山葵会編『奥美濃』 ― 2009年03月26日
今になって山葵会の『奥美濃』が入手できるとは思っても見なかった。欲しい、と思いながら諦めていた幻の本である。昭和50年の2月に発刊された。今西錦司氏は奥美濃の山をこよなく愛された。地元の山やさんに足元の山の魅力を知らしめたのも今西さんであった。その序を完全に転載しておきたい。
京都北山は、私の揺籃の山である。そしてここを卒業したものが奥美濃へゆくという。私はかならずしも、この道程を辿ったわけではないが奥美濃にはまた奥美濃のよさがあり、北山同様、愛着は絶ちがたい。
というのは、いずれも登山のための人工があまり加えられていないということである。したがってもし、こういう山に登ろうとするときは、たとえ標高が低くても、眼も耳も鼻もとぎすまされたように鋭敏でなくてはならない。そうすることによって山が語りかけてくる言葉を識ることができる楽しみ--------それが北山にも奥美濃にもあるということである。
しかし、そういう山であっても、豊富な予備知識を持って登山するならば、楽しみがさらに増すであろう。聞くところによると、本書は必ずしもガイドブックではないという。それもまた良し、山はかならずしも登るための径路だけを知ればよいというものではない。山の持つ相貌の数々を知ることによって、ますます山が自分から離れることのできない存在となるのであるから、おそらく本書はその期待に十分応えてくれるにちがいない。
本書の中には、私がご一しょ願った山も、いくつか出てくるらしい。たしか、最初に大垣の方々と登ったのは、越美国境の平家岳だったと記憶する。以来今日まで長いお付合いを重ねてきた。思えば楽しい記憶ばかりが残っている。そして今日、その方々によって「奥美濃」の一書が上梓されることとなった。どこでどういう登山があったか、私自身の登山の薄らいだ部分もあって、本書が刊行されることにより、私自身の経歴の一ページを色濃くすることができるのを今から楽しみにしている。それとともに本書に啓発されて、同好の士が一人でもふえることを心から願っている次第である。
以上。奥美濃の山の魅力が言い尽くされている。
戸入は湖底となり門入へはもう行けなくなった。先祖の墓に布をかぶせて自宅を取り壊していた光景が眼に浮かぶ。先祖には見せられないのだった。下流域の生活のためとはいえ、ダム湖の湖底となった徳山村を思うと落胆する。今以上に開発の手を加えないで欲しいものである。
京都北山は、私の揺籃の山である。そしてここを卒業したものが奥美濃へゆくという。私はかならずしも、この道程を辿ったわけではないが奥美濃にはまた奥美濃のよさがあり、北山同様、愛着は絶ちがたい。
というのは、いずれも登山のための人工があまり加えられていないということである。したがってもし、こういう山に登ろうとするときは、たとえ標高が低くても、眼も耳も鼻もとぎすまされたように鋭敏でなくてはならない。そうすることによって山が語りかけてくる言葉を識ることができる楽しみ--------それが北山にも奥美濃にもあるということである。
しかし、そういう山であっても、豊富な予備知識を持って登山するならば、楽しみがさらに増すであろう。聞くところによると、本書は必ずしもガイドブックではないという。それもまた良し、山はかならずしも登るための径路だけを知ればよいというものではない。山の持つ相貌の数々を知ることによって、ますます山が自分から離れることのできない存在となるのであるから、おそらく本書はその期待に十分応えてくれるにちがいない。
本書の中には、私がご一しょ願った山も、いくつか出てくるらしい。たしか、最初に大垣の方々と登ったのは、越美国境の平家岳だったと記憶する。以来今日まで長いお付合いを重ねてきた。思えば楽しい記憶ばかりが残っている。そして今日、その方々によって「奥美濃」の一書が上梓されることとなった。どこでどういう登山があったか、私自身の登山の薄らいだ部分もあって、本書が刊行されることにより、私自身の経歴の一ページを色濃くすることができるのを今から楽しみにしている。それとともに本書に啓発されて、同好の士が一人でもふえることを心から願っている次第である。
以上。奥美濃の山の魅力が言い尽くされている。
戸入は湖底となり門入へはもう行けなくなった。先祖の墓に布をかぶせて自宅を取り壊していた光景が眼に浮かぶ。先祖には見せられないのだった。下流域の生活のためとはいえ、ダム湖の湖底となった徳山村を思うと落胆する。今以上に開発の手を加えないで欲しいものである。
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