映画「父ありき」鑑賞2007年07月21日

1942年制作。小津安二郎監督にとって出征のため戦前最後の作品となった。背景は昭和16年に日米開戦下を考えると堅い内容にならざるを得なかったと思われる。しかしこの映画もまた「ユズリハ」のように息子が結婚して親から独立を果たしたことを見届けてから脳溢血で死亡する。もののあはれを描いたという小津さんは常に変化し、思うようにならない人生をきっちり描いた。小津映画の傑作であろう。
 小津に可愛がられた高峰秀子の「わたしの渡世日記下には「キッチリ山の吉五郎」という章を設けて小津との交友録を紹介する。戦後1作品しか出演しなかった池部良の「心残りは・・・」にも「てにおは一つ、直してはいけない」という章を設けて小津の生真面目な性格を語っている。
 妻を亡くした中学教師と息子の二人暮らし。地味な存在だった笠智衆は初めて中学教師役を主演する。息子は子供時代は子役がやり成人後は佐野周二(関口宏のお父さん)が扮する。中学で催した修学旅行で生徒の一人が事故死する。その責任をとって教師を辞任した。
 辞任後は会社勤めに転じた。息子も転校を余儀なくされた。息子は中学に進学した。そこで寄宿舎に入って親子は別れて暮らすことになった。父も東京の工場に転任した。息子は益々孤独な生活になるが無事東北の帝国大学に進学した。父への郷愁は募る一方である。
 息子は大学を出て秋田の高校教師になった。東京と秋田からそれぞれ黒磯の温泉で落ち合って再会を果たした。しみじみと湯に浸かって語り合うシーンはいいものである。そしてビールを注ぎあって親子の絆を深める。ここで教師を辞めて東京に行き父と同居したいと願う。しかし教師は天職だから辞めてはいけない、生涯をかけて遣り通せと諭す。父が無念の辞職を経験したから自分の思いをかけているのだった。
 同窓会に招かれて旧交を温めあう。紅顔の少年だった生徒達はみな家庭をもち、子供もいた。その成長ぶりににこやかに対応する。この辺りは宇治山田中学時代の経験を生かしているように思う。彼もまた9歳から19歳まで三重県の松阪にいた。山中時代は寄宿舎生活だった。山中を卒業後1年だけ局ヶ岳のふもとの宮前小学校で代用教師をやった。代用とはいえ教師の経験はこの映画に存分に生かされているだろう。小津の映画には子供が出ない映画は余り無い。それどころか子供が主役の戦前は「大人の絵本 生まれては見たけれど」や戦後は「おはよう」があるほどだ。
 そして同僚の教員の娘との縁談を持ちかけると息子は「任せる」といって下駄を預けた。縁談をまとめるともう翌日には脳溢血で倒れた。「ユズリハ」そのものである。死後、蒸気機関車の力強いシーンがあり、同僚の娘つまり新妻を秋田に連れて行くシーンで終る。
 「もののあはれ」とは「無常迅速」「不随意」である。これは芭蕉も俳句に詠んだ。「故郷や臍の緒に泣く年の暮れ」。柘植にいる両親が残してくれた自分の臍の緒。その愛情にふるさとを思って涙を流す芭蕉。芭蕉もまた上野城の殿様の若死で失業、侍の身分なのに江戸へ出て江戸城の現場監督までやって苦労していた。映画「一人息子」そのものである。
 「もののあはれ」は松阪が生んだ本居宣長が提唱したそうだ。小津家は松阪商人の血統にある。本居宣長も実は小津家の次男に生まれたのだ。小津安二郎の血脈を辿ればなんと本居宣長に行き着くのである。
 子供の時からそんな環境で育てられ、たまたま好きだった映画の世界に身を投じた。小津さんは本で学んだ「もののあはれ」でなく血が受け継いだものといえるのではないか。

映画「秋津温泉」鑑賞2007年07月23日

 ある古い山仲間の懇談会で映画の話題になった際岡田茉莉子の「秋津温泉」が話題になった。気にしていたが久々にレンタル店を眺めたらその作品が入荷されていたので観た。
 まるで岡田茉莉子の着物ショーという側面があった。事実着物も岡田自身が選んだという。頼りない男との腐れ縁の果に最後は死ぬから「浮雲」に酷似しているとの世評であるが成瀬巳喜男の映画「女が階段を登る時」では高峰秀子が着物ばかりで通したし着物も高峰が選んだことも思い浮かぶ。それに山深い温泉場という設定は映画「雪国」の世界にも通じる。とにかく主役の男が性格がはっきりしない、だめな男、という設定は女優を引き立てるためであろう。
 岡田自身がプロデュースしたこと、監督を選んだことなど岡田の積極的な映画作りが功をなしてこの映画は大ヒットしたらしい。それに女優としてこれ以上ないくらいに美しく撮影されていた。多くの映画ファンは着物姿の美しい岡田に魅入ったであろう。奥津温泉や津山のロケ地も美しかった。件の山仲間から見れば同世代だから一層印象が良かったと思う。
 様々な視点から考えても楽しめた映画であるが前に観た成瀬映画の印象があるせいで過去のヒット作のいいとこどりといったら怒られるかな。
 舞台の背景となった中国山地の奥津温泉は一度登山で行ったことがある。多分泉ヶ山という一等三角点の山を目指した際に通過した。うろ覚えでは寂れた山間の温泉地であり、松本清張の作品の世界だなあ、と同行の人が云っていた。

映画「東京の合唱(コーラス)」鑑賞2007年07月26日

 前に観た「秋津温泉」の岡田茉莉子は1933年生まれ。彼女の父も映画俳優であった。岡田時彦(1903-1934)といって当時の二枚目俳優であったらしい。年を見ると分かるが彼女が1歳の時に31歳で死去。彼女が新潟の女高生のときに偶然映画「滝の白糸」を観て感動。母に話すと父が出演していたことを知った。改めて映画の中の父を観にいったという。1歳だから顔も覚えられないまま死別したのである。「秋津温泉」を観た勢いでいずれ観ようと考えていた「東京の合唱」を観た。岡田時彦は評判どおりの2枚目であった。
 1931年制作。小津安二郎監督28歳の作品。岡田時彦も同じ年の生まれで28歳であった。ストーリーはコメディーでギャグの連発である。サイレント映画だから動作が機敏で愉快で、ウィットに富んでいなければすぐ飽きてしまう。この点は申し分ないくらい面白く笑わせてくれる。
 学校のグランドで体操教師が縦列隊形の教練のシーンから始まる。一人の教師と多勢の学生が繰り広げるギャグの応酬が面白い。字幕がでて今は保険会社のサラリーマンになっている。岡田時彦扮する岡島も3人の子持ちである。勤務先はボーナスの支給日で浮ついた雰囲気であるが同僚の老社員が仕事にかこつけて首になる。労働三法が制定されたのは戦後のことだから戦前は社長の鶴の一声で解雇された。
 もうギャグどころではない。正義感の旺盛な岡島は憤り、社長に直談判に行くが反抗的な態度と見られて社長の怒りを買い岡島も解雇される。そこで職安に行くが昭和のはじめは1929年のニューヨーク大暴落の影響で不況とあってホワイトカラーでも仕事などない時代であった。
 ボーナスを信じて子供に自転車を買ってやる約束を破ったために抵抗にあう。後で根負けして買わされるが。長女が病気になった。長女役は当時の高峰秀子(1924年-)で7歳である。大変活発でおかっぱ頭が可愛い。当時から人気があったらしい。役者暦の長さを思うと感無量である。
 病気はすぐ治るが無職の身に治療費の工面に苦労する。妻の着物を質?に入れて調達した。そこは明るいギャグで過ごす。職安の近くで元教師にあってカレー屋の宣伝マンを頼まれる。チラシを配り、幟を持って歩いたりと慣れない仕事に付き合うが家族に見られてしまう。結局は妻もカレー屋を手伝うが店で同窓会を開いた際に英語教師の仕事が舞い込む。
 やれやれ仕事が見つかった。夫婦は涙ぐみ、とりあえず栃木の学校へ仕事に行く決心をした。しばらく東京を離れるがまたもどれるわよ、と慰めるが映画「早春」でも地方へ転勤の夫を追いかけてきた妻が同じ台詞で慰めたシーンがあったことを思い出した。失職と転勤の違いはあるがサラリーマン人生の哀歓が現れるところだ。
 やがてカレー屋は寮歌を合唱する声で賑わう。カレーのスプーンを配る高峰秀子が健気であり、お客からカレーを一口もらうシーンも和気藹々として愉快である。
 2枚目が2枚目半の役をこなす演技力が素晴らしい。この演技力が小津に買われた。が松竹は2年間で退社し独立、すぐ解散と波乱があって1933年で映画出演は終って1934年の1月に結核で亡くなっている。
 娘の岡田茉莉子は戦後の小津映画「秋日和」や「秋刀魚の味」で活発な現代女性の役をこなす。しかし、2枚目半的な役が岡田には不満だったらしく小津に「私にはどうしてこんな役しかくれないのか」と迫ったが「君のお父さんは2枚目半的な役がとても上手かったから・・・だから君も」と応じたそうだ。でも映画を明るく盛り上げていい役どころであったと思う。小津さんは親子の血のつながりを信じたのでした。

荒島岳の谷を遡行 再びの工大ルートを下る2007年07月30日

 荒島岳は深田久弥の日本百名山の一つで余りにも有名である。既に三方向からの登山道を登っており一件落着と思っていた。ところが山仲間のW君が谷から登ると言い出した。一体どんなルートかと思ったらかつて2回登降した工大ルートと呼ばれる下山登山道に沿った谷であった。
 ナカニシヤの沢のガイドブックには鳴サコの名前が掲載されていた。昨年秋は道を間違えて失敗。泣く泣く下山した。今回はその雪辱戦である。
 例によって7/28前夜高速を飛ばす。今回は4名が参加。下山のキャンプ場でミニ宴会後早々に寝る。
 7/29、朝は結果としてゆっくりになってしまった。アルコールは控えめにしたのだが。朝食からテント撤収を手早く済ます。登山口の荒島谷川に沿う林道のゲートに着いた。空はどんよりとまだ梅雨空である。北陸はまだ明けないようだ。
 7時50分、歩き出すとかなり急な坂道に感ずる。鳴サコの入口までは30分ほどで着いた。ガイドが書かれた時期にはまだここまで林道は開通しておらず一旦本谷に入ってから支流である鳴サコに入渓した。3mの滝は林道の下に埋まっているはずである。
 いきなり狭い(つまり迫=サコ)ゴルジュの中の滝に出会うから面食らう。いくらなんでもここは巻くことになる。右のルンゼに入る。W君はちょっと苦労しているようだ。後で続いていくと急で足場も少ない。いきなり悪戦苦登させられる。
 突破してからもすぐには谷に下れそうに無いくらい急な草付である。横断しながらやや高みを目指す。すると別の小谷があり支点を見つけて懸垂で鳴サコ本谷に下降した。
 鳴サコは典型的なV字谷である。周囲の山腹は壁のように急斜面となっている。谷に近いところでは小潅木で尾根に近いところでは少し高い樹林である。ビバークに良さそうな台地とか沖積地は全く無い。小さな滝がいくつも現れる。谷はまるで非常階段である。それに樹林に覆われていないから空は開けっぴろげである。しっとり感のない渓相だ。
 特別に困難を感じることもなく進む。すると最後まで気が抜けないなあ、と思わす12,3mの滝に遭遇した。右端のルンゼが使えそうだがリーダーのW君は滝芯のすぐとなりの枝沢を構成する滝の突破を狙ってザイルを出した。しぶきを浴びながら中段まではなんとか登れる。そこから左へが中々登れない。遠くからでは状況がつかめず時間ばかりが経過する。ようやくハーケンを打った。2本目3本目かで滝を抜けた。
 2番手で続いていくとヌルヌルで滑りやすいいやな岩質である。ただし足場は意外にあった。ザイルがあると心強いので難場でも何とかクリヤした。ここを突破すると二股が現れる。右をとる。地形図と首っ引きで入念なRFが必要になった。沢の水量はがくっと減った。谷が立ってきた。潅木が覆いかぶさる。源流が近いが高度計ではまだまだ標高差がある。
 こんなところで雷雨にでも遭ったら大変だな、と懸念したが幸い天気は今以上に悪くはならないようだ。雲の中に突入する感じで山頂近辺の岩場に着いた。地形図にも表現された岩場である。W君らは右に振ったが私は左から岩場を回りこみ、優しいところを登りながら左よりの尾根に上がり笹の中の道を探ってみた。微かな踏み跡があった。それを辿るとすぐに山頂であった。3時45分に山頂を踏んでから下に向ってコールを繰り返したが反応があった。小寒い山頂からちょっと下って風をさけて皆を待った。16時15分に全員揃った。ハクサンフウロの赤紫色が濃い。シモツケソウの多い山である。
 16時30分、霧深き山頂から工大ルートを下山。笹に埋れた廃道同然の道を歩いた。やがてぶな林の中のいい山道になった。それもすぐに終り、急転直下のごとくまぼろしの大垂の下流に着いたのは18時30分だったか。もう薄暗くなりかけていた。そして鳴サコで19時過ぎ。白いセメントの林道に助けられてノーランプでゲートに着いたがもう真っ暗であった。 日帰りの限界を越えた沢登りであったと思う。