豊明市の二村山へポタリング ― 2017年07月21日
今朝もすっきり5時に目覚める。5時30分に起床、朝食後、6時に自転車にまたがる。行き先は豊明市の二村山で、71.2mの3等三角点のれっきとした愛知の名山である。だれも話題にしないのは100mにも満たない標高のゆえだろう。
天白・平針から運転免許試験場を経由すると約8km未満の距離で早く行けるが、山越えがきつい。それで荒池、神ノ倉、熊の前を経て徳重へ向かった。熊の前へポンと下れるのだが標高約60mの丘を越えるのが結構きつい。赤池で標高30m、白土で標高52mあり、白土からは下りになる。平手で標高17mと天白と同じになる。天白区と緑区は広大な丘陵地なのである。車ならなんなく越えるが、自転車はすべて自力なので必死だ。
6時28分、徳重交差点で左折、折角楽したのに愛知用水と交差する標高60m付近まで登り返す。愛知用水の右岸の管理用道路に入り、ゆっくり下りを楽しむ。しばらくで暗渠に入ると道路も行きどまり、一旦、住宅地の道に出た。新築の住宅が立ち並ぶ。車道を走ると立派な道と交差する。県道220号である。左折してやや登ると藤田保健衛生大学の門を右に見る。さらに行くと緑のこんもりした丘がある。これが二村山だった。
皿池なる交差点を下ってゆくと二村山への案内板と駐車場があった。まだ7時前だ。自転車をデポして散策路に入る。昔は鎌倉街道といったそうだ。天白区野並の交差点にもそんな看板があった。岐阜県神岡町山之村にも鎌倉街道が通うから一筋の道ではなく鎌倉幕府時代の古道という意味だろう。
景勝地に囲まれている民家の前を通過して軽く登ると地蔵尊がある。ここから句碑や歌碑の類が多くなった。知らない人物ばかりだ。登りきると何と3等三角点があった。その近くに展望台もある。5分ほどで登頂であった。
展望台に立つと尾張から三河の山野が一望できた。なるほど名勝地とはやすだけのことはある。名駅の高層ビル群、猿投山、焙烙山と六所山。晴れれば伊吹山、鈴鹿連峰まで見えるらしい。多分、中アや能郷白山、御岳山、乗鞍岳、恵那山も視野に入るだろう。
この山なら1つにカウントしてもいいかと思う。
下山後は県道220号を皿池まで登り返し、後は平手の交差点まで下る。右折して徳重へ、左折して、国道302号へゆったり登る。交差点で右折、標高68mの黒沢台までのきつい登りをこぎ通す。ここから原の交差点までは快適な下りになる。原駅前の喫茶店で大休止する。まじめに帰れば往復2時間だが9時半ごろの帰還になった。
天白・平針から運転免許試験場を経由すると約8km未満の距離で早く行けるが、山越えがきつい。それで荒池、神ノ倉、熊の前を経て徳重へ向かった。熊の前へポンと下れるのだが標高約60mの丘を越えるのが結構きつい。赤池で標高30m、白土で標高52mあり、白土からは下りになる。平手で標高17mと天白と同じになる。天白区と緑区は広大な丘陵地なのである。車ならなんなく越えるが、自転車はすべて自力なので必死だ。
6時28分、徳重交差点で左折、折角楽したのに愛知用水と交差する標高60m付近まで登り返す。愛知用水の右岸の管理用道路に入り、ゆっくり下りを楽しむ。しばらくで暗渠に入ると道路も行きどまり、一旦、住宅地の道に出た。新築の住宅が立ち並ぶ。車道を走ると立派な道と交差する。県道220号である。左折してやや登ると藤田保健衛生大学の門を右に見る。さらに行くと緑のこんもりした丘がある。これが二村山だった。
皿池なる交差点を下ってゆくと二村山への案内板と駐車場があった。まだ7時前だ。自転車をデポして散策路に入る。昔は鎌倉街道といったそうだ。天白区野並の交差点にもそんな看板があった。岐阜県神岡町山之村にも鎌倉街道が通うから一筋の道ではなく鎌倉幕府時代の古道という意味だろう。
景勝地に囲まれている民家の前を通過して軽く登ると地蔵尊がある。ここから句碑や歌碑の類が多くなった。知らない人物ばかりだ。登りきると何と3等三角点があった。その近くに展望台もある。5分ほどで登頂であった。
展望台に立つと尾張から三河の山野が一望できた。なるほど名勝地とはやすだけのことはある。名駅の高層ビル群、猿投山、焙烙山と六所山。晴れれば伊吹山、鈴鹿連峰まで見えるらしい。多分、中アや能郷白山、御岳山、乗鞍岳、恵那山も視野に入るだろう。
この山なら1つにカウントしてもいいかと思う。
下山後は県道220号を皿池まで登り返し、後は平手の交差点まで下る。右折して徳重へ、左折して、国道302号へゆったり登る。交差点で右折、標高68mの黒沢台までのきつい登りをこぎ通す。ここから原の交差点までは快適な下りになる。原駅前の喫茶店で大休止する。まじめに帰れば往復2時間だが9時半ごろの帰還になった。
豊明市の桶狭間古戦場伝説地へポタリング ― 2017年07月22日
今朝は少し寝覚めが悪い。昨夜の根つきが悪かったせいだろう。朝食後、7時35分に自転車にまたがって出発。行く先は豊明市の桶狭間古戦場伝説地である。天白から最短距離で9.7kmくらいだが、山越えを避けて、天白川のサイクリングロードに入った。今日は左岸沿いに走る。やっぱりサイクリングロードは信号なし、車との競走なしで安全で楽だ。結局鳴海処理場の近く、名鉄鉄橋で完全に逃げ道なしになり引き返して県道59号に出た。大慶橋は右岸でないと渡れない。
中汐田の交差点に出て国道1号線を左折。国一を走る。中京競馬場前の三叉路を右折するとすぐに豊明市の桶狭間古戦場伝説地に着いた。想像以上にこじんまりとしていて小さな公園になっている。歴史資料館でもあるのかと期待したが時間をつぶす仕掛けはなく、すぐにお暇する。
国一を桶狭間の交差点まで戻り左折。緩やかな坂道を登り、下ってゆくとカーマの店がありすぐ近くに桶狭間古戦場公園があった。ここも規模でいい勝負の小さな公園に過ぎず、がっかりする。結局、歴史に詳しいガイドの説明でもないと楽しめない気がする。
帰路は国一から旧東海道の有松の町並みを通過して国道302号に沿いながら天白区滝の水まで登り、野並まで下った。後は勝手知ったる道を帰宅する。
中汐田の交差点に出て国道1号線を左折。国一を走る。中京競馬場前の三叉路を右折するとすぐに豊明市の桶狭間古戦場伝説地に着いた。想像以上にこじんまりとしていて小さな公園になっている。歴史資料館でもあるのかと期待したが時間をつぶす仕掛けはなく、すぐにお暇する。
国一を桶狭間の交差点まで戻り左折。緩やかな坂道を登り、下ってゆくとカーマの店がありすぐ近くに桶狭間古戦場公園があった。ここも規模でいい勝負の小さな公園に過ぎず、がっかりする。結局、歴史に詳しいガイドの説明でもないと楽しめない気がする。
帰路は国一から旧東海道の有松の町並みを通過して国道302号に沿いながら天白区滝の水まで登り、野並まで下った。後は勝手知ったる道を帰宅する。
熱田神宮、断夫山古墳、白鳥御稜、宮の渡しへポタリング ― 2017年07月28日
梅雨どきに戻ったかのような蒸し暑い朝。それでも行ってみるかと、午前7時自転車にまたがった。ルートは勝手知った道ばかりだが、楽に行きたいと、天白川左岸のサイクリングロードに入った。平子橋で詰まる。市道へ上がり、野並から平子橋を渡る。新郊通り3丁目までは緩やかな登りになる。呼継1丁目で右折して妙音通りに出る。内浜の交差点を突っ走って、跨線橋の左から迂回すると伝馬町の交差点だ。
右折して熱田神宮で、約50分になるので、一休み後、断夫山古墳へ行く。大津通りから神宮西駅へ回り込む。R19を北上するとパセリのようなこんもりした森のある神宮西公園に着いた。蝉時雨の盛んな森を囲む周辺道路を注意しながら走ると小さな断夫山古墳の説明板を見た。
次は白鳥古墳(御稜)だが、地形図をプリントしたため掲載されず、目標を見失った。(後で堀川の左岸側のハローワークの裏手と知った)堀川左岸のハローワークから右岸へ連絡橋がかかっているので降車して渡るが古墳は見いだせず。それにしても堀川の臭いこと。川面を良く見るとボラの死がいが大量に浮いている。流れがないために酸素不足になったのだろうか。蒸し暑いので自販機でドリンクを買って飲む。
国際会議場へは行くまでもない。名古屋学院大学の赤レンガ造りの瀟洒な校舎を横目に見て、また堀川に戻ると白鳥庭園の正門に着いた。白鳥というもののヤマトタケルなど古代史とは何の関係もない。白鳥橋東から途中、喫茶店でモーニングセットで軽い休憩をとる。内田町の宮の渡しまでぶらぶら走る。また熱田神宮まで戻り、西門から入り、参拝をする。
境内もやかましいほどの蝉時雨に満ちていかにも夏の盛りを味わう。夏なのに落ち葉掃除に勤しむスタッフがいた。そうか、神宮の森はすべて照葉樹林なのである。それで初夏から今頃は落葉期にあたる。それでもかっと照りつける直射日光を遮ってくれるから参拝客は意外と多い。夏休み中の子供たちの緑陰講座でもあるのか結構多い。
白鳥古墳は境内にあるとのうろ覚えで、神職の巫女さんに問うが知らない。男性の神職が代わって、スマホ片手に、汗だくで教えてくれたが要領を得ない。先だって住吉大社から転勤してきたばかりという。
神職は高卒なら境内にある熱田神宮学院で2年学ぶとなれる。今は国学院大学か皇学館大学で神道を修める。かつて鹿児島県の最果ての神社で、正月というのにただ一人社務所に務めていた神職も皇学館大学OBと言われたことを思い出す。この世界でも人事異動であちこち飛ばされるようだ。
西門に戻ってスタッフに聞くとさすがに地元民らしく丁寧に教えてくれた。何のことはない。また神宮西駅から堀川へ横断するような道だった。白鳥山法持寺の奥にやはりパセリのようなこんもりした森が見える。これだ、と思ったが、入口が分からないので一周してハローワークの手前に案内板があって分かった。案内板も初見であるから名古屋市は知られたくないのだろう。蝉時雨のふりそそぐ古墳を前にしてヤマトタケルの霊を思った。
帰路はほぼ往路通りになった。呼継から旧東海道を走り、熊野三社もちらっと寄った。東海道の影響か、建物が込み入っている。それにお寺や神社の多いこと。昔は知多半島まで見渡す干潟だったらしい。そういえば山崎川も流れはほとんどない。平子橋まで来て、天白川右岸を走る。植田の天白川と植田側の合流地点までストレスなく走れた。今日約8kmくらいだが、道草が多くて、約4時間もかかった。
右折して熱田神宮で、約50分になるので、一休み後、断夫山古墳へ行く。大津通りから神宮西駅へ回り込む。R19を北上するとパセリのようなこんもりした森のある神宮西公園に着いた。蝉時雨の盛んな森を囲む周辺道路を注意しながら走ると小さな断夫山古墳の説明板を見た。
次は白鳥古墳(御稜)だが、地形図をプリントしたため掲載されず、目標を見失った。(後で堀川の左岸側のハローワークの裏手と知った)堀川左岸のハローワークから右岸へ連絡橋がかかっているので降車して渡るが古墳は見いだせず。それにしても堀川の臭いこと。川面を良く見るとボラの死がいが大量に浮いている。流れがないために酸素不足になったのだろうか。蒸し暑いので自販機でドリンクを買って飲む。
国際会議場へは行くまでもない。名古屋学院大学の赤レンガ造りの瀟洒な校舎を横目に見て、また堀川に戻ると白鳥庭園の正門に着いた。白鳥というもののヤマトタケルなど古代史とは何の関係もない。白鳥橋東から途中、喫茶店でモーニングセットで軽い休憩をとる。内田町の宮の渡しまでぶらぶら走る。また熱田神宮まで戻り、西門から入り、参拝をする。
境内もやかましいほどの蝉時雨に満ちていかにも夏の盛りを味わう。夏なのに落ち葉掃除に勤しむスタッフがいた。そうか、神宮の森はすべて照葉樹林なのである。それで初夏から今頃は落葉期にあたる。それでもかっと照りつける直射日光を遮ってくれるから参拝客は意外と多い。夏休み中の子供たちの緑陰講座でもあるのか結構多い。
白鳥古墳は境内にあるとのうろ覚えで、神職の巫女さんに問うが知らない。男性の神職が代わって、スマホ片手に、汗だくで教えてくれたが要領を得ない。先だって住吉大社から転勤してきたばかりという。
神職は高卒なら境内にある熱田神宮学院で2年学ぶとなれる。今は国学院大学か皇学館大学で神道を修める。かつて鹿児島県の最果ての神社で、正月というのにただ一人社務所に務めていた神職も皇学館大学OBと言われたことを思い出す。この世界でも人事異動であちこち飛ばされるようだ。
西門に戻ってスタッフに聞くとさすがに地元民らしく丁寧に教えてくれた。何のことはない。また神宮西駅から堀川へ横断するような道だった。白鳥山法持寺の奥にやはりパセリのようなこんもりした森が見える。これだ、と思ったが、入口が分からないので一周してハローワークの手前に案内板があって分かった。案内板も初見であるから名古屋市は知られたくないのだろう。蝉時雨のふりそそぐ古墳を前にしてヤマトタケルの霊を思った。
帰路はほぼ往路通りになった。呼継から旧東海道を走り、熊野三社もちらっと寄った。東海道の影響か、建物が込み入っている。それにお寺や神社の多いこと。昔は知多半島まで見渡す干潟だったらしい。そういえば山崎川も流れはほとんどない。平子橋まで来て、天白川右岸を走る。植田の天白川と植田側の合流地点までストレスなく走れた。今日約8kmくらいだが、道草が多くて、約4時間もかかった。
能褒野神社、加佐登神社、長瀬神社、椿大社へドライブ ― 2017年07月30日
午前5時30分出発。県道59号、36号、R23と走って、四日市市からR1に入り、亀山市を目指す。鈴鹿市まで来ると、どんよりした曇り空が頭上を覆い、降り出しそうだ。伊勢湾からの水蒸気を含んだ黒い雲が流れていく。あれが鈴鹿山脈にぶつかると上昇気流となって上空の冷たい空気に触れて雨になる。急激だと雷雲になる。案の定、ものすごいスコールのような雨が降り出した。
亀山市の能褒野神社(のぼの)を目指す。一帯は水田地帯で今は緑一色である。晴れておれば鈴鹿山脈が背後に美しいだろう。その景色を眺めて、
”大和は 国のまほろば たたなづく
青垣山ごもれる 大和し 美し”
と詠まれた。大和し、のしは強調であるから死を覚悟しての望郷の御歌であろう。
安楽橋を渡ってすぐの右折の信号をやり過ごしたので1つ先の信号から地道に入り、R306から県道637へ右折。御幣川にかかる白鳥橋を渡ると名越の交差点で右折。少し大回りしたが目的地に着いた。午前7時30分。約63km。
日本武尊は東征の後、伊吹山の荒神を退治するために向かうが言挙げして、怒りを買い、大氷雨を降らされて痛手を負った。醒ヶ井で傷を癒すが体力を消耗させる。今でいう低体温症か。四日市市を経て、大和へ帰る途上、ここ能褒野で崩御したという。
Pと公衆トイレが完備している。小雨の中、傘を手に薄暗い樹林の中の小道を登る。とにかく高いところへ行くと奥に神社が見えたので参拝した。御手洗い場は水道で且つアルミのひしゃくだった。社殿は地味なたたずまいだった。しかし、古墳が分からない。一旦、車道へ出て、改めて絵図で確認した。再度、小道を行き、左折する。墳墓の周囲は柵が設けられている。やや下った辺りに墳墓への階段があった。立ち入り禁止の札が宮内庁の名で表示してあった。墳墓の周囲の小道をめぐると元のPへ帰れた。
次は加佐登神社である。県道637、県道27を行くと、駐在所の信号を左折。椎山川をせき止めた調整池が白鳥湖といい、神社へは椎山川にかかる白鳥橋を渡る。マイカーを置き、長い石段を登ると小広い境内の奥に社殿が鎮座していた。
社殿の屋根は反りを抑え、低めに見える。鰹木や千木もなく、威圧的な建築物ではない。御手洗場は水があふれ、杉の板を曲げたひしゃくで本格派である。有人であり、車祓いをうけて収益を確保し、維持に努めているところが、能褒野神社とは違う。
私の観察では、御手洗場のひしゃくの品質が杉の曲げ物であること、車祓いをうけていること、信仰のグッズの販売をしていることが社格の上下につながっている。少しでも収入を確保し、境内の掃除(特にトイレ)を欠かさず、参拝客を迎える努力が神社を長く維持させる。ひしゃく等はこれまでみてきたのはアルミ製、プラスチック製などは概して無人無住であった。杉の曲げ物を見ると一定の収入を確保できているんだなと思う。
右手から車道を辿ると白鳥塚に行ける。白鳥塚の周囲をぐるりと回ってみた。能褒野よりもかなり規模が小さい。かつてはここが墳墓とされていたが比較すると能褒野に軍配を挙げざるを得ない。但し、あちらの神社は宮内庁が正式に御稜と指定してから神社が創建された経緯がある。
神主さんが見えたのでいろいろお話を伺った。記紀神話からヤマトタケルの話等々、ついつい長話になった。来客があったところでお暇して、長瀬神社に向かった。これはここで教えてもらった。
長瀬神社は鈴鹿ICのすぐ近くにあった。社務所には老婦人らが歓談していたが神社関係者ではない。ここもヤマトタケルが寄った伝説の地らしい。前二社に比べるとかなり規模は小さい。
ここまで来たら椿大社に参らねば片詣りになる。
小雨の鈴鹿路を道なりに走ると雲隠れした鈴鹿山脈の入道ヶ岳の麓に着いた。椿会館などの飲食、宿泊設備できる売店があり、駐車場もほぼ満杯であった。こんな雨模様の日でも参拝客は引きも切らない。特に車祓いの参拝客は順番待ちで10台くらいは並んでいた。みな新車である。車祓い専用の社殿には大ぜいが正座してお祓いを受けていた。マイカーにもカミが宿るのだ。
御手洗場で杉のひしゃくですくって手を洗う。樹齢何百年もある杉木立の玉砂利の参道を歩いて本殿に向かう。伊勢神宮をコンパクトにまとめた気がする。熱田さんはすべて照葉樹林の鬱蒼とした森だったが、ここはやはり山奥なんだと思う。
参拝後はレストランで鶏めしをいただいた。食べるとふるさとの鶏めしの味と同じであった。土産品売り場でそれのレトルトも買った。ついでに椿餅も買った。ふらりと寄っただけなのに2000円弱の散財になった。伊勢一宮ともあれば、こうしてお金を落とす仕掛けづくりがうまい。
帰路はR306、R365からR23で帰った。R365は二階建てで高速道路の建設中だった。伊勢湾岸道から京阪神へいく車をここへ誘導して東名阪の負担を減らすためだろう。北勢は道路だらけになった。ヤマトタケルに由来する神社を訪ねるドライブは終わった。
亀山市の能褒野神社(のぼの)を目指す。一帯は水田地帯で今は緑一色である。晴れておれば鈴鹿山脈が背後に美しいだろう。その景色を眺めて、
”大和は 国のまほろば たたなづく
青垣山ごもれる 大和し 美し”
と詠まれた。大和し、のしは強調であるから死を覚悟しての望郷の御歌であろう。
安楽橋を渡ってすぐの右折の信号をやり過ごしたので1つ先の信号から地道に入り、R306から県道637へ右折。御幣川にかかる白鳥橋を渡ると名越の交差点で右折。少し大回りしたが目的地に着いた。午前7時30分。約63km。
日本武尊は東征の後、伊吹山の荒神を退治するために向かうが言挙げして、怒りを買い、大氷雨を降らされて痛手を負った。醒ヶ井で傷を癒すが体力を消耗させる。今でいう低体温症か。四日市市を経て、大和へ帰る途上、ここ能褒野で崩御したという。
Pと公衆トイレが完備している。小雨の中、傘を手に薄暗い樹林の中の小道を登る。とにかく高いところへ行くと奥に神社が見えたので参拝した。御手洗い場は水道で且つアルミのひしゃくだった。社殿は地味なたたずまいだった。しかし、古墳が分からない。一旦、車道へ出て、改めて絵図で確認した。再度、小道を行き、左折する。墳墓の周囲は柵が設けられている。やや下った辺りに墳墓への階段があった。立ち入り禁止の札が宮内庁の名で表示してあった。墳墓の周囲の小道をめぐると元のPへ帰れた。
次は加佐登神社である。県道637、県道27を行くと、駐在所の信号を左折。椎山川をせき止めた調整池が白鳥湖といい、神社へは椎山川にかかる白鳥橋を渡る。マイカーを置き、長い石段を登ると小広い境内の奥に社殿が鎮座していた。
社殿の屋根は反りを抑え、低めに見える。鰹木や千木もなく、威圧的な建築物ではない。御手洗場は水があふれ、杉の板を曲げたひしゃくで本格派である。有人であり、車祓いをうけて収益を確保し、維持に努めているところが、能褒野神社とは違う。
私の観察では、御手洗場のひしゃくの品質が杉の曲げ物であること、車祓いをうけていること、信仰のグッズの販売をしていることが社格の上下につながっている。少しでも収入を確保し、境内の掃除(特にトイレ)を欠かさず、参拝客を迎える努力が神社を長く維持させる。ひしゃく等はこれまでみてきたのはアルミ製、プラスチック製などは概して無人無住であった。杉の曲げ物を見ると一定の収入を確保できているんだなと思う。
右手から車道を辿ると白鳥塚に行ける。白鳥塚の周囲をぐるりと回ってみた。能褒野よりもかなり規模が小さい。かつてはここが墳墓とされていたが比較すると能褒野に軍配を挙げざるを得ない。但し、あちらの神社は宮内庁が正式に御稜と指定してから神社が創建された経緯がある。
神主さんが見えたのでいろいろお話を伺った。記紀神話からヤマトタケルの話等々、ついつい長話になった。来客があったところでお暇して、長瀬神社に向かった。これはここで教えてもらった。
長瀬神社は鈴鹿ICのすぐ近くにあった。社務所には老婦人らが歓談していたが神社関係者ではない。ここもヤマトタケルが寄った伝説の地らしい。前二社に比べるとかなり規模は小さい。
ここまで来たら椿大社に参らねば片詣りになる。
小雨の鈴鹿路を道なりに走ると雲隠れした鈴鹿山脈の入道ヶ岳の麓に着いた。椿会館などの飲食、宿泊設備できる売店があり、駐車場もほぼ満杯であった。こんな雨模様の日でも参拝客は引きも切らない。特に車祓いの参拝客は順番待ちで10台くらいは並んでいた。みな新車である。車祓い専用の社殿には大ぜいが正座してお祓いを受けていた。マイカーにもカミが宿るのだ。
御手洗場で杉のひしゃくですくって手を洗う。樹齢何百年もある杉木立の玉砂利の参道を歩いて本殿に向かう。伊勢神宮をコンパクトにまとめた気がする。熱田さんはすべて照葉樹林の鬱蒼とした森だったが、ここはやはり山奥なんだと思う。
参拝後はレストランで鶏めしをいただいた。食べるとふるさとの鶏めしの味と同じであった。土産品売り場でそれのレトルトも買った。ついでに椿餅も買った。ふらりと寄っただけなのに2000円弱の散財になった。伊勢一宮ともあれば、こうしてお金を落とす仕掛けづくりがうまい。
帰路はR306、R365からR23で帰った。R365は二階建てで高速道路の建設中だった。伊勢湾岸道から京阪神へいく車をここへ誘導して東名阪の負担を減らすためだろう。北勢は道路だらけになった。ヤマトタケルに由来する神社を訪ねるドライブは終わった。
最近のコメント