中央アルプス・安平路山 大西沢遡行2007年09月11日

 2000年6月4日、私は飯田市の図書館を訪れた。飯田松川の源流の村、松川入の文献調査のためであった。図書館をでてからは現地に向った。ぼたもち平は整然としていたが淋しい所であった。昭和40年までは人が住んでいた。かつてはここから大西沢沿いの登山道が開かれていた。途中からシラビソ山に向う健脚向きのコースであった。もっともあの頃は摺古木山でさえ大平から約5時間はかかっていた。安平路山は遠い遠い山だった。
 それが昭和44年8月5日の大西沢に起きた鉄砲水で避難小屋で就寝中に7名が流される遭難事故が発生し登山道は閉鎖。戦後盛んに伐採されて保水力を失った山は降雨量の多い日には度々洪水をもたらし、松川入を廃村に追い込んだ。
 9/8.あれから38年経過した今はどうなったのだろう。大西沢と小西沢の出合には大きな砂防堰堤が築堤された。治水も兼ねているような提高である。ぼたもち平が1220mあり、目の高さで高度計では1255mある。この堰堤を越えるのは容易ではない。ちゃんと道がつけてあった。
 林道を奥まで歩くと左の方へカーブする。そこで車止めである。奥では蛇洞沢の砂防堰堤の工事中である。そこまでは行き過ぎで入口の車止めから少し右を睨みながら歩くと細い山道が登っている。最初は見送ったがこれが堰堤を越すトラバース道であった。道は最初は左へ登るがすぐに右に曲がる。そのまま堰堤を越えられる。赤テープ、道標などはない。
 越えるとすぐに右側に大西沢の大きな広い河原が現れる。小西沢に出合うと鉄橋を渡る。損壊しているが何とか渡れる。この鉄橋はたぶんかつての登山道の名残であろうか。渡ってすぐに大西沢に出合う。鉄砲水が流れていったからには氾濫した河原と思うがそんなに荒れた気がしない。
 中央アルプスの沢らしく水は透明度が高く、冷たいし明るい渓相にほっとする。7年前から下見し、調査してやっとの思いで入渓出来た。最初は普通の川通しに溯る。特に見所はない。途中で釣師2人を追い越す。段々傾斜を強めて行くとついに大滝30mにぶつかる。滝下までは行けず、左岸を巻く。ここにも赤テープや著しい踏み跡はない。けもの道を適当に辿り、失い、また見つけては巻いた。
 一旦は沢へと降りたが又15m位の素晴らしい地図にない滝が現れた。ここも滝に近づいたが近寄れないくらい飛瀑が多い。すぐにびしょぬれになりそうだ。滝に近いラインは描けず、右岸を高巻くイメージしたが奥で懸垂下降を余儀なくされる予感がするので左岸の山腹に戻った。あるかないかのケモノミチを見出しながらちらちら沢を見下ろす。そこは連瀑帯で登攀力のある力量の揃ったパーティーには直登を楽しめるだろう。
 ようやく核心部を突破したがまだ12時過ぎで時間的な余裕はある。空は高曇りで時々日が差すが雲が厚そうだ。名前のある枝沢をF君が確認しつつ溯る。南沢への分岐ははっきりしていた。きれいなスジ状の滝が最後を楽しませてくれる。左岸を簡単に越える。流れが細まるがまだ先は長い。周囲は針葉樹林帯で落ち着いた樹相である。こんな所で一晩を過ごすのも悪くないだろう。
 階段状になった流れを上がると周囲からクマザサに覆われるようになった。ヤブコギが始まった。疲れた体には堪える。延々笹をこいで稜線に出たらしい。先行のF君が前安平路との踏み跡でも見つかったあ、と叫んでくれないかと期待したが何もないとがっかりした様子である。ほんとに人の気配が全くない稜線であった。
 止む無く丁寧に笹を分けて登る。赤テープが所々にはあった。好き物はやはり来ているのだ。前安平路山を往復するために。道草は食えないからひたすら山頂を目指した。やっとの思いで登頂。朝7時6分に出発して15時を回っていた。15時半、やたら虫の多い山頂を辞した。疲れた足に下りのフエルトシューズは負担である。滑りやすい急斜面を凌ぎ、緩斜面に出るとすぐに水場に着く。有るだけのペットボトルに水を詰めて小屋に向った。
 小屋は健在であった。中ア南部縦走の際に泊まったことがある。中は先客もいないので我々の貸切となった。小屋に張られたヒモに濡れ物を干した。とりあえずは一缶だけ持参したビールで無事を祝い乾杯した。夕食は簡単なレトルトカレーで済ます。
 寝る段になって雨具、冬用下着、シュラフカバー、羽毛ベストだけでは小寒いので小屋に備えてあったシュラフを拝借した。ここは標高2000m超の世界で今は気温12度。軽量化に努めたが削りすぎたようだ。羽毛ジャケット、羽毛ズボンを加えるべきだった。
 9/9.シュラフのお陰でぐっすり眠れた。一回だけ小用に起きたが飯田市の夜景がきれいに見えた。午前5時起床。さっさと片付け、朝食、と手早く準備して行く。それでも出発は6時45分になった。大した手間なことはしていないのに時間がかかる。
 雨具を履いて露を含んだクマザサの海を歩き出した。すぐにびしょぬれだ。シラベの森の重厚な雰囲気を味わいつつ笹の海を泳ぐ。シラビソ山は地味な山頂である。すぐに歩き出す。摺古木山に向う途中3パーティに出会った。女性中心のツアーも居た。二人連れに聞くと日本三百名山の一つであるとのこと。あまり楽しい山とは思えない山でもまじめにこなす女性登山者の健気な精神には脱帽だ。
 摺古木山に着いた。ここはもう安全圏に来たと思う気分がした。実際よく登った。会員の子供も同伴でスイカを担いで登り、途中の沢に浸して冷やした。下山した際に食べて美味かった思い出がある。目の前には円い山頂のアザミ岳が聳える。足元のアザミがふと目に入る。そういえば竜胆のツボミらしいもの、花も見た。山は秋なのである。
 ようやく林道に着いた。浅黄斑という珍しい蝶々を愛でながら下った。約1時間で車止めに着く。ここには飯田市から来たジャンボタクシーが待機していた。実は前安平路山への踏み跡があればクルマのある松川入に何とか下りたかった。それは断念しての大平への下山であった。だから大平から松川入への15kmの車道歩きが問題であった。時速4kmとしても4時間はかかる。目の目にタクシーを見たら交渉するしかない。何とか行ってくれるというので助かった思いがした。
 松川入へは約15km、5000円であった。k当り300円と弾いていたから覚悟の出費である。お陰で松川入へは楽々帰還できた。しかし、早く戻れて出費した以上の楽しい話が待っていた。ボランティアで遭難碑を整備する丸山春雄氏に会えたのである。8年前、草に埋れかかっていた遭難碑を見て死んだ人が忘れ去られるのは可哀想、と草を刈り、花壇を設け、掃除したり、近くに別荘を建て、簡易トイレも設置しての本格的なボランティアである。度々地元紙、中日新聞、サンケイでも報道されたらしい。その心が通じないはずはなく訪問者が増えているという。トイレは増えた訪問者が落としていく必然的な環境汚染対策であった。5人の生徒は生きておればもう55歳前後のはずである。同級生や家族など様々な訪問者が今後も増えることだろう。
 別荘に招かれてコーヒー、みそ汁をご馳走になった。そして遭難にまつわる話を聞いた。荘内には御影工業高校の新聞が展示されていた。当時、安平路山頂には南山大学ワンゲル部の学生も居たらしい。稜線でもくるぶしまで水に浸かったらしい。まして沢に沿う避難小屋ではたまったものではない。
 私たちを招き入れたもう一つの訳は行先不明の我々のクルマであった。泊りがけの入山とは知らず、当日下山するものと思って爆竹を鳴らして人が居る気配を出したらしい。それでも下山しないのでやきもきしていたらしいのだった。こちらは無人境ゆえにそんな手配はしない。心配していただきありがとう、ごめんなさい、とひたすら感謝の気持ちを表すことでいっぱいであった。
 丸山さんと再会を約して松川入を辞した。飯田市に戻り途中の砂払温泉で汗と垢を落とす。600円。ETC割引の適用時間まで時間稼ぎに園原ICまで地道を走った。園原ICから中央高速に入り帰名した。