映画「フラガール」鑑賞2009年04月04日

 2006年制作。これも見逃していた映画の一本。各地の映画祭で上映されていたが中々行けなかった。レンタル店で偶然に見つかる。
 主役の松雪泰子の熱演、フラガールのリーダーになる蒼井優が持ち場を演じて素晴らしかった。松雪泰子はこの映画で初見の女優である。コミカルさと都会的な洗練された美しさを併せ持つ。フラダンスを1人で踊る場面は本物のダンサーだったのかと思わせるが約2ヶ月の特訓を受けたそうで女優としてのプロ根性の賜物だった。男の風呂場に殴りこみをかける場面は迫力満点。
 炭鉱の閉山、ハワイアンセンターの立ち上げへと時代の波にもまれながら展開する泣き笑いの物語で一見の価値がある。しかもこれは実話を元にしているのでリアルなのは当然か。脇役に岸部一徳、富司純子、豊川悦司らの有名な俳優を配して安定感のある映画になった。目頭が熱くなる場面も多々あり、李監督の手腕も大したものです。

映画「ビルマの竪琴」鑑賞2009年04月05日

 1956年日活制作。市川昆監督。モノクロ。竹山道雄原作の同名の小説の映画化。三国連太郎、安井昌二の主演。舞台は第二次世界大戦下のビルマ(現在のミャンマー)となっている。この映画も長い間気になりながら見逃していた1本。
 ビルマなど東南アジアのジャングル地帯に夥しい日本人の戦死者が眠る。彼らの遺体を放置したままでは日本に帰国できないと生涯を遺骨収集に捧げ弔う道を選んだ兵隊の話である。
 『フラガール』同様に実話がベースにあり、心にしみわたるような感動が静かに波打つ。実は水島上等兵のモデルとなった中村一雄氏が最近まで存命であった。2008年の12月17日に老衰で死去されたことを検索で知った。実際にはビルマで僧侶になったのではなく日本に復員後僧侶になり、ビルマに出向いて遺骨収集をされたそうである。
 インドネシア、フィリピンでは現地人になりきって日本に帰らなかった兵隊が居たという報道を見聞したことがある。原作者の竹山道雄の教え子に体験をした兵隊がいたので実話を元に小説ではそのような創作をしてあるわけだ。
 暗い内容の負け戦の映画であるが名曲の男性合唱が織り込まれて癒される。現地人の老婆姿の物売りに扮した北林谷栄が傑作であり、伊藤雄之助の村長役もははんと分る程度の役作りに感心した。クレジットに青木富夫(大山一等兵役)の名前があるのでもしやと思い検索するとやっぱり、小津安二郎の映画で子役として活躍した本人であった。映像では残念ながら特定できなかった。

映画の中の「埴生の宿」2009年04月05日

  映画「ビルマの竪琴」の中で合唱された名曲「埴生の宿」は小津安二郎の映画「麦秋」の導入部分でもバックに流れていたことを思い出した。埴生とは土で出来た粗末な家の意味らしい。WIKからコピーすると

日本語訳詞
埴生(はにふ/はにゅう)の宿も 我が宿 玉の装ひ 羨(うらや)まじ
長閑也(のどかなり)や 春の空 花はあるじ 鳥は友
おゝ 我が宿よ たのしとも たのもしや

書(ふみ)読む窓も 我が窓 瑠璃(るり)の床も 羨まじ
清らなりや 秋の夜半(よは/よわ) 月はあるじ むしは友
おゝ 我が窓よ たのしとも たのもしや

 宿は一般的には有料の宿泊施設(旅館、ホテル、民宿など)に思えるが家のことである。自分が生まれたふるさとのわが家を懐かしむ内容である。他にも未見の『火垂るの墓』、『純情きらり』等に導入されているらしい。
 村の中で伊藤雄之助扮する古老からの饗応に油断しているうちに英軍が取り囲んでいた。おまけに爆薬を積んだ車が外に放置してある。ピンチであるが知恵者が居て丸腰で歌を歌いながら外に出て爆薬を積んだ車を回収に行く。相手を油断させておこうという作戦だ。無事車に着いて回収する際に上に乗って竪琴を弾く。その曲が「埴生の宿」というわけ。無事に回収し、しばし静寂が流れるが英軍の方からも歌声が聞こえる。
 それは元々はイギリスの民謡という「Home, Sweet Home」であった。日本語では「埴生の宿」である。彼らは以下の歌詞を合唱したはずだ。合唱しながら村の中へ入り、そして去っていった。この曲のおかげで戦闘を逃れたのだった。

     Home, Sweet Home
 'Mid pleasures and palaces though we may roam
 Be it ever so humble, there's no place like home!
 A charm from the skies seems to hallow us there
 Which seek thro' the world, is ne'er met elsewhere.
 Home! Home! Sweet, sweet home!
 There's no place like home
 There's no place like home!

 An exile from home splendour dazzles in vain
 Oh, give me my lowly thatch'd cottage again!
 The birds singing gaily that came at my call
 Give me them with the peace of mind dearer than all.
 Home! Home! Sweet, sweet home!
 There's no place like home
 There's no place like home!

ナメコ入りおろし蕎麦2009年04月05日

 先月、越前の銀杏峰、部子山の帰りに平成の湯で食べたおろし蕎麦が大変美味かったので自宅でも手軽に何度か食べた。スーパーで買った蕎麦を熱湯で温めて冷水で冷やし、大根おろしとカツオ節を振り掛ける。その上から汁を掛けて出来上がり、という簡単なやり方である。
 その後おろし蕎麦や越前そばで検索すると沢山ヒットした。蕎麦の本場だけに多彩な蕎麦屋があるようだ。スーパーでも越前そばと銘打つもの、生麺風など色々買って見た。今日はダイエーで買った田舎そば(ゆで)で5割ソバ、太打ち乱切り、といった能書きが書いてある。なるほど山奥で食べる風な食感はする。
 食後はジアスターゼの所為か消化がよく、便通も快調で蕎麦の繊維質、大根の辛味とVitaminCが体に良さそうだ。特に辛味は食欲をそそる。かつお節もパック入りの至ってこだわりのないものであるが辛味と調和し合ってするっと入ってゆく。
 今日は昼食におろしに加えてナメコを茹でて入れてみたら美味しかった。ナメコはおろしにからめて単独で味わうメニューがあるが蕎麦が加わることで食感が変わる。蕎麦だけだと一心不乱に食べてしまうが摘まみにくいナメコがあることで休みながら食べることになる。すべてヘルシーな食材ばかりである。

登山家・原真さん死去の報2009年04月09日

 今朝の朝日新聞を見て原真さんの死去を知って驚いた。まだ72歳という。この時代では早い気がした。
 高所登山、速攻登山のパイオニアとして知られる。著書も多く残された登るだけではない登山家であった。ごく最近も『快楽登山のすすめ』を読んだ。辛口の評論集である。登山雑誌・岳人の創刊者で登山家であり医師でもあった伊藤洋平にも触れている。
 山岳会の先輩が若い頃、ソ連のコムニズム峰に登山した際の隊長であった。それは『乾いた山』に登山記があるらしいがまだ入手していない。シェルパレスの厳しい登山だったと聞く。面識はないが優れた登山家を失ったと思う。

 
東京新聞
[愛知]原真さん死去 ヒマラヤなど「速攻登山」
2009年4月7日

 ヒマラヤなどの高峰を少人数で短期間に登る「速攻登山」の研究と実践で知られた、名古屋市在住の登山家で、医師の原真(はら・まこと)さんが3月20日、脳疾患のため死去していたことが分かった。72歳。葬儀・告別式は本人の遺志で行われなかった。自宅は公表していない。

 同市出身で北海道大に進み本格的に登山を始めた。1970年、日本山岳会東海支部隊がヒマラヤのマカルー南東稜(りょう)から初登頂した際、登攀(とうはん)隊長を務めた。

 その後、大規模な登山隊を編成する従来の極地法でなく、8000メートル級でも少人数が数日で一気に登る速攻登山の理論を提唱。病院経営の傍ら高山研究所を設立し、低圧室での訓練を導入するなど科学的研究に取り組んで登山界に影響を与えた。

 82年には自ら率いた高山研究所隊が、この速攻スタイルでチベットのシシャパンマ登頂に成功。同隊は90年、マカルー北西稜からの登頂も成し遂げた。

 「ドキュメント速攻登山」「快楽登山のすすめ」「北壁に消えた青春」など、著書・編書が多数ある。

春の飛騨・猪臥山2009年04月12日

 蕗の薹無尽蔵なる登山口

 春の山落葉を踏みて歩くなり

 春暑し下着一枚脱ぐ山路

 森深く使者のごとき初音かな

 カラマツの雪間を歩く登山道

 かもしかの居座る平雪残る

 残雪の続く限りの尾根の路

 長閑さや頂上でうどん食ぶ

 蕗味噌と竹輪の乙な味したり

 春の昼筍飯のお弁当

 春雪嶺ぐるりと囲む飛騨の国

 白山の麗かに座すげに白く

 たむしばのひらくばかりのつぼみなり

 まんさくや路を疑うほど長し

 ハルニレの明るき森や山笑う

 残る雪ブナの林の堆肥とも

飛騨・猪臥山を歩く2009年04月13日

 4/12(日)、午前6時40分、地下鉄本郷駅前を出発。メンバーは5人と丁度いい人数である。名古屋ICへはやや少なめか。まだ朝早いこともある。一路、名神から東海北陸道へ。ひるがのSAで休憩に立寄るが満車状態でそのままパスした。やっぱり高速料金の特別割引どこまででも1000円の効果の所為で多いのだ。
 清見ICを出てすぐにR158から飛騨・卯の花街道へ。名古屋から167km、8時20分着。8時33分には出発できたから早いの何のって。ノンストップなら楽々日帰り圏である。2月に来た折は一面の雪景色であるがさすがにもう雪はない。車を停めると蕗の薹が一面に頭を出している。雪解けで湿っている地面は丁度いいのだろう。
 猪臥山遊歩道の登山口は彦谷の右岸側にあり、標高は1010mの等高線がある辺りである。地形図では広い街道が弓、狭い旧道が弓の弦の形に見える。卯の花街道と旧道の合流地を右に見て橋を渡り、左の広場へ寄ると大きな登山口の案内板と絵図がある。
 雑木林はまだ裸木で見通しがいい。落ち葉を踏みながらやや急な登山道を登る。一旦コブを越えて鞍部に下る。また登り返すが暑いので一枚脱いだ。独立標高点・1142mの尾根が北へ下った辺りの1110m付近で北西に登って来た枝尾根の登山道が合流して、後は・1285m、・1456mの尾根を辿る。尾根上には早速残雪もあった。ウグイスの初音も聞いた。
 最初はブナも混じる雑木林からカラマツの植林、またブナの原生林なども掠めながら高度を上げて行く。残雪期、新緑期はいいが万緑の季節は風が通りにくいので夏季は暑いだろう。
 降雪期は山スキーも使えると思う。2月には彦谷の左岸側の林道から尾根を登り、NTTの電波塔の稜線をアップダウンして登った。滑降は彦谷の中央の谷芯を下った。電波塔を絡める稜線から眺めると雪庇が発達していて手強そうだった。しかし、今日登って見ると痩せた部分は山腹をサイドスリップしながらでも何とか使える尾根ではないか、と感じた。むしろ尾根が広い1300mの辺りのRFが大変な気がする。
 陽光を浴びる所では笹が伸びてうるさいが何とかなる。・1285m辺りまでは痩せ尾根を辿るが1300m付近でカラマツの広い尾根になると明るく、雰囲気はがらっと変わる。残雪も思いのほか多い。出発時にロングスパッツは不要と言い切ったが必要だと反省した。すでに登山靴は中まで濡れてしまった。雪に覆われた登山道や道標を確かめながら進むと左に白い山なみが見えた。白山だ。・1456mで一層はっきりした。両白山地、飛越高地の山座同定を楽しむ内にここで昼食をとりたい希望もでたが山頂まで頑張るぞ、という声でパスした。
 ・1456mからは雪庇の落ちた後で雪の堤防のような尾根が山頂まで続いた。適度な固さでピッチも上がる。一旦下った平でカモシカ一頭と出合った。快晴の元で眩しいからサングラスも欲しい。雪眼を警戒しながらも気分は高揚し、後続のメンバーをおいてピッチを上げた。雪間にある登山道を拾い、また残雪をキックしながら登りつめると山頂であった。約3時間の登りである。3/8の銀杏峰部子山以来の登山でなまっていた体が喜んでくれたようだ。
 山頂は2等三角点と標柱を境に彦谷側の雪庇が崩壊してすでに雪もなかった。但し、北面はまだたっぷりあるかに見える。その境で卓上コンロを出し家庭用の鍋でうどんを作る。鶏肉、茸、白菜、牛蒡なども入って中々に美味い。私は既製品の筍飯を弁当にして持参。旬のものなので皆さんから箸が伸びてきた。コンビニの弁当、おにぎりをやめたいと思い、まだ貰っていない12000円の還付金を前倒しでIT電気炊飯器を購入したのである。今日は第一号であった。Sさんお手製の蕗味噌も供されて賑やかな山上の午餐であった。お陰で山頂滞在は1時間を越えた。
 満腹後は山座同定である。猪臥山は白山、大笠山とは32~33km、金剛堂山などの飛越高地は23km、穂高、御嶽は50km、乗鞍岳は45km、黒部五郎岳も50kmくらいの距離ありにあり、眺望は飛騨随一である。日本中央分水嶺と北アルプス、白山山系、飛越高地にぐるりと囲まれた飛騨の国のやや白山よりながら猪伏山は中心地にあるからだ。「飛山濃水」という岐阜県を表す言葉に納得できる。周囲の雪の名峰を眺められる残雪期こそ真価を発揮する。 下山は彦谷左岸側の尾根を下る。このルートは2月のスキー登山で歩いたから90%は同じであった。先ずは祠を経由する。雪の尾根を下るが踏み跡は雪に埋まった小鳥峠からの林道に下っていく。軌道修正して南に振った。かのぶな林はまだ真っ白な残雪に埋まり、NTT電波塔のピークまで雪上漫歩を楽しめた。電波塔からしばらくは雪の林道を下るが背の高いガードレールを潜る所ではもう激減した。
 電波塔のピークから南東に連なるコブの南の鞍部を林道と交差する。ここがガードレールを潜る場所で、林道は彦谷とは違う所へ行く。このピークにもぶなの原生林は残っていた。巨木の風倒木に驚きながら等高線1300mの印刷のある尾根へと導かれて下る。四方八方に枝分かれする尾根の所為で道標の頻度も多くなった。 
 スキー登山の際は立渡林道と・1218mの尾根の北で交わり、密植された桧の尾根を登って登山道に合流した。正規のルートにはスノーシューの跡があった。入口の跡とはここで再び出会い、すぐ先で引き返している。無雪期のこのルートにも踏み跡はあるだろう。
 合流地から先は未知である。頻繁に見た道標がまったく無くなった。マンサクやタムシバのツボミを見ながら下る。基本的には尾根を外さないで歩いているのだが・・・。笹がかぶさってうるさいが見失うことはない。左下には林道も見えるがはるかに高度感がある。どうやら・1047mにつながるのだろう。高度計で1180m辺りで右へ角度を取って曲がった。ここで正規のルートから外れたか、と思った。踏み跡程度のはっきりしない急な道になったからだ。
 それは杞憂だった。植林がらみの笹のうるさい道から高木の森の中へと入って雰囲気が落ち着いてきた。等高線の緩んだ1100m辺りで尾根から谷へ一気に下るとそこに見慣れた字体の道標があるではないか。ああ!これで彦谷へ下れる。下りた所は今は車も通れそうに無い林道である。
 林道を下った。素晴らしい森である。樹木に掲げた看板を見ると「ハルニレ」とある。ここは保護されている森なのである。立渡林道との出あいにある大きな道標を見た。2月にもスノーシューの足跡と共に見たものだった。これで一周したのだった。
 ゲートを越えると卯の花街道である。車を置いた登山口までは約350mもあろうか。車に戻ると時刻は午後4時過ぎ。休みを含めて7時間30分の程よい登山でした。女性たちは蕗の薹を摘みながら中々来ない。現場まで迎えに行くと袋一杯の蕗の薹を誇らしげに見せてくれた。車中でゴミを取りながらのドライブとなった。ただでは帰らないおばさんたちである。
 清見ICから断続的な渋滞で往きの2倍以上の4時間半かかって午後8時過ぎ帰った。飛騨が近くなったと思うワンデイ登山でした。

名古屋市長選スタート2009年04月14日

 4/13、夕方、帰宅中に選挙カーに遭遇した。その後を何と自転車で河村たかし候補が走っていたのでクラクションを鳴らし応援のメッセージを送った。川村氏も応えてくれて手を振った。
 今回は細川昌彦氏、太田よしろう氏、川村氏と他1名の候補者で争われる。現在の松原市長の後継者が自民党推薦の細川氏で、他の候補者が挑戦者となる構図である。太田氏は日本共産党推薦、川村氏は民主党推薦でがっぷり三つ巴の戦いである。
 4/26は誰にするか迷う。心情的には太田氏がいいと思うが革新市政は本山市長時代に共産党よりになった記憶があり、躊躇する。それに名古屋市職員労組がバックとあっては大胆な改革は期待できないだろう。西尾市政、松原市政も街は綺麗にしてくれたが人間味が薄れた気がする。細川氏に何を期待できるか疑問だ。
 すると消去法で行くと河村たかし氏に落ち着く。この人は言うことがはっきりしている。他の候補と違って「由(よ)らしむべし知らしむべからず」の点も心配ない。
 YAHOOの辞書には「《「論語」泰伯から》人民を為政者の施政に従わせることはできるが、その道理を理解させることはむずかしい。転じて、為政者は人民を施政に従わせればよいのであり、その道理を人民にわからせる必要はない。」とある。論語は為政者に便利な思想なのでよく浸透している。しかし、川村氏は為政者側に不利な情報も公開されている。市民税カットなどその最たるものである。
 山岳会にも区長経験者、県公務員、国家公務員がいるが会長を交代した途端に規約をいじるし、規約にない役員会を設けて定例会から情報を遮断してしまった。全員参加は議論百出してまとめるのが困るからだった。この4年間に会員は減少の一途である。入会した当時も国家公務員らが役員を占めていた。事務能力は高いが運営は稚拙であった。10年で会員数2名にまで落ち込んだ。提案もなしのつぶてである。
 つまり公務員主体に任せておくと行政サービスの偏りと低下は避けられない気がする。小さな任意の団体と名古屋市とは比較にならないがリーダーにはどんな人が相応しいか見えてくる。松原市長はないといっていた裏金も実際にはあった。市長が知らないはずがない。やっぱり、オープンが一番だ。大衆の時代にはそれに適合した政策が必要だろう。そんなわけで川村氏になって欲しいが市議とうまく折り合えないようだ。じっくり聞いて是非投票に行きたい。

疑わしきは罰せず2009年04月15日

 今朝の朝日新聞朝刊のトップに「痴漢最高裁が逆転無罪」とでかでかと活字が躍った。3/31の映画「それでもボクはやっていない」の鑑賞記にも書いたとおりのストーリーが事実としてあることに驚かされる。
 被告は防衛医大教授というお堅い職業の人で休職中と断り書きもある。そりゃそうだろう。被害者は女子高校生というから映画の設定と同じである。「物証なし被害者供述のみ」という痴漢事件特有の状況である。
 事件は2006年4月なので丁度3年前だ。一審二審と有罪判決が下され、最高裁に上告しての逆転である。同新聞によると98年以来、下級審で無罪判決は30件以上でたが最高裁で無罪となったのは初めてという。被告にとって執念の無罪判決であるがこの間に失った社会的信用は余りにも大きい。無罪となっても素直には喜べないだろう。
 水面下では泣き寝入りする被害者も多いと思われる。この判決で検察側にはより「慎重な判断が必要」であると指摘。映画では八方手を尽くして人違いの証人を立てたり、状況を証明したが有罪であった。多額の費用を掛けて裁判が行われる以上は有罪を勝ち取りたい検察と裁判官である。「疑わしきは罰せず」というが今回の判決は映画の中の最初の裁判官の言葉そのものであった。

ベイルアウト2009年04月16日

 昨年12月20日号「東洋経済」の特集記事”自動車全滅”を読み直していたらベイルアウトなる単語に出会った。頭に残っていないので当時は読み飛ばしたようだ。自動車全滅が現実になってみると自己破産する下請けが出始めた。
 検索してみるとニコニコ大百科は「bailoutとは、英単語。経済において、企業の倒産を避けるため、資本を貸すもしくは無償供与することを指す。倒産による悪影響が甚だしい場合に行われる。」と解説がある。元々は軍事用語で戦闘機から緊急脱出すること。
 昨年はホンダがいち早く不況対策に乗り出していたがトヨタはまだ余裕があったかに思う。識者は下請け企業にベイルアウトすることになる、といった忠告で使われた。自動車産業は利益収奪産業とも揶揄されるほどコストダウンが厳しいといわれる。社内だけでなく外注仕入れの単価も徹底して叩かれる。それでも従うのは量的拡大があったからだ。
 この所報道された会社だけでも三次下請けの3社が自己破産した。再生を諦めた格好である。トヨタでもホンダ、三菱でも事前に情報の把握はしていたと思うがベイルアウトはしなかった。別の企業で代替する当てがあるのだろう。財務の悪化でベイルアウトすること自体企業機密だから報道はされるまい。
 不況時には銀行の融資が大企業優先になり、小さな会社から貸し剥がしをしてでも大企業にカネを融通する。晴の日に傘を貸して雨の日に取り上げる、とは昔いた小さな会社で経理を担当していた頃からよく聞かされた。銀行も大企業もいざとなれば救ってはくれないからやはり無借金経営は健全といえる。
 下請けを叩いて単価を下げさせ、捻出した巨額の利益でグローバル展開してきたトヨタも世界一の自動車会社となったが今は逆回転し始めたようだ。これからは内部留保=儲けたカネを事業を守るためにベイルアウトすることになるだろう。
 アメリカの自動車会社は殆どの部品を内製する。そのせいでGMの人員整理は大規模になる。その代わりに関連会社の倒産は聞こえてこない。日本の自動車会社の内製率は余り高くないからコストダウンする時はいいがベイルアウトすることになると大変だろう。協力会社群は半端な数ではないからだ。
 日本一元気な愛知県であったが今は失業者が増加中の事態となった。トヨタの業績回復=生産回復により注目が集まる。