冬の嵐2010年12月03日

 昨夜は嵐のような荒れた冬の雨だった。高層マンションの窓は強い風でもがり笛のようにヒューヒューとうなる。本や雑誌を読むうちにうつらうつらして寝込んでしまった。起きたら午前2時。
 今朝はすっきりした雨の後でやや暖かい気がした。9時過ぎ出かける。天白川の水は増水で濁っている。岸辺に一羽の白い鳥?あの姿態はサギの仲間かな。昨日まではカイツブリが多数川面に浮かんでいた。もっと寒い日にはカモメの仲間が海から飛来してそれは賑やかになる。
 この時間帯の地下鉄社内は座ろうと思えば隙間がある程度。ラッシュ時は避けたいのでずらすのが正解だ。丸の内駅を出ると桜通りに面した街路樹の公孫樹の黄葉は散り始めている。落ち葉が今は美しい。ここはやっと初冬を迎えた感じである。一昨日は研修の帰りTV塔の付近で綿虫の浮遊を見た。ああ、大都会でも綿虫が見えるとわな。里山ならば数日後には降雪の前触れとするが名古屋ではどうかな。

新刊 飛騨山岳会編著『飛騨の山』ナカニシヤ出版2010年12月03日

 関西で山岳書に熱心なナカニシヤ出版から刊行された。2625円と値は張るが立派な装丁で造本されているので購買欲をそそられる。本書は先立って刊行された『ふるさとの山 飛騨百山』(2009年)の全面的な改訂版といってもいい。飛騨百山は装丁、造本、編集、文章ともに期待を裏切る内容で落胆したが山岳書の”手だれ”が手がけて見違えるように生まれ変わった。
 内容は当方としてはもうあらかた登った地域であり、『東海・北陸の200秀山』上巻(中日新聞社2009年)で扱ったから二番煎じの感無きにもあらずだ。唯一未踏のアカンダナ山は登りたいが他はもう既登か食指が動かない山である。
 それでも購入価値を挙げるとすれば研究編である。これは簡単ではない。出版盛んなりし今日のことだから本書によらなくても入手できそうな情報もあるが歴史の長い山岳会の会員の足と汗で作られた本となれば尊敬に値すると思う。
 山岳情報もインターネットで簡単に得られる時代であるが地元飛騨の岳人でしか知らないような情報とふるさとの山への思いのこもった文章でガイドされるのもまたいいではないか。それこそが書架に並べたい1冊の価値というものである。

「ヒマラヤを越える隊商達」を観る2010年12月09日

愛知県美術館8Fギャラリー 22.12.7(火)~22.12.12(日)  
 山岳会会員で画家の杉田博さんから展覧会の案内のハガキが届いた。丸の内の事務所へ行きがけに観る。題名は「ヒマラヤを越える隊商達」で100号の大作である。
 ハガキにはムー峠(標高5600m)を越えるチベッタンのキャラバン隊を描いた、とある。当然、チベットの行商に生きる人物像か、と早合点した。観ると隊商の列は下の方に雪道の上(氷河か)を登って行く様が描かれてはいたが全体構成は露岩の見える白い高峰がキャンバスいっぱいに収まっている。一巡りした際は見落としたほどである。
 この作家はどこまで行ってもスケールの大きな山岳画家なのである。ところでムー峠とはどこにあるのか。ヒマラヤに疎い私にはとんと見当がつかない。検索しても1サイトがヒットするが全体では分からない。
 日本山岳会関西支部の河口慧海の足跡調査のサイトにはモー峠またはモェ峠とも出てくる。標高は5700m、しかし新しい地図では5040mともある。インドからネパールを通り、ヒマラヤ山脈を越えてチベットに旅した河口慧海の足跡を辿るのだろう。すると文献からの想像の作品だろうか。
 ところで「日本表現派」とは聞きなれない一派だが。趣旨にはこうある「日本人の誰もが心の底に流れている内なるものを素直にぶっつけた個性的でオリジナルな生命力に溢れる作品」。という。なるほど厳しいヒマラヤを越えるのだから生命力に溢れた作品であった。

鈴鹿・ブナ清水からハライド新道を歩く2010年12月12日

 12/11-12/12と山岳会の忘年会&山行。場所は朝明山荘。メンバーが知己を頼りに貸してもらった別荘だ。朝明の駐車場の近くにあり登山の拠点にも便利。
 12/11はKの自宅で合流。5名で別荘へ行く。各地から集まったメンバーでまづはブナ清水へハイキング。登山道は昨年よりもぐんと整備が進められて歩き易く分かり易くなった。9時半出発、ブナ清水へは11時半着。美味しいミネラル水を汲んで飲む。
 軽食後、買い物班3名は下山して残り4人はハイキング続行。青岳に登る踏み跡を歩く。冬木立は殺風景だが見通しはいい。うそ寒い季節風が吹くのでかなり寒い。雪も少し残る。
 右青岳左腰越峠の分岐を左折。急峻な尾根を下る。再び右三岳寺跡、藤内小屋と直進腰越峠の分岐で直進。傾斜は益々急になる。峠に大勢の人らが休んでいるのが見えた。峠で挨拶を交わすと知己が居た。鈴鹿市のK・Kさんで2005年山の本に執筆協力してもらった。山想山歩の集いのパーティで今日は忘年山行とか。
 目指すハライドはすぐでブナ清水から1時間10分だった。寒いのですぐ下山するが朝明に下る新道があると分かった。すると2008年の豪雨で腰越谷は通行困難と聞いていたから新道を開削したものと直感。新道を下山した。中々に眺めはいい。常に釈迦を見ながらの登下降はいい。ハライド登山口に着くと堰堤工事中ですぐに見覚えのある車道に出た。山荘へは楽々下山。
 すぐに宴会の準備を開始。降雨にはブルーシートを設営。屋外の洗い場では私は自然薯の泥を洗う、魚料理の得意なIさんは鯛の調理にと忙しい。屋内では薪ストーブに火を起す。野菜を切り、お湯を沸かしとてんやわんや。山のような食材を段取りできて準備万端、鍋を囲んで宴会を開始。遅くにW会長も合流、再び乾杯の宴。
 12/12はストーブが暑くて眠れなかった2階の苦情にびっくり。外は寒いのに。吹き抜けの2回はストーブの熱が溜まり易いのだろう。夕べの残り物にうどんを放り込んでこれまた食欲もりもりと平らげた。
 片付け後解散。次の予定に向かう人と別れて釈迦ヶ岳に向かった。この中尾根道も以前より整備されて乗越しが楽になった。以前は沢へ急降下させられていたがトラバース道が開削されて林道へ楽に着いた。そこから左折庵座谷、右折中尾根と分岐する。まず中尾根を登る。松尾尾根への急で険しい登山道を登る。釈迦の最高点から三角点へ。
 三角点からは岩ヶ峰を目指す。八風峠に向かう稜線を下る。地形図をにらみ、見当を付けた尾根の張り出しを検分する。赤いテープが巻きつけた辺りを見下ろすと虎ロープが降りているのでここだと判断。断層のズレ特有の急斜面を急降下した。一旦池のある鞍部に下って登り返すと岩ヶ峰山頂だった。
 これが本来の山頂だよなー、と何もない山頂への郷愁にも似た思いを吐露。再び昼食をとって県境稜線へ登り返した。下山は庵座谷を選んだ。ここも急に次ぐ急な道だ。新しく整備が行き届いた山道を辿る。古い道だが災害で何度も崩壊を繰り返したであろう。再びしっかりした登山道を歩ける喜びを感じる。
 庵座大滝で少し遊ぶ。そしてロープも新しく付け替えられて安全になった。谷と並行すると新しい堰堤だ。昨年は工事中だったが完成を期に再度整備されて右岸の車道に出た。下ると朝の道に合流した。
 乗り越してすぐ山荘に戻った。実は山荘の裏手を通過していたのだ。ここで単独で帰るW会長と別れた。

12月の俳句2010年12月16日

12/11-12/12
初雪の残る林に歩み入る

ハライドの頂上のいや寒し

雪嶺の木曽御岳を望むなり

赤石と思しき嶺や冬日和

藤内壁見れば御在所山眠る

冬の雲覆う雨乞岳見たり

冬枯れのイブネクラシの孤峰なり

小夜時雨洗い場覆うブルーシート

自然薯を洗うわが手の悴みぬ

赤子ほどの大白菜をもらうなり

尾根を行く鈴鹿時雨の見舞うなり

枯木立たどりて着けばぶな清水

岩間より滾滾と湧く冬の水

薪ストーブ何でも載せて任せあり

ストーブで燃やす榾木を集めけり

誰も見ぬ山頂こそ冬の山(岩ヶ峰)

君知るや何億トンの落ち葉かな

不思議にも枯れ葉は土に変わるべし

木立より冬の大滝透かし見る

釈迦ヶ岳仰向けに寝て眠るなり

尻皮のリーダーらしき山男
12/13
冬の雨いとど寂しさ勝りける

12/14
一輪の石蕗の花咲く冬屋敷

何枚も名刺交換年忘れ

輪になって寮歌を歌う忘年会
12/15
年忘れついでに忘れ物したり

12/16
浮き寝鳥石のごとくに動かざる

冬川に佇むは白鷺一羽

一仕事終えて一人でおでん食う

マフラーを巻いて家路を急ぐなり

静岡・竜爪山と丸子富士を歩く2010年12月19日

 12/18(土)午前6時集合直ちに出発。東名名古屋ICからしばらくは時雨模様の様子。東進すると明るくなり、富士山も真っ白に輝いて見える。今回の目的は1等三角点、山名が信仰に因む山、ふるさと富士をテーマに特にがちがちの計画でなく行き当たりばったりの山歩きにした。
 先ずは1等で信仰が狙える竜爪山(りゅうそうざん)を目指す。静岡ICを出て北上し、登山口の平山へ走る。羊腸の曲がりくねった車道を走ると穂積神社はあった。杉の大木が茂る荘厳な雰囲気の中に静かに鎮座している。
 東海自然歩道が山頂を通過するせいか、トイレがあり由来書きが設置されている。本来は山麓に近い社から登る人が多いせいで出合う人はみな下へ降りていく。逆に登ってくる人も居る。我々は随分楽してしまったのだ。
 神社の横をすり抜けて樹齢数百年はある杉の大木の中の登山道を歩くと突然急になる。鉄製の階段が設置されて息が上りそうなほどの急に喘がされる。ほどほどのところまで来ると白い富士山が美しく見える場所があって慰められる。
 やがて雑木の痩せ尾根になったかと思うと再び細い檜の木立になり薬師岳山頂に着いた。1051mと最高点にも関わらず展望はなく、三角点がないために閑散とした雰囲気である。すぐにパスして一旦は下る。急な道を登り返すと1等三角点のある文殊岳に着いた。
 すでに多くのハイカーが休んでいた。展望は南に良い。北は南アルプスが見えるはずだが木立に囲まれて見えない。一休みしてから山頂を辞した。
 下山すると今度は丸子富士に向かった。丸子はマルコではなくマリコと読む。資料は20万地勢図しかなくあたりをつけてR1の宇津の谷の道の駅から登れないかスタッフに聞いてみたが山名すら知らない。焼津の山だというので焼津に向かったが高草山と同一視されて外れた。一かパチかR150で再び安倍川まで戻り途中から坂下へ行く。ここでも聞くが山名は知らないというばかり。
 それでも直感で奥まで走るとハイキングなどのコース案内板があり確信した。行けるところまで行って満観峰470Mのコースに入る。急傾斜の棄てられた茶畑の道を喘ぐと小さな峠に道標があり、左が満観峰右丸子富士とある。右折。上り下りすると左へ登る道が丸子富士山頂だった。後で地形図で見ると450Mの三等三角点がある尖峰であった。展望はなく、日没を心配してすぐ下山した。

静岡県掛川市・高天神山を歩く2010年12月19日

 いつもはIさんという徹底的に調べてくれる強い参謀がいたが今回は体調思わしくなく私が代行した。しかし一旦楽を覚えるとダメで簡単な略図と20万の地勢図だけで攻めるという無謀なことになり、迷い迷って山頂に着くという珍ハイキングになってしまった。それでも1等三角点マニア垂涎の山に登れてよかった。同行のAさんにも50山ラリーに1座稼がせてあげた。昨夜友人の不幸を知ってせめてお通夜に、と帰りを急ぎながらの探索行となった。

 地形図の高天神山とは戦国時代の有名な城跡であった。菅原道真公を祀る。しかしここには1等三角点どころか他の三角点すらなかった。「三角点もあるよ、たしか210Mくらいだ」というから信じて行ったのに。後で調べると実際は132M。昨日も含めて「地元の人に山の事を聞くな」という掟は斯くの如し。
 山頂にあった名前は楞厳地山(りゅうごんじさん 220.5m)という。しかし1等三角点本点の点名は高天神山というからややこしい。地元の畑ヶ谷でおじさんに道を聞いても要領を得なかったのは山名の違いであった。登った後で再びあったおじさんに「なんだ楞厳地山ならあそこと言えたのに」と悔しがっても後の祭りだ。しかし両方登れて良かったじゃないか、と思いなおした。
 山頂には右書きの1等三角点標石、菱形天測点と方位標石が埋設されている。全国でも珍しい山である。天測点については以下に「NPO 静岡県自然史博物館ネットワーク」のサイトからコピーさせてもらおう。

 山頂の一等三角点標石の北2.4mのところに菱形基線測点(八角形のコンクリート製)が、また東1.8mのところに方位標の標石が埋設されている。
 菱形基線とは、菱形を形成する測点4点間(対角線を含めた6辺)を精密に測定して地表面の水平方向の変動(地震予知などに利用)を調べるためのものである。
 楞厳地山からの対角側線は西北西約18.4kmにある榛原町坂部の高根山一等三角点を結んだ線で、他は旧菊川町と相良町に側点がある。しかし、現在はGPSの利用などで菱形基線測点による測量は行われていない。
 方位標とは、ある地点Aにおける子午線方向を表示するために、Aから見通しのよい適当な距離の地点Bに設置した標識(AB方向を基準にして所定の角度の方向に子午線方向(真北)が存在する)である。
 以上

 ちなみに子午線をwikiでチエックすると

“子午線”という名称は子の方角(北)から午の方角(南)に伸びる線を意味する。これは中国から日本に伝わった方角を十二支に当てはめるやり方からきており、ちょうど子が北、午が南を指していたので「子午線」と言うようになった。本初子午線は、「一番初めの、もとになる線」という意味。

 南紀の「子ノ泊山」の子(ね)は北の方角を示す。熊野灘を航行する船が泊まり即ち港を目指す際の目安にした山と思われる。

 http://www.geocities.jp/superteizan/sankakumou.htmlには今回の山の三方原基線網の詳細が書かれている。残るは神ヶ谷37.2M、都田村85.9M、上野巳新田33.4M、坂部村(高根山)150.9Mの4座。

 山を楽しむには様々なテーマがあるが中でも1等三角点は一番だ。手軽にも楽しめるし、より深く、遠く、高く変幻自在なのがいい。

第八回天白川俳句会例会2010年12月24日

 今年5月8日に産声をあげた当俳句会も3回程度でポシャルかと思われたが昨日8回目を迎えることができた。ということは毎月必ず実施してこれたことになる。発足時から女性が1名病弱のため休眠したが新たにピアノの作曲講師という男性が現れて無事入会となった。
 このピアノ氏はなんと愛媛県松山市の生まれで高浜虚子の生家の近くとか。子供の自分から俳句は当たり前という環境で育ってきたという。電話で私の自己紹介代わりに松山市の山である皿ヶ峰に登って市内の投句箱に”大いなるブナの枯れ木や皿ヶ峰”を投函。何ヶ月かあとに佳作の賞品として媛人形を贈られた話をしたら意気投合した。
 俳句を縁に素敵な人間関係が作れたら面白い。しかもこれまで疎遠にしていた地域の縁である。山の縁俳句の縁もともに育って欲しいと願う。例会の後はささやかな忘年会として会食をして分かれた。

 山茶花や鎌倉まがふ路地の裏    和子
 
 花の窟裾に乱るる石蕗の花      順子

 冬雨に眠気誘われショパン聴く    且行

 一仕事終へて一人でおでん食ふ   拙作

三遠国境・風花の舞う浅間山を歩く2010年12月25日

 豊川ICからR151を北上。平成の大合併で市域の拡がった新城市の東、北にある浅間山を目指した。大野から阿寺の七滝へ行く道を行く。
           阿寺の浅間山644mへ
 車道は完全舗装されて行き届いたものだ。滝見の施設を過ぎて上部まで行くと浅間山への小さな道標に導かれて右折。しばらくで更に右折の道標。ただしその先は見当たらず、地形図と照合するが現地確認が難しい。
 行き過ぎたと感じて戻る際にSさんが左への未舗装の林道を示唆した。ここじゃないかというのだ。的確にあった道標はなくなり、半信半疑で歩くことにした。幸い奥に行くと再び顕著な道標が見つかった。ようやく山道に入った。入ると後ははっきりした山道を追って高みを目指すのみとなった。
 山腹を巻きながらなぜか高みを目指さないトラバースを行く。すると山頂直下の鞍部へと導く複数の赤テープが檜の幹に巻きつけられている。浅間山へ、とする道標も地面に置かれていた。やや踏み跡は薄くなるがすぐに赤テープの巻かれた鞍部に着く。左浅間山、右城山とある。左へ高みを目指すとすぐに祠のある浅間山だった。東側への道も下っていた。あいにく曇りで何も見えない。
 風花の舞う山頂に長居はしておれず、すぐに下りたかったがいつまでまっても後続の女二人が来ない。「おーい」と何度かコールしたが返答がない。強い木枯しにかき消されてしまうようだ。もしやうっかり城山へ?と思って少しばかり行ってみたが何も帰ってこない。まさかと、トラバース道に下って先を急いだ。急ぎ足で歩いてコールするとやっと返事があった。何のことはないあの明瞭な看板を見落としていた。 
 どうせならとトラバース道から稜線へ這い上がり、弓張山679mに行く。そこから浅間山へ行った。今日は2回も登ることになった。下山して分岐点をチエックして赤テープが何箇所か複数で巻いてあるところは分岐点の標、と山歩きの知恵の初歩の初歩を授けた。
 林道へ戻ってからは地理勘がついたので三角点の渋川村Ⅰ545.3mへ私だけ立ち寄った。清潔な美しい3等三角点があった。
上吉田の浅間山519mへ
 車に戻って次の浅間山へ移動する。R257へ行き、静岡県に近いムラの道路沿いの一角に車を置く。登山口は観音橋という。一旦は知らずに通過してしまった小さな橋である。橋の袂に文字の消えかかった浅間山への道標があった。田んぼの畦道から奥へと行くと茶畑に隠れるように猪のワナが仕掛けてあった。おびき寄せには痩せたサツマイモらしいものが置かれていた。
 古い5万図に印された道は今も生きていた。かつては浅間信仰登拝の道として地元の人らに整備されたものだろう。勾配の急なところはジグザグにつけられてしっかりしている。やがて一旦は廃林道に出てまた山道に入るがまた林道を横切る。枝の払われた植林内は殺風景なもの。木と木が擦れあってギーギー、いやな寂しい音を発する。
 山道には枯れ葉がふんわり乗る。やがて尾根に着くと赤テープがまた分岐を示す。Aさんはなぜか右折するがチエックすると左折だ。女性は方向音痴が多いというが先週も危うく間違ったルートに誘われたし、今回もなんら疑わないで右折に誘おうとする。何とか説得して山頂へのルートに導いた。
 この浅間山にも三角点はなかった。石造りの祠が何体かずらっと並ぶ。最初の北にある浅間山も信仰の山であるが祠は一つ。一段低い519mの浅間山の方が信仰心が篤いのだろうか。昔はさぞや賑わったものと想像する。
 同じ道を下った。廃林道のところだけ山道を迂回して下った。ムラに戻ると次は御岳山というがもう時間切れに近いので登山口の確認だけにした。

タイヤ交換2010年12月28日

 年末寒波が例年通りやってきた。日本海側では大雪が伝えられている。会津地方では高速道路を通行止めにして国道を空けたから国道で事故があり、大渋滞となっている。本来は高速こそ除雪を優先して通行を死守するべきだが。
 12/29から12/30にかけて60%の確率で降雪の予報に八ヶ岳登山の計画は中止した。受任した仕事のことや雑用を片付ける時間ができた。
 それでも年明けの山スキーに備えて冬タイヤに交換することは済ませておきたい。えいやっと頑張って1時間汗をかいた。もう年だから業者にやってもらうのもいいのだが。年が押し迫ってからは混んでいる。そこで自分でやる。
 まずベランダに保管してある冬タイヤを4本転がしてキャリーカートに積む。エレベーターで階下に下ろしマイカーをジャッキアップ。1本1本交換していく。15インチのタイヤは相当な重さで腕で持ち上げるには大変だ。ぎゅっとボルトを対角線上で交互に締めて行く。終わるとまた夏タイヤをキャリーカートに積んでベランダに保管する。力仕事は全身が疲労する感じだ。快いとも言えず脱力感がある。自分でやれなくなればこの車ともお別れだ。
 次は給油、灯油購入。襖の破れ補修は補修材が売っていない為先送りした。