小川路峠へ2023年11月19日

 遠山谷も昨夜は凍て雲が山にまとわりついて寒かったが朝から快晴でした。6時50分に和田の宿を出発。7時30分に清水地区にある秋葉街道登山口を出発。野生のシカの頭蓋骨が落ちていた。人工林の中の道は不明瞭でしばしばRFで渋滞気味になる。それでも石の地蔵があるのでかつての街道には違いない。一旦皆伐してしまうとイバラ、タラなどが繁茂し、いわゆるヤブ道になる。植林すると日陰になって雑草は枯れてしまう。この間に人が歩かないと廃道になる。現在は森林は密植されており、間伐を待っている。道も廃道状態に近い。一旦は林道に上がって横切る。再び人工林の中を登るがやはり不明瞭である。最終的に林道に上がった。1062.8mの三等三角点上村の尾根の先に地蔵などが設置されている。昔は建物でもあった跡である。
 ここから本格的な秋葉街道になった。15番の観音から始まる。しばらくは人工林だが疎林になっただけ、見通しが良く明るくなった。遠くに白い山も見える。観音様の番号が増えることで着実に登っていく実感がある。雪も出てきた。29番を過ぎると山抜けの沢の渡渉が待っていた。かつては桟橋もあったが朽ちている。虎ロープも切れて巻いてあった。リーダーがロープを出して女性らを確保して渡渉した。三点支持の基本技術があれば怖くない。そこから地蔵がずらっと並んだところにきてすぐ先に茶屋址と熊の檻があった。地形図では急な尾根だが九十九折れで優しく登って行ける。
 12時45分にうっすらと雪のある小川路峠に到着した。昼食後、体が冷えない内に1人で13時30分に来た道を引き返す。途中、4回足に痙攣が走った。都度68を飲んで対応した。下山後約2時間の15時25分に林道に着く。太陽は隣の山にかかってすぐに日没しそうだ。帰路は樹林帯は薄暗いので林道を歩き通した。約1時間でクルマのおいてある入口に着いた。
 小川路峠は上久堅からは5回も往復しているが遠山谷側は初見でしたので満足できた。秋葉街道は南西面に付けられているので西日が当たり午後も明るい。林道に下りた地点で3時30分位でしたが日が伊那山脈に沈んだ。山の中は飯田市の日没4時40分よりも1時間以上早い。
 残照があるので4時半までマイカーまでは明るかくヘッデンは点けずに済んだ。
 マイカーで矢筈トンネルを通過、下氏乗から中宮でR256に合流、左折して富士山之神社(スマホのナビの目標)へ向かうと5時20分ちょうど東京組と合流できた。後は飯田駅へ送って別れた。飯田から園原まで地道。20kmほど。中央道園原ICから帰名。2000円。102km。
 名古屋から周回の距離は約380km位でした。山間ドライブは正味150km位。極端なタイトなカーブが多いので山よりもドライブに疲れた。3ヶ月のブランクがあったので足腰が久々に痛んだ。
※すでに完成している矢筈トンネルと青崩トンネルが高規格の道路に生まれ変わると鳳来峡ICにつながる。観光客も増えて秘境のイメージも無くなるかも知れません。

青崩峠へ2023年11月18日

11/18 浜松市天竜区は快晴
 名古屋の自宅を6時30分頃出発。R153を走って東名三好ICから新東名経由で浜松北ICで出た。1820円。西鹿島駅へ8時50分頃着。102km。
 9時過ぎ東京のPT7名と合流。青崩峠を目指しR152を北上。青崩トンネルの工事が真っ最中です。
 峠直下まで車道はあるが足神神社でデポ。そこから徒歩40分で峠へ。石畳の遊歩道でした。峠では寒気のために降雪があり、初冬の気候と冬黄葉の残る自然林がマッチして美しい。東京組は峠から信州側へ下山、私は青崩れの地層が見える四阿で別れた。
 車に戻って赤石山脈の兵越えを越えてR152に下った。下った辺りから先は青崩トンネル(2023年5月に貫通)の工事の真っ最中でした。ダンプが行きかうので一般車は立入禁止でしたが恐る恐る入っていくと東京組に出合えた。そこでピックアップして宿のある和田へ向かった。途中でも番所跡を見学したりして有意義なことでした。
 宿はかぐら山荘。飲み代込みで10000円位。宿の風呂が壊れていたので平岡駅まで走って温泉に入湯できました。往復20km。

永田方正著『北海道 蝦夷語地名解 附・アイヌ語地名考』入手2023年10月14日

 アマゾンで注文してあった表題の本が届いた。北海道の地誌である。フェイスブックでやり取りする中で出てきた書名ですが著者を調べると興味があったので購入して見た。ずしりと重い造本である。

著者の永田方正はコトバンクによれば

「明治期のアイヌ研究者,教育者
生年天保15年3月1日(1844年)
没年明治44(1911)年8月22日
出生地武蔵国南豊島郡青山百人町(東京都新宿区)
出身地愛媛県
旧姓(旧名)宇高 辰次郎
経歴昌平黌に学び、文久元年伊予西条藩主の侍講となる。維新後、明治14年北海道開拓使に入るが、翌年開拓使が廃止され、函館県御用掛となりアイヌ人教育の調査を行う。これを機にアイヌ語の研究に関わる。函館商船学校、函館師範の教師を経て、19年北海道庁に入り、「北海道蝦夷語地名解」(24年刊)の編纂に従事。その後、札幌農学校教師。42年上京し、坪井正五郎の紹介で東京高女で国文、和歌などを教えた。著書に「北海小文典」がある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について」

https://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/wp-content/uploads/2021/03/pon_kanpisosi9-1.pdf

https://otaru.jpn.org/chimeikai_age/

https://www.e-rumoi.jp/content/000005768.pdf

http://www.sofukan.co.jp/books/114.html


 
ソース:https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784883230372

出版社内容情報
 "北海道(アイヌモシリ)の山河の匂いが立ちのぼる!
 本書は、アイヌ語が生活に生きていた明治初期の北海道をくまなく巡向調査し、アイヌの古老に聞き、8年の歳月をかけて完成した北海道地名集成の最高の書である。
 永田方正は本書を字引体で作ろうとして果さなかったが、今回詳細な索引を付して使い易くしたことで彼の初志は果された。収めるところの地名約6,000、そのなかからアイヌモシリ・北海道の山河の匂いが立ちのぼる。北海道の地名およびアイヌ語を研究する者で、本書の恩恵を蒙らない者だれ一人もない、アイヌ地名の宝庫である。"

国郡
石狩国
後志国
渡島国
胆振国
日高国
十勝国
釧路国
根室国
天塩国
北見国

 無責任でいいかげんな本が量産される一方で、出版の不振や「本が読まれなくなった」傾向がよく指摘されるが、反対に「よくぞこんな労作を」と感嘆させられる良心的刊行も決して少なくない。
 一般書の書評としてとりあげられることも少ないであろう最近のそんな例を紹介したい。
 永田方正著『北海道蝦夷語地名解』。明治24年に出た名著の初版本を完全復刻した上、総索引を付したアイヌ地名6000語の研究・記録である。アイヌ語空間が生きていた初期の北海道を、たとえば知床半島や積丹半島にいたるまで訪ね歩き、可能な限りアイヌ古老に原意を確認してゆく作業は8年間に及んだ。菊判616ページというこの大著に、採算割れの冒険を冒して出したのが、全社員わずか2人の零細出版社であるのも象徴的だ。        (1984.10.1 朝日新聞)

飯田街道の歴史と文化考2023年08月19日

 南北朝の時代には御醍醐天皇の皇子である宗長親王が浜松の井伊宮、大鹿村の信濃宮を拠点にした。その皇子の尹良親王(ゆきよし)は稲武に拠点を設けて三河宮とした。親王と家来が、伊那谷と三河の稲武、豊根村などを往来したであろう。そして浪合の地で襲われて自害。地形図にも印刷された立派な墳墓がある。戦記『浪合記』が残されている。大和政権がなぜ東国の南信州にまで進出したのか。大和政権は朝鮮半島からの襲来に備えて、防人の傭兵、年貢を納めさせて支配下にしたかったのではないか。東国で平和裏に暮らす山民にとっては迷惑な話で故に権力者への抵抗として襲ったのであろう。
 戦国時代には武田信玄が京都を目指して峠を越えた。蛇峠山には狼煙場を設けた。関所も作った。金山を求めて三河にも進出。杣路峠の近くに愛知県と長野県の県境があるが、尾根や沢ではなく、山腹にある。稲武の郷土史家によると根羽村は足助庄だったという。信玄に押されて信州になったという。金山だった設楽町の出来山の足助側には信玄沢の名が残る。近世末期には日本民俗学の草分けとなる『真澄遊覧記』を著す菅江真澄も峠を越えて故郷の豊橋市には帰ることもなく秋田県で死没。角館市には顕彰碑が建つ。塩の道の交易ルートになるのはその頃からであろう。
 3年位前に「山と溪谷」誌が山で食う団子の特集に協力した。愛知県の山なら当然五平餅になる。調べると飯田街道沿線は小判型、恵那地方は団子を串に刺すタイプだった。飯田市でも食える。一番遠方は四阿山の麓にある鳥居峠直下の売店でも五平餅を売っていた。ここは古東山道でもある。塩はたれになる味噌の発酵に欠かせない。
 サラリーマンのサラリーとは塩の事です。塩は身を養う栄養素のみならず、給料にもなった。俳人で東大の先生だった中村草田男は、学徒出陣する教え子に”勇気こそ地の塩なれや梅真白”と詠んだ。地味で目だたないが大切な働きを意味した。聖書に出てくる言葉でキリスト教徒らしい句です。

『飛騨國中案内 (大正6年の復刻版)』受領2023年08月13日

 飛騨國中案内 (大正6年の復刻版)からP115の5の3

   角川村より二ツ屋村え   一里

[角川村]高・反別共に先書に記置。角川より二ツ屋村迄之間道並、谷越所々有之、道の左右は山高く谷合故道悪敷候。
   二ツ屋村より国境迄    二里

[二ツ屋村]高四石六斗二升六合、内田高二斗五合、畑高四石四斗一升六合、此反別三町九反一畝二十四歩、内一反三畝十四歩田方、三町七反八畝十歩畑方なり、田は稗田なり、非平地山畑同様の地面なり、中田二・下一・上畑二・中一・下一・下々一・山畑一、桑三十束、此反別二畝歩、十束に一、屋敷二の位、高に一ッ三分七厘内、屋敷大、小五軒あり、寺・宮森なし、

[口留番所]一ヶ所あり、高八合、此反別十二歩あり、高山より二ツ屋村迄七里三十一町有、二ツ屋村より国境迄二里二町有り、此間一里、行くて大峠あり、字[楢か峠]といふ、楢ヶ峠より境谷迄の間を原といふ、且又、古人の曰く、高麗に檳榔子(びんろうじ)きれたれは飛騨の白木ヶ原に有へし、かうらいに肉桂きれたらは白木か原に有へし、高麗に人参きれたらは飛騨の角川有峯に有へし。此角川有峯とは此境谷原の事なり、此白木か原は則此所の原にて候、左手の大山は[金剛ヶ嶽]右手の大山は[白木ヶ嶽]なり、上白木・下白木二山あり、唐の川とは前に記し置候通り、小鷹利郷の内谷村より、谷川上信包村より奥にて、黒内村山内なり、此二ヶ所を尋ね度もの歟(や)、古人の言傳は予より外に此事聞傳申間敷者也、穴賢々々。右原の内道より左手の山に[金山]一ヶ所あり、九十年餘以前に金山稼いたし候事なり、国境に石塚あり、字[境谷]といふ、二ツ屋村より楢ヶ峠まて一里、此間谷越八ヶ所あり、楢ヶ峠より境谷原の小屋場迄一里半、此間谷越三十三ヶ所あり、此小屋場は先年越・飛両国の境論有之節より山番小屋あり、その砌(みぎり)より往来の[改番所]も此所にあり、口留番所は其後二ツ屋村へ引る、山番所は御料所に成り、元禄九子の年引る、金山間歩ある所は此小屋場より左手の山にあり、此際に青兀といふはげ山あり、山の犬といふ獣晝夜に此所へ来、此兀山の土を喰ふことなり、此所に小谷あり、白水谷といふ、常に此水白し、小屋場の前に白き石磨一ッ有り、是は金土をひきたる磨の由、此所より境谷石塚ある所まて十丁餘、境石より越中切詰村迄二里、此間大難所の道筋なり、切詰よりすが平此次庵谷、此次に番所あり、此次はなつまい、此次は東原、此次は荒屋、次は西ヶ原、次は田の頭、次は水無、次は内名、次は島地、次はいちごぞうれ、次は二ツ屋、此次は横平、次は大だも、次は小畑、次は三ツ松、次はにんぶ、次はしんめう、次は元坂、此次は八尾なり、切詰より八尾迄五里、二ツ屋より以上八里有之候。先年飛騨國荒城郡小豆澤村・桑ヶ谷村・三川原村・角川村・二ツ屋村と、越中國婦負郡桐谷村・布谷村・荒屋村・須郷村と國境論有之、干時延寶二寅年の事、公儀御吟味の上國境相極、其節御評定之衆中両國の村々共に御朱印之寫、我等手前に所持す、外に繪圖一枚共有之候。
[二ツ屋]越中國長谷切詰え出る、高山より境迄十里三十町あり、二ツ屋村より切詰まで四里。
二ツ屋村より大無雁村へ戻り、下山中筋を記す。

・・・・・大正6年に出版された飛騨のガイドブックでした。8/5に車で通過した楢峠とか白木峰の様子がうかがえる。楢峠を越えても続くから二ツ屋はかなり広域の村だった。水系は富山側に流れるが岐阜県の中でした。
 やはり国境論争があったのです。楢峠が国境かと思うのですが当時の力関係で万波川一帯が飛騨に組み込まれた。現在は白木峰が富山県と岐阜県の県境になっている。これはこれでそれらしい。金山があったからでしょう。

柳川源流域の塩の道を探る2023年07月22日

 朝6時過ぎに出発。吉野家で朝定を食べてR153で平谷村に向かった。平谷村最奥の靭に向かう。足元にはウツボグサも生えている。だから靭の地名になったのだろうか。靭は矢を入れる細長い筒をいうらしい。地形的には柳川本流に峠川とフロヤ沢が合流する地点でもある。
 峠川は横岳と治部坂峠の山稜の南側の水と峠と馬の背の西側の水を集めている。集水面積はそんなに広くはない。
 林道と旧道の分岐点にマイカーを止めて気になっていた林道を歩く。ゲートは1070m地点にあり峠川と並行して歩く。途中で地形図にない車道が右へ別れた。終点には橋を渡った先に建物があった。林道から降りて橋を渡って行って見たが利用されている気配はない。別荘のようにも思える。これだけ川に近いと洪水の恐れがある。
 林道の終点まで歩いたが塩の道につながる痕跡は無かったので戻った。山側はえぐられた斜面が続くが沢が来ているところで入って見た。明瞭な踏み跡とモトクロスバイクのタイヤ痕があった。何か知らないがSOとかのマークの札も立っている。バイクの連中が遊んでいるのだろうか。沢は平流で水位も低く登山靴でも歩ける。途中で右に急階段の歩道があった。送電巡視路だろう。
 相変わらず平易な沢歩きになった。夏は暑熱から逃れるにはこれが一番である。たとえじゃぶじゃぶできなくても涼しい。結局左右に塩の道が横断するとの期待は外れて源流域まで来たら植林帯へきれいな踏み跡が続いていたので沢から上がった。登りつくと工事現場ですぐにR153だった。7/8に目星を着けた栄太橋を確認した。つまり登ってきた沢は栄太沢だった。これで平谷村誌の地図にあった沢の1つは確認できた。
 次は峠川になる。平谷村誌の地図は峠川が清水沢になっている。文の紹介は峠川に沿って塩の道があるとの記述を頼りにまた歩いて見た。トンネルの出口付近に峠川が流れている。ちょっとした台地に上がって見た。道に見える平地があるが下部は笹のヤブで分からない。やみくもには歩けない。峠川の流れまで下って歩いて見た。左岸右岸に沖積した陸地はあるが道の痕跡ではない。途中に巡視路の道が左右に上がってゆく。少し登ったが狭く巡視路の域を出ないのでまた川をどんどん下った。清水沢の出合いを通過、林道の橋で川から上がった。何も痕跡を見いだせなかった。マイカーに戻った。4km、2時間半の沢歩きで終わった。
 ちょうど昼になったので治部坂峠の大川入山の登山口の蕎麦屋に入って休憩。美味しい蕎麦を賞味したらまた再開する意欲が湧いた。先週に一度行った別荘地の車道を下り、巡視路を峠川に向かって歩いて見た。清水沢に面したのり面が崩れているからとても塩の道には見えない。清水沢の掘れこんだ渓相をどのようにして往来したものか。とにかく危うい橋を渡ってみた。すると少しは幅が広い。是ならと思うがその先でまた細くなり峠川が少し上がりかけた道になった。
 諦めて戻る前に平谷村誌の記述を思った。清水沢の橋の手前に痩せ尾根があり踏み跡が続いていたので登って見た。少しばかり歩くと幻の塩の道の跡が現れた。全体は植林だがそこだけは植林していない。その道を下って見たらさっき引き返した地点に着いた。ここでヤマップをスイッチオンして軌跡を残すことにした。巡視路から左へカーブしまた右回りにカーブしてあとは地形通りに緩やかに登って行った。比高70mほどである。後半は笹薮が覆って歩きにくかったが、前回ここじゃないか、と推理した場所だった。上からでは分からなかったのだ。これで目的の一部は達成できた。
 後は石仏が2体あるという中の土山である。別荘地の巡視路から右に振ればまた栄太沢に出合う。推測では1100mの等高線をなぞるようにゆっくり高度を下げてゆくのではないか。

三信塩の道調査行2023年07月16日

 昨日は夜8時に治部坂峠に着いて新しいテントを張ってみた。テント自体は快適だったがいかんせん国道沿いのPでは往来が結構あってうるさい。おまけに大川入山の登山口でもあって未明から到着した登山者のクルマが多かった。こちらもぐっすりとは眠れなかったのである。
 5時に起きて朝ごはん用の弁当を食べてテントを片付けて出発。治部坂峠登山口に自転車をデポする予定だったが、黒雲にすっぽり覆われた山にモチベーションが萎えるので取りやめた。古道調査に切り替えた。とりあえず、アララギスキー場跡でも行って見るかとなった。
 まず下り坂のカーブの橋の手前で林道のような草の道が目に付いた。車を停めて見てみると正しく中馬街道の跡であった。奥まで歩くと阿智村の石碑」「史跡 中馬街道」も建っていた。是が第一の発見だった。帰りがけに入り口を探したが何も目印はない。
 次は深沢の関所跡の破線路と国道との接点を探した。すると2軒の家に挟まれた空き地の奥にやはり「史跡 中馬街道」が建っていた。車で流すだけだと見落とす。階段を下ると橋が架かっていて関所跡に続く道があった。途中で引き返した。
 浪合トンネルをくぐってその先は何も発見はない。寒原峠を左折、恩田川に沿ってしばらくでスキー場に左折。スキー場跡に着いたがかつての駐車場は3箇所あるが物置に再利用、センターハウスの駐車場に入る手前でチエーンがあっては入れなかった。右に林道があるので徒歩で入って見た。登山口まで約400m位なので歩いても良かったが、これだけ閑散とした様子に登山道も荒れているだろう、笹が伸びているだろうと思うとモチベ―ションは上がらず、引き返す。
 とりあえず、中野まで下って大野まで戻る。草刈りの村民に塩の道の情報を聴く。地形図の実線の道まで下って右折。民家を抜けると林道のような地道になった。民家の傍に車を置いて歩いたら早速路傍の石仏が安置されていてここが塩の道と確認できた。更に奥に行くと大沢川と同じ高さになった。地形図通り終点になった。作業小屋が建っている。地図にない木の橋が右岸渡れるように掛かっているが中馬街道かどうかは不明。洪水で消失したものか。
 帰りに899m地点を探ると簡易舗装の道が下っている。下に下ると傍にはミツバチの飼育箱が捨ててある。蜂が飛び回っていたのですぐに退散した。想像では左岸に塩の道があったが二岐の下流の堰堤工事で埋まった可能性が高い。
 日の入峠への道を右に見送り、大沢川沿いの塩の道を行くと大沢集落に着いてすぐに石仏群があった。すぐ下には塩の道の案内板も建っている。中央道の高架橋をくぐって左岸のR153に合流。しかしこの時、阿智川の橋の手前で右折して曽山を走るべきだった。中央道と並行する長い実線が気になる。阿智村役場に着いてUターン。途中では899m地点をチエック。
 R153を治部坂峠まで戻った後平谷村の気になっていた1163mをチエック。徒歩で別荘地を下ってみた。両側に別荘が建っていてほぼ直線の車道が下っている。行きついた際には何と高圧電線の保守路が下からあがってきている。その先へも刈払いが続くが馬の通る道ではない。引き返して峠付近を見てみる。平坦地は一部あるが道らしい連続性がない。
 そこで『平谷村誌』のP347に示された地図を地形図に落とす。1163mの3の部分の沢は峠川とある。治部坂峠への旧道につながる沢は清水沢とある。もう一つ西に栄太沢がある。清水沢と栄太沢に挟まれた緩斜面とはいえ、結構急な別荘地になっている。村誌の記述を読み直すと「まず治部坂峠を南へ越して清水という地籍へ出る。ここから峠川と呼ばれる小川が南へ流れ、この川に沿って中馬街道がある。小下りに曲折した道が峠川の西沿いに現在もところどころ残っている。
 約1k下るとやや平坦な南面した原野がある。ここが「中の土山」で江戸時代から明治六年までは、旅籠とお茶屋のあった所で、この旅籠のことは伊賀良村誌にも記されている。また吉川英治『隠密七生記』の椿茶屋のあった所でもあり、近くの岩の上に二基の馬頭観音の石像があって、中馬時代の面影を残している」
 地図では清水沢とルビがふってあるが実は峠川だった。すると、別荘地から下りきった歩道をもう少し先へ進めば街道の痕跡に出会えたかも知れません。先述したように峠のスノーシェルター近くまで歩いて右へ上がる踏み跡を探して1mほど登った。そこで見た平坦な道形ももっと丁寧に下流まで下れば得られただろう。そして峠川だけは国道の橋の下をくぐって行ける。先には峠道がある。
 一方で栄太沢、清水沢は橋はないからトンネルで水を流しているのか。栄太沢の方は山側に古い橋の痕跡が見えたが、地形図の櫛型の記号で示すように工事で原形を失ったのだろう。
 次の機会には旧国道(廃道)を下って「中の土山」を探りたい。そして別荘地の下部に上がってくる道を下から登って見る。今度は奥まで進み、渡渉して1163mの3を目指して登ればある程度の発見は見込める。
 峠付近の探索後は柳川橋の手前から旧道に右折。Pには湧き水もありテント場に良い。靭へ下り、2軒の旅館の廃屋を撮影しておく。R153へ戻り道の駅へ行って休憩。売店でトウモロコシとトマトを購入。根羽村の信玄塚を拝観。稲武では道の駅パスして、喫茶店で昼食。小田木へ下って痕跡を探すが無し。R153に戻り足助町へ。明川町の舞台などもパスして萩野の旧道を通るが痕跡はない。足助町の資料館によると学芸員に相談して文献3冊を紹介してくれた。その後、牛馬水飲み場や馬頭観音も見れた。街場ではなく右岸側の道があったとは知らなかった。追分からは力石峠を走った。ここは東海自然歩道も通過している。これですべて完了した。

ござっらせ温泉へ2023年07月09日

 午後からお出かけ、昨日のロングドライブで疲れた。おまけに平谷温泉に入湯できず疲れが抜けなかった。行く先はまず春日井市立図書館で平谷村誌、阿智村史、浪合村史を閲覧。山口村史は無かった。以前あった東海学の本は別の図書館に収蔵したらしく当館ではなかった。別の機会に行く。
 次は長久手市のござらっせ温泉に行った。平谷温泉に入れなかったので疲れが残る。温泉は良いです。さっぱりするし広い浴槽でリラックスするからだ。少し買い物もした。
 次は日進市の給油スタンドに寄る。まだ133円/㍑で給油できる。38リットル入って約5000円弱。昨日の信州ドライブの経費である。コメダの喫茶店で休んで帰宅。

塩の道調査2023年07月08日

 7/8は梅雨末期の変化しやすい天気で登山にはあいにくの空模様でした。それでも出かけたのは6/26の塩の道(中馬街道)の古道調査で漏れた場所の再調査でした。
    豊田市平沢町の忘れられた古道へ
 まずは豊田市平沢町の阿摺川左岸に残る古道の確認です。R153沿いの平沢町は自動車修理工場があって入り口が隠れて分かりにくかった。交通量が多いので流しながらR153の空き地に車を停めて左岸に渡り八柱神社にも参拝して目的を達成。この神社は山中にありR153からは見えない。古道はよく整備されているが、途中で民家のある対岸に渡ってR153に合流する。井戸洞付近があいまいなまま通過した。稲武の小田木にあるという馬の水飲み場は確認できなかった。
    根羽村で古道整備に汗をかく篤志家に出会った話
 次は根羽村に入った。R153から分かれて民家沿いにある道をたどった。これは成功した。なぜなら「中馬街道(ちゅうまかいどう)」という案内板を見たからだった。しかも新しい。特に根羽村中野から右へ入るとしばらく道幅があるがより細い道へと「中馬街道」が導く。小川川の右岸の横旗の橋を渡る手前で車道は終わった。橋のたもとに「中馬街道」の看板があり、草が刈ってあるので歩いて見たらすぐ草茫々になり左から流れる谷川に杉の丸太の橋がかけて在りそこで引き返した。
 横旗の最奥の民家のSさん宅に尋ねたらそれは自分でボランティアでやったとのことだった。阿智村、平谷村の三村の有志が集まって古道で村おこしを始めたらしい。馬頭観音の解説などができる古道ガイドも養成するとか。古道に理解のある良い人に出会えて嬉しかった。村や県から補助金をもらったのか問うと「否、それはもらわない方が長続きする」「もらって実施しても無責任な結果に終わる」と中々に辛口の反応があり、信州人の自立心の強さを垣間見る気がした。看板だけでも120万円はかかったらしい。日当はなし、ガソリン代は自前だ。つまり手弁当で自分たちの村にある「塩の道」の歴史遺産を都会人に示そうというのだ。
 何時に集合し、何時間で歩いて、温泉宿で旨いものを食っているだけなら観光である。「お前さんの口から木地師の言葉が出て来た」「橋の上で滑って怪我しても自己責任ですよ」という。自分は山岳会会員で「山での事故と弁当は自分持ち」と教えられています。と回答。木地師に関心を持ったのは随分昔のことである。南信州の各村々には木地師の存在が濃厚である。名古屋、岡崎、豊橋などの大消費地があるから木地製品で食べていけたのだ。
 飯田市と遠山谷を結んだ秋葉街道の小川路峠への途中で11体の木地師の墓石群を見たことがある。誰も供養されないままに山の人生をひっそりと終えて山に埋もれる。三河の段戸山中でも菊の御紋入りの墓を見た。誇り高い職業人なのである。おそらく明治になり、焼き畑農業の禁止、戸籍の編製、納税、兵隊の招集とともに木地師は山中をさすらう人生を終えねばならなかった。墓も木地から石になった。
 閑話休題。「名刺は持っているか」というので名刺交換すると肩書は根羽村村議会議長とあった。当方も山岳会と行政書士の名刺ですっかり信用されたようだった。
     矢作川源流の平谷村へ
 根羽村の次は平谷村だ。地形図で921mある西川から右の脇道に入ってみた。ここにも古道の痕跡があった。入川を渡り向町に行くと大きな馬頭観音を見た。そして柳平の民家の並ぶ風景は言わずもがなの古道の痕跡である。柳平の地名は山間に珍しい平地であるが矢作川源流の柳川の氾濫で形成された沖積地であろう。ここは役場、道の駅など主要な建物が並ぶ。柳川右岸の道(古道)を行くと平谷村最奥の靭(うつぼ)に着く。ここでフロヤ沢に右折して平谷の大滝を見に行った。宣伝するだけに立派な瀑布を掛けている。
 戻って靭の古道を行くと廃業した旅館風の屋号の廃屋が数軒はあった。かつては賑わったであろう馬方衆は歴史の彼方に消えて忘れられていった。この先の浪合までは旅館はないからここで泊る馬方も多かっただろう。
 この先で「矢作川源流の看板のある」村道と古道に分かれるので右折。すぐに二岐になる。廃道になった村道には車両が入れないようにゲートが打ち込んである。右の古道は林道になっており村役場に許可を得よ、とあった。車で入る場合は許可制になっている。鍵は掛けてないので歩行者は入れる。おそらくR153の1163mへつながるのだろう。次の機会に歩いて見たい。現在の治部坂峠の北に実線があるのでこれが古道かも知れない。
   阿智村の古道上の関所跡を探る
 これで終了と思ったが、旧浪合村まで足を伸ばした。目的地は治部坂川右岸の深沢の浪合の関所跡だ。信玄は西へ西へと攻めて足助の出来山まで侵攻している。出来山は金鉱山の山であり、足助側に信玄沢の名前も残る。そもそも沢は木曽山脈の東側の呼称である。西は谷という。同じものでも東西で違いがある。西から攻めてくるのを防ぐ目的で関所がある。
 根羽村と稲武町との長野愛知の県境はずいぶんおかしな設定で、郷土史家に疑問をぶつけると根羽村は元々は足助庄だった。つまり三河国であったが信玄に攻められて境界が移動したという説を聞かせてくれた。
 中々に立派だが史実通りのものだろうか。すると関所の延長が古道だからトンネル手前の車道は古道ではないと分かった。
 寒原峠から先の脇道は村道になっている。結局大野まで走ってしまった。落石、路肩決壊等はなく安全に歩けそうだ。3箇所のトンネル内の徒歩での通過を回避できる見込みが付いた。
 すっかり暗くなり、平谷温泉(夜8時までだが受け付けは夜7時)には10分遅れで入湯できなかった。

津島の歴史遺産2023年01月10日

 御醍醐天皇の皇子の宗良親王から孫の尹良親王、その皇子の良王親王の戦記物語である『浪合記』のことを調べたら津島市の良王親王の良王神社を知った。
 舞台は伊那谷の
①大鹿村の信濃宮
②浪合村の尹良親王の墓
③稲武の三河宮などにまたがる。
④良王親王の足跡を追って昨年は津島市を訪ねて街歩きしてみた。
 良王神社は探したが細い路地の中の狭い敷地に肩をすぼめて御座した。PAもない。路地が狭いから車で探索することはできない。おそらく空爆を受けたことがないからだろう。津島市が歴史的に古い面影を残していることを知った。余り知られていない良王親王のことで津島市のHPに問うと観光に活かすとの回答だった。
 この記事を読むと現状を地道に調査されたらしい。加えて歴史上の伝承でも良いから紹介に努めてに欲しいものだ。皇族を預かる津島市のレガシーはもっと知られて良い。
https://www.yomiuri.co.jp/local/aichi/news/20230109-OYTNT50139/?fbclid=IwAR2Zpw_udTgPcvrxPeVD4QlaG6kaEsko1WGdLopQ5pDH_kDj-wmTQNFGG9k