俳句 ― 2009年03月01日
ゆうパックにて稿送る2月尽
山の裾広げし経ヶ峰笑う
ふるさとや変わらぬ矢頭の山笑う
三月や縁は遠くなりにけり
春めける墓地に線香あげにけり
読経の続く広間や春ストーブ
磯の香の青海苔かかるお味噌汁
ナバナ食う多少は苦き味したり
あっさりと煮てある粗は桜鯛
刺身食う間は子猫騒がしき
山鳩をじっと狙うや子猫の眼
暖かやショートステイの叔母見舞う
銀杏峰から部子山へスキーツアー ― 2009年03月08日
3月に入り、土曜勤務がまた始まった。リーダーのW君との待ち合わせも約束より40分ほど遅れて名古屋を出た。買い物は長良川SAで済ます。白鳥ICを出て油坂峠を行くが雪のかけらも無い。
福井県に入ってやっと路傍に残っていた。R158は近年もう何度も走った。そして今夜の泊まりはまたあそこにしようと決めた。東屋の中にテントを張り、軽くやって就寝。
午前4時、けたたましいベルに起こされる。2回目でえいやっと起きた。カップ麺を啜り、テントを片付けて5時過ぎ出発。R158で大野市に着いて宝慶寺への道を探す。すぐに見つかり、左折。薄ぼんやりと銀杏峰と部子山が見える。真っ白である。周囲には雪のかけらも無い。
宝慶寺は地名でもあり、廃村のようだ。古寺があるようだが冬の間は拝観出来ない。銀杏峰への案内にしたがって左折する。林内の舗装路を登って行くと広々した憩いの森に着く。ここが銀杏峰の登山口だった。先着の車が2台、テントの若者達が準備中であった。
我々もスキー板をザックにセットして名松新道を6:40出発。名前の通り松の多い尾根である。よく整備されて歩きやすい。樹林越しに大野盆地を眺めると目の前にマンサクの花が咲いていた。先ず咲くから万作というらしい。すぐに林道と交差し、林道の一部を歩くと登山口の看板があり、雑木林の尾根へと導かれていく。
北斜面のせいで残雪が若干はあった。700m付近からは徐々に増えた。横の広がりもある。雪は一面に残っていた。見返りの松などの名前いりで紹介される。900mからは急斜面になり、雪も固い。1150mの前山は尾根上の展望台の趣がある。白山が良く見える。荒島岳も名山の名にふさわしい堂々とした風格がある。単独のテレマーカーが登ってきた。
前山1150mからは一段と雪も増えた。高度を上げてゆくと霧氷も見えた。そこからも写真を取り捲った。余りにも美しいからだ。山頂の一角が見える広場に着いた。信じられないほどの残雪があった。山麓から白く見えたのは新雪が降ったからだろう。
10:40山頂に着く。山頂には単独のテレマーカーが先着していた。そして部子山へ板を履いて巧みに滑って行った。我々も山岳同定もソコソコに11:12出発。快晴なのでサングラスを着けた。スキー板は担いだままつぼ足で歩いた。一旦凹地に下り、登り返したところで板を履く。今回は登り重視で登山靴にしたがやはり山スキー専用ブーツにするべきだった。誤魔化し誤魔化し滑る。1294mの独立標高点を越えて、部子山への最低鞍部に11:55着。1255mで山頂へは標高差200mほど。12:15出発。最後の力を出して登頂に向う。
アイスバーンだがスキー向きの好斜面が続く。ジグザグを繰り返しながら12:55部子山登頂。銀杏峰より若干高いだけだがこちらの方が好展望である。何より白山がいい。大野盆地を眼下に大らかな山容の白山が横たわる。心なしか黄砂の影響で黄色っぽい気がした。大長山、取立山、越前兜、加賀兜(大日山)の加越国境の山々、石徹白の山々、鷲ヶ岳の連嶺、その向うには槍穂高連峰、乗鞍岳、御岳山、能郷白山と越美国境の山々、伊吹山と養老山脈が丸見え。思う存分山岳展望を楽しんだ。
単独のテレマーカー氏が写真を撮ってくれた。我々もお礼に撮ってあげた。先行して滑降していった。テレマークスキー独特のフォームがあっという間にシュプールを残して消えた。山頂は我々2人だけ。W君はご満悦である。しかし、下山を急ぎたい。明るいうちに滑りたいので下山を促すと名残惜しそうにスキーを着けた。14:00、彼もあっという間に滑って行った。雪質は懸念していた最中雪でなくむしろ最高の雪質である。
登山靴の紐を固く締め直す。同時に細引きで靴底と足の甲、足首を締めて固く結ぶと結構固定感がした。固そうに見えた斜面も好天で無風のために緩んだ。山頂の霧氷がシャリシャリと音を立てて落ちたから気温は上がったわけだ。エッジ(角付け)がよく利く。
山頂付近の狭いバーンから最大傾斜線の広いバーンを思い切り滑降する。最低鞍部には10分余りで着いた。ここから1294mを越えて次のコブまで登り返す。コブからは尾根を北へ滑る。藪はないが木立が狭く、時折谷に迂回しながら滑る。斜滑降、後への斜滑降、サイドスリップなど小技を使いながら地形図で最も林道に近い尾根を右折。林道へドンピシャリで下った。ラッキーだった。否W君のRFに軍配を挙げるべきか。
後はひたすら雪のある限りは林道を滑走する。脱いだり、着けたりを繰り返し、16:55、憩いの森に着いた。
平成の湯に疲れを癒して名古屋に帰った。空腹を抑えるために軽く食べたおろし蕎麦がとても旨かった。越前は蕎麦の名産地なんだと思った。今庄IC近くで食べた蕎麦を思い出した。午後8時のETC割引に間にあわすためにハイスピードで疾走して無事白鳥IC入り。今日は名物の渋滞もなし。ゲレンデスキーのシーズンも終ったのかな。
追記
9日の朝、髯を剃ろうと鏡で顔を見ると赤く雪焼けしていてびっくりした。スポーツで汗を流した日の皮膚はつるつるになる。髯も剃刀がよく滑るので綺麗に剃れた。
麗しき春の七曜また始まる 山口誓子
福井県に入ってやっと路傍に残っていた。R158は近年もう何度も走った。そして今夜の泊まりはまたあそこにしようと決めた。東屋の中にテントを張り、軽くやって就寝。
午前4時、けたたましいベルに起こされる。2回目でえいやっと起きた。カップ麺を啜り、テントを片付けて5時過ぎ出発。R158で大野市に着いて宝慶寺への道を探す。すぐに見つかり、左折。薄ぼんやりと銀杏峰と部子山が見える。真っ白である。周囲には雪のかけらも無い。
宝慶寺は地名でもあり、廃村のようだ。古寺があるようだが冬の間は拝観出来ない。銀杏峰への案内にしたがって左折する。林内の舗装路を登って行くと広々した憩いの森に着く。ここが銀杏峰の登山口だった。先着の車が2台、テントの若者達が準備中であった。
我々もスキー板をザックにセットして名松新道を6:40出発。名前の通り松の多い尾根である。よく整備されて歩きやすい。樹林越しに大野盆地を眺めると目の前にマンサクの花が咲いていた。先ず咲くから万作というらしい。すぐに林道と交差し、林道の一部を歩くと登山口の看板があり、雑木林の尾根へと導かれていく。
北斜面のせいで残雪が若干はあった。700m付近からは徐々に増えた。横の広がりもある。雪は一面に残っていた。見返りの松などの名前いりで紹介される。900mからは急斜面になり、雪も固い。1150mの前山は尾根上の展望台の趣がある。白山が良く見える。荒島岳も名山の名にふさわしい堂々とした風格がある。単独のテレマーカーが登ってきた。
前山1150mからは一段と雪も増えた。高度を上げてゆくと霧氷も見えた。そこからも写真を取り捲った。余りにも美しいからだ。山頂の一角が見える広場に着いた。信じられないほどの残雪があった。山麓から白く見えたのは新雪が降ったからだろう。
10:40山頂に着く。山頂には単独のテレマーカーが先着していた。そして部子山へ板を履いて巧みに滑って行った。我々も山岳同定もソコソコに11:12出発。快晴なのでサングラスを着けた。スキー板は担いだままつぼ足で歩いた。一旦凹地に下り、登り返したところで板を履く。今回は登り重視で登山靴にしたがやはり山スキー専用ブーツにするべきだった。誤魔化し誤魔化し滑る。1294mの独立標高点を越えて、部子山への最低鞍部に11:55着。1255mで山頂へは標高差200mほど。12:15出発。最後の力を出して登頂に向う。
アイスバーンだがスキー向きの好斜面が続く。ジグザグを繰り返しながら12:55部子山登頂。銀杏峰より若干高いだけだがこちらの方が好展望である。何より白山がいい。大野盆地を眼下に大らかな山容の白山が横たわる。心なしか黄砂の影響で黄色っぽい気がした。大長山、取立山、越前兜、加賀兜(大日山)の加越国境の山々、石徹白の山々、鷲ヶ岳の連嶺、その向うには槍穂高連峰、乗鞍岳、御岳山、能郷白山と越美国境の山々、伊吹山と養老山脈が丸見え。思う存分山岳展望を楽しんだ。
単独のテレマーカー氏が写真を撮ってくれた。我々もお礼に撮ってあげた。先行して滑降していった。テレマークスキー独特のフォームがあっという間にシュプールを残して消えた。山頂は我々2人だけ。W君はご満悦である。しかし、下山を急ぎたい。明るいうちに滑りたいので下山を促すと名残惜しそうにスキーを着けた。14:00、彼もあっという間に滑って行った。雪質は懸念していた最中雪でなくむしろ最高の雪質である。
登山靴の紐を固く締め直す。同時に細引きで靴底と足の甲、足首を締めて固く結ぶと結構固定感がした。固そうに見えた斜面も好天で無風のために緩んだ。山頂の霧氷がシャリシャリと音を立てて落ちたから気温は上がったわけだ。エッジ(角付け)がよく利く。
山頂付近の狭いバーンから最大傾斜線の広いバーンを思い切り滑降する。最低鞍部には10分余りで着いた。ここから1294mを越えて次のコブまで登り返す。コブからは尾根を北へ滑る。藪はないが木立が狭く、時折谷に迂回しながら滑る。斜滑降、後への斜滑降、サイドスリップなど小技を使いながら地形図で最も林道に近い尾根を右折。林道へドンピシャリで下った。ラッキーだった。否W君のRFに軍配を挙げるべきか。
後はひたすら雪のある限りは林道を滑走する。脱いだり、着けたりを繰り返し、16:55、憩いの森に着いた。
平成の湯に疲れを癒して名古屋に帰った。空腹を抑えるために軽く食べたおろし蕎麦がとても旨かった。越前は蕎麦の名産地なんだと思った。今庄IC近くで食べた蕎麦を思い出した。午後8時のETC割引に間にあわすためにハイスピードで疾走して無事白鳥IC入り。今日は名物の渋滞もなし。ゲレンデスキーのシーズンも終ったのかな。
追記
9日の朝、髯を剃ろうと鏡で顔を見ると赤く雪焼けしていてびっくりした。スポーツで汗を流した日の皮膚はつるつるになる。髯も剃刀がよく滑るので綺麗に剃れた。
麗しき春の七曜また始まる 山口誓子
俳句 銀杏峰と部子山 ― 2009年03月10日
「岳人」4月号を読む ― 2009年03月15日
郵便受けに「岳人」4月号が投函されていた。早速読んだ。2月半ばだったか突然、特集「山がわかる」の情報提供の依頼が舞い込み一晩で仕上げて送っておいた。好きなことは徹夜も厭わずやる。協力へのお返しであろう。
「登山者のための山地図」がそれで眺めているだけで楽しくなる。小学校の5年生くらいだったか、親に日本の白地図を買ってもらい主要な山名、河川名、火山脈、山地名、各地の名産などを書き込むのが楽しくて仕方が無かった。試験のための勉強でなく面白いから調べる学ぶという習慣はこの時代の産物であろう。だからこの特集のある岳人の発売が待ち遠しかった。
真に山が好きな人にはこの特集も受けるはず。登山の技術の練磨や向上に情熱を傾ける人もいるがそんな人は概して山を知らないことに愕然とする。山が好き、といっても知識も技術も判断力も三拍子揃った山屋は本当に少ないのだろう。
「いまさら聞けない山の用語辞典」も恥をかく寸前に助かった。実は先週12日に会報の編集会議で校正をしていて「天場」を見つけた。これは変換ミスと思って「テン場」に訂正したが今日この辞典を読んですぐに担当者に原文に戻すべくメールを打った。昔は天幕と呼んでいたから天場なのでテント場の略ばかりではなかったのだ。執筆者は私よりかなり若いから尚違和感はあるが。多分父親が名うての登山家であり、母親もかなりなアルピニストだから親から子への伝承だろう。
「地図からわかる山」も大いに首肯できる内容である。かつて奥三河の山を歩いた折、宇連山の近くに鉛筆の尖ったような山頂の山を発見した。地図で調べると三角点だけで無名であるが登ってみることにした。地形図「海老」を読むと円い等高線が同心円を描いている。調べると地元では「高畑」と呼んでいた。小学校の校歌の歌詞に歌われ、昔は馬草の採草地だった由。後に山の本を書いた際この山も収録した。それを読まれた地元のY氏が私の山を取り上げてくれてありがとう、といってきたそうだ。
木暮理太郎は「東京は望岳都」と言っていたらしい。実際東京から見える山々の同定を研究していた。それには地形図が頭にあり、尚且つ登っていないと的確な同定は出来ない。急な尾根の登り、たおやかな峠道などは体に記憶されるから遠くからでも「わかる」といえる。
実際、飛騨・傘山から白山はわかる、そのとなりのかなり離れた大きな山がわからないので地図で調べる。見た感じは猿ヶ馬場山の山塊かと思う。ところがそれは三方崩山と奥三方岳であった。奥三方岳は登っていないので体が覚えていないのだ。白山からあんなに離れているものか、と今でも思う。地形図では隣り合った衛星峰(前衛)に過ぎないのに山稜から大きく離れているからだった。
写真は昨年6月に撮った大笠山からのもので傘山とは南北正反対になるが参照するにはいいだろう。
ともあれ山の楽しみを倍加するこの号が多くに読まれることを期待したい。地図を楽しめれば脱百名山、脱ガイドブックである。ガイドブックはガイドされている隣りの山か離れている山を登る参考にしたい。
「登山者のための山地図」がそれで眺めているだけで楽しくなる。小学校の5年生くらいだったか、親に日本の白地図を買ってもらい主要な山名、河川名、火山脈、山地名、各地の名産などを書き込むのが楽しくて仕方が無かった。試験のための勉強でなく面白いから調べる学ぶという習慣はこの時代の産物であろう。だからこの特集のある岳人の発売が待ち遠しかった。
真に山が好きな人にはこの特集も受けるはず。登山の技術の練磨や向上に情熱を傾ける人もいるがそんな人は概して山を知らないことに愕然とする。山が好き、といっても知識も技術も判断力も三拍子揃った山屋は本当に少ないのだろう。
「いまさら聞けない山の用語辞典」も恥をかく寸前に助かった。実は先週12日に会報の編集会議で校正をしていて「天場」を見つけた。これは変換ミスと思って「テン場」に訂正したが今日この辞典を読んですぐに担当者に原文に戻すべくメールを打った。昔は天幕と呼んでいたから天場なのでテント場の略ばかりではなかったのだ。執筆者は私よりかなり若いから尚違和感はあるが。多分父親が名うての登山家であり、母親もかなりなアルピニストだから親から子への伝承だろう。
「地図からわかる山」も大いに首肯できる内容である。かつて奥三河の山を歩いた折、宇連山の近くに鉛筆の尖ったような山頂の山を発見した。地図で調べると三角点だけで無名であるが登ってみることにした。地形図「海老」を読むと円い等高線が同心円を描いている。調べると地元では「高畑」と呼んでいた。小学校の校歌の歌詞に歌われ、昔は馬草の採草地だった由。後に山の本を書いた際この山も収録した。それを読まれた地元のY氏が私の山を取り上げてくれてありがとう、といってきたそうだ。
木暮理太郎は「東京は望岳都」と言っていたらしい。実際東京から見える山々の同定を研究していた。それには地形図が頭にあり、尚且つ登っていないと的確な同定は出来ない。急な尾根の登り、たおやかな峠道などは体に記憶されるから遠くからでも「わかる」といえる。
実際、飛騨・傘山から白山はわかる、そのとなりのかなり離れた大きな山がわからないので地図で調べる。見た感じは猿ヶ馬場山の山塊かと思う。ところがそれは三方崩山と奥三方岳であった。奥三方岳は登っていないので体が覚えていないのだ。白山からあんなに離れているものか、と今でも思う。地形図では隣り合った衛星峰(前衛)に過ぎないのに山稜から大きく離れているからだった。
写真は昨年6月に撮った大笠山からのもので傘山とは南北正反対になるが参照するにはいいだろう。
ともあれ山の楽しみを倍加するこの号が多くに読まれることを期待したい。地図を楽しめれば脱百名山、脱ガイドブックである。ガイドブックはガイドされている隣りの山か離れている山を登る参考にしたい。
地形図の話 三角点と図根点 ― 2009年03月17日
先だって以下の内容で国土地理院に問い合わせた。
内容: 地形図「尾鷲」の八鬼山の標高の件
20万地勢図「伊勢」昭和44年版 653の標高点
5万図「尾鷲」平成7年修正版 627.6 標石のある標高点
2.5万図「尾鷲」昭和48年版 627.6 4等三角点
ウオッちず版2.5万図「尾鷲」は修正年不明 647の標高点
よく見ると矢ノ川峠の北のピークにはNHK矢ノ川テレビ中継局と印刷があるがネット版には記号だけである。市販地図との違いはあるとネットにはことわりがあるが標高はどれが正しいのですか。
今日以下のような回答があった。
八鬼山の標高につきましては、刊行図の縮尺(2万5千分1地形図・5万分1地形図・20万分の1地勢図)および刊行年により表示が異なっており、混乱を招いた事を深くお詫び申し上げます。
八鬼山の標高ですが、平成15年から647メートルとしています。
地図閲覧サービスの地図データですが、刊行しています2万5千分の1地形図(紙地図)の地図データを元にしています。
2万5千分の1地形図「尾鷲」の最新版は平成17年8月刊行ですが、
地図閲覧サービスの「尾鷲」の地図データは、この最新版の地図データを使用しています。ご覧になられていますお手元の2万5千分の1地形図「尾鷲」(昭和48年修正・昭和50年刊行)で表示しています627.6ですが図根点「荒神山」の標高です。標石のある標高点で表示するところを、間違って三角点で表示していました。申し訳ございません。
同様に5万分1地形図「尾鷲」平成7年修正版の627.6も図根点「荒神山」の標高です。
また、昭和43年修正の20万分の1地勢図では653と表示していましたが、昭和48年修正の図では標高点数値は削除しています。現在刊行されています20万分の1地勢図(平成18年修正)では2万5千分1地形図と同じく647で表示しています。
なお、「NHK矢ノ川テレビ中継局」の注記ですが、現在は電波塔の記号としています。昭和42年に2万5千分の1地形図「尾鷲」を作成した時点では、まだ中継局は多くなく、目標物として注記していましたが、
現在は民放の中継局、電波塔も増えたため、平成15年の修正時に記号へ変えています。
説明がわかりづらく申し訳ございませんが、ご理解いただければ幸いです。今後ともよろしくお願いいたします。
以上のように丁寧な回答でした。
要するに当局のミスで標高が変更されたりすることがあるということです。この場合は三角点は△で表記されるが図根点はない。最新の地形図を見ないといけないなと思います。
インターネットの検索では殆どが627mとしているが平成18年の福井敦美『紀北の山』、平成20年の津・ラネージュ山岳会『三重の百山』とも647mとあり、抜かりない調査は流石である。
以前にも地形図のミスを見つけてメールで問い合わせたことがある。
2.5万図「田口」の奥三河・岩岳は標高が記載されていなかった。最新版では地形図に1051.0mの標高が掲載された。小数点一位まであるので4等三角点が埋まったか、と急いで登りに行ったら何もない。周囲を探し回ったがやはりないので帰ってメールで問い合わせたらミスと分った。独立標高点1051mが正解である。山名のある山で標高の記載のない山になるだけ標高を記載して行く方針と知った。地道な仕事であり、遅遅として進まないように見えても着実に変わっていくのだと思う。
内容: 地形図「尾鷲」の八鬼山の標高の件
20万地勢図「伊勢」昭和44年版 653の標高点
5万図「尾鷲」平成7年修正版 627.6 標石のある標高点
2.5万図「尾鷲」昭和48年版 627.6 4等三角点
ウオッちず版2.5万図「尾鷲」は修正年不明 647の標高点
よく見ると矢ノ川峠の北のピークにはNHK矢ノ川テレビ中継局と印刷があるがネット版には記号だけである。市販地図との違いはあるとネットにはことわりがあるが標高はどれが正しいのですか。
今日以下のような回答があった。
八鬼山の標高につきましては、刊行図の縮尺(2万5千分1地形図・5万分1地形図・20万分の1地勢図)および刊行年により表示が異なっており、混乱を招いた事を深くお詫び申し上げます。
八鬼山の標高ですが、平成15年から647メートルとしています。
地図閲覧サービスの地図データですが、刊行しています2万5千分の1地形図(紙地図)の地図データを元にしています。
2万5千分の1地形図「尾鷲」の最新版は平成17年8月刊行ですが、
地図閲覧サービスの「尾鷲」の地図データは、この最新版の地図データを使用しています。ご覧になられていますお手元の2万5千分の1地形図「尾鷲」(昭和48年修正・昭和50年刊行)で表示しています627.6ですが図根点「荒神山」の標高です。標石のある標高点で表示するところを、間違って三角点で表示していました。申し訳ございません。
同様に5万分1地形図「尾鷲」平成7年修正版の627.6も図根点「荒神山」の標高です。
また、昭和43年修正の20万分の1地勢図では653と表示していましたが、昭和48年修正の図では標高点数値は削除しています。現在刊行されています20万分の1地勢図(平成18年修正)では2万5千分1地形図と同じく647で表示しています。
なお、「NHK矢ノ川テレビ中継局」の注記ですが、現在は電波塔の記号としています。昭和42年に2万5千分の1地形図「尾鷲」を作成した時点では、まだ中継局は多くなく、目標物として注記していましたが、
現在は民放の中継局、電波塔も増えたため、平成15年の修正時に記号へ変えています。
説明がわかりづらく申し訳ございませんが、ご理解いただければ幸いです。今後ともよろしくお願いいたします。
以上のように丁寧な回答でした。
要するに当局のミスで標高が変更されたりすることがあるということです。この場合は三角点は△で表記されるが図根点はない。最新の地形図を見ないといけないなと思います。
インターネットの検索では殆どが627mとしているが平成18年の福井敦美『紀北の山』、平成20年の津・ラネージュ山岳会『三重の百山』とも647mとあり、抜かりない調査は流石である。
以前にも地形図のミスを見つけてメールで問い合わせたことがある。
2.5万図「田口」の奥三河・岩岳は標高が記載されていなかった。最新版では地形図に1051.0mの標高が掲載された。小数点一位まであるので4等三角点が埋まったか、と急いで登りに行ったら何もない。周囲を探し回ったがやはりないので帰ってメールで問い合わせたらミスと分った。独立標高点1051mが正解である。山名のある山で標高の記載のない山になるだけ標高を記載して行く方針と知った。地道な仕事であり、遅遅として進まないように見えても着実に変わっていくのだと思う。
鯖田豊之『肉食の思想』を読む ― 2009年03月20日
中公新書92で初版は1966年1月25日と43年に亘って読み継がれるロングセラーの1冊である。2008年4月25日に57版がでている。他に2007年に中公文庫にも収録された。こちらの解説も読みたい。
読後感は文句なしに面白い。西洋史を卑近な食事のあり方(形態)から解き明かして行く展開。それを裏付けるエピソードが挿入されて読み易い。
肉食はヨーロッパの牧畜に適した風土から来たものであること。背景には穀物生産では充分に満たされなかったことが挙げられる。主食と副食を区別しない。植物の生育環境が牛が食む丁度いいところで止まる。こんな風に解説を進めて行く。
かつてはヨーロッパ人は狩猟民族であるから肉食も必然的と思った。日本は農耕(稲作)民族だから穀物を主食にしたと理解をしたものだった。実際米は優れた完全栄養食品であろう。それらは受け売りの知識に過ぎなかった。
柳田國男の『後狩詞記』があるように九州の椎葉村のような僻地では稲作が困難だったから狩猟が伝統的に行われ、伝承されていた。日本でも肉食は行われていたのだった。ヨーロッパも地中海周辺の文明発祥の地ではなく大陸の僻地である。食い詰めると収奪の論理が働くのも道理である。
欧米人は狩猟民族だから農耕民族の日本人は投資ではやられっぱなし(収奪されっ放し)、という話がどこかに書いてあった。しかし、日本にも古くから狩猟の伝統はあったし、江戸時代の米相場は先物売買の走りとして青田買い、青田売りが開発されて差金決済が行われていたのである。投資も相場も為替もみな欧米からの輸入でなく日本で発達したのである。日本が負け続けているのは情報収集と分析、操作の点であろう。あらゆる投資はどこか胡散臭いし、インサイダーすれすれでないと勝てない。一時的に勝っても何かのきっかけ(サブプライム問題)でガラを食いやられる。
閑話休題。著者は「人間中心のキリスト教」と題して第三章を展開しています。まずある人のサイトにアクセスしました。
「ヒューマニズム思想(人間中心主義) しかし、一般的に私たちは動物と人間が同じだとは考えません。動物を食べたり、実験に使うことはよいが、人間を食べたり、人体実験をするのは良くないと考えるのです。また、弱者は死ねば良いとも考えません。人間は、他の動物とは違うというヒューマニズム(人間中心主義)の思想です。
このように考えれば、肉屋に人肉が並ぶことはありませんし、弱者も助けてもらえますし、私たちは安心して暮らしていけます。(人間中心主義と人道主義は違います。人道主義に反対する人はあまりいないでしょう。)
このヒューマニズム思想(人間中心主義)をすすめると、人間こそがこの世で一番偉い存在だ、人間こそ宇宙の中心だということになります。人間に命令する存在などありませんし、人間の幸せだけを考えればよいのです。人間の生活のためなら、他の動物を犠牲にしても良い、森をなくしても良いという考えです。
ある時期、私たちはそのように考えていました。昔、尾瀬に観光客用の道を作ろうとしたとき、一人の青年が自然が壊されると反対したそうです。しかし、ほとんどの人に理解してもらえませんでした。道路ができる、観光客が来る、町が栄える、このどこが悪いのかと。」
ここでは人間とは人類一般のように理解されますが著者は人間とはキリスト教徒たるヨーロッパ人に限られる、と規定しています。生き抜くためには高い肉食率に頼らざるを得なかったキリスト教徒たるヨーロッパ人に断絶論理を生み出した、と書いています。これは階層乃至階級に結びついてゆくというのです。貴族が支配階級、農民が被支配階級ということです。マルクス主義もこうした階層の断絶が背景にあるというのだ。日本にも身分制度はあったが明治維新後、特に戦後は完全に崩壊した。田中角栄が首相になるなんてヨーロッパでは考えられないだろう。国民平等の才覚主義の国だから日本経済は大きく繁栄したともいえる。
第五章のヨーロッパの社会意識の中で「他人のことが気になる」という見出しは面白い。ヨーロッパ人は他人が自分と同じでないと我慢できない、一種の「おせっかい精神」と指摘する。これは意外であった。異端のキリスト教徒、異教徒には迫害し、無宗教は不利益に対応する。怖い社会なのだ。都市計画を採り上げても全体の調和を乱さないように色々注文が付けられるそうだ。日本のバラバラな都市景観と比較してヨーロッパは統一的で美しいといって誉める場合に使われるが実際は強制されているのである。これも肉食の文化からくるのだろう。
肉食は贅沢からきたものではなかった。腹を満たすだけの穀物がとれないから主食、副食と区別することなく食べられていたのだった。日本ではおかず、ご馳走、薬食い(秋の季語)で主食とは成りえなかった。
さて現代日本に生きる私は「メタボリック」なる言葉に脅されて3年前に肉を断った。そしたら風邪は引きやすくなり、寒さに弱くなるわ、咳が30日以上も止まらずでえらい目にあった。肉を食べ過ぎていたわけではないのに肉断ちをすれば体に変調を来たしたのだった。中高年になったら肉を減らせ、魚にせよ、というのはウソである。日本一の大金持ちだった古川為三郎さんは100歳で死ぬ寸前まで食事ごとに一枚の肉を食していたそうだ。体に悪いのは他に原因があるのだ。
自動車会社に勤務する実弟がブラジル工場建設に駆り出されて驚いたのは昼食に鶏の形のままどんと出されたことだったらしい。この食文化もヨーロッパ譲りだろうか。
読後感は文句なしに面白い。西洋史を卑近な食事のあり方(形態)から解き明かして行く展開。それを裏付けるエピソードが挿入されて読み易い。
肉食はヨーロッパの牧畜に適した風土から来たものであること。背景には穀物生産では充分に満たされなかったことが挙げられる。主食と副食を区別しない。植物の生育環境が牛が食む丁度いいところで止まる。こんな風に解説を進めて行く。
かつてはヨーロッパ人は狩猟民族であるから肉食も必然的と思った。日本は農耕(稲作)民族だから穀物を主食にしたと理解をしたものだった。実際米は優れた完全栄養食品であろう。それらは受け売りの知識に過ぎなかった。
柳田國男の『後狩詞記』があるように九州の椎葉村のような僻地では稲作が困難だったから狩猟が伝統的に行われ、伝承されていた。日本でも肉食は行われていたのだった。ヨーロッパも地中海周辺の文明発祥の地ではなく大陸の僻地である。食い詰めると収奪の論理が働くのも道理である。
欧米人は狩猟民族だから農耕民族の日本人は投資ではやられっぱなし(収奪されっ放し)、という話がどこかに書いてあった。しかし、日本にも古くから狩猟の伝統はあったし、江戸時代の米相場は先物売買の走りとして青田買い、青田売りが開発されて差金決済が行われていたのである。投資も相場も為替もみな欧米からの輸入でなく日本で発達したのである。日本が負け続けているのは情報収集と分析、操作の点であろう。あらゆる投資はどこか胡散臭いし、インサイダーすれすれでないと勝てない。一時的に勝っても何かのきっかけ(サブプライム問題)でガラを食いやられる。
閑話休題。著者は「人間中心のキリスト教」と題して第三章を展開しています。まずある人のサイトにアクセスしました。
「ヒューマニズム思想(人間中心主義) しかし、一般的に私たちは動物と人間が同じだとは考えません。動物を食べたり、実験に使うことはよいが、人間を食べたり、人体実験をするのは良くないと考えるのです。また、弱者は死ねば良いとも考えません。人間は、他の動物とは違うというヒューマニズム(人間中心主義)の思想です。
このように考えれば、肉屋に人肉が並ぶことはありませんし、弱者も助けてもらえますし、私たちは安心して暮らしていけます。(人間中心主義と人道主義は違います。人道主義に反対する人はあまりいないでしょう。)
このヒューマニズム思想(人間中心主義)をすすめると、人間こそがこの世で一番偉い存在だ、人間こそ宇宙の中心だということになります。人間に命令する存在などありませんし、人間の幸せだけを考えればよいのです。人間の生活のためなら、他の動物を犠牲にしても良い、森をなくしても良いという考えです。
ある時期、私たちはそのように考えていました。昔、尾瀬に観光客用の道を作ろうとしたとき、一人の青年が自然が壊されると反対したそうです。しかし、ほとんどの人に理解してもらえませんでした。道路ができる、観光客が来る、町が栄える、このどこが悪いのかと。」
ここでは人間とは人類一般のように理解されますが著者は人間とはキリスト教徒たるヨーロッパ人に限られる、と規定しています。生き抜くためには高い肉食率に頼らざるを得なかったキリスト教徒たるヨーロッパ人に断絶論理を生み出した、と書いています。これは階層乃至階級に結びついてゆくというのです。貴族が支配階級、農民が被支配階級ということです。マルクス主義もこうした階層の断絶が背景にあるというのだ。日本にも身分制度はあったが明治維新後、特に戦後は完全に崩壊した。田中角栄が首相になるなんてヨーロッパでは考えられないだろう。国民平等の才覚主義の国だから日本経済は大きく繁栄したともいえる。
第五章のヨーロッパの社会意識の中で「他人のことが気になる」という見出しは面白い。ヨーロッパ人は他人が自分と同じでないと我慢できない、一種の「おせっかい精神」と指摘する。これは意外であった。異端のキリスト教徒、異教徒には迫害し、無宗教は不利益に対応する。怖い社会なのだ。都市計画を採り上げても全体の調和を乱さないように色々注文が付けられるそうだ。日本のバラバラな都市景観と比較してヨーロッパは統一的で美しいといって誉める場合に使われるが実際は強制されているのである。これも肉食の文化からくるのだろう。
肉食は贅沢からきたものではなかった。腹を満たすだけの穀物がとれないから主食、副食と区別することなく食べられていたのだった。日本ではおかず、ご馳走、薬食い(秋の季語)で主食とは成りえなかった。
さて現代日本に生きる私は「メタボリック」なる言葉に脅されて3年前に肉を断った。そしたら風邪は引きやすくなり、寒さに弱くなるわ、咳が30日以上も止まらずでえらい目にあった。肉を食べ過ぎていたわけではないのに肉断ちをすれば体に変調を来たしたのだった。中高年になったら肉を減らせ、魚にせよ、というのはウソである。日本一の大金持ちだった古川為三郎さんは100歳で死ぬ寸前まで食事ごとに一枚の肉を食していたそうだ。体に悪いのは他に原因があるのだ。
自動車会社に勤務する実弟がブラジル工場建設に駆り出されて驚いたのは昼食に鶏の形のままどんと出されたことだったらしい。この食文化もヨーロッパ譲りだろうか。
まぼろしのアマゴの甘露煮を求めて ― 2009年03月22日
昨日は好天に恵まれ、夜は星が出ていた。今日は未明からテントのフライを雨が叩き始めた。春の嵐の到来である。雨足は強くなるばかり。残念ながら天気予報の通りである。こんな雨の中でも鳥は啼いている。孟浩然の名句の通りである。
春眠 暁を覚えず
処処 啼鳥を聞く
夜来 風雨の声
花落つること 知る多少
4時の目覚ましを見送り、今日をどう過ごすか。とりあえず起きて食事後、濡れたテントを撤収する。折角の石徹白の山スキーは撤退するがせめて次回の登山のためにと下見をした。杉山経由のルートである。フキノトウを採る、とW君の希望。スーパーバッグに一杯になってようやく石徹白を後にした。
桧峠を越えてR156 への途次、村間ヶ池を経由したが大日ヶ岳への新登山口は見つからず、残念。小洞を経てR156に合流。白鳥のスーパーでアマゴの甘露煮を探すがない。かつて売っていたスーパーにも寄ったが閉鎖したままだった。仕方なく郡上八幡へ転戦した。ここもスーパーを見たがないので歩いていた主婦に聞くと教えてくれた。
本来は獣の肉が主の「杉錠」に入ってやっとアマゴの甘露煮を手に入れた。鍋を見せてもらうと直径約7,80センチの大鍋にびっしり敷き詰めてたれで煮てある。これで奥美濃の味を楽しめる、といそいそ帰ろうとしたがまた寄り道があった。転倒して腰を痛めて仕事も登山も休戦中のKさんを瀬戸市に見舞った。W君が甘露煮2尾を手土産にして訪問。元気で何よりでした。
春眠 暁を覚えず
処処 啼鳥を聞く
夜来 風雨の声
花落つること 知る多少
4時の目覚ましを見送り、今日をどう過ごすか。とりあえず起きて食事後、濡れたテントを撤収する。折角の石徹白の山スキーは撤退するがせめて次回の登山のためにと下見をした。杉山経由のルートである。フキノトウを採る、とW君の希望。スーパーバッグに一杯になってようやく石徹白を後にした。
桧峠を越えてR156 への途次、村間ヶ池を経由したが大日ヶ岳への新登山口は見つからず、残念。小洞を経てR156に合流。白鳥のスーパーでアマゴの甘露煮を探すがない。かつて売っていたスーパーにも寄ったが閉鎖したままだった。仕方なく郡上八幡へ転戦した。ここもスーパーを見たがないので歩いていた主婦に聞くと教えてくれた。
本来は獣の肉が主の「杉錠」に入ってやっとアマゴの甘露煮を手に入れた。鍋を見せてもらうと直径約7,80センチの大鍋にびっしり敷き詰めてたれで煮てある。これで奥美濃の味を楽しめる、といそいそ帰ろうとしたがまた寄り道があった。転倒して腰を痛めて仕事も登山も休戦中のKさんを瀬戸市に見舞った。W君が甘露煮2尾を手土産にして訪問。元気で何よりでした。
日照岳の春スキー遭難 ― 2009年03月22日
ある検索をしていたら日照岳の遭難が目を引いた。2009年3月1日に単独で山スキーに行って帰らず、岐阜県警のヘリ捜索、友人らの救助活動にも拘らず、発見できなかった。県警は捜索を中断、今後は家族や友人らの仲間での捜索活動が頼りであろう。
日照岳は2000年3月15日にも雪庇踏み抜きでの転落死亡事故があった。山スキーヤーにはパウダースキーの山として知られている。一昨年の2月、白弓スキー場であった人も日照岳で滑ってきた、と言っていた。人気があるようだ。
ハッと思って篠崎純一さん(現在はエベレスト遠征中)のHPをチエックすると彼も1月に単独で登山し、途中から沢を滑降している。最近はインターネットで情報を収集して、行く人が多いようだが雪山での対応力や判断力はあるのかどうか。若い、スキーが上手い、というだけで危険の多い日照岳はどうかと思う。
遭難した人はパウダーが好きなようだが昨年も五竜遠見尾根で若いパウダースキーヤーが雪崩で亡くなっている。篠崎さんと同じ沢を滑降している可能性は高いが捜索は済んでいるだろうか。沢のどこかで雪崩にやられているように思う。雪の中ですでに20日以上経過した今は生存の望みは少ないが。
同じ飛騨の猪伏山でも雪は少ないが固い根雪の上に2月になってから降った春の雪がふわっと乗っており、雪崩の条件は揃っている。それにエッジを効かせると雪面が寸断され、転落したこともあった。
冬の大山でも雪解け水を飲みながら長いことかかって奇跡的に生還した例がある。無事を祈りたい。
「山の安全対策」からのコピー&ペースト
日照岳遭難報告書(中高年登山の問題点)
トップページ>遭難報告書
2000年3月15日 12:50頃
●場所
岐阜県 大野郡 白川村 日照岳 1751.3mと1645mとの鞍部。(写真のヘリの下)
●メンバー
2名(ともに50代)
●遭難発生時の状況
雪庇上をAが先行し、Bは写真撮影後そのあとを追った。ところが、後発のBのみ雪庇の崩落に巻き込まれてしまった。
1534mより、3月18日 1645mより日照岳、4月16日
カンジキ発見、5月4日
発掘、5月4日 収容、5月4日
●遭難発生時の行動と事故原因の推定
目撃者はいない。最後に撮影された写真と当時の証言をもとに、事故原因を推定した。Bが写真撮影を思いつき立ち止まった脇を、Aがそのまま通過し、雪庇上を進行した。残されたBはカメラを取り出し撮影を行った。ここまでは証言通り、以下は推測。
このとき正面の山と先行するAの後姿との位置関係(カメラアングル)を考慮して、若干風下側へ移動して撮影を行ったものと思われる。その後Bはカメラをウエストポーチに収納し、そのままAの後を追った。しかし、そのときのBのルートはAよりも(わずかに)風下側へそれたまま進行した。
Aが通過した時にはかろうじてバランスを保っていた雪庇も、Bの通過により一気に崩壊した。すなわち、A・B二人の歩いたルートが微妙にずれていたものとすれば、発生し得る現象である。(※ 積雪には粘性やクリープ現象があり、時間経過に伴って後続者のみ事故に遭うケースは、それほど珍しくはないようだ)
●遭難の背景と間接要因
文部科学省立山登山研修所の大日岳遭難の10日後であり、この年の異常な積雪(2月の大雪)を指摘する人もいる。登山開始時刻が遅く、最も気温が上昇する時刻(13:00頃)に、雪庇を通過した。
また転勤や葬儀などの慌しい中での登山であった上に、藪山であるため登山期間がごく限られていることもあって、さまざまな「あせり」が幾重にも重なった状況が指摘できる。
●防止策
二名には本格的な冬山の経験がなく、現場は両側とも谷底まで遮るもののない痩せ尾根。風上側を巻けば避けられたと思われるが、そこは樹木が一切無い草付きの急斜面で底雪崩が頻発する地形であり、それも勧められない。結果論であるが、雪庇を認めた段階で中止すべきではなかったのか・・・。
●今後の課題
この遭難は数多くの問題点を投げ掛けた。①山岳保険への未加入②個人山行の無管理③安全登山の教育訓練の不足④さまざまな山岳会への重複入会⑤退会者の管理が不透明・・・。中でも一番の問題点は、⑥冬山経験のない中高年が「季節を問わない登山」へと容易にエスカレートし得る点にあるのではないか?
以上
日照岳は2000年3月15日にも雪庇踏み抜きでの転落死亡事故があった。山スキーヤーにはパウダースキーの山として知られている。一昨年の2月、白弓スキー場であった人も日照岳で滑ってきた、と言っていた。人気があるようだ。
ハッと思って篠崎純一さん(現在はエベレスト遠征中)のHPをチエックすると彼も1月に単独で登山し、途中から沢を滑降している。最近はインターネットで情報を収集して、行く人が多いようだが雪山での対応力や判断力はあるのかどうか。若い、スキーが上手い、というだけで危険の多い日照岳はどうかと思う。
遭難した人はパウダーが好きなようだが昨年も五竜遠見尾根で若いパウダースキーヤーが雪崩で亡くなっている。篠崎さんと同じ沢を滑降している可能性は高いが捜索は済んでいるだろうか。沢のどこかで雪崩にやられているように思う。雪の中ですでに20日以上経過した今は生存の望みは少ないが。
同じ飛騨の猪伏山でも雪は少ないが固い根雪の上に2月になってから降った春の雪がふわっと乗っており、雪崩の条件は揃っている。それにエッジを効かせると雪面が寸断され、転落したこともあった。
冬の大山でも雪解け水を飲みながら長いことかかって奇跡的に生還した例がある。無事を祈りたい。
「山の安全対策」からのコピー&ペースト
日照岳遭難報告書(中高年登山の問題点)
トップページ>遭難報告書
2000年3月15日 12:50頃
●場所
岐阜県 大野郡 白川村 日照岳 1751.3mと1645mとの鞍部。(写真のヘリの下)
●メンバー
2名(ともに50代)
●遭難発生時の状況
雪庇上をAが先行し、Bは写真撮影後そのあとを追った。ところが、後発のBのみ雪庇の崩落に巻き込まれてしまった。
1534mより、3月18日 1645mより日照岳、4月16日
カンジキ発見、5月4日
発掘、5月4日 収容、5月4日
●遭難発生時の行動と事故原因の推定
目撃者はいない。最後に撮影された写真と当時の証言をもとに、事故原因を推定した。Bが写真撮影を思いつき立ち止まった脇を、Aがそのまま通過し、雪庇上を進行した。残されたBはカメラを取り出し撮影を行った。ここまでは証言通り、以下は推測。
このとき正面の山と先行するAの後姿との位置関係(カメラアングル)を考慮して、若干風下側へ移動して撮影を行ったものと思われる。その後Bはカメラをウエストポーチに収納し、そのままAの後を追った。しかし、そのときのBのルートはAよりも(わずかに)風下側へそれたまま進行した。
Aが通過した時にはかろうじてバランスを保っていた雪庇も、Bの通過により一気に崩壊した。すなわち、A・B二人の歩いたルートが微妙にずれていたものとすれば、発生し得る現象である。(※ 積雪には粘性やクリープ現象があり、時間経過に伴って後続者のみ事故に遭うケースは、それほど珍しくはないようだ)
●遭難の背景と間接要因
文部科学省立山登山研修所の大日岳遭難の10日後であり、この年の異常な積雪(2月の大雪)を指摘する人もいる。登山開始時刻が遅く、最も気温が上昇する時刻(13:00頃)に、雪庇を通過した。
また転勤や葬儀などの慌しい中での登山であった上に、藪山であるため登山期間がごく限られていることもあって、さまざまな「あせり」が幾重にも重なった状況が指摘できる。
●防止策
二名には本格的な冬山の経験がなく、現場は両側とも谷底まで遮るもののない痩せ尾根。風上側を巻けば避けられたと思われるが、そこは樹木が一切無い草付きの急斜面で底雪崩が頻発する地形であり、それも勧められない。結果論であるが、雪庇を認めた段階で中止すべきではなかったのか・・・。
●今後の課題
この遭難は数多くの問題点を投げ掛けた。①山岳保険への未加入②個人山行の無管理③安全登山の教育訓練の不足④さまざまな山岳会への重複入会⑤退会者の管理が不透明・・・。中でも一番の問題点は、⑥冬山経験のない中高年が「季節を問わない登山」へと容易にエスカレートし得る点にあるのではないか?
以上
味な記憶 川魚談義 ― 2009年03月23日
小学生の頃、近くの川でよくシラハエを釣った。釣るだけでなく蚕の蛹を粉末にして布袋にいれて長さ25センチから30センチはある大きな電球のような形をしたビンの口にセットする。これを川瀬の石を除いてセットしておく。蛹が下流へ流れ出て小魚が一杯に集まり、ビンに入ると抜けられない仕掛けになっている。頃合を見て様子を見に行くとビンには魚が溜まっており、上げる。
こんなことを毎日繰り返して行く。捕った魚は腹をとって串に刺して軽く焼き、外に干す。これで余分な水分が飛び、身がしまり、旨味も増す。冬に入る前に大きな鍋で醤油、砂糖などの調味料で飴炊きにする。この味を舌が覚えているのだろう。川魚が大好きである。
登山のついでの釣りは中々決まらないがたまには民宿に泊まって川魚にありつくと嬉しい限りである。能郷白山の登山口に近い、旧根尾村の源屋旅館の川魚定食は抜群の味とボリュームで圧倒される。特に岩魚、アマゴの塩焼きは絶品である。岩魚の刺身もあり、アマゴについては甘露煮もある。これは色々あるが白鳥の甘露煮はやや小ぶりのアマゴを濃い目のたれで仕上げて絶品であった。
「杉錠」のアマゴの甘露煮も背びれに切れ目を入れ、軽く焼いた跡がある。但し、たれはやや汁っぽく上品な味に仕上げてある。
つまり、スーパーでは日持ちを考慮してやや濃い目のたれで仕上げるのだろう。どちらも美味しいことに違いない。但し、土産物のパック入り甘露煮は焼きがないし、甘めで仕上げるためアマゴの美味が台なしになっている。
もうすぐあぶらの乗ったアマゴが泳ぎ回る時期である。春は餌を食べてグングン大きくなる。その頃にまた買いに行きたい。
こんなことを毎日繰り返して行く。捕った魚は腹をとって串に刺して軽く焼き、外に干す。これで余分な水分が飛び、身がしまり、旨味も増す。冬に入る前に大きな鍋で醤油、砂糖などの調味料で飴炊きにする。この味を舌が覚えているのだろう。川魚が大好きである。
登山のついでの釣りは中々決まらないがたまには民宿に泊まって川魚にありつくと嬉しい限りである。能郷白山の登山口に近い、旧根尾村の源屋旅館の川魚定食は抜群の味とボリュームで圧倒される。特に岩魚、アマゴの塩焼きは絶品である。岩魚の刺身もあり、アマゴについては甘露煮もある。これは色々あるが白鳥の甘露煮はやや小ぶりのアマゴを濃い目のたれで仕上げて絶品であった。
「杉錠」のアマゴの甘露煮も背びれに切れ目を入れ、軽く焼いた跡がある。但し、たれはやや汁っぽく上品な味に仕上げてある。
つまり、スーパーでは日持ちを考慮してやや濃い目のたれで仕上げるのだろう。どちらも美味しいことに違いない。但し、土産物のパック入り甘露煮は焼きがないし、甘めで仕上げるためアマゴの美味が台なしになっている。
もうすぐあぶらの乗ったアマゴが泳ぎ回る時期である。春は餌を食べてグングン大きくなる。その頃にまた買いに行きたい。
山葵会編『奥美濃』 ― 2009年03月26日
今になって山葵会の『奥美濃』が入手できるとは思っても見なかった。欲しい、と思いながら諦めていた幻の本である。昭和50年の2月に発刊された。今西錦司氏は奥美濃の山をこよなく愛された。地元の山やさんに足元の山の魅力を知らしめたのも今西さんであった。その序を完全に転載しておきたい。
京都北山は、私の揺籃の山である。そしてここを卒業したものが奥美濃へゆくという。私はかならずしも、この道程を辿ったわけではないが奥美濃にはまた奥美濃のよさがあり、北山同様、愛着は絶ちがたい。
というのは、いずれも登山のための人工があまり加えられていないということである。したがってもし、こういう山に登ろうとするときは、たとえ標高が低くても、眼も耳も鼻もとぎすまされたように鋭敏でなくてはならない。そうすることによって山が語りかけてくる言葉を識ることができる楽しみ--------それが北山にも奥美濃にもあるということである。
しかし、そういう山であっても、豊富な予備知識を持って登山するならば、楽しみがさらに増すであろう。聞くところによると、本書は必ずしもガイドブックではないという。それもまた良し、山はかならずしも登るための径路だけを知ればよいというものではない。山の持つ相貌の数々を知ることによって、ますます山が自分から離れることのできない存在となるのであるから、おそらく本書はその期待に十分応えてくれるにちがいない。
本書の中には、私がご一しょ願った山も、いくつか出てくるらしい。たしか、最初に大垣の方々と登ったのは、越美国境の平家岳だったと記憶する。以来今日まで長いお付合いを重ねてきた。思えば楽しい記憶ばかりが残っている。そして今日、その方々によって「奥美濃」の一書が上梓されることとなった。どこでどういう登山があったか、私自身の登山の薄らいだ部分もあって、本書が刊行されることにより、私自身の経歴の一ページを色濃くすることができるのを今から楽しみにしている。それとともに本書に啓発されて、同好の士が一人でもふえることを心から願っている次第である。
以上。奥美濃の山の魅力が言い尽くされている。
戸入は湖底となり門入へはもう行けなくなった。先祖の墓に布をかぶせて自宅を取り壊していた光景が眼に浮かぶ。先祖には見せられないのだった。下流域の生活のためとはいえ、ダム湖の湖底となった徳山村を思うと落胆する。今以上に開発の手を加えないで欲しいものである。
京都北山は、私の揺籃の山である。そしてここを卒業したものが奥美濃へゆくという。私はかならずしも、この道程を辿ったわけではないが奥美濃にはまた奥美濃のよさがあり、北山同様、愛着は絶ちがたい。
というのは、いずれも登山のための人工があまり加えられていないということである。したがってもし、こういう山に登ろうとするときは、たとえ標高が低くても、眼も耳も鼻もとぎすまされたように鋭敏でなくてはならない。そうすることによって山が語りかけてくる言葉を識ることができる楽しみ--------それが北山にも奥美濃にもあるということである。
しかし、そういう山であっても、豊富な予備知識を持って登山するならば、楽しみがさらに増すであろう。聞くところによると、本書は必ずしもガイドブックではないという。それもまた良し、山はかならずしも登るための径路だけを知ればよいというものではない。山の持つ相貌の数々を知ることによって、ますます山が自分から離れることのできない存在となるのであるから、おそらく本書はその期待に十分応えてくれるにちがいない。
本書の中には、私がご一しょ願った山も、いくつか出てくるらしい。たしか、最初に大垣の方々と登ったのは、越美国境の平家岳だったと記憶する。以来今日まで長いお付合いを重ねてきた。思えば楽しい記憶ばかりが残っている。そして今日、その方々によって「奥美濃」の一書が上梓されることとなった。どこでどういう登山があったか、私自身の登山の薄らいだ部分もあって、本書が刊行されることにより、私自身の経歴の一ページを色濃くすることができるのを今から楽しみにしている。それとともに本書に啓発されて、同好の士が一人でもふえることを心から願っている次第である。
以上。奥美濃の山の魅力が言い尽くされている。
戸入は湖底となり門入へはもう行けなくなった。先祖の墓に布をかぶせて自宅を取り壊していた光景が眼に浮かぶ。先祖には見せられないのだった。下流域の生活のためとはいえ、ダム湖の湖底となった徳山村を思うと落胆する。今以上に開発の手を加えないで欲しいものである。



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