映画「それでもボクはやってない」鑑賞 ― 2009年03月31日
2007年1月20日公開。周防正行監督。主演は被告人役に加瀬亨、弁護士役の役所広司他。スターは殆ど居ない地味な映画である。それでも深夜を大幅に超えて最後まで見せられた。お陰で朝は起き辛い気がした。
映画の主題は痴漢冤罪事件を扱う。もっと絞れば冤罪である。ただ大都会では日常茶飯事的に起きている痴漢を組み合わせることで身近な話題になった。満員電車に乗る機会の多いサラリーマンは毎朝気が気でないないだろう。最近は女性専用車も配備された。女性のためというよりは男性のためにも増やすべきだろう。美人局みたいな女性もいるらしい。痴漢されていないのに被害者のふりをする。これも犯罪である。
記憶をたどれば最近では2002年の富山県氷見市の婦女暴行で冤罪になったタクシー運転手が晴れて2007年に無罪になった。罪名は違うが映画の取材と制作が同時進行していたような気がする。もっと古くは1970年に豊橋市で起きた冤罪=放火殺人事件でも21歳の若者が誤認逮捕されて4年後に無罪となった。検察、裁判共に怖いところである。
このような罪作りな司法の有り様を映画はじっくり描いてゆく。地味な内容であるが緊迫感が連続して中座する気にもなれない。<それでもボクはやっていない>被告人と観客には無罪と分っているのに検察官も裁判官も無理解な弁を述べる。いらいらさせられる。掻痒隔靴のことばがぴったりする。
周防監督は小津安二郎を尊敬していたそうだ。映画にも隅々まで神経の行き届いたところは感じる。省略されて余分な部分はない。あっという間に見終わるのだ。
出演者では主役の気の弱そうな被告人を演じた加瀬亨の演技が光る。最初の裁判官役の正名僕蔵は本物の裁判官かと思ったほどリアルな演技であった。役所広司、竹中直人、高橋長英以外は知らない俳優ばかりであった。
冤罪の原因は警察での強引な取調べ。調書は警察の作文、という役所広司扮する弁護士の言うとおり。検索すると調書の捏造という批判に満ちた言葉もヒットした。ワナという言葉も出てくる。映画の中の通りである。事実は小説より希なり、というが小説を映画に置き換えてもいい。事件が希ではなく、司法のあり方が希なり、といえる。
また1本見逃していた映画を見れて良かった。
映画の主題は痴漢冤罪事件を扱う。もっと絞れば冤罪である。ただ大都会では日常茶飯事的に起きている痴漢を組み合わせることで身近な話題になった。満員電車に乗る機会の多いサラリーマンは毎朝気が気でないないだろう。最近は女性専用車も配備された。女性のためというよりは男性のためにも増やすべきだろう。美人局みたいな女性もいるらしい。痴漢されていないのに被害者のふりをする。これも犯罪である。
記憶をたどれば最近では2002年の富山県氷見市の婦女暴行で冤罪になったタクシー運転手が晴れて2007年に無罪になった。罪名は違うが映画の取材と制作が同時進行していたような気がする。もっと古くは1970年に豊橋市で起きた冤罪=放火殺人事件でも21歳の若者が誤認逮捕されて4年後に無罪となった。検察、裁判共に怖いところである。
このような罪作りな司法の有り様を映画はじっくり描いてゆく。地味な内容であるが緊迫感が連続して中座する気にもなれない。<それでもボクはやっていない>被告人と観客には無罪と分っているのに検察官も裁判官も無理解な弁を述べる。いらいらさせられる。掻痒隔靴のことばがぴったりする。
周防監督は小津安二郎を尊敬していたそうだ。映画にも隅々まで神経の行き届いたところは感じる。省略されて余分な部分はない。あっという間に見終わるのだ。
出演者では主役の気の弱そうな被告人を演じた加瀬亨の演技が光る。最初の裁判官役の正名僕蔵は本物の裁判官かと思ったほどリアルな演技であった。役所広司、竹中直人、高橋長英以外は知らない俳優ばかりであった。
冤罪の原因は警察での強引な取調べ。調書は警察の作文、という役所広司扮する弁護士の言うとおり。検索すると調書の捏造という批判に満ちた言葉もヒットした。ワナという言葉も出てくる。映画の中の通りである。事実は小説より希なり、というが小説を映画に置き換えてもいい。事件が希ではなく、司法のあり方が希なり、といえる。
また1本見逃していた映画を見れて良かった。
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