韓国人の中ア遭難事故に思う2013年08月01日

 中央アルプスの檜尾岳附近での、韓国人グループの遭難報道には驚かされた。4名の死亡という痛ましい結果になった。低体温症で3人、転落で1人とある。パーティを割るな、という鉄則を知ってか知らずか勢いのある元気な人は先行し、無事下山している。
 20人という大人数、軽装、日本人ガイドなし、通信手段なし、高齢者、小屋の人の警告を無視して強行したらしい。高齢者の落伍を無視して行ってしまったのか。ツアー登山では、人間関係も希薄とはいえ、弱った同行者を放置するのは非常識だろう。
 結局は連れてってもらうひとばかりだった。ニュースでは山岳会に所属するベテランもいたというが。日本をみても分かると思うが、気象の変化の速さはヒマラヤの比ではないという。ヒマラヤ登山経験者でも簡単に遭難死するのが日本の山の恐さである。
 要するに個人的に鍛錬して高まるような狭義の登山技術よりも、観天望気を含めた広い意味の登山の常識が身を助けることになる。

 長野県知事は外国公館へ日本の山に登山する際の注意喚起をするようだ。一刻も早いほうがよい。

 剱岳の道標にハングルがあったが、無いほうがよい。あれば単独でも登ってしまう可能性があり、かえって危険だ。日本人ガイドなしで行動できないようにする方が親切だろうに。

 JACの知人らが朝鮮半島の白頭山に登山した際、韓国のツアー会社が同行し、ソウルから中国に飛んで、現地の朝鮮族のガイドをつけたらしい。これと同じで郷に入れば郷に従え、ということだ。日本人は優しくし過ぎてかえって不興を買う。

 今回でも、新潟の韓国領事館の偉い様が入山制限があれば登らなかったと文句を言っている。責任転嫁も甚だしい。もちろん日本人でもあった。
   http://freeride7.blog82.fc2.com/blog-entry-3046.html

 昨年6月のマッキンリーで雪崩で4人が亡くなった。リーダーだけが自力で下山したが、当局の雪崩発生への警告があれば行かなかったと言っていた。今年5月の白馬大雪渓での雪崩事故でも地元では警告を発していたが、知らなかったという。自分で判断するから山は面白い。厳しいようだが、登山は所詮道楽である。結果は自己責任である。

 http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/06/24/6491001

 但し、韓国人の責任転嫁は国民性だと思う。あらゆるルートを通じて、日本の山の恐さと対応方法、遭難時の救助体制を周知しておくことだ。山では何が起きるか分からない。だから充分な食料と暖かい衣料、風雨を凌ぐツエルトくらいは用意したい。ビバークすると高齢者から順に死んでしまうそうだ。軽量化が喧しい時代だが高齢者は1枚余分に持つ必要があろう。加齢すると低温に鈍くなるそうだ。しまった、と思ったらもう死が隣り合わせだ。若い同行者がいてもそこが理解できない。ベテランだからゆっくりでもついてくるでしょう、というもんだろう。若い人に放っておかれてもいいように自分の命は自分で守りたい。

WEB版産経新聞から
2013.8.1 11:58
 長野県の中央アルプス檜尾岳(2728メートル)周辺で7月29日に発生した遭難事故で、県警は1日、死亡した男性4人を韓国人ツアー登山客の一員と確認し、氏名を発表した。

 県警によると、パク・ムンスさん(78)、イ・グンスさん(72)、パク・インシンさん(70)、イ・チョンシクさん(62)。イ・チョンシクさんは滑落で、他の3人は低体温症で死亡したとみられ、それぞれ別々の場所でみつかった。

 長野県の阿部守一知事は1日、険しく天候が変わりやすい日本の山の特徴を各国の政府関係者に伝えたり登山口に外国語のチラシを置いたりして、外国人登山客に注意を呼び掛ける意向を示した。外国人の遭難防止対策を話し合う県の検討会議も設置するとした。

 ツアーには韓国南部・釜山周辺で暮らす40代から70代の男女計20人が参加。空木岳(2864メートル)近くの山荘から檜尾岳を経由し宝剣岳(2931メートル)の山荘までの道中、悪天候で散り散りになった。

韓国人の中ア遭難事故の反響2013年08月03日

 インターネットでも大きな反響を呼んでいる。中にはこんな情報もあった。

「630 : <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん[sage] 投稿日:2013/07/31(水) 09:37:30.70 ID:sKYODNCu ?
今朝のNHKラジヲでたまたま(?)
山岳救助隊指導員の人が出演してて、

「11人がバラバラになったのが一番の問題ですが、報道には言えない理由がありまして」

とさらっと流してたけど、韓国人連中は一体何やらかしたの?

650 : <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん[sage] 投稿日:2013/07/31(水) 09:42:05.41 ID:BnvHyJkq ?
>>630
警察の取り調べで供述せざるを得ないし、どうせ記者発表されるのに
なにを隠しとんのや人が死んでんねんで

639 : ぱぱ ◆BWv2julAoY0T [sage] 投稿日:2013/07/31(水) 09:39:54.86 ID:2pXr0zKQ ?
>>630
あくまで伝聞・・・・

なんと40代の連中が70代の被害者の着衣を奪ったらしい。

641 : ぱぱ ◆BWv2julAoY0T [sage] 投稿日:2013/07/31(水) 09:40:36.33 ID:2pXr0zKQ ?
ソース元:救助隊近辺の人 」

以下は
http://www.news-us.jp/article/370942794.html
でチエック。

 中国人や韓国人は 溺れた犬を叩く、と言われる。

あるサイトから、「日本と中国、溺れた犬は棒で叩くのか、助けるのか。

2012年09月21日 | 国際外交の真実
★日本と中国・韓国との文化差。
「溺れた犬は棒で叩け」という中国と韓国。
それに対して日本は、「窮鳥、懐に入れば、これを助く」。
これは日本とアチラの決定的な彼我の差だな。

長い間、豊かな日本文化で育てられた、お人好しの日本人は、中国人や韓国人の思考法が理解できない。
相手を慮(おもんぱかる)助け合いの日本文化と、隙あらば相手の弱点を突き、止(とどめ)を刺そうとする弱肉強食の中国・韓国文化との違いが理解できない日本人。」

 こんな文化の違いを見ても、檜尾岳で弱った同行者の着衣(雨具)を奪ったという「伝聞」は真実味を帯びる。元山と溪谷社の社員だった節田さんは、トムラウシ遭難の事故検証をやられたが、死亡者の着衣については個人の秘密ということで検証させてもらえなかったそうだ。着衣は最後の生命線であり、重要な情報である。富士山で起きた雪崩遭難でも生還できた人の着衣はウールの下着であったことが注目された。以来ウールが定番化してゆく。メンテナンスや価格の問題もあって、今はポリエステルの極細繊維で吸汗、速乾機能下着が全盛である。
 今回も真相に迫ることなく、幕引きされそうだ。

 ブログ「韓流研究室」では、着衣の貧弱さを日本人の雨具と比較して槍玉にあげている。普段は、コメントはほとんど無いか、2,3件程度がこの遭難に関しては10件をカウント。
http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-2580.html

 ブログ「正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現」は普段は東亜の批判記事が多いが、今回の遭難事故もこの視点で紹介されている。コメント数は101件と反響が大きかった。
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5147.html
一部を転載すると
「山に対し火病を発症
>「韓国人はささいなことですぐ殴るから」

よくわかるよ、すご~くよくわかる(笑)

2013/07/31(水) 10:01:11 | URL | 名前を書いてください #- [ 編集 ]
早速のエントリー。仕事がはやいっwwww
夏場に低体温症で昇天とは。後悔しながらお亡くなりになったと見ますが、彼らの思想のなかに「自己責任」という4文字はないんでしょうね。
成果をもぎ取ればじぶんのもの、うまく行かなければ他人のせい。付きあうのはもともと難しい民族なのですから、今回の件を教訓に、厳しい規制をかけるべきでしょうね。とにかく、「自己責任」なのだということを念書でも何でもとって、分からせることから始めていかないとダメかもしれません。

山小屋での迷惑行為は、彼らのデフォなので当方から言うことなし。逝ってよしwwww
2013/07/31(水) 10:08:46 | URL | マツキヨ #- [ 編集 ]
山で遭難すると結構な捜索費用が掛かるのは日本人なら大概知っていること今回も支払いで揉めるんじゃないかと不安です
山小屋でも他の日本人に迷惑をかけているようだし本当に迷惑な連中。神社でもお寺でも温泉でも迷惑行為ばかり 。家族が箱根へ行ったら中国朝鮮人ばかりで不快だったので二度と行かないと言っていました 。結局韓国人観光客なんて日本人にとってはマイナスにしかならないと思います
入国禁止大賛成
2013/07/31(水) 10:09:20 | URL | トラトラ #- [ 編集 ]

 今後は、円安もあって日本への外人客が増えると思われる。観光客誘致にも熱心だが、コメントに見るように不評も多い。自然体で臨んで欲しいものである。ことさらに熱心な姿勢を見せると、今回のように韓国からの登山者に非常用携帯電話を持たせろ、との要求につながる。
地元紙には韓国の「恥さらし」と書かれたらしい。韓国に「恥」なんてあったのか、「恨」の国ではなかったか。

8月の俳句2013年08月06日

   天白川の夏
母と子の裸足で川に遊ぶなり

母は子の嫌がる魚をリリースす

子は叫ぶ魚取るまで川遊び

 ある夏の昼、天白川を渡ると橋の下から子供が叫んでいる。母と男の子の2人が川の中にはだしで入っていた。盛夏とはいえ、ガラスの破片で怪我しないかと心配。叫んでいた理由は母が子に魚を放せと促している。子供は嫌がっているのだった。しぶしぶ母に従って逃がしてやった。
 これを優しい心根と見るか。
 否。子供は大人に追いつこう、家族の一員として認められたい、と日々成長する。自然保護とか、放流とか今時は喧しい時代であるが、獲物をとってきた男の子を認めてやって欲しいものだ。
 父親はどうしたのだろう。こんな役目は父親だったはず。私は祖父と川に入り、鰻を仕掛けたり、白はえを取ったりして、夕飯のおかずに供した。それは内心家族の一員になれた喜びを味わったものである。親に養われる側から養う側への小さな体験。あの映画「ふるさと」でも祖父に連れられた男の子のイワナ釣りの場面が印象に残っている。
 現実的には(清流ではない)天白川の魚は食べられないから放そうね、と言ってたのかも知れません。

青草のたちまち刈られ河川敷

山鳩も土鳩もついばむ草刈跡

雷鳴のとどろき空を切り裂かん

ニッポンを襲うがごとき雷雨なり

この時とばかりに騒ぐ夏祭

うたかたの8月の夜や人恋し

何で咲く暑い盛りの百日紅(さるすべり)

水色にならばや紅き百日紅

映画『終戦のエンペラー』鑑賞2013年08月07日

 8/4(日)久々に映画を見に行く。名古屋駅前のミッドランドスクェアシネマにて。映画スペースに着くと、いきなりポップコーンの甘い臭いが鼻につく。逃れようのない臭いを我慢しながらチケットを買うと、すでに良い席は埋まっていて、スクリーンに近い席しかない。シニアと申し出て1000円を支払う。時刻どおりに館内に入ると意外にこじんまりしている。ほぼ満席であった。スクリーンと席の距離が近すぎて、近視のめがねに合わない。少し気持ち悪いのを我慢して約1時間半の鑑賞に耐えた。
 感想は可もなく不可もなくだった。クレジットには英語でENTERTAINMENTとはっきり出ていたから要するに娯楽映画である。歴史の秘話を描きたいのだろうが、結果は分かっているのだからそんなに面白い話でもない。だから演出する側はラブストーリーを絡ませた。
 ラブストーリーの部分で、清楚な美人女優・初音映莉子が好演している。島田洋子の若い頃にそっくりだった。私には初見で、こんな綺麗な女優がいるのは発見だった。あとはよく知られた名優らが脇を固めている。
 多くのコメントを参考に読んだが、押しなべてラブストーリーの部分が蛇足だの余計だのと評価は芳しくない。確かに話の腰を折るというか、歴史の秘話にどれだけ迫るのか期待する向きにはがっかりする。私もそのひとりだった。
 ただ、史実だけを追うならば、マッカーサーと昭和天皇が会見するだけで終わってしまう。事実は小説より奇なり、の奇の部分を期待するがそれは無理だ。
 昭和天皇は自分の発言の一言一句が歴史に残ることを意識された。ゆえに韜晦を貫いた。マッカーサーは後に『マッカーサー回想録(DOUGLAS MacARTHUR Reminiscences)』(上・下)ダグラス・マッカーサー著 津島一夫 訳 朝日新聞社発行 昭和39年 (定価上下各480円) 』の中の

「4 天皇との会見    (下巻pp141-143)

 私が東京に着いて間もないころ、私の幕僚たちは、権力を示すため、天皇を総司令都に招き寄せてはどうかと、私に強くすすめた。私はそういった申出をしりぞけた。「そんなことをすれば、日本の国民感情をふみにじり、天皇を国民の目に殉教者に仕立てあげることになる。いや、私は待とう。そのうちには、天皇が自発的に私に会いに来るだろう。いまの場合は、西洋のせっかちよりは、東洋のしんぼう強さの方が、われわれの目的にいちばんかなっている」というのが私の説明だった。
 実際に、天皇は間もなく会見を求めてこられた、モーニングにシマのズボン、トップ・ハットという姿で、裕仁天皇は御用車のダイムラーに宮内大臣と向い合せに乗って、大使館に到着した。私は占領当初から、天皇の扱いを粗末にしてはならないと命令し、君主にふさわしい、あらゆる礼遇をさきげることを求めていた。私は丁重に出迎え、日露戦争終結の際、私は一度天皇の父君に拝謁したことがあるという思い出話をしてさしあげた。天皇は落着きがなく、それまでの幾月かの緊張を、はっきりおもてに現わしていた。天皇の通訳官以外は、全部退席させたあと、私たちは長い迎賓室の端にある暖炉の前にすわった。
 私が米国製のタバコを差出すと、天早は礼をいって受取られた。そのタバコに火をつけてさしあげた時、私は天皇の手がふるえているのに気がついた。私はできるだけ天皇のご気分を楽にすることにつとめたが、天皇の感じている屈辱の苦しみが、いかに深いものであるかが、私にはよくわかっていた。
 私は天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴えはじめるのではないか、という不安を感した。連合国の一都、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろという声がかなり強くあがっていた。現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、天皇が筆頭に記されていたのだ。私は、そのような不公正な行動が、いかに悲劇的な結果を招くことになるかが、よくわかっていたので、そういった動きには強力に抵抗した。
 ワシントンが英国の見解に傾きそうになった時には、私は、もしそんなことをすれば、少なくとも百万の将兵が必要になると警告した。天皇が戦争犯罪者として起訴され、おそらく絞首刑に処せられることにでもなれば、日本中に軍政をしかねばならなくなり、ゲリラ戦がはじまることは、まず間違いないと私はみていた。けっきょく天皇の名は、リストからはずされたのだが、こういったいきさつを、天皇は少しも知っていなかったのである。
 しかし、この私の不安は根拠のないものだった。天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」
 私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽している諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである。
 天皇が去ったあと、私はその風貌を妻に話そうとしかけたが、妻はくつくつと笑ってそれをとめ「ええ、私も拝見しましたのよ。アーサー(注4)と私は赤いカーテンのかげからのぞいていましたの」といった。まことに珍しいことの起る世界ではある。しかし、どう見ても、ほほえましい世界であることは間違いない。天皇との初対面以後、私はしばしば天皇の訪問を受け、世界のほとんどの問題について話合った。私はいつも・占領政策の背後にあるいろいろな理由を注意深く説明したが、天皇は私が話合ったほとんど、どの日本人よりも民主的な考え方をしっかり身につけていた。天皇は日本の精神的復活に大きい役割を演じ、占領の成功は天皇の誠実な協力と影響力に負うところがきわめて大きかった。(注4) マッカーサー夫妻の令息 」

で明らかにしている。
当時の通訳官のユーチューブがあった。
http://www.youtube.com/watch?v=inE1DSH0jrk

 他に、映画の下敷きになったような記事があった。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Sensou/kaiken/sub_kaiken.html

 ある事実にラブストーリーを絡ませて膨らませる手法は昔からある。

 中河与一の『天の夕顔』は、事実は実の美しい姉に恋して、20歳位まで入浴していたほどだった。その弟が戦争に行くことになって姉と別れることを惜しんで中河に小説に書くように依頼したとされる。純愛小説仕立てになっている。

 井上靖『氷壁』は穂高で起きたナイロンザイル切断事件が社会的な広がりを見せる中で、ラブストーリーを絡ませた小説に仕立てた。

 主役のフェラーズ准将(マシュー)は、マックの下働き役なので、ラブストーリーがないと埋もれてしまう。マシューと初音の竹林の中での抱擁シーンなど如何にもアメリカ人の映画らしさは感じる。アメリカ人にとってバンブー(竹林)が日本にあるのはサプライズなんだそうだ。実際、あんな薮蚊の多そうなところで抱擁するカップルが居るものか。
 日本発の情報(原作は岡本嗣郎さん著「陛下をお救いなさいまし」)をアメリカが制作した。日本食にコーヒーがつくことがあるが、トーストに味噌汁はない。この映画は後者だと思う。要するにいくら食べても満腹感は得られず、違和感が残る。可もなく不可もないとする由縁である。

南アルプス・奥茶臼山(2473m)を歩く2013年08月10日

ご存知、日本三百名山の一つ。日本アルプスの多くの名山が営業小屋が出来たりして、利権の対象に堕落してゆく中で、この山はまだ観光的登山者を寄せ付けない野武士のような風格を保っている。

 奥茶臼山の西側に青木川(青木川→小渋川→天竜川)の源流が食い込んでいる。かつては青木川一帯を皆伐するために青木林道が整備された。登山するために林道の利用希望者がよほど多かったのか、ある所長は地元のタクシー利用を条件に許可していた。私が申し込んだときは所長が変わったという理由で許可されなかった。已む無く徒歩で延々10km以上はある林道を歩いて奥茶臼山に登ったのだった。

 それが南のしらびそ峠から尾高山を越えて、登山されるようになったのは時代の趨勢とういうものだろう。登山道が整備されたらしい、とは聞いていた。東京から来た登山者が、下山が遅くなり心配して遭難騒ぎになったことを聞いた。尾高山と奥茶臼山の間は踏み跡程度か、けものみちらしかった。それでもかえってファイトを沸かす人もいて、まず薮好きによって、赤い布や赤テープのマーキングが随所につけられるようになった。それを頼りに登山者が増えて踏み跡が濃くなってゆく。営林署か、地元の愛好家、登山グループかは知らないが、風倒木をチェーンソーでカットして通過を助けたりして、整備が進む。

 今はしらびそ峠の登山口に奥茶臼山まで8km、4.5時間などと案内の看板が建っている。名古屋を出たのは朝2時50分で、ここに着いたのは6時半ごろになった。寝不足でぼーっとして飯田ICを通過してしまい、不本意にも松川ICで降りた。R153まで下って南下し、天竜川の左岸に渡る。喬木村から小川川にそう地元の道を辿って、矢筈トンネルまで来るとR474になる。山中に似つかわしくない高速道路規格のトンネル潜るとR152に合流。ここからは案内板も増えて迷わなくなる。エアコンを切って、窓を全開にすると寒いくらいの冷涼な高原の峠に着いた。夜発で来るのはちょっと大変な道中である。

 到着すると車は数台あった。ここからの南アルプスの大観が素晴らしいがすでに高く登った太陽の逆光でうすもやがかかっている。名古屋、横浜、などのみなさんは出発してゆく。聞くと尾高山らしい。尾高山はマイナーな山であるが、以前、80歳代の作家・田中澄江が4時間かけて登山したと聞いた。

 7時10分、気合を入れて出発。いきなりの急登で始まる。右自然林のしらびそか、左は落葉松の人工林で、林床には小笹がびっしり生えて美しい。そんなところに白いセンシュガンピが顔を見せる。尾高山への登山道は、ゴミ一つない。近年のガイドブックで知られて登られるようになったにしては清潔に保たれている。
 途中で、尾高山まで何キロという案内板が親切過ぎる。ビューポイントまで設けられている。この山への期待(来たい)の一つには南アルプスの展望があるはずだ。そんな配慮であろうか。奥茶への長丁場を考えて立ち寄りは一箇所のみとしてひたすら登ることにした。2089mポイントを通過。ここから下り、登りを繰り返して、尾高山に着いたのは丁度1時間半後だった。
 頂上といっても絶頂感はなく、尾根の途上のコブである。北西に地蔵峠への尾根が派生するが、踏み跡は見なかった。ビューポイントもあったがパス。更に奥へと進む。小さな岩場から北に聳える奥茶のビューポイントがあったが先を急ぐ。だらだら下って原生林の中を歩くが、植生の変化はほとんどない。独立標高点2296mに着く寸前に真坂と思った下山者に会った。初めて人に会ったとその若者が言った。名古屋から来たという。この若さでこんな渋い山を好きなのは珍しい。相互の無事を祈って別れた。
 山頂には奥尾高山の山頂標があった。山名にはハングル文字もあった。韓国人にも日本三百名山完登を目指す人がいるのか知らん。小休止。水を呑んだり、行動食をつまむ。
 また赤テープに導かれて踏み跡を追う。こんなマーキングがなくても歩けるが、判断ミスは減るだろう。尾高山から北は尾根歩きというよりも、広い山稜を歩く感じがする。普通には山頂が近づくと尾根は狭くなる経験則があるが、逆に広くなる。今日は快晴だからいいが、ガスでもかかっていたらやっぱり恐い気がする。
 しらびそ、とうひといった原生林の森の中の彷徨である。広い山稜では踏み跡はまっすぐではなく、倒木を避けたりしてまがりくねっている。痩せ尾根であれば、踏み跡もきれいにつくが、さすがに乱れているところもある。要所要所の赤テープに救われる形で踏み跡を辿る。絶頂感を得られないまま、2269mの独立標高点に着いた。岩本山である。何のことはない、奥尾高山に比して3mしか稼いでいないとは。登り甲斐のない山である。
 2296m(岩本山)からはさらに等高線が緩んで、恐いような空間の広がる樹林の中の彷徨を続ける。青木林道は真西まで登ってきているし、錆びたワイーヤーロープも見たから伐採の現場だったかも知れない。
 しかし、登頂への予感はある。疲れた体に鞭打つように高度を稼ぐ。標高2300m、2354mと来て、後は一気に高みへの登高が待っていた。立ち枯れの森の一角からはここが紛れもなく南アルプスであることを実感する。赤石岳、聖岳のジャイアンツが高度感で迫る。景観に後ろ髪引かれる思いで、更に踏み跡を辿るとまた樹林の中に入り、絶頂感のある奥茶臼山に着いた。北西にはさわやかな緑の岳樺があり、周囲の景観は得られない。11時20分。登山口から4時間10分の行程だった。
 人の気配がするのではっと振り返ると若い人が登ってきた。彼も名古屋の人だった。40歳代という。2時間40分だったそうで、えっというほど早い。韋駄天走りのように歩いてきたのだろう。しばらく歓談の後、ともに12時ジャスト、山頂を去った。
 下山も後姿を一度も見ることはなかった。悔し紛れに言うわけではないが、あれでは何も見ていない、ただただ体力を消耗するために歩いているような。いやいや自分も40代のころは同行者に嫌われるほど早く歩いていた。若いということは浪費であり、徒労であろう。
 2296mへは45分であった。奥尾高山を経て、尾高山までは疲労感が募ってペースダウン。尾高山の岩場にあるビューポイントで休憩。奥茶を眺められる唯一のビューポイントである。たしかに遠い山だと実感する。遙かなる奥茶だった。
 尾高山を懐かしくも通過した。ここから先はよく整備された登山道である。しかし、太股の筋肉は相当な疲れをためていて先を急げない。ゆっくり転倒しないように下る。2089mで小休止。右手に人工の落葉松を見るとほっとする。登山道からはしらびそ山荘の建物が見えた。山中の御殿かと思うような立派なホテルである。
 しらびそ峠には15時40分着。3時間40分かかった。峠は暑かった。今朝の冷涼さはなく、街の炎暑まで登ってきたかに思った。山荘まで走ってドリンクを飲んだ。立て続けに2本飲んだ。
 飯田市までまた山岳路のドライブが始まった。かつては小川温泉という湯があったが閉鎖されていた。途中、JAの店で、名物の鯉の煮物などを買う。信州の味である。一風呂浴びることもなく高速へ向かう。帰宅後、鯉の身をつつきながら、メダボ腹を気にしながら缶ビール500ミリリットルを空ける。久々に手応えを感じた登山だった。

登山と熱中症2013年08月11日

 昨日の奥茶臼山から下山後、飯田市が異常に暑かった。今日の新聞では、38.6℃も上昇していたことを知った。熱中症で運ばれた方も今日だけで14人もいたという。
 奥茶では登山口から山頂まで樹林の中で、直射日光は射さない。それで助かったのかも。着ていたのはポリエステルのTシャツだった。これは首周りの熱が逃げないので暑く、タオルで汗を拭き拭き登った。水分補給もしっかり。水1㍑、お茶500ミリ㍑、ほかにジュース3個などで2リットル以上は持った。1時間歩いて休む度に、水を少し含み、ジュースを飲んだ。衣服は開襟タイプがいい。
 登るときは時間を気にして飛ばした。12時までに登る。12時までに着かないなら中途下山する、とした。それだけに下山では、体力を消耗したせいか、ペースダウンせざるを得なかった。
 標高はずっと2000m以上をキープ。下界が38℃でも、1000mにつき6℃低いから、25℃前後と見られる。時折吹く風が大変心地よい。
 下山後、しらびそ峠(標高1900m)のPに停めた車内においた家庭用温度計は40℃(午後3時40分頃)を突破していた。
 下に転載した予防8ヶ条では一覧表がコピーできないが、25℃は警戒レベルとされて、積極的な休憩をとることをアドバイスする。21℃以上では積極的な水分補給がアドバイスされている。28℃以上は厳重警戒で激しい運動は中止せよ、という。31℃以上は運動中止という。
 以上から私の登山行動を振り返ると理にかなっていたことが分かった。要するに頑張らないことだった。休むということは体温を下げることなのである。

大阪府山岳連盟
中高年安全登山啓発グループのサイトから転載。

登山中の熱中症予防8ヵ条

1 知って予防をいたしましょう熱中症

熱中症とは、熱い環境で生じる障害の総称で、次のような病型があります。
 1) 熱失神:皮膚血管の拡張によって血圧が低下、脳血流が減少しておこるもので、めまい、失神などが見られる。顔面そう白となり、脈は速くて弱くなる。
 2) 熱疲労:脱水による症状で、脱力感、倦怠感、めまい、頭痛、吐き気などがみられる。
 3) 熱痙攣:大量に汗をかき水だけを補給して血液の塩分濃度が低下した時に、足、腕、 腹部の筋肉に痛みをともなった痙攣がおこる。
 4) 熱射病:体温の上昇のため中枢機能に以上をきたした状態で、意識障害(応答が鈍い、言動がおかしい、意識がない)が、おこり死亡率が高い。

2 暑いとき、無理な行動は事故のもと

熱中症の発生には気温、湿度、風速、輻射熱(直射日光など)が関係します。
これらを総合的に評価する指標がWBGT(湿球黒球温度)です。同じ気温でも湿度が高いと危険性が高くなるので、注意が必要です。また運動強度を上げるような速度で登ると熱の発生も多くなり、熱中症の危険性も高くなります。
暑い時は無理をせず、環境条件に応じた行動、休憩、水分補給の計画が必要です。

3 急な暑さは要注意

暑熱環境での体温調節能力には暑さへの馴れ(署熱馴化)が関係します。熱中症の事故は急に熱くなったときに多く発生しています。初夏の頃や夏山の第1日目には事故が起こりやすいので要注意です。
また、夏以外でも急に暑くなると熱中症が発生することがあります。急に暑くなった時には適度に水分補給の休息をとりながら、ゆっくり登るように心がけましょう。山に出かける前に短時間の運動から徐々に増やすトレーニングをして暑さに慣らしておきましょう。

4 失った水と水分を取り戻そう

汗は熱を奪い、体温が上昇するのを防いでくれます。しかし失われた水分を補わないと脱水になり、体温調節能力や運動能力が低下します。暑いときには、こまめに水分を補給しましょう。汗からは水と同時に塩分も失われます。水分の補給には0,2%程度の食塩水かスポーツドリンクが有効です。

5 体重で解る健康と汗の量

毎朝起床時に体重を量ると疲労の回復状態や体調のチェックに役立ちます。
また、運動前後に体重を計ると運動中に汗などで失われた水分量が求められます。体重の3%の水分が失われると運動能力や体温調節能力が低下しますので、運動による体重減少が2%を超えないように水分を補給しなければなりません。

この点をよく理解して山では特に登り行程、気温、直射日光などその時の状況に合わせ、マメに小休止をとり手遅れにならないように水分の補給をいたしましょう。

6 衣服は暑さ対策をしてさわやかに

皮膚からの熱の出入りには衣服が関係します。暑いときには軽装にし、素材も吸湿性や通気性のよいものにしましょう。直射日光を長時間受ける場合には帽子を必ず着用、首筋に直射日光を当てると疲労を速めるのでタオル等で覆うとよい。また半袖シャツより長袖が有効(半袖に腕カバーして、木陰で外すようにする方法もある)休憩は木陰など風通しのよいところで、リュックを降ろし衣服を緩めて、できるだけ熱を逃がしましょう。

7 体調不良は事故のもと

体調が悪いと体温調整能力も低下し、熱中症につながります。疲労、発熱、かぜ、下痢、二日酔い、貧血など、体調の悪いときには無理をしないことです。
体力の低い人、肥満の人、暑さに馴れていない人、熱中症をおこした人などは暑さに弱いので注意が必要です。

8 あわてるな、されどいそごう救急処置

万一の緊急事態に備え、救急処置を知っておきましょう。
 1) 熱失神、
 2)熱疲労は涼しい場所に運び、衣服を緩めて寝かせ、水分を補給すれば通常は回復します。足を高くし、手足を抹消から中心に向けてマッサージするのも有効です。吐き気や嘔吐などで水分補給ができない場合には病院に運び、点滴を受ける必要があります。
 3) 熱痙攣は生理食塩水(0,9%)を補給すれば通常は回復します。
 4) 熱射病は死の危険のある緊急事態です。体を冷やしながら集中治療のできる病院へ一刻も速く運ぶ必要があります。いかに速く体温を下げて意識を回復させるかが予後を左右するので、現場での処置が重要です。
体温を下げるには、水をかけたり濡れたタオルを当てて防ぐ方法、頚、腋の下、足の付け根など太い血管のある部分に氷やアイスパックをあてる方法が効果的です。(山で代替方法として冷たい水とタオルしかない)
循環が悪い場合には、足を高くし、マッサージをします。
症状としては、意識の状態と体温が重要です。意識障害は軽いこともありますが、応答は鈍い、言動がおかしいなど少しでも異常がみられる時には重症と考えて処置しましょう。

WBGTとは
Wet Bulb Globe Temperture(湿球黒球温度)
とは人体の熱吸収にかかわる環境因子(気温、湿度、輻射熱、気流)のうち、特に影響の大きい湿度、輻射熱、気温の3つを取り入れた指標です。乾球温度、湿球温度と黒球温度の値から下記の式で計算されます。
参考資料:熱中症予防ガイドブック (財)日本体育協会

黒部の山旅Ⅰ2013年08月18日

黒部川から赤木沢にへつりで入ってゆく
 8/14の午前1時過ぎ、名古屋を出発。炎昼を避けて深夜発は車が少なく、山間部ではエアコンを切って走れる。午前3時、ひるがのSA着。2時間ほど仮眠。5時出発し、富山ICから地方道を経て折立へは7時半着。マイカーで溢れかえっている。こんなに多いのは初見だ。一旦奥まで走ると、バスの終着地点から右へ400m先に臨時のPがあると案内されている。未舗装路をはしる。どこも満杯だが、溝を跨いで何とかとめられた。マイカーを止めるだけで一苦労である。
 折立を8時丁度に出発。北アルプスの山の中では、もういつものコースというほど歩くようになった。十三重の塔に一礼し、安全祈願。今日は単独である。樹林の中の曲折のある山道を登る。三角点まで登ってやっと端緒についた感がある。ここからが長い。樹林は喬木から低木になり、やがて笹原の広がる山稜を行く。先月末、薬師登山の際は、百花繚乱というほど咲き乱れていた花は今は所々にあるのみだ。周囲の眺めはいいが、直射日光の当たりもきつい。但し、まだ多少は涼しい。
 太郎平小屋へ着く。大勢のカラフルな衣装の登山客で大混雑している。今年の傾向は女性の短パンにタイツスタイルはフツーになったが男性も若い人を中心に増えた。珍しくない衣装になった。何といっても登山客が若返った感じがする。中高年も居るには居るが、もう多数派ではないという気がした。
 それにキャンプ志向があるせいで、大きなザックスタイルが多いのも特徴である。バックパッキングというのか、雑誌でいえばビーパルを読んでいる層が山に登ってきたのだろう。
 ここでつい缶ビールを買って飲んでしまった。500ミリ㍑缶を注文したが、350に変えた。まだこの先2時間はあるからだ。
 12時過ぎ、太郎の小屋を出発。木道を摺り足で歩く。薬師沢が落ち合う処までは急転直下の感じで下る。沢の音を聞きながら、やや平坦になった山道を歩く。第二渡渉点で、右又を渡り、第三渡渉点で左又を渡ると、道と沢が乖離して、山道は右岸を高く巻くように歩く。湿原、小さな沢をいくつも横切る。標高が低くなると、また針葉樹の中の道に入る。枝の垂れ下がった現象はそこが長いあいだ雪に埋まっていた証拠というから目測で数メートルはある。豪雪地帯である。
 樹林帯の中でも小さな沢を横切る。標高がドンドン下がって行く。薬師からの東南稜の末端が薬師沢と黒部川の落ち合う辺りである。そこに薬師沢小屋がある。そこまではまだ少しある。やがて湿原の中の木道を歩くようになる。少雨のせいか、湿原らしくない。大勢のパーティとすれ違いながら行くと、尾根が狭まった。左右が切れ落ちた痩せ尾根を下ると小屋の屋根が見えた。14時、小屋に着いた。すでに多くの登山客が休んでいた。
 小屋に入って宿泊を申し込む。宛がわれた寝床は2段の上で、今夜は2人のスペースに3人で寝てもらうそうだ。窮屈を我慢して場所を確保。しばらく横になって寝不足を解消するために休む。食事は5時からなので、ここでも缶ビールを購入。500ミリ㍑で800円也。山間でボッカに依存しているからだ。それでも飛ぶように売れて、お一人様1個と制限を希望される。
 夕食はベーコンの柔らかい肉片2切れに刻みキャベツ、リンゴ1片などの簡素なメニュー。昔は山小屋といえばカレーしかなかったが、ヘリコプターで空輸が出来るようになって多少は贅沢になった。客が多い小屋では、生ビールまで供せられる時代である。ご飯は米どころ富山のお陰か、大変美味い。このお米なら私はむしろカレーを希望する。 
 夕食を済ませるともう後は明日に備えて寝ることが仕事になる。気温は不明であるが、Tシャツ1枚で少し涼しい。標高は1912m。下界の夜の気温を30℃とすると、約12℃は低いだろう。18℃くらいか。別天地である。

黒部の山旅Ⅱ2013年08月19日

水脈細る祖父沢の源流部
 8/15、朝4時半起床し、5時には朝食。5時40分には沢歩きの身支度を終えて出発できた。少し前に赤木沢を遡行する中高年のパーティが先行していった。今日の目的地は三俣小屋である。そこへ行く登山道は、黒部五郎岳を経由する、雲の平を経由するしかないが、私は黒部川の遡行を選んだ。2009年に上ノ廊下を突破し、薬師沢を遡行して、源流が残ったからだ。
 黒部川源流部には滝や碧淵はないらしい。それでも低温対策はしっかりやった。撥水タイツ+ナイロンのズボン+雨具のズボン+沢スパッツで足もとを固めた。
 薬師沢出合から赤木沢出合までは水量も多く、水勢もある。渡渉には気を使う。周囲は黒々した針葉樹の森が広がる。度々の氾濫で広がった河原歩きである。1時間ほどで、赤木沢出合いの手前の難所についた。以前の赤木沢遡行の学習効果でここは難なく突破できた。出合いはそのまま通過するには惜しい美しい河川美がある。
 6時50分に出合い着。源流と赤木沢の力関係は明らかに2対1で源流が優る。源流には出合いの少し下流に丁度天然の堰堤がある。それで源流は腰くらいの深さの淵ができている。赤木沢の方も単純な出合いではなく、深い淵になって、左岸をへつって溯る。源流と支流が一体となる淵の自然美になっている。ここでは遡行者の大半が記念写真を撮る。私も撮ってもらった写真をPCの起動画面のバックにしている。涼を呼ぶ写真である。
 7時10分。さて源流に向かうのはいよいよ私だけとなった。出合いの深い淵は右岸をへつり、あるいは深みを歩いて溯った。大体、腰くらいの深さはある。そこを突破すると再び河原歩きの世界になる。右岸左岸を渡渉しつつ溯る。
 8時3分、上流から細身の女性と男性が下ってくる。こんなところで人に会うとは!彼らは雲の平キャンプ場から祖父沢(じじさわ)を下降し、これから赤木沢を遡行するという。
 8時30分、小屋から3時間ほどで右から五郎沢の出合いになる。黒部五郎岳から流れている沢ではっきり分かる。地形図には2057mとあり、薬師沢小屋の1912mから145mの比高であるからいかに緩やかな傾斜か分かる。右岸には祖母沢の出合いらしいのが見えるところで地形確認を兼ねて休む。

 すると、空から白い綿毛が舞っては川に落ちている。あれは?柳絮だろう。これが風媒花というものだろう。町では春の季語であるが、高山では8月になる。ネットで見ると山岳俳人と呼ばれた前田普羅は柳絮の句を残している。普羅は自然を直視した俳人だったのだ。若い頃は植物研究会にも入っていたから詳しいわけだ。
 尾根を越す柳絮の風の見えにけり 普羅
 人に来て人に触れざる柳絮かな   普羅
 ひとすぢの柳絮の流れ町を行く   普羅
 ある時は柳絮に濁る山おろし     普羅 

 八月の黒部の奥の柳絮かな     拙作
 初秋や柳絮舞い落つ奥黒部     拙作

黒部の山旅Ⅲ2013年08月20日

祖父岳の麓をトラバースして黒部川源流に下るところから三俣小屋が見えた
 思わぬ柳絮の饗宴に見とれて時の過ぎるのも忘れていた。パンを一個食べ、バナナを1本食べた。空腹を覚える前にカロリー補給だ。さて腰をあげて、出発である。祖母沢の入り口はやや薮っぽい感じがした。次は二俣に分かれたが、右を源流と見て入渓する。するとぐんぐん高まって、左の祖父平が目下に見える。源流だから当然であろうが、予め地形図でシュミレーションした目には不安が募る。源流といえども祖父沢とは同じ位の高度で登ってゆくはず、だったからだ。つまり祖父平の蛇行をイメージしていた。その後に分流すると。
 それで、9時30分、出合いまで戻って祖父沢に入渓してみた。イメージ通り蛇行しながら溯ってゆく。よし、と奥まで行くと急に立ち上がり、休憩を兼ねて地形図と地形をチエックすると、向うには黒部五郎岳から張り出すギザギザの支稜が見えた。 そして周囲を見回すと、なんと赤茶けたがけ崩れになっている。この崖は地形図にも表現されていた。地形図で祖父沢と印刷された辺りである。
 どうやら間違いなく、(本当は間違って)祖父沢に入ったのだ。源流に戻って遡行し直すか。迷ったが、体力の消耗を考慮してそのまま遡行を続けた。沢は狭まり、周囲の黒い針葉樹から明るい緑の岳樺の中を溯る。すると、段々、視界が開けてきて、草原になり、いよいよ水脈(みお)細る感じになった。沢にはビールの空き缶、ビニールのゴミがあり、上流は間違いなく雲の平キャンプ場との確信を得た。ゴミも道標とは悲しい。
 明るく開放的な草原に咲く風露草が美しい。かつてはキャンプ場全体が緑の草地に覆われていたはずである。今は人の干渉を受けて裸地になっている。これを傷だらけの、とか、自然破壊とは言うまい。
 水脈は絶えることもなく、キャンプ場にはロープが張られて、区切られていた。そこを跨いで突っ切り、キャンプ場上部の登山道と迂回する登山道との合流地(標高2500m)に着いた。溝は残雪の解けた水で潤っている。
 合流地からしばらくで岩苔分岐に着く。左折すると祖父岳を経て岩苔乗越だ。直進すると、祖父岳の等高線通りに平坦地を歩く。少しづつ緩斜面になり、最後は急転直下で源流に下る。約2400mの源流を渡る。源流には残雪が一杯詰まっていた。ここにはロープが張ってあり、増水時には捕まって渡れ、というのだろうか。
 渡ると美しい草地が何処までも続く。左の鷲羽の山腹から残雪の融水がとめどなく流れて沢になっている。黒部源流の碑を見て、しばらくは水平に歩くと、鞍部からの沢を渡り、左岸側の道を登っていく。三俣蓮華岳と鷲羽岳の鞍部は単なる鞍部ではなかった。全体が箱庭的な高原になっていた。三俣蓮華の北面には相当な残雪がある。その融水が美しい緑の平坦な高原を形成していた。
 キャンプ場は三俣蓮華側にあり、三俣山荘は鷲羽よりに建っていた。その向うには槍穂高連峰が惜しげなく聳えている。北アルプスのシンボルというにふさわしい。キャンプ場は若い男女で賑わっていた。まるでマイカーで駆けつけてきた感じの華やいだ雰囲気がある。
 天上の恋のカップルが幾組みもうまれそうな予感である。
 三俣小屋には15時35分着。三俣小屋は食堂が2階にあり、瀟洒な山荘であった。宿泊の手続きをすると棚の2段上を宛がわれた。二日目の夜を迎えた。

   山の民俗余話ー奥黒部の地名・山名談義

 祖父沢を最初は知らなかったからソフ(ブ)サワと読んだ。太郎平小屋オーナーの五十嶋博文氏は黒部に精通した人である。彼はヂヂサワと言われた。とすると祖父岳はヂヂダケである。ウィキペディアでは「じいだけ」という。

 愛用の語源辞典『地名の語源』にはヂヂはない。但し、ババはある。(1)崖、(3)広場、(4)山上の平坦地とある。用例としては馬場を当てる。祖母平はババタ(ダ)イラか。竜ヶ馬場、猿ヶ馬場など。雲ノ平の一角に祖母岳があるが、ババダケだろう。祖父岳があるから対抗して祖母岳になったわけではなく、ちゃんとした意味があったのだ。これもウィキペディアでは「ばあだけ」と呼ぶ。

 日本百名山で有名な祖母山(ソボサン)は「信仰の山で豊玉姫命の祠を祀ってある。豊玉姫命は、神武天皇の祖母にあたるので「祖母山」の山名になった。」という。

 祖父の話に戻る。意味は(1)水さび、サビ、シブと同類。鉄分で濁っている所。用例として、祖父江(ソブエ)、赤祖父川、祖父岳、蘇夫岳など。
 通りで、祖父沢の崖が赤茶けていたわけだ。あれは鉄分の色だったのか。赤木沢の赤も鉄分の意味かな。他に赤牛岳、南アには赤石岳がある。赤牛岳は確かに赤茶けた色で分かりやすい山名である。

 シブというと長野県伊那谷に小渋川がある。川沿いには温泉があった。八ヶ岳には渋の湯もある。兵庫丹波に蘇武岳があったが、あれはどうか。

 黒部川には金作谷、岩苔小谷というように谷名があるが少数派だ。谷は西日本の呼び方である。東日本に多いといわれる沢名が多く見られる。これは関東の人間が入り込んだともいう。東沢谷は一体どっち側がつけたのだろうか。
 信州の狩人や漁師あるいは樵は信州側から黒部川の奥に入り、岩魚を獲り、木材を盗伐したのだろうか。それを防ぐために世襲制で黒部奥山廻りを編成して見回ったらしい。いわば信越の地名交雑のルツボになったのだろう。

黒部の山旅Ⅳ2013年08月21日

鷲羽への途中から見える槍穂高連峰と鷲羽の池
 8/16も快晴である。三俣山荘はよく眠れた。快適な小屋だった。槍ヶ岳がよく見える。今頃は多くの登山者が行列を作っているだろう。5時22分に小屋を出発し、鷲羽岳に向かう。最初は背丈ほどあるハイマツの海の中を歩く。鷲羽乗越に下り、鷲羽岳への登りが始まる。風衝地の所為か、もはや草木は生えず、ガレの上のジグザグの登山道である。急速に高度を上げて、6時50分、約1時間半で登頂である。
 山頂は360度の大展望である。鹿島槍の双耳峰は良くわかる。薬師は朝日を浴びて雄大な山容を誇る。黒岳は存在感がある。黒部五郎岳はバランスのとれた山容がいい。笠ヶ岳は端正な姿である。槍穂高連峰は北アルプスのシンボルであり、鷲羽もかなわない風格がある。北アルプスを睥睨する山である。遠く北は白馬岳が霞み、黒岳の肩越しに立山剱岳、南は御岳も見えた。北アルプスの中心に立つ気がした。越中側から登れば黒部の最奥の山であった。
 遙々と黒部川を遡行してきた。眼下に広がる黒部源流と草原の台地、黒木の森林がある。きらめく水の流れを溯ってきた。
 7時45分山頂を辞す。ワリモ岳を経て、ワリモ分岐、岩苔乗越へは8時22分着。2009年の読売新道縦走では風雨のために、ここで鷲羽往復を断念した。祖父岳に登り、雲の平山荘へは10時半着。この山荘は天水に頼ると言う。500円のコーヒーを注文して大休止する。雲の平を辞して、木道を足早に歩く。雨が降らないために折角の高層湿原の風情が失われていた。湿地がひび割れていた。
 13時25分に薬師沢小屋に到着。これで一周したことになる。今日の内に太郎小屋を経て折立に行くにはきついのでもう一泊とする。

  山名夜話ー鷲羽岳と三俣蓮華岳の山名談義

 戦前の『山と溪谷』六七号(昭和一六年)に山岳史家の中島正文は「二つの鷲羽嶽」という論考を投稿した。要旨は鷲羽の池のある二九四二mの鷲羽嶽と飛騨、信濃、越中の三国境にある二八四一mの鷲羽嶽、そして「少々遠慮して三俣蓮華嶽といふ小さい別名を添付して居る」と指摘した。
 彼は黒部奥山廻り役の研究家であったからこんなことを見逃すわけにはいかない。実は三百年も前の史料に「鷲ノ羽ヶ岳、三国のからみ」と明記されているというのだ。現在の鷲羽嶽は東鷲羽嶽と呼び、鷲羽の池も単に池と呼ばれ、のちに龍池となり、東鷲羽嶽も龍池ヶ岳と命名される変遷を説いた。
 明治四十三年に日本山岳会の小島烏水らが信州側の猟師を伴って近代登山の時代が来るまでは三国境は鷲羽嶽、現在の鷲羽嶽は東鷲羽嶽で定着していたのであった。
 大正四年の地形図には正しい山名が記載されたが上条嘉門次の説明をもって陸地測量部に間違いだとして攻撃したことがあったという。日本山岳会の大御所からの攻撃を受けて昭和五年には現在の山名になり、そのまま定着したのである。おさまらないのは富山県側の役所であった。公文書には三俣蓮華嶽の山を鷲羽嶽とせねばならない。括弧書きは苦し紛れの処置だった。そこで池のある鷲羽嶽は認めてしまった結果地形図の中に二つの鷲羽嶽が記載されたという顛末である。現在はその括弧書きもとれて、三俣蓮華岳になった。
 後年深田久弥は『日本百名山』の鷲羽岳にこのエピソードを紹介している。目分量で、60%から70%は山名のエピソードに割いているから如何に紹介したがっていたことか分かろう。
 中島正文の母は黒部奥山廻り役の古文書を読解して息子に聞かせたという。根っからの山岳史家だったのだ。