気味である。そこをどうブレークスルーするかこれからも編集者達の模索が続くだろう。
昔は山(自然)を愛する人と登山(スポーツ)を愛することが渾然一体となっていた。今はどうだろう。ヒラヤマユージ君のようにクライミング(登山)という純粋なものだけを追求して環境的には自然のかけらもないところで楽しんでいる。つまりジャンルの細分化である。山渓がおかしくなったのはインターネットの影響もあるがこうした細分化した分野とのミスマッチかも知れない。今や山を愛する人は60歳以上が相場である。そして登山(スポーツ)を愛する人はヒマラヤから低山までまちまち。岩場だけでも一日楽しむ中高年もいる。
十羽一からげで中高年に焦点を当てた編集は失敗する。多様で一面的でない多層的な(クロスオーバーな)編集者の力量が試されていると思う。我々の狙いはあたるかどうか。私自身は山も登山も愛する者でありたい。
東京・深川を歩く ― 2007年09月16日
9/15夜久々に列車の人となった。午後11:55発のムーンライトながらに乗って上京した。東京は3年ぶりである。今日の目的の主な行先は江東区にあるパナソニックセンターの有明スタジオで行われた映画「秋刀魚の味」の上映会とその後に催されたトークショーへの参加であった。しかしそれだけのために上京した訳でもない。以前からそれだけでは行くのがもったいないので先延ばしにしていたミニ観光もあった。
東京駅へは定刻どおりに到着。5時間余りの苦行に近い乗車であった。そのまま京葉線で越中島駅へ行って下車。徒歩で小津橋を見に行く。かつて小津家が手広く商売をやっていた時代の名残である。富岡八幡宮に立ち寄り参拝した。ここからやはり徒歩で深川1丁目にある小津の生誕地の場所探しに行く。有った有った。今はどうしょうもない所であり偲ぶような雰囲気はない。
そのまま歩いて川沿いに松尾芭蕉の奥の細道の俳句の札を見ながらあるくと清澄公園だ。多くの都民が遊んでいる。結構緑が多い。小名木川を渡ると隅田川沿いの芭蕉記念館に着いた。まだ時間が早いので土手の外れにある芭蕉庵のあった分室まで往復。ここも早めに開放してくれた。記念館に行くと時間前であるが開放されていた。一通り見学を済ます。これでサブの目的は一応果たしたので会場に向った。地下鉄森下駅から直通バスが日曜だけ運行しているので待つ。
会場へは約20分。上映開始ぎりぎりで間に合った。道草で遊びすぎたようだ。映画はDVDで鑑賞しているが大画面で観ると迫力がある。他の観客もいるから映画館の雰囲気を思い出す。昭和37年、小津さんの遺作であった。原節子は何故か出演せず、いつもいるはずの子供の姿も見られない。あらすじは晩春、秋日和の踏襲であるがいま一つ淋しい気がした。原節子とは晩春(昭和24年)以来のコンビであるが彼女もすでに中年の域に達していた。その役を岩下志麻が代わってやったことになるが他に出番がないということもあるまい。
彼の体を病魔が蝕んでいたからか。長年にわたる深酒もたたったのであろう。翌年昭和38年12月12日に他界する。文字通り巨星落つ、ということだった。しかし没後43年経過した今も人気は衰えず、ファンは増えるばかりである。DVDの普及もあるのであろう。
トークショーは司会、山内静夫氏、三上真一郎氏の三者で繰り広げられて楽しかった。来た甲斐があった。小津ネットワーク会の長谷川氏の世話で他の会員とも知り合いにもなった。意義のある一日であった。
東京駅へは定刻どおりに到着。5時間余りの苦行に近い乗車であった。そのまま京葉線で越中島駅へ行って下車。徒歩で小津橋を見に行く。かつて小津家が手広く商売をやっていた時代の名残である。富岡八幡宮に立ち寄り参拝した。ここからやはり徒歩で深川1丁目にある小津の生誕地の場所探しに行く。有った有った。今はどうしょうもない所であり偲ぶような雰囲気はない。
そのまま歩いて川沿いに松尾芭蕉の奥の細道の俳句の札を見ながらあるくと清澄公園だ。多くの都民が遊んでいる。結構緑が多い。小名木川を渡ると隅田川沿いの芭蕉記念館に着いた。まだ時間が早いので土手の外れにある芭蕉庵のあった分室まで往復。ここも早めに開放してくれた。記念館に行くと時間前であるが開放されていた。一通り見学を済ます。これでサブの目的は一応果たしたので会場に向った。地下鉄森下駅から直通バスが日曜だけ運行しているので待つ。
会場へは約20分。上映開始ぎりぎりで間に合った。道草で遊びすぎたようだ。映画はDVDで鑑賞しているが大画面で観ると迫力がある。他の観客もいるから映画館の雰囲気を思い出す。昭和37年、小津さんの遺作であった。原節子は何故か出演せず、いつもいるはずの子供の姿も見られない。あらすじは晩春、秋日和の踏襲であるがいま一つ淋しい気がした。原節子とは晩春(昭和24年)以来のコンビであるが彼女もすでに中年の域に達していた。その役を岩下志麻が代わってやったことになるが他に出番がないということもあるまい。
彼の体を病魔が蝕んでいたからか。長年にわたる深酒もたたったのであろう。翌年昭和38年12月12日に他界する。文字通り巨星落つ、ということだった。しかし没後43年経過した今も人気は衰えず、ファンは増えるばかりである。DVDの普及もあるのであろう。
トークショーは司会、山内静夫氏、三上真一郎氏の三者で繰り広げられて楽しかった。来た甲斐があった。小津ネットワーク会の長谷川氏の世話で他の会員とも知り合いにもなった。意義のある一日であった。
川本三郎『今ひとたびの戦後日本映画』を買う ― 2007年09月17日
岩波現代文庫の文芸125に収録された。原本は1994年に岩波書店から単行本で出版。2005年に中公文庫に収録された。内容的には変らないが巻末に日本映画タイトル索引が追加されて拾い読みが可能になったのは嬉しい。引用のページもあるから関連項目を調べるのに役立つ。
既に中公文庫版は古本で購入済みであり読んでいる。しかしこの付録に価値ありと同じものであるが購入した。実際、小津安二郎の作品だけを拾い読みする気持ちで居る。それにしてもこの著者は単なる映画評論を超えて社会評論へと飛躍している。映画を娯楽としてだけでなく社会と時代を写し撮る著作物としている。折りしも新潮新書にも長谷部日出雄「邦画の昭和史」が出ている。家庭でいつでも観られるDVDの普及がこうした書物の背景にあるだろう。日本映画から何かを学ぼうとする読者にとってはまたとない好著であろう。
既に中公文庫版は古本で購入済みであり読んでいる。しかしこの付録に価値ありと同じものであるが購入した。実際、小津安二郎の作品だけを拾い読みする気持ちで居る。それにしてもこの著者は単なる映画評論を超えて社会評論へと飛躍している。映画を娯楽としてだけでなく社会と時代を写し撮る著作物としている。折りしも新潮新書にも長谷部日出雄「邦画の昭和史」が出ている。家庭でいつでも観られるDVDの普及がこうした書物の背景にあるだろう。日本映画から何かを学ぼうとする読者にとってはまたとない好著であろう。
永井荷風『断腸亭日乗(下)』など買う ― 2007年09月20日
永井荷風は何となくだらしなくて生き方の手本になりゃしない、と食わず嫌いで本すら持っていなかった。
中公新書の貴田庄『小津安二郎文壇交遊録』に小津安二郎が愛読したという永井荷風の『断腸亭日乗(下)』が紹介されていたので読みたくなった。他に『荷風随筆集(上)』、『墨東綺譚』を買う。またこれまで手に取りながら買わなかった新潮文庫の小林秀雄『本居宣長』上下も買う。
深川を風のように通り抜けてきた体験が改めて古い深川についての読み物を読みたい気がした。この作家はどんな目で深川を見て歩いたのか、と。
小林秀雄は深田久弥の友人であったから小林も志賀高原に連れて行かれた経験を抱腹絶倒の紀行文にしている。若き日の深田が「改造」にいた時の懸賞論文で一位が宮本顕治の「敗北の文学」二位が小林の「様々なる意匠」であった。そのことを深田は小林に教えても居た。そんな小林が晩年になって本居宣長を書いたのはいかなる理由だったか。
中公新書の貴田庄『小津安二郎文壇交遊録』に小津安二郎が愛読したという永井荷風の『断腸亭日乗(下)』が紹介されていたので読みたくなった。他に『荷風随筆集(上)』、『墨東綺譚』を買う。またこれまで手に取りながら買わなかった新潮文庫の小林秀雄『本居宣長』上下も買う。
深川を風のように通り抜けてきた体験が改めて古い深川についての読み物を読みたい気がした。この作家はどんな目で深川を見て歩いたのか、と。
小林秀雄は深田久弥の友人であったから小林も志賀高原に連れて行かれた経験を抱腹絶倒の紀行文にしている。若き日の深田が「改造」にいた時の懸賞論文で一位が宮本顕治の「敗北の文学」二位が小林の「様々なる意匠」であった。そのことを深田は小林に教えても居た。そんな小林が晩年になって本居宣長を書いたのはいかなる理由だったか。
荷風の俳句 ― 2007年09月22日
葛飾に越して間もなし梅の花
*この滑らかな調べは秀逸である。葛飾という地名もいい。水原秋桜子(1892年-1979)の38歳の時の初の句集『葛飾』は1930年に刊行。荷風は1879年生まれなので49歳でした。中でも次の
葛飾や桃の籬(まがき)も水田べり 水原秋桜子
は名句として人口に膾炙している。荷風が意識しなかったはずはない。やで切りながら一気に水田べり、と畳み掛ける滑らかさ。荷風の句はこの名句(発句、立て句)への挨拶句にもとれる。
紅梅に交りて竹と柳かな
人よりもまづ鶯になじみけり
鶯や借家の庭のほうれん草
以上『断腸亭日乗(下)』の昭和21年3月24日に人より句を請われて、とある。
荷風の俳句は一読して足元の日常生活をぱっと切り取って軽やかであり、「かなけり」の切れ字を用い、やで切るのも上句、結句でと自在である。古風な格調がある。
神田川祭りの中を流れけり 久保田万太郎
と一脈通じた句風である。さすがに作家は言葉の用い方が的確であり読む者を飽きさせない。余技でありながら高いレベルの俳句は面白い。
それに加えて昭和19年の9月
秋高くもんぺの尻の大なり
スカートのいよよ短し秋のかぜ
スカートの内またねらふ藪蚊かな
などは俳諧味があって川柳に近い。送った相手も気兼ねのない極親しい友人であろうと思う。後年の西東三鬼(1900-1962)の「おそるべき君らの乳房夏来る」(昭和23年『夜の桃』から)に通じるものがある。初夏で薄着になるノーブラ?の若い女性を詠んだ。もんぺという服装ももう今はよほどの田舎でないと見かけないかもしれない。
昭和20年9月20日、従兄弟の家の厄介になりて云々。熱海で名月を観ての嘱目。
湯の町や灯もにぎやかに今日の月
すき腹にしみ込む露やけふの月
月見るも老いのつとめとなる身かな
これは残柳という俳号でXX氏への返書に書き添えた俳句であった。無聊を慰める荷風が居る。観月をして句を詠むのは老いの癒しとしては最高のもの。
俳句のみ拾い読みする夜長かな 拙作
*この滑らかな調べは秀逸である。葛飾という地名もいい。水原秋桜子(1892年-1979)の38歳の時の初の句集『葛飾』は1930年に刊行。荷風は1879年生まれなので49歳でした。中でも次の
葛飾や桃の籬(まがき)も水田べり 水原秋桜子
は名句として人口に膾炙している。荷風が意識しなかったはずはない。やで切りながら一気に水田べり、と畳み掛ける滑らかさ。荷風の句はこの名句(発句、立て句)への挨拶句にもとれる。
紅梅に交りて竹と柳かな
人よりもまづ鶯になじみけり
鶯や借家の庭のほうれん草
以上『断腸亭日乗(下)』の昭和21年3月24日に人より句を請われて、とある。
荷風の俳句は一読して足元の日常生活をぱっと切り取って軽やかであり、「かなけり」の切れ字を用い、やで切るのも上句、結句でと自在である。古風な格調がある。
神田川祭りの中を流れけり 久保田万太郎
と一脈通じた句風である。さすがに作家は言葉の用い方が的確であり読む者を飽きさせない。余技でありながら高いレベルの俳句は面白い。
それに加えて昭和19年の9月
秋高くもんぺの尻の大なり
スカートのいよよ短し秋のかぜ
スカートの内またねらふ藪蚊かな
などは俳諧味があって川柳に近い。送った相手も気兼ねのない極親しい友人であろうと思う。後年の西東三鬼(1900-1962)の「おそるべき君らの乳房夏来る」(昭和23年『夜の桃』から)に通じるものがある。初夏で薄着になるノーブラ?の若い女性を詠んだ。もんぺという服装ももう今はよほどの田舎でないと見かけないかもしれない。
昭和20年9月20日、従兄弟の家の厄介になりて云々。熱海で名月を観ての嘱目。
湯の町や灯もにぎやかに今日の月
すき腹にしみ込む露やけふの月
月見るも老いのつとめとなる身かな
これは残柳という俳号でXX氏への返書に書き添えた俳句であった。無聊を慰める荷風が居る。観月をして句を詠むのは老いの癒しとしては最高のもの。
俳句のみ拾い読みする夜長かな 拙作
荷風の文学碑散歩 ― 2007年09月22日
川本三郎『荷風好日』(岩波現代文庫111)の中に荷風の父祖の地として愛知県名古屋市南区にある西来寺が紹介されていたので早速行った。国一の大慶橋に近いところで狭い路地を通り抜けて着いた。
南区の散策路にもなっていて案内板が立っている。中にそっと入ると本堂の右脇に堀口大学の揮毫で大きな文学碑が設置されていた。「人生の真相は寂寞の底に沈んで初めて之を見るのであろう」と刻まれている。永井家は代々愛知県に深い縁のある家柄であった。
*前回の記事中の俳句で
すき腹にしみ込む露や今日の月
とあるが露はどう考えてもおかしいので読み返したがやはり印刷は露である。1987年以来20年34刷であるから誤植はないと思う。本人のミスであろうか。前後の散文では終戦直後の食料難で米が不足していて9/16の日記には大豆また玉蜀黍を混ぜてお粥にして食べている。それでも朝夕三度は食いがたし、記す。
だから
すき腹にしみ込む粥や今日の月
であろう。9/22の日記では「粥腹のひもじさ耐え難ければ云々」と書いている。
南区の散策路にもなっていて案内板が立っている。中にそっと入ると本堂の右脇に堀口大学の揮毫で大きな文学碑が設置されていた。「人生の真相は寂寞の底に沈んで初めて之を見るのであろう」と刻まれている。永井家は代々愛知県に深い縁のある家柄であった。
*前回の記事中の俳句で
すき腹にしみ込む露や今日の月
とあるが露はどう考えてもおかしいので読み返したがやはり印刷は露である。1987年以来20年34刷であるから誤植はないと思う。本人のミスであろうか。前後の散文では終戦直後の食料難で米が不足していて9/16の日記には大豆また玉蜀黍を混ぜてお粥にして食べている。それでも朝夕三度は食いがたし、記す。
だから
すき腹にしみ込む粥や今日の月
であろう。9/22の日記では「粥腹のひもじさ耐え難ければ云々」と書いている。
最近のコメント