登山とヘルメットを考える2013年07月01日

 6/29から6/30にかけて名古屋駅前のウインク愛知で開催された中部経済新聞社の「第1回夏山フェスタ」は成功裡に終わった。関係者からの情報によると、なんでも4000人以上の入場者があったらしい。

 6/30は御在所の藤内で岩登りのトレーニングに出かけたが、雨で、藤内小屋から引き返した。一旦帰宅後、再び会場入りしたが、30日も混雑した。

 この間のセミナーで得たのはやっぱり山岳遭難の事例である。

 6/29は三重岳連の居村氏が、鈴鹿山系の事故例を示された。その中で印象に残ったのは、初夏の頃の鈴鹿では照葉樹林の落葉が登山道を埋めているという指摘があった。照葉樹林の葉は脂分を含むので凍結した雪面以上に滑りやすいというのである。

 こんな指摘はこれまでにないので、新鮮な情報提供であった。鈴鹿は南北に長く、中央部以南の低山帯では照葉樹林帯が残る。このことは登山教室で使うテクストにも反映させるように話をした。 

 確かに、私も捜索で庵座谷道を歩いた際、滝の手前の小峠の手前が滑りやすかったのでその周辺をよく見回した。6/9に発見されたときは消防署員を案内して中尾根を登ったが、この際も落葉の上で滑りやすい箇所があった。
 滑落は不意に起きるので、事故を想定してヘルメットの着用が望ましいと思った。

 6/30にも、長野県警の山岳救助の現場の人が、豊富な写真を用いて遭難例を示されたが、稜線から150m転落すると、頭蓋骨、顔面が傷だらけになる。リアルな写真に驚かされる。もう一方は、ヘルメットを着用していて、無事に救助された例も印象的だった。両足骨折というにも関わらず、ヘルメットで脳が守られて、意識があったこと、ザックとウェストベルトをしていたお陰で背骨を骨折せずに済んだこと、などが説明された。転落すると岩だらけの谷をゴムまりのようにもんどりうって落ちるようである。ヘルメットなしではひとたまりもない。

 長野県警では一般登山者にもヘルメット着用を呼びかけている。
http://www.pref.nagano.lg.jp/police/sangaku/jouhou/hel.htm
このサイトの写真が、セミナーでも使用された。

http://www8.shinmai.co.jp/yama/article.php?id=YAMA20130615001282

 岩登り、沢登り、冬山では常識装備のヘルメットであるが、いよいよ、夏山の一般登山者にも広がりを見せつつある。私は沢登り10年以上で、今、二つ目を使う。数年で傷だらけになって買い換えた。一般登山では消耗することもなく一生ものであり、保険料として買うことがいいだろう。

 会場で配布された500円のクーポン券を使おうと、早速、駅前アルプスにヘルメットを見に行ったが、サイズがない、金額が高いこともあり見合わせた。
 私は沢をやる際には工事用ヘルメットで間に合わせている。これで充分か。1500円程度。登山用はおしゃれだが6000円から10000円位。但し、岩をやる人は工事用ヘルメットは前に張り出した部分が登攀の邪魔になるとかで、張り出しのない形になっている。沢では特に不自由ではない。
 同じ悩みを相談する人の回答は
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10107567645

 遭難者の多くが単独行という指摘はなかった。むしろ、道迷いという原因に力点が置かれた。その結果として転落、滑落になるようだ。何があってもいいようにヘルメットの着用が頻繁に呼びかけられる時代になりそうだ。転落して五体不満足でも脳が守られれば、救助を待つことができる。

 1年でも長く山を楽しむためのヘルメット着用はコスト以上のパフォーマンスがあると思う。

登山とヘルメットを考える2013年07月03日

やまたろうさん、コメントをどうも

風を切って走る自転車用は中々機能的ですが、夏熱く雨の多い日本の山ではいかがなものでしょう。私は額にタオルを巻いて汗止めし、上にヘルをかぶります。但し、人の多い有名山岳でこんなダサい格好ではどうも気が引けます。笑
駅前アルプスさんの話では外国人は頭が小さいらしい。おしゃれなものはみな輸入品とかで私の頭には小さすぎた。日本人向きのサイズが欲しいです。登山靴でも昔は靴に足を合わせていたが、ヘルはそんなわけにはいかない。

吟詠!冠山紀行2013年07月04日

徳山を刻む碑登山口

尖頂に攀づ登山綱持ちて攀づ

頂上や青嶺波濤のごとく見ゆ

梅雨晴れや青嶺果て無し美濃の奥

この一滴が揖斐川の水夏の山

わが臭いより呼び寄せる夏の虫

白山の尾につながるやキスゲ咲く

誰からも愛されず咲く夏アザミ

日陰こそ銀竜草の住みかなり

夏の霧ブナの林を流れけり

大輪の朴の花咲く国境

緑陰に二人並びて休むなり

ブナに書く文字みな古りし夏木かな

万緑や湖蒼く満たされし

夏座敷鮎三昧の料理かな

加藤則芳『ロングトレイルという冒険』を読む2013年07月14日

 JACの会報「山」で紹介された節田重節氏の”ロングトレイル・ウォークのススメ”という論考が気になっていた。その中に紹介された日本におけるロングトレイル文化の提唱者・加藤則芳氏をググると今年4月に難病で他界していたことが分かった。1949年生まれだから同世代である。生前に氏が薀蓄を傾けて残したのが表記の本だった。

 読後感として、個人主義、ピューリタニズムの横溢する内容にこれじゃ日本には根付かないぞ、と思った。
 「歩く」から「歩く旅」へという。それはいい。ソローまで紹介されては哲学的過ぎる。日本的な旅とは、聖人君子の旅ではなく、大衆の旅、例えば「えじゃないか」というような娯楽と観光と社会運動の入り混じった旅のイメージがある。

 日本に外来思想の仏教が根付いたのは、何だったのか。神仏習合という言葉がある。仏は神の生まれ変わりと言う理解の仕方がある。仏教でも小乗ではなく、大乗仏教が根付いたのは、大衆文化の基盤があったからだろう。キリスト教は普及しなかった。一神教に馴染めなかったからだろう。同じことはアラーの神にも言える。

 結局、日本には日本の文化がある。加藤氏は日本の山にも精通されていたが、文化的歴史的な素養には疎かったと思われる。日本文化に染まる前にアメリカのトレイル文化にどっぷり浸かってしまい、キリスト教と同じく、偽善的な教えてやる的な視点になってしまったのではないか。

 件の「山」の節田氏の文を引くと、
「そもそも日本は、お伊勢参りや四国や八十八箇所お遍路など、ロングトレイルの先進国。また近代の草創期には、尖鋭的なアルピニズムの対極として山や峠を越えて山里を結ぶ、静観的な「山旅」という言葉があった。
 雪よ岩よ、はもう無理、ピークハントも飽きた、でもやはり山や自然の中に浸っていたいという方々は、ぜひともこのロングトレイル・ウォークに注目していただきたいもの」
以上。

 節田氏は日本ロングトレイル協議会(2011年7月発足)の会長に祭り上げられた人物だ。2013年6月からは日本山岳会の副会長の任にある。引用文には加藤氏ほどの頑なさはない。ヤマケイの編集長として山岳出版というニッチな中にどっぷり浸かって半生を過ごされた余裕がある。古典的な素養もお持ちだろうと思う。

 日本にもすでに北から南まで推進団体が設立されて普及活動に入っている。名古屋からは長野県の八ヶ岳山麓スーパートレイル、美ヶ原・霧が峰中央分水嶺トレイルが近い。関西では中央分水嶺 高島トレイルなどがある。ヤブコギネットには余呉トレイルの踏破体験記が投稿されていた。トレイルという名称で特集すると雑誌もよく売れたという。新しい言葉だけが独り歩きしているように思う。
 
 現在のところ、名古屋近郊にはこれと言ったトレイルはない。しかし、愛知県から長野県にかけては”塩の道”(飯田街道)があるではないか。中山道も山道のロングトレイルであった。特に木曽谷の部分は藤村の小説のイントロにもなっている。木曽路はすべて山の中のロングトレイルであった。
 東海道の大井川を雲助に負ぶされるのを嫌って、皇女・和宮とお女中は木曽街道を通って江戸に向かったという。木曽を愛した写真家で文筆家の沢田正春は写真集に「緋の道」と名付けた。緋とは目の覚めるような赤い色の事で、緑の森の中を赤い着物の集団が歩いてゆくのは壮観だっただろう。
 飯田市と南木曽町を結ぶ大平街道は木曽峠を越えるロングトレイルであった。古い時代、中央アルプスを南下して大平に下った山旅人はバスがないと南木曽駅まで歩いた。廃村・大平宿は無住であるが古民家で宿泊体験ができる。
 北の権兵衛街道は近年、真下をトンネルが穿ち、峠道はかえって昔のよすがを留めることになろう。姥神峠は御岳信仰と結びつき、街道を旅する人に感動を与えたであろう。
 更に古い歴史の”木曽西古道”と”木曽東古道”が木曽川を挟んで利用された時代があった。風越山の麓の東野という小村は初夏、コデマリの花が迎えてくれる風情がある。山の村人は季節に敏感である。背後に聳える鋭鋒の蕎麦粒岳を見たら木曽古道のファンになるだろう。もっと古くには美濃から伊那へ神坂峠を越えた東山道があった。これは1300年の歴史がある。赤石岳から聖岳にかけて深南部の山々の姿は神々しい。
 昔も今も、峠から或いは街道の一角から、御岳の霊峰を眺めて、旅の苦しさを癒されたであろう。
http://www.cbr.mlit.go.jp/road/chubu-fukei/route/09.html

http://www.pref.nagano.lg.jp/xtihou/simoina/soumu/kaido/m-2.pdf

 このように日米の山岳文化を比較すると、到底アメリカとは比較にならない。日本は狭い国土にひしめき合っている。アメリカのような原生林は数少なく、多くは人工林になった。アメリカでもソローやJ・ミューアが出て自然保護を説いて今日があるのだが。それでなくても車道は奥深く入って自然を損なう。だが、前述したように古い文化を掘り起こしながら古道を歩めば趣も違ったものになろうか。

 かつて、芭蕉も木曽路を旅した。蕪村も子規も、自由律の俳人・種田山頭火も木曽の清内路峠を越えた。山なくして彼らの詩魂も疼くことはなかったであろう。

 桟やいのちをからむつたかずら   芭蕉

 送られつおくりつはては木曾の秋   芭蕉

 きじほろろ巡礼一人木曾の旅    蕪村

 白雲や青葉若葉の三十里   子規

 峡中に向かう馬頭や初時雨   龍之介

 山蒼くくれて夜霧に灯をともす木曽福島は谷底の街   水穂

 いかだ士に何をか問わむ青あらし   横井也有(尾張藩の家老)

 徳川の三百年の木曽の秋    虚子

 木曽で詠んだ作品ではないが

 分け入つても分け入つても青い山   山頭火
  
 また見ることもない山が遠ざかる     同

 うしろすがたのしぐれてゆくか       同

二年ぶりに堪能した源屋の鮎!2013年07月17日

 根尾川をR157に沿って遡ると、樽見という小盆地の街に着く。淡墨桜で超有名になった。これまでも二車線の快適な道とカーブの多かった箇所は改良されてトンネルを穿ち、橋が架けられた。又の名を淡墨街道と言ったかに思う。千年の老桜が道を広げたのである。
 正面には岩岳という平坦で、1000mにわずかに届かない山が見える。春はイワウチワの群落が素晴らしい花の山である。ここで根尾川は根尾西谷川と根尾東谷川に分れる。西谷川の源は能郷白山であり、東谷川は左門岳やドウの天井などである。
 R157は根尾西谷川に沿う。道の駅うすずみ温泉のあるところで昔のままの狭い道になる。そこも今は拡幅の工事中であった。やがては福井県に新道でつながり、酷道の汚名を返上する。
 今日の目的は、根尾長島にある源屋というかつては登山家・今西錦司らも泊まった古い旅館の鮎料理を食べることだった。旅館は今は廃業した。二階建ての家も取り壊されて更地になった。川魚料理に生き残りをかけているのだろう。私が始めて泊まったのはもう何年も前の5月のことだった。川魚が旨いよ、とほぼ毎年のように友人を連れて来るようになった。
 それが昨年は主人の体調が悪くて、再三の電話で確認したが、ついに回復することなく、9月の落ち鮎すら味わうことなく過ぎて甚だ寂しい心持であった。
 今年、6月初旬に山友が連れ立って行ったよ、というのでやっと回復を知った。また行こうと誘いかけて3人で来た。朝8時に名古屋を出ても着いたのは11時過ぎになる。地道ばかりだから遠い。それに今日はやたら車が多い。名神/一宮付近は大渋滞で名古屋高速の出口から東海北陸JCTまでつながっているんじゃないか、と言っていた。
 断続的に小雨が降るのは山間部ゆえの風情でもある。山時雨というものか。時間が少しあったので能郷白山の登山口までドライブに誘った。かつての記憶では、途中から砂利道になるはずであったがずっと舗装路であった。緑濃き能郷谷であった。
 途中で、工事中のために通行止めになったので引き返した。場所は藤の谷を分けてすぐだった。思えば、あらかたは登った積もりであるが、藤谷山925mは未踏である。茶屋峠という風流な地名もずっと気になっているが、何せ三角点がないと中々モチベーションが湧かない。
 福井県は温見の手前まで拡幅工事が迫り、温見峠にトンネルが掘られ、 いつの日か、岐阜県側のR157の改良工事には藤谷山の真下にトンネルを穿たれることだろう。越美の間道が自然観光の動脈に変わる日が来るだろう。
 戻って、能郷白山神社でも雨が大降りになってきた。下車して、境内に入り、閉鎖されている奥社までの急な階段を登った。雪囲いされたままなので神殿の前には立てない。ここもかつて能郷白山に登山した帰りに猿楽を見物した。素朴な山村民俗である。毎年4月13日に催される。来年は日曜日らしいので観客も多いだろう。
 源屋に戻ると、まだ誰もきていないので生簀を見学しているとクルマで続々来た。そこで我々も店に入った。すでにお盆は食卓に準備されて料理を載せるだけになっていた。
 まず、鮎の甘露煮、塩焼き2尾、鮎の身を箸でしごいていたら緑っぽい腹わたがでてきた。鮎は藻を食べるので天然ものだ。鮎の刺し身、鮎の田楽、鮎のフライ、エゴマのたれをつけた小芋、みょうがの甘酢漬け、みかん、ごはん、汁とたっぷり味わう。これで何と3000円也。交通費と時間をかけても納得の味が堪能できた。味の秘訣は上流部に人が住んでいないために水がきれいなことだろうか。ごはんも美味しい。
 家族総出の予約客、一見の来客もあって、卓はみなふさがっていたのではないか。源屋は賑わっていた。知る人ぞ知る名店ではないかと思う。(2013.7.13)

島津亜矢豊橋コンサート「玲瓏」に行く2013年07月21日

7/21(日) アイプラザ豊橋にて開催

起きてすぐ土用蜆の汁を飲む

炎天の下で開門待つばかり

夏の夢「山河」を歌ふ亜矢の声

  ステージから客席に下りて会場を歌いながら巡る3句
歌いつつ交はす握手や汗の亜矢

歩きつつ歌えば汗のかき通し

汗だくの亜矢を団扇であおぐ人

冷房とてファンの熱気の声高し

   ステージに寄り冷えた缶ビールを贈るファン
キンキンに冷えたビールのプレゼント

亜矢コンも土用次郎で中入りす

生のヨーデルを聴く夕べ2013年07月26日

 JACの会長を4年間勤め上げて公益社団法人にした功績と若いアルピニストを育てるシステムを作った尾上昇前会長の慰労会が今池の「ガス燈」で開催された。出席者は数十名。森武昭現会長、吉永副会長らのあいさつ、尾上前会長のあいさつと続いて、アトラクションとして伊藤啓子さんとアコーディオン演奏の2人でヨーデルを歌われた。当会の大きなイベントには大抵出演されて知っている人も多い。生のヨーデルは中々聴ける機会はない。北九州からも来名されて盛会となった。

 森会長のあいさつに中に尾上前会長への贈り物として地元宮崎産の焼酎「森」を贈呈された

 焼酎や宴会でのみ会ふ人あまた

 ビール酌む老アルピニストの知遇得し

 不可思議なめぐり合わせぞ夏の夜

 ヨーデルの声滑らかに暑気払ひ

 大いなる食欲そそる夏料理

霧の薬師岳登頂!2013年07月29日

 今回も参加させてもらった。メンバーは11名である。都合で日帰りする支部長と若い人を除くと登山には9名の参加になった。集合場所は前と同じアルペン村である。富山ICから網の目のような地方道を走るのは大変だが、以前に登った尖山(とんがりやま)559.2mが見えるうちはそこを目指す。大きなロスもなく午前6時到着。名古屋は7/27、午前1時半出発、午前3時、気温18℃のひるがのSAで1時間半仮眠、更に1時間半で富山着。

 午前7時過ぎ4台に分乗して出発。折立はすでに満車状態だったが、係員の指示で、いい場所に止められた。まず十三重の塔に参拝。ブナ、カンバなどの落葉広葉樹林の生い茂る長い坂道に取り付く。荷は軽いが身が重い。6月の冠山以来、1ヶ月半も登山から遠ざかった身体は鈍っている。
 それでも同窓らは普段から登山をやらない人がほとんどであるから初心者同然である。飛騨から来られた1人が経験者らしい。それにしてはペースが少し早い気がする。2012年の時は13人が登ったが、1人だけ弱い人がいて全体に遅かった。あの時の教訓で芍薬甘草湯も用意した。ばてた同窓のために即効性のあるブドウ糖も用意した。
 いいペースで三角点の小ピークを過ぎ、丘陵地のような長い尾根を登ると森林限界を過ぎて視界が広がる。霧のために遠望がないが、笹原に黄色いニッコウキスゲの花が群落となっている。今回で5度目と思うがこんな美しいところだった印象はない。キスゲだけでなく花が散ったチングルマ、上部ではコバイケイソウの花も群落となっている。
 13人の先輩たちが亡くなって今年で50回忌になる。存命ならば68歳か69歳の年だ。どうぞ安らかに。豪雪の山稜に消えた先輩らへの供花、と思えてきた。同窓会富山支部有志の弔いの心あればこその登山に花を添えてくれた。
 日帰りのメンバー2名と別れたのはもうすぐ太郎平小屋という丘であった。石川支部の若い後輩が薬師岳に興味を抱いてくれた意義はある。面倒でも参加を断わらずに参加させたのは若い同窓後輩への配慮であろう。
 太郎平小屋へは早い時間に着いた。外は霧雨だったが、生ビールで乾杯。雨もひどいのであてがわれた部屋で缶ビールを酌み交わした。9名もいるとあっという間に飲み干す。夕食までは歓談のうちに過ぎてゆく。夕食後は睡魔に襲われて眠る。屋根裏部屋に寝た。
 7/28(日)、就寝中でもざーっという雨音が聞こえた。激しく降っているのだろう。4時起床、5時には朝食に並ぶ。6時過ぎに、五十嶋オーナーの娘婿(次女)というイケメンの若い男性がリーダーに立ってくれた。
 丘を越えた鞍部のキャンプ場ではちょっとした異変があるという。キャンプ志向が増加中らしい。しかも一人テントの普及でパーティーであってもテントは一人用なので設営数が増えているそうだ。個室、孤食時代に育った若者にはテント内でわいわい一つ鍋のものを分け合う習慣がないのだろうか。時代だなー。
 沢に沿う山道をよじ登る。急登できついところである。しかし、そんなところにはキヌガサソウが慰めてくれる。大ぶりだが、白く清楚な感じのする花である。沢を休み休み登りきると、雪渓が現れる。今年は雪が例年になく多い。雨が少なかったという説明に納得した。薬師平の遭難ケルンに着いた。ここも高山植物が多い。ヨツバシオガマ、シナノキンバイ、コバイケイソウは特に多い。これは7年から8年ぶりとの説明があった。花にも当たり年があるようだ。

 薬師岳慰霊登山の供花とす   拙作
 
 薬師平を抜けると急になるが、薬師小屋が近い。2010年では工事中だったが、すでに営業している。あいそのいいオーナー夫妻が中に入れて歓待してくれた。熱いお茶をご馳走になった。暖かい小屋で休むと体力が回復する。気温計が9℃を指す世界である。標高2701mと小屋の近くの杭にあった。白山の頂上とほぼ同じである。
 すでに這松地帯を過ぎた。小屋が這い松の限界でもある。この先は、砂礫地が広がる。厳冬期は北西の季節風をまともに受ける厳しいところだ。尾根のとなり(東)には残雪が詰まっている。ピッケルがあればグリセードを楽しめる長い雪渓である。砂礫を踏みしめながら登ると運命の東南稜分岐である。小さな小屋と遭難ケルンが建つ。中には十三体の仏様が祀られている。2010年には般若心経が読まれた。記念写真を撮った。
 ここから頂上へはゆったりした稜線歩きになる。晴れておれば立山連峰が北上するのが見えよう。後立山連峰、槍穂高連峰、赤牛岳、黒部五郎岳なども見えるはず。

  霧深きケルンに触るる寂しさよ    石橋辰之助

 辰之助の句は登山者の心理をよく言い当てている。ここでも記念写真を撮った。登山者は続々登ってくる。縦走する人、往復で下山する人。われわれも下山の途についた。薬師小屋で再び長休みした。小屋を後にするとすぐに薬師平だ。ここでも長く時間をとった。霧が晴れて、北の俣岳、黒部五郎岳の山腹も見渡せる。雲の平も見えるがそこまでだった。
 沢の源流の小さな雪渓に着いた。ここからはまた急な沢を下る。また雨だ。カッパの上着を着たり、脱いだり忙しい。やがてキャンプ場へ着くころには大降りの様相だ。カッパのズボンを履くか、どうか。リーダーは履いている。そのままで行く。小屋に着くとずぶ濡れになった。小屋の中の乾燥室でズボンを脱いでストーブで乾燥させた。
 
 濡れ物を乾かす小屋の夏ストーブ    拙作

食堂に入って、昼食をとる。ラーメンの汁まで飲み干す旨さ。しばしの休憩を楽しむと、すっかり乾いたズボンを履いて外にでる。五十嶋オーナーも外に出て、ごあいさつをうかがった。50年前、25歳で新婚生活をそっちのけで捜索に尽力いただいた。あの捜索で薬師岳を歩き回って山の広さ大きさを知ったといわれた。また、山小屋の物資運搬にヘリの活用を思いついたきっかけにもなったそうだ。それまではランプだった山小屋も、石油を空輸できたおかげで電気が使えるようになったという。富山県に山岳救助隊ができたきっかけにもなったという。そんな話を聞いた後、オーナーを囲んで記念写真を撮った。
 いよいよ小屋を下る。霧も少しは晴れて有峰湖が見下ろせる。雲が湧いては昇る。これを靉靆(あいたい)という。長い尾根は下っても下っても着かない。そのうち足の故障者がでた。差がつき過ぎるのでそろそろと下った。針葉樹、ウダイカンバの森からブナ、ダケカンバの林に変わった。そして十三重の塔の頭が見えた。やっと下った。
 クルマに戻って、またアルペン村に走る。あいさつの後、皆さんと別れた。名古屋までの280Kmのロングドライブの途についた。

2012年8月の記録
http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/08/06/6532244
2010年8月の記録
http://koyaban.asablo.jp/blog/2010/08/02/5262666

中央アルプスで韓国人グループが遭難2013年07月30日

 朝日新聞朝刊は32面で、中日新聞朝刊は31面で、中央アルプスにおいて、韓国人のツアー登山グループの遭難を報じた。韓国旅行会社が企画したツアー登山で20名(男14名、女6名、年齢は48歳から78歳)の内5人が不明(中日)、9名が遭難か(朝日)、という。日本人ガイドは同行していなかった。

WEB版読売新聞から
長野県駒ヶ根市の中央アルプス檜尾岳(2728メートル)付近で、ツアー登山の韓国人パーティーのうち9人と連絡が取れなくなり、長野県警などは30日早朝から捜索を開始した。

 午前5時頃、宝剣岳近くの登山道で心肺停止状態の男性1人を発見。午前5時55分頃には、濁沢大峰の登山道で、別の男性1人を心肺停止状態で発見した。(2013年7月30日07時13分 読売新聞)

 蘇生すれば良いが。トムラウシで起きた遭難事故を彷彿させる最悪の事態になりそうだ。北陸ではまだ梅雨明けしていない、というから今年は気象変化が激しく、判断が難しい。桧尾岳には避難小屋があるが、北アルプスの薬師小屋から推定すると、気温は10℃以下になっただろうと思われる。防寒着、非常食、コンロ、ツエルトなどの準備は充分あったのだろうか。

 同じ日程、山域に単独で行く予定だった会員も登山中止のメールが入っていた。まして20名もの団体ならば中止が正解だったと思う。

 ツアー登山はメンバー間の連携がなく、経験もバラツキがあり、バラバラになり易い。今回も自力下山した人、避難小屋にとどまった人、宝剣岳まで縦走した人などどういう計画だったの、という驚くようなニュースである。韓国の報道に熱心なNHKオンラインで詳細を報じている。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130730/t10013390041000.html

続報

 桧尾岳の地形図   国土地院のHPから
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?meshcode=53374650

 帰宅後、中日新聞夕刊、ネットで見ると、20名のうち、15名は下山したようだ。行方不明が1名いるという。心肺停止4人の内、3人死亡と伝えられた。いずれも70歳代である。朝鮮半島の地理的な関係で韓国人は寒さに強いはず、・・・との期待も外れた。あって欲しくない事態になってしまった。
 昨年剱岳の登山道でもハングル語の案内を見たから、外国人登山客はよほど増えているんだろうと思う。日本の気象は変化が早く、観天望気が大切だ。中央アルプスは天竜川を暖かい湿った空気が溯り、北からは冷たい空気が南へ吹いて雷雲を発生しやすい。豪雨も並大抵ではない。
 昭和40年の豪雨では廃村・松川入にあった避難小屋に泊まっていた7人が小屋ごと流されて遺体も発見されないまま。あの時、安平路山にいた人は地面に雨が浮いていたという。
 今回も降雨の中を出発して行ったらしい。折角、日本の山へ登りに来たんだからと無理しちゃったんだろう。

吟詠!霧の薬師岳に立つ2013年07月31日

折立や老鶯の声遠ざかる

登山口十三重の塔に一礼す

笹原に群れてニッコウキスゲ咲く

笹原にコバイケイソウ群れ咲けり

お前もかゴゼンタチバナここにあり

どの花も慰霊登山の供花(くげ)とせり(五十回忌)

踏みしだく水芭蕉の愛されず

重治の筆なる太郎平小屋(看板)

登山に似ず山にスカートはくなんて

短パンとタイツの多(さわ)に男すら

ビール酌む積もる話の尽きるまで

小屋で飲む酒どころ飛騨の冷酒かな(F氏差し入れ)

登山小屋屋根裏部屋に眠るなり

控えめに咲くやキヌガサソウが好き

木道の薬師平の登山道

熱いお茶飲めば元気に登山小屋(薬師山荘)

遭難の命運の地の涼しさよ(東南稜分岐)

夏霧に閉ざされてゐる薬師岳

登頂や山頂標の前で撮る

夏雲の湧いては昇る有峰湖

遅れ気味の登山仲間を庇ふなり

登山杖のごとき仲間に見られたし