7月の俳句2007年07月14日

 今日は雨、台風で折角の3連休がつぶれた。でも俳句を練り直すいい機会でもある。

頂に雲を集める梅雨の山

吹き上げし風もみどりの青葉山

万緑のおおふ谷間の底を攀づ

滝攀じてひたすら水に逆らひし

蛇の眼に我は巨人と映るべし

伸びきって雨を恋ふごとみみずかな

さながらに庭園のごと青棚田

ヤマヒルも必死ぞ首を振りながら

急ききって山に登ればアキアカネ

アキアカネほどの軽さで登りたし

蜘蛛の巣を避ける余地なし藪の谷

静まりてヤマホトギス遠く鳴く

そのままに葬れ鹿の子あはれなり

ひそと咲くナルコユリあり谷の中

鱧を食ふシーンは小津の「秋刀魚の味」

映画「一人息子」鑑賞2007年07月14日

 小津安二郎監督。1936(昭和11年)制作。小津33歳のときの映画である。小津にとって初めてのトーキー作品にもなった。
 春繭買い入れ云々の張り紙のショット。製糸工場で働く女工さんたちのショット。私の在所にも製糸工場があったし農家だったから別棟に養蚕室もあった。子供の頃にはもう飼うのは止めていたが隣家では飼っていたから世相は良く分かる。といっても昭和30年代であるが。
 養蚕(絹糸)は中国製品が輸入されるまでは農家の貴重な現金収入の道であった。木曽上松の左岸にある東野の二階建ての大きな家の2階は養蚕室と聞いた。まさに蚕と寝泊りしていたのである。
 木曽の大桑、各地にある桑原、桑田、桑畑など蚕の食べる桑に因んだ地名が多いのも養蚕が盛んだった証拠だろう。私も桑の実を食べた思い出がある。口の周りが赤くなったものである。
 俳句も2句記憶されている。
 
 繭干すや農鳥岳にとはの雪   石橋辰之助

繭を干すのは農家である。そんな農家の点在する村の一角から白根三山が見える。農鳥岳の雪形が現れるのは5月中旬だから「とはの雪」という以上はまだ真っ白だった頃だ。
 もう一句は辰之助の師匠だった秋桜子の

 高嶺星蚕飼の村は寝しずまり  水原秋桜子

八王子から大垂水への旅の途中で養蚕の盛んな村をとらえたものらしい。大正14年の作品である。

 この映画の時代はまだアメリカと仲がよく絹糸を盛んに輸出して外貨を稼いでいた。1ドルが1円だったから為替レートでは互角であった。アメリカではこれを落下傘に使用したらしい。贅沢なものである。
 そしてなんと戸隠山か西岳の山容のショットが出てくる。これで長野市郊外の山村という設定なのは分かる。
 映画のテーマは農家の一人息子を東京の大学に進学させて偉い人になってもらおうという母と息子の物語である。母は学費と生活費のために製糸工場の給料だけで足りるはずもなく家屋敷を売って工面する。
 卒業してもうそろそろと東京の息子に会いに行くと狭い長屋住まい。母には内緒で結婚しており、子供までいた。やっとありついた仕事は夜学の教師である。つまり期待した出世とは程遠い生活、息子は東京での生存競争の厳しさに愚痴をこぼして出世を諦めている風であった。
 今でこそ教師は一般公務員より10%も高い給料で優遇されている新富裕層であるが昭和30年代頃はデモシカ先生の言葉に象徴されるように「大学をでたけれど」就職できず、先生にでもなるか、先生にしかなれない、という世相であったらしい。先生なら結構なご身分じゃないか、と勘違いしてはいけない。
 要するに小津さんは大学に進学して学問をつけても大したことはない、という社会観、人生観を持っていた。「東京物語」でも尾道から息子達の生活ぶりを見たいと東京に出てくるが医者の息子さえあまりはやっているとはいえない町医者の設定である。長女の杉村春子扮する美容院の経営者も多忙で邪魔扱いである。折角の東京見物も仕事(この映画では事故)で流れるという設定はこの映画とおなじである。
 花の都に出ても生活するのがやっとという現実を見て故郷に帰る設定も同じである。そしてよそさんよりはまし、という台詞。祖母が子供(孫)に問いかける台詞「大きくなったら何になるんだい」も同じだ。飯田蝶子も東山千栄子も孫に語りかけたシーンが印象に残る。
 俳句ではユズリハは正月のめでたい季語になっている。小津さんの映画はユズリハのように見える。風雪に耐えた古い葉は新しい葉が出てきてから散るユズリハ。見ていて安心できるのはそのせいであろう。
 もう一点印象的なことは若き日の笠智衆(当時32歳)の演技である。ここでは息子の田舎の先生に扮していた。先生もこれからは学問が必要だ、と息子の親にも勧めたが自身も上京して行く。ところが飯田蝶子扮する息子の母が見たのはなんととんかつ屋の親父であった。息子の恩師(先生)のなれの果に心底ショックを受けたはずである。少年老い易く学なりがたし、である。
 遺作となった「秋刀魚の味」の中にも恩師を同窓会に招くシーンがある。その恩師は今ではラーメン屋という設定だ。出世した自分たちからは見下ろすような態度の同窓生たちの台詞。先生は必ずしも尊敬などされないものという設定も小津自身の山中時代の憎しみからであろうか。
 人生の「あはれ」をとらえるという小津さん。見事な映画でした。17年後の名作につながる重要な作品でもありました。