白山宮のくくり姫に祈願!2017年07月04日

 7/3も青山秀樹さんの捜索に参加してきた。
http://www.city.seto.aichi.jp/docs/2017052300024/
 5/16に猿投山の戸越峠付近で行方不明になった。以来、20日経過した。地元でも警察署、消防署などが捜索したらしいが発見に至らず、相当日数経過してからさなげの森を管理する山岳会に依頼された。そこで協力者を募ると60名以上が手を挙げた。6/29から毎日、手分けしてしらみつぶしに尾根や沢筋を歩きまわって手がかりを探しているが、現在までに見つかっていない。
 私も7/1は留守本部をつとめ、7/3は実際に道なき山を歩き回った。成果は得られなかった。
 帰り道、ふと思いついて、日進市の白山宮に寄って、くくり姫に祈願した。猿投神社も勧請している。
 くくり姫は「「ククリ」はものごとを「くくってとりまとめる」が語源である。
 つまり、死者であるイザナミと生者であるイザナギの間をとりまとめたことに由来するというのが一般的である。」
 ゆえに、神頼みするわけである。
 計画では7/9まで続ける。早く発見されることを祈りたい。幸いにも家族は私どもの捜索活動に発見の希望をつないでいる。家族が見放さない限り、われわれは捜索をする意義を見いだせる。
 何もしないで神頼みするわけではなく、やるだけのことを精一杯やるのだ。きっと発見されると思う。

名古屋市緑区の成海神社へポタリング2017年07月07日

 久々に朝早く起床した。九州は豪雨で甚大な被害というのに名古屋は梅雨晴れである。日中は暑くなりそうだ。6時前、顔を洗ってすぐにポタリングに出かける。
 行く先は成海神社という。ここもこれまではこんなところに大きな神社があるなあ、と見過ごしてきた。何で知ったかといえば、古代史の本を読んでからである。『古事記』や神々と神社の書籍を読み漁るうちに、東海地方は神話の中でも特にヤマトタケルと関係が深いと知った。日本武尊と書く。調べるとあちこちに主祭神として祀られている。これから主な神社をポタリングして行こうとと思う。
 行きがけに野並八剣社にも参拝した。ここも分社ながら日本武尊他が祀られていた。
御由緒
八劔社は、旧鎌倉街道(上野道)沿いに鎮座し、「尾張名所図絵」には交通の要所として記されるなど、地域の安全、国家安寧を見守ってきました。 八劔社周辺は、古くから「大宮司山」と呼ばれ、熱田神宮大宮司であった千秋家の領地でした。その他に熱田神宮にある八劔社の分神として主祭神の日本武尊他八柱の神様がお祀りされています。 相殿神として日本武尊のお妃である宮簀媛命を始め、相殿の全ての神様が創造の神など対でお祀りされているので、縁結びや安産などに特にご利益があると伝えられております。 また日本武尊がご自身にふりかかる数々の災いを払いのけ、見事に名を上げられた故事に倣い、厄払いや立身出世の神様としても篤く崇敬されています。

御祭神
日本武尊,伊弉諾尊,伊弉冊尊,天照大御神,月読尊,蛭児神,素盞嗚尊,宮簀媛命,建稲種命
以上

 野並から鳴海まではほぼ平坦だが、鳴海から若干の登りが辛かった。自転車のギアを調整しながら成海神社まで登りきった。広大な駐車場が整備されたばかりだった。境内に進み、御手洗場で手を清めた。ここも杉の曲げのひしゃくであったから本格派である。玉砂利の境内を本殿まで進んで参拝した。 

 成海神社はウィキペディアによれば

主祭神
日本武尊
配祀
宮簀媛命
建稲種命
宮簀媛命は、尾張国造の乎止与命と真敷刀俾命の子で、日本武尊の后の一人。伊吹山に赴く日本武尊から草薙剣を預かり、後に熱田神宮を創祀した。
建稲種命は、宮簀媛命の兄で、日本武尊の東征の際、副将軍として随従した。
以上

熱田神宮は宮簀媛命が創祀したという。熱田神宮の創建を見てみると

創建[編集]
第12代景行天皇の時代、日本武尊が東国平定の帰路に尾張へ滞在した際に、尾張国造乎止与命(おとよのみこと)の娘・宮簀媛命と結婚し、草薙剣を妃の手元へ留め置いた。日本武尊が伊勢国能褒野(のぼの)で亡くなると、宮簀媛命は熱田に社地を定め、剣を奉斎鎮守したのが始まりと言われる。そのため、三種の神器のうち草薙剣は熱田に置かれているとされ、伊勢神宮に次いで権威ある神社として栄えることとなった。
以上

 世に名高い熱田神宮と成海神社は日本武尊とのつながりにおいて切っても切れない関係にあった。成海神社は格式の高い古刹といえる。

 参拝後はさらに登りをこなして下り坂に出て、千句塚公園に寄った。松尾芭蕉の生前唯一の自筆の句碑が建立されている。断崖の上にあるので公園からは名駅前の高層ビル群がよく見える。自転車を下りて車道から野並まで走る。野並からは天白川のサイクリングロードを走って帰宅した。約1時間半だった。

猿投山捜索行2017年07月08日

雲興寺の東屋に集まり捜索範囲を地図で検討する
 5月16日に忽然と行方不明になった人を探している。
 車を止めた場所と本人が地形図を駆使して山野を歩きまわる登山者ではなく、近くの住民として散歩のエリアになっていた。そのことからすぐに見つかると思っていたが7/8現在までに手がかりすら得られていない。非常に緻密な捜索態勢の網にも引っかからず、一体どこにおかくれになったのでしょう。
 今朝も4時起き、寝床でうつらうつらする内、東の空が朝焼けになった。早くおきよと、せかされているようだ。顔を洗って、5時少し前に出発する。今日は東郷町の白鳥神社に参拝した。白山社もあり、くくり姫もおわす。参拝後、県道233から長久手市で県道57になり、瀬戸市から赤津を経て7時過ぎ、雲興寺へ集結する。
 7時半を過ぎて8時までに三々五々、捜索に参加するメンバーが集まって来た。例によって過去の捜索で塗りつぶした地形図の未踏の部分をトレースするべく、班分けする。
 私は気になっていた豊田市北一色町の側から1名の応援を得て捜索することとした。
 戸越峠を越えて豊田市側に行き、北一色の林道の奥深くまで走る。途中で、猿投山のバリを下山中のパーティに遭遇し驚く。彼らは猿投山最高点の632mに直接突き上げる沢を下降してきたらしい。道はないそうである。「まだ見つからないんですか」というから彼らも知っているんだろう。(捜索の張り紙もあるし)
 彼らと別れて尚も走って、舗装が途切れた終点らしいところで車をデポする。
 林道を少し戻って小さな沢を遡った。沢なので道形は崩壊しているが水量はないので登山靴のまま遡れた。水が絶えて、尾根への踏み跡も見いだせた。地形図の破線路のイメージ通りである。尾根の道形はしっかり残っていて歩きやすい。しかもよく掘れている。きっと炭焼きとか塩を担いだ行商の道だったであろう。豊田市と瀬戸市の境界の470mのピークには難なく着いた。捜索はここからだ。
 一旦は480mの独立標高点を目指す。ここは巻道があったが直登する。猿投山への北尾根道はしっかりしている。480mから東南の尾根を少し下って北尾根にスイッチバックする。一と癖ある地形である。赤テープが多いので助かる。猿投山への道はここで一旦鞍部まで下る。そして登り返すと629mの山頂である。登頂には向かわず、水線のある浅い谷は既に捜索済みなので引き返す。
 470mまで戻って戸越峠までの北(市界)尾根を探ってみた。踏み跡は明瞭で破線路との分岐には顕著な赤テープがあった。ここも踏査済みである。市界尾根を辿ってみた。ゆるゆる進むと急な断崖で尾根が左右に分岐した。地形図の戸越峠の印刷の越の辺りと思えたが、同行者のスマホの軌跡ではかなり手前を示唆している。
 地形図と実際の地形はかなり違う。そこで赤テープのあった少し手前の分岐まで戻って下ってみた。この踏み跡の赤テープはすぐに見失った。結局は尾根の直下の山腹のけもの道らしい足跡を辿って破線路辺りまで戻った。事実破線路に合流している。これも実感では市界尾根に思えたがスマホの軌跡は破線路を示した。
 山勘はいかに当てにならないか。
 同行者もルートファインディングのいい勉強だという。山中の行方不明者の捜索というものは山野を跋渉するから猟師の行動に似ている。獲物を追う猟師山を見ず、であって猟師も遭難することがあるのだ。
 市界尾根に戻って470mに戻る。さてどう下るか、相談。私は480mの東南尾根を下る案を示す。往路の沢道は下りたくない。この尾根にもきれいな山道が残っていた。そして林道へすとんと下れた。途中で右の明るい森で山腹を下ればあるいは実線の未舗装の林道へ下れたかも知れない。
 何とか無事に下れた。手がかりはないのが残念である。
 小長曽陶器窯跡の入り口にマイカーを止めて1時間の行動範囲を改めて考えると戸越峠周辺の微細な地形が気になる。転落すると厄介なことになりそうな急峻な谷の地形である。
 11時30分か、捜索を終えて雲興寺の本部に帰って報告。誰からも発見の言葉はなく口が重い。家族には焦燥感が募ることだろう。それぞれが解散となった。
 帰路は豊田市民芸館で開催中の写真展に寄る。長年の友人が矢作川流域の自然の風景を撮りためたものだ。
 帰名中、思いついて長久手市の景行天皇社にも寄った。猿投山の由来は景行天皇が猿を投げたという伝説に由来する。猿投山上に祀られている墓の大碓命はヤマトタケル(小碓命)に殺されたことになっている。関係の深い神様である。ここにも白山社がある。明日の発見を祈願した。
(写真は捜索メンバーのM氏撮影)

猿投山捜索行②2017年07月09日

 去る6月29日から11日間毎日十数名の山岳会有志が集結して捜索活動に当ったが、何ら手がかりの得られない残念な結果になった。しかし、綿密に緻密に地形図を眺めて空白を埋めるような捜索でも発見に至らなかった。すると捜索範囲以外の場所に潜んでいるとしか思えない。それには余りにも範囲が広すぎる。

 東大演習林内の未踏査の沢と尾根を3人で探った。沢といっても水量は少なく登山靴のまま歩ける。源頭の手前で左の未踏の尾根に上がった。植生は松、照葉樹林、落葉樹林が混じる。下草は生えていないので歩きやすい。
 松はかつてははげ山になった証拠といえる。薪炭林として活用されていたに違い。石油の輸入でエネルギー革命が起きて、薪炭林の炭は需要が激減、山の落葉樹は放置されたままになった。
 雨で栄養分が流されて特に尾根は地味がやせる。やせると松しか生えない。そこへ落葉樹は茂るに任せる時代になった。放置すればまず照葉樹林が茂る。年中、太陽の光が届かない林下は下草も生えない。遷移が起きる過程であろう。

 個人的には7/8の猿投山の北尾根の捜索で知った戸越峠周辺の地形の複雑さが気になるので再度訪れてみたい。7/9にもここが気になると申し出てみたが東大演習林の中の尾根と沢をやることになった。関係者は軽装かつスニーカーで行くところではないと否定的だった。事故というものは普段と違うことをやるから起きる。意外なところで発見されることが多い。それだからなおも気になる。
 猿投山から北尾根をたどると素直に戸越峠にすとんと下れそうだが、実はそれまで北を向いていた尾根は峠の手前で東西に地形が変わる。峠には道形もなく一とくせある地形なのだ。
 地形図に名前のある峠なのだが、道路は切通しのまま狭く平行し、歩行者として歩きにくい。峠の神様の類いもない殺風景な場所である。北尾根は地形図で想像以上にやせて懸崖である。

 帰路は県道33号からR419で帰った。猿投山の山容は瀬戸市側は鉄塔だらけで美観を損ねる。真南の籠川流域からは桃の花を前景に美しいが山容は尾根が南に伸びるせいか、間延びして今一だ。北一色町辺りからは南尾根が隠れて山頂にまとまりがあるように見えて美しい。
 R419から県道58号へ右折。思いついて愛知池に寄った。ここから自宅までは12kmくらいなのでポタリングのエリアに入る。

名銀ハートフルプラザ「はじめよう登山」セミナー①2017年07月11日

 名銀ハートフルプラザは大名古屋ビルヂング16Fにある。今冬、成年後見制度の広報のセミナー開催の交渉に行った。話は難航した。セミナールームから濃尾平野の山々がよく見えるので、話のはずみで、山の話題にふれた。今回、縁あって、山のセミナー開催にこぎつけた次第である。芸が身を助けるほどの不仕合せ(古川柳)というがまさにそんなことになった。成年後見のセミナーも7/26にやれるので言ってみるものである。
 持ち時間は1時間なので広範囲な話は無理。課題はそれこそ山のように盛れるが、最新の衣類の知識の説明に重点をおいた。ちょっとした知識が生命を左右するかも知れない。
 レジュメはあっさり書いておいて、深い話は参考資料4点を添付した。
心得・・・山の命と弁当は自分持ち

服装・・・吸汗速乾機能の衣類

装備・・・スマホの利用が普及拡大中だが、必携とまではされていない。ザックと登山靴は基本のキなので登山用具専門店で相談して購入。

ストック・・・あれば便利で脚力を補佐する。しかし邪魔にもなる。必携かどうかは登山者次第である。

食料・・・粒食(ごはん)と粉食(パンやラーメン)の違い。

登山計画書・・・・条例化されて義務となった登山計画書。書くことで自分やメンバーの実力と向き合うことになる。
 実際の見本と長野県のWEBからDLした様式も呈示した。いの一番は登山計画書というわけである。
 次は書くための資料収集の選択である。ガイドブックとインターネット経由の情報との質的な違いを指摘した。

山岳遭難の多発傾向への警告・・・体力、技術、服装、装備の準備に怠りがなければ滅多に遭難はない。リーダーの心得、ビバークの心得も示した。残される家族の悲惨さも説明した。

定員は20名のところ19名の受講申込と聞いていた。予備の椅子を出していたから定員は若干オーバーしたのかな。腑に落ちる話になったであろうか。

マダニ(笹ダニ)にやられた2017年07月14日

 昨夜、股のところがチクチクする。しばらくすると痛みはなくなり、またチクチクするので、明るいところで調べると、何とわが息子(陰嚢)に食らいついているのは一目見て、笹ダニと分かった。こりゃ大変だ、手でつまんでも中々離さない。しぶといが何とか引き剥がし、透明の袋に入れた。今朝は皮膚科を訪ねたというわけである。
 笹ダニはエロダニとも言い、股や腕、足の関節部の柔らかいところに食らいつく。医師に実物の犯人を見せると開口一番「ああマダニですね」と言い、患部はかさぶたができているので抗生物質を処方すると言われた。
 マダニの足は8本ある。犯人の足も8本あるので皮膚に食い込んだわけではなさそうだ。つつがむし病が心配です、と訴えると、抗生物質で治癒するとのことであった。1から2週間は経過観察することになった。
 やれやれである。
 7/9の猿投山の捜索で道なき道を歩けば笹だらけである。下山後は服を着替えたがパンツだけはそのままだった。帰宅後はシャワーを浴びたから、その際は何も違和感はなかった。それが今になってどこかから股にまで到達したのだろう。
 それにしても医師は即座にマダニと知っていたのは良かった。笹ダニの別名までは知らなかった。

猿投山捜索行③と土岐市白鳥神社をたずねる2017年07月15日

豊田市迫町からの猿投山
 7/9までに捜索しきれなかった豊田市側の戸越峠付近の沢に入ってみた。峠直下のつづら折れの県道33号から西に入る林道跡に分け入る。草深いので最初から雨具のズボンをはいた。終点には大きな砂防堰堤がある。右岸から乗り越す。白砂のせせらぎである。藪はなく、スイスイ遡る。
 ところが突然、両岸が切り立ちゴルジュの様相を見せ始めた。単独なので奥深く入るのはためらう。右岸にいい踏み跡が続くのでそこを辿った。流れと巻道の落差は大きく谷底が見えない。
 ゴルジュはのど元の意味である。または滝の後退で出来るともいわれる。谷底のどこかに滝があるかも知れない。確かに危険領域である。滝は強引に攀じ登れるが、下降が難しい。装備がないので無難に行く。
 踏み跡と流れが一致したところで左岸に渡り、山腹のけもの道を辿ってみた。谷底とはいえ、真夏で風が通らないために非常に暑く、樹林下でも高温多湿である。1時間もしないのに大汗をかかされる。たびたび、水分補給して休んだ。こんなところで倒れたら笑いものになりかねない。
 シダの群生に隠れたけもの道を辿って、とにかく尾根に出た。かすかな風を受けて涼しい。水を飲んで落ち着きを取り戻す。地形図を眺めても位置は不明だが、地形図の戸越峠の印刷の「越」付近だろう。尾根上には踏み跡があるので辿ってみた。すると、7/8に辿って引き返した地点に着いた。北尾根に立っていることを確認できた。ここから赤テープが多くなる。多くの登山者がここで引き返しているのだろう。
 北尾根を南へたどると赤テープを2重巻きにした分岐に着いた。もう一か所あるが、ここから下ってみた。この枝尾根は最初は踏み跡が残っていたが途中からなくなる。やむなく藪をこいで急斜面を下ると東大演習林の林道に降り立った。ここまで2時間経過した。
 そのまま無難に歩ける。県道33号線に出て捜索行は終わった。戸越峠を越え、マイカーのデポ地に戻った。汗だくの体をパンツ以外は着替えた。

 次は岐阜県土岐市に向かった。県道33号から国道352号に左折。県境を越えた。目的の1つは西山712m(曽良山、鶴岡山)の登山口のチエックである。愛知県側からしか登ったことはないが、実は岐阜県の方が登山道の整備もして力を入れている。愛知県では西三河の最高峰であるが登りは20分ほどで整備するまでもない。ついでに曽木のバーデンパークSOGIに入湯した。パンツも着替えてさっぱりした。
 そして第2の目的の白鳥神社の参拝があった。愛知県の東郷町にも白鳥の地名があり、白鳥神社があった。ここも白鳥の地名であり白鳥神社があった。さらに国道363号を瀬戸市に向かい、柿野の白鳥神社に参拝を果たした。こちらは本格的なたたずまいである。
 実は柿野は垣野だという。
 猿投山の山上には大碓命の墓がある。大碓命は『古事記』ではさえない役割である。景行天皇の妃の候補の女性を横恋慕し、自分の妻にしてしまった。美濃の美山町の柿野に隠れ住んだ。晩年は土岐市の柿野で亡くなったそうな。祭神をヤマトタケルにしたのは人気があったことと、先に猿投山に葬られたからだという。双子の兄弟だった大碓と小碓。小碓はのちに大活躍してヤマトタケルになるが悲劇的な最期を遂げる。大碓は平凡ながら平民に近い幸せを享受した。
 山名の景行天皇がいたずらする猿を投げたという伝説には妃を横取りした大碓を勘当したことを暗示しているように思えてならない。

愛知池のポタリング2017年07月17日

 どんよりした梅雨曇りで明けた。地面を見ると濡れているので降雨があったみたいだ。今日は月曜日なので、下りたついでにプラスチックごみを出す。昨日丸の内の事務所から回収したものも出した。小雨があるので、マイカーに積んで行くことにした。自転車の後輪がパンクしていた。ポンプで空気を入れると空気圧を保っている。昨日までの暑さで自転車も熱中症を起こし、空気が抜けたらしい。
 県道58号から国道153号を走る。朝から渋滞気味である。遠方には六所山と焙烙山が並んでいる。県道57号へ左折すると白鳥の交差点になり、右折する。この道はダイレクトに愛知用水の駐車場に通じている。
 早朝にもかかわらず、ほぼ満杯の車があった。自転車を出して池の管理用道路に運び上げる。すでに多くのランナー、ジョガー、ウォーカーらの姿が見えた。それに混じってヘルメットに派手なウェアーのサイクリストもいる。私は普段着のスタイルでポタリングを開始する。
 池は一周7.2kmあるという。自宅から日進市役所までの距離はある。周辺道路はバイクは入れない。またサイクリストにも快適なロードとして整備はされてない。むしろ高速走行を抑制するための柵があり減速を余儀なくされる。だからポタリング向きだろう。
 直線があり適当にカーブがあって退屈はしないが、池に親しむことはできない。この池は下流の受益者の飲料水になるからだ。だからキャンプ、水泳などはできない。但し、なぜかボート類は許可されている。一周すると約25分ほどだった。ちょっと汗をかいた程度の運動量にはなった。
 地形図で見ると周囲の標高は115mで境川までさかのぼっても137mくらいだ。境川の水は愛知池には流入しない。堤防の高さは75mくらいだから、それ以下の受益者の町や田んぼに水道管で給水されているのだろう。日ごとに青くなる田んぼを眺めると、日進市も然りながら東郷町も見事な沃野になった。すべては木曽の水である。名古屋の水道水は美味いといわれるが、木曽の水だから当然であろう。

緑区の氷上姉子神社へポタリング2017年07月19日

 朝6時起床、今日も冷房のまま目覚める。窓を開けるとむっとする湿気。一応シャワーを浴び、髭を剃ってしゃきっとしてから、6時35分に出発。ミニザックに財布、タオル、氷水を詰めた魔法瓶、塩飴などを放り込む。
 島田橋を過ぎてから天白川の右岸のサイクリングロードに入ると、後はまっしぐらとは参らず、時折、車道と折り合い、信号待ちもあったりする。それはイラつくのではなくいい休憩になる。休むことなしに1号線にかかる大慶橋をくぐる。新幹線の疾駆するガードは迂回するとすぐに名古屋高速、国道23号が重なる橋を渡ると丸の内になる。
 国道23号に沿うように行くとあっさりと氷上姉子神社の入り口に着いた。7時20分だった。約45分、グーグルで徒歩で検索すると10km弱なのでまあまあのスピードで走れた。
 境内は朝早いこともあり静まり返っている。御手洗いで清めて参拝する。そして居住していたと言う元宮にも参拝した。標高は約45mくらい。
 尾張の国を治めたミヤズヒメはヤトタケルから草薙剣を受け取ってそれが三種の神器となった。熱田神宮を創設してこれを収めた。つまりここは成海神社とともに熱田神宮のルーツになる由緒正しい神社ということになる。
 天白川左岸はほとんど連続性がなく走れない。主に右岸のサイクリングロードを遡った。帰宅は9時20分。
 いよいよ、熱田神宮とヤマトタケル終焉の地、三重県の野登山の麓のノボノ神社も行かねばなるまい。伊吹山で遭難した後、清水を飲んで一息ついたという霊仙山の麓のサメガイも改めて行ってみよう。

愛知牧場までポタリング2017年07月20日

 昨夜は久々にエアコンをつけないで就寝した。窓を開放して自然の風を入れた。扇風機の緩やかな風をつかった。寝ざめは悪くない。きっと梅雨が開けたような気がする。昨日の疲れで起床は7時になったが、汗をかく体にするために今日もポタリングに出かける。
 7時半、目的地は愛知池として、日進の田園を抜ける。県道58号から県道231号に入るとすぐに愛知牧場の入り口にあるログテラスに着く。ここまで10km弱で1時間ほど。モーニングセット(550円)を注文。ホットコーヒー、トースト2枚、ヨーグルト、サラダ、ゆで卵、濃厚なスープが美味い。朝食後、愛知池の中の管理道路に入り、クルマと並走しない気安さで、半周ほどスピードを出してのサイクリング。
 米野木で出て、駅前を通過して左折。ほぼ直線でR153の交通局日進工場の端に出た。アップダウンの多い道路で大腿筋の鍛錬にはよく効く気がする。後はR153から自宅へのんびり走る。
 今日のコースは車が多すぎる。通勤時間帯でもあるが、裏通りのルートを開拓する必要がある。