巻機山の米子沢に挑む①2024年09月07日

 9/6の夜発で、先日ファンベルトとテンショナーを交換したNV350に乗って遠出である。
       9/7 南魚沼市へ
 目的地は新潟県南魚沼市の巻機山の登山口のある清水。約400kmもあるので夜出てR19の道の駅「木祖村」で車中泊。直前に購入した窓に貼るシェードを設置すると外からの光が入らず快適だ。標高900m以上あるから気温は19℃と涼しい。翌朝は早朝出発、松本市のよしのやで朝定を食べる。梓川に沿うこの道も松本市街を抜けると快適に走れる。安曇野を過ぎて長野盆地を経由、豊野から信州中野で千曲川に沿うR117に入る。これまでに何度も走った。
津南町、十日町市からR253で南魚野へ山越え。
    南魚沼市の鈴木牧之記念館へ
 時間的に早いので塩沢の鈴木牧之の記念館を見学した。著書『北越雪譜』で江戸時代の読者に越後で豪雪に埋もれた人生を送る人間の暮らしを紹介して人気を得た。都会人にサプライズを与えた古典の著者であった。この本は明治時代の『遠野物語』にヒントを与えた気がする。原作者は現地の人がいるがそのままでは二番煎じなので、柳田国男が文語文で編集。これも都会人に山の怖さを知らせ、サプライズを与えた。川端康成の『雪国』の中にも一節が引用されている。
 記念館を辞して、軽油を20リットル給油、道の駅で昼食、スーパーで夜食、行動食を買い出し。汗でべとつくので「金城の里」で入湯してさっぱりした。450円と安い。その後、清水へ。
      三国街道(R291)から清水へ
 R291は昔は三国街道といって上州と越後の国境の清水峠を越えた古道である。日本山岳会が120周年を迎える2025年の記念事業として120本の山岳古道を調査中であるがこの街道もその一つである。
 今も車道は通じていない。街道筋の最奥の清水は狭い山里である。民宿やバス停もある。巻機山登山で賑わっているのだろう。九十九折れの山路を奥まで走ると桜坂駐車場があり、近代的なトイレも整備されていた。P料金500円を払う。トイレの横に停めて車中泊の準備を済ます。16時頃とて下山者が続々降りてきた。帰ってゆくと18時頃には自分独りになる。さすがに心細い。しかも車の中はマフラーの熱がこもって暑い。標高も750m位なのでそんなに涼しくもない。前の車はサイドの窓を開放できたが今度はまったく隙間もないのでバックのドアを少し開けて冷気を入れる。缶ビール一缶と夜食を食うとすることがない。ここはインターネットも通じないからだ。

美濃・船来山緑陰の小径を歩く2024年06月19日

 朝7時、金山駅前で合流。とはいえ参加者は1名なので2名で出発。たまたま知り合いが信州の山へ行くので集合していた。総勢18名と大勢だった。知り合いも何人かいた。
 高速を乗り継いで、もう1名と瑞穂市役所付近で合流。1台に3名が乗って目指したのは船来山である。標高は116mの超低山ながら2等三角点を置く。道の駅のPに停めて出発。梅雨入りはまだ発表されていないがすでに天候不順は続いている。そんな合間の梅雨晴れの晴天で今日は暑い。
 ヤマップをオンして舗装路から山道に入ると湿り気のあるふわっとした感触が良い。それに里山とはいえ、人工植林ではなく、相当な樹齢の喬木が多い。東海地方の山々は開墾される前はすべてこんな照葉樹林で覆われていたはずだ。以前に登った鶴形山と同様に植生でも保存されたい山である。
 まず最初に見た人工物は次の歌碑だった。

 いかなれば船木の山のもみじ葉の
   秋は 過ぐれどこがれざるらん,

右大弁通俊(後拾遺和歌集)

 何でこんなものがあるのか不思議であった。検索してみたが経緯は良く分からない。違和感があるので、できれば撤去して欲しい。この無雑作なよく言えば多様性のある森の保存に努めるべきで、古代の遺構や遺跡の保存は必要であるが後世の人工的なものは無用である。
 船来山に登頂したが森の中故に展望はない。2等三角点が埋まっている。ということは明治初期の五万図のための測量時代は高い櫓を建てて測量していただろう。
 下り始めるとウォーキングの人に会った。近くに住む人らしい。こんな山が散歩圏にある人がうらやましい。立ち話するとこの辺は私有林とのことで一部舗装路があった。昔は平地は水田で柿のような果樹園は山の斜面にあったのだ。今でも実は成るが肥料をやらないから渋柿化しているだろう。人間も捨てられると甘くは無くなる。
 どんどん下って登り返すと群部山に着いた。ここで引き返すつもりが南端まで歩いてしまった。南端にこそ船木山古墳があった。竹林の中にあったからあやうく開発を逃れたんだろう。先に会った人の話ではD土木が買い占めてゴルフ場を企画したが倒産、別の会社が買いたたいたとか。生臭い話になった。
 歩道を下ってゆくと寺院に出た。山麓の車道を歩き始めると猛暑である。炎天下の道をとぼとぼ歩いた。すると目の前の高速道路の工事現場を通った。東海環状道であろう。郡府山の下をトンネルで抜ける。なんとも無粋な風景だ。
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新穂峠のこと2024年06月02日

 6/1の新穂峠の歴史を調べて見た。『坂内村誌』民俗編のP91に
 ”新穂峠の地蔵堂は、峠を下った甲津原側にある。昔から坂内へ牛の来る道、”西牛”といって良い仔牛を江州・関西から坂内へ移入したのである。繭の道・紙の道であり、教如様お廻りもこの峠を往き来した。風流芸能や俳壇も、この道があることで江濃一体であった。諸家から峠の上りも甲津原への下りも炭窯の跡がいくつもある。
 近世初期から焼き続けてきた山であった。坂内側の炭も向こうへ出していたことは浅又山と同様である。”
・・・今よりも昔の方が峠を往来した物資の流通のお陰で人影はずっと多かった。獣の気配におびえる自分には想像もできない豊かな街道だった。その中には富を蓄積して俳句の会を催した成功者もいた。言わば俳諧を介した異業種交流会のような文化交流も盛んだった。明治15年頃の観察記では製紙で潤っている、とあった。楮三椏のような商品作物がよく売れたのだろう。それが今は廃屋の目立つ寒村になっている。
 白川沿いの水田は植えたばかりで鏡面のように美しい風景である。こんな奥山でも稲作ができるようになったことは進歩であろう。

旧坂内村の新穂峠を歩く2024年06月01日

 先週の殿又谷の沢登りで坂内川の支流・白川の源流の殿又谷を遡行して自然の良さを満喫した。谷歩きのみならず諸家もまだ行ったことがなかったので心残りでした。坂内村の名前の通り外から入村するには峠越えが条件という厳しい環境だった。数ある峠の中の一つである新穂峠を歩いてきた。
 梅雨入り前の晴天が期待できたので6/1に新穂峠往復のみ実施できた。計画では新穂山往復でしたが高速道路の工事と事故の渋滞での遅れもあったが早朝なので割と早く抜けだせた。
 先週の疲れも抜けきらず、老体ではピッチが上がらず。新穂峠のみで下山した。
 ヤマップの報告で峠までは舗装路で落石もあまりない。純粋な山路よりもむしろ歩き易い。人工植林があるが、新緑の落葉広葉樹が多く、美しい自然が保たれている。新穂谷は上から見ると花崗岩の美しい溪谷だった。ここも沢登りの対象として楽しめそうだ。
 栃の花、藤の花、谷空木、空木など木の花が目立った。峠付近で2ヶ所路肩決壊があり危険個所があった。何のために舗装したのか想像すると風化花崗岩の特長で崩壊し易いと考えた。建設してすぐに舗装しないと路肩決壊があちこちで起きただろう。
 新穂峠へも車道建設でえぐられて段差があった。段差を登るのにスムーズには行かず、木の枝などで確保して登った。昔を偲ぶ情緒はなし。むしろ近江側の方が道形が保たれている様子です。
 結局峠往復のみにとどめて前途の計画は中止して近江側から周回の形で出直すことにした。下山時にちかごろニホンシカに追われて見なくなったカモシカを見た。体形が黒いので一瞬熊かと身構えた。路上ではとぐろを巻いているまむしを見た。枯れ葉色になっているので分からない。まむしは注意喚起の看板もあったので多いのでしょう。
ヤマッパー上級生の報告を読むと昔乍らの古道の存在があった。往きも帰りも注意しながら歩いたが糸口は見いだせず舗装路のまま下山した。
 午前中に下山できたので道の駅「さかうち」に寄り、道の駅「ふじはし」ではふじはしの湯に入湯して村を出た。平野に出たら高速道路のあちこちで交通事故や工事の渋滞が起きていた。名神は工事で13kmの大渋滞でした。当面利用できません。

沢始め・旧坂内村の沢を歩く②2024年05月26日

 26日は4時起床。バタバタと朝飯などを済ませてテント撤収。沢仕度を整えて出発。
 竹林の下に降りて殿又谷の遡行開始。最初の二股で尾根の先に上がると石垣が見える。右の滝谷本流から踏み跡が左へ行くので登って見たら草の生えた平地だった。何かの植栽地か隠し田か。はてまた木地師の小屋掛けでもあったのか。
 沢に戻る。入渓地から赤布などの目印は一切ない。流れに従いながら遡る。周囲は新緑の闊葉樹に覆われている。大きな七葉樹(栃)、欅、山毛欅が素晴らしい。その中を小さな滝の続く沢相が嬉しい。小滝を次々に突破する喜び。圧倒する大滝はないが遡行の喜びに違いはない。
 ふと夢を見た。所々にある平地でツエルトビバークしたらいいだろう。そして焚き火を囲む。肴は炙ったエイのひれでいい。持参の焼酎は沢水で割る。アマゴが釣れたら木の枝に刺して焼く。
 こんな沢旅こそ田部重治の世界だ。否、『樹林の山旅』を著した森本次男の世界である。森本は北アルプスに登れないから奥美濃に来たのではない、北アとは違う世界が良いと高評価した登山家だった。久々の野生的な登山を楽しめる自分を覚える。
 高巻きもした。リーダーは突破したがどうしても足場が滑るので左岸の尾根を小さく巻いて沢身に腹ばいで滑り降りた。巻けば安全と言うわけでもないが。
 水が絶えて源頭に到達。稜線に上がると爽やかな風が吹く。今日の最高点まで登って大休止。沢で死んでいた鹿の頭蓋骨を安置した。鹿の糞だらけの山頂である。いい供養になることだろう。
 下り気味に804mの三角点内谷に着く。埋まっているので掘り出すと三等の文字が見えた。点名の内谷は北へ流れる谷名らしい。
下降はそのまま南へ沢芯をたどる。最初は水が無いが段々水量が増えた。中流部は上から見ると足場が分からないから懸垂で下降した。滝の落差も長くなり、何度も懸垂下降を続ける。10回はやっただろう。本当は互いに撮影したかったが下降時はカメラを構える余裕もなかった。緊張感で喉がカラカラになる。
 それでも終わりはある。謎の平地が現れた。殿又谷もみおろせるがまだ高い。笹や木の枝、根っこ、蔓に捉まりながら下降をつづけ林道に戻った。スパッツを外すとヤマヒルがポトリ落ちた。血を吸って丸々太った奴だ。自宅に戻ったらTシャツの腹部にも血痕があった。2匹に献血した。

沢始め・旧坂内村の沢を歩く①2024年05月25日

 25日夕方発。奥美濃の山も久しぶりのことだ。旧坂内村の中心地の手前の坂本を左折。白川に沿う県道を走る。かつては揖斐高原スキー場へ走った道である。諸家で新穂谷に行くと新穂峠を越えて近江に行ける。言わば山岳古道であった。通りで路傍に石仏があったはずだ。
 今日はその手前の323m付近で白川をまたぐ橋を渡って殿又林道に入った。
 殿又林道で突然野生のシカが横切る。一応最終的なテンア場を探すために堰堤まで行って見たが少し戻って空き地に幕営。久々にテントで仮眠。

山の俗謡2024年05月06日

・武儀郡板取村(現在は関市)では
男一人を川浦(かおれ)にやるな

・郡上郡相生村では
一人娘は嫁にはやらぬ那比の宇留良や亀尾島へ

・揖斐郡徳山村(現在は揖斐川町)では
憂いは馬坂辛いは冠、程の長いは田代谷

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軍歌に歌い込まれたダンチョネ節にも

飛行機乗りには娘はやれぬ 
やれぬ娘がネ 
行きたがるダンチョネ

飛行機乗りには嫁には行けぬ 
今日の花嫁ネ 
明日の後家ダンチョネ

・・・『郡上郡史』は大正時代に編纂されたから相生村の俗謡にはダンチョネ節の影響があるように思った。

郡上の歴史調査行・・・岐阜県図書館へ行く②2024年05月05日

 郡上郡史は大正11年1月25日発行。昭和45年1月25日覆刻。P119から始まる
・相生村の項目のP128に

 一人娘は嫁にはやらぬ那比の宇留良や亀尾島へ

という俗謡があった。亀尾島はきびしまと読む。

那比ノ宇留良ヤ大字亀尾島ハ道路悪シク交通不便ナリ(宇留良ハ郡道ヨリ三里以上亀尾島ハ郡道ヨリ一里以上寺坂ヲ越セバ半里以上)社会生活ニ不便ナル意土地ノ悪シキヲ歌エルナリ然レ共今日ニテハソレ程ニモナシ

 那比の宇留良ものう亀尾島も住めば都じゃのやとのさ

前ノ歌ニ對シテ如何ニ土地ノ悪シキ處ニテモ自分ノ住所ト定ムレハ愉快アリ楽シミモアルヲ歌ヘリ

・崇田村(たけだむら)は「村名は、合併した三つの村の名前に由来し、山田村の「山」、高砂村の「高」、上田村の「田」をあわせた合成地名である。」
「歴史
江戸時代、この地域は郡上藩領であった。
1875年(明治8年) -
赤池村、杉原村、鬮本村(くじもとむら)、門福手村が合併し、山田村[1]となる。
高原村と粥川村が合併し、高砂村となる。
下田村、木尾村、繁在村、根村が合併し、上田村となる。
1889年(明治22年)7月1日 - 山田村、高砂村、上田村が合併し、嵩田村となる。
1954年(昭和29年)11月1日 - 下川村と合併し美並村が発足。同日嵩田村廃止。」

地勢
本村ノ西部一帯ノ高賀山脈ハ高地ニシテ瓢ヶ岳、根村ヶ岳ハ其ノ最モ高俊ナルモノナリ

とあるので瓢ヶ岳の南の1086mのコブは単に南岳とされるが根村ヶ岳と分る。ただし根村はすでに消えた地名であり、山名としても短期間だったから根付かなかったと思われる。

郡上の歴史調査行・・・岐阜県図書館へ行く①2024年05月04日

 午後1時を回ってからやはり行って置こうと走った。久々に岐阜市へ来た。気温が高いせいか遠望は霞んできかない。それでも立派な高い山は霞の中に堂々と聳えてみえる。
 遠くから高層ビルの岐阜県庁が見えた。あの一帯に図書館や美術館が集約している。Pを探すためにぐるっと回ってしまった。十分なスペースがあった。
 郷土資料コーナーで、長良川中流域の市町村の歴史書に一通り文献に目を通す。
1 郡上郡史
2 郡上八幡町史
3 美並村史
隣接の市町村も 
4 板取村史
5 武儀郡史
などを読んでみた。この中で琴線に触れる内容は美並村史だった。つまり郡上市になる前の地名である。
 スマホを忘れたのでメモのみしてきた。昔は郡上郡はなく、855年に武儀郡を割って郡上郡が置かれた。現在の美濃市と郡上市の市界が郡界でもある。
 須原から北の上河和は江戸時代から50年間は主要な街道だった。
・黒地峠から黒地へくだる道は東街道と言われた。もちろん西街道もある。
・長良川は昔は郡上川と言われた。
郡上市のHPから「八幡町から美濃市までは郡上川ともよばれています。このあたりは美濃古世層の中心地帯で、左岸から和良山脈の西部の山が張出しているため、川は峡谷状になっています。郡上峡谷といわれる、八幡町中山、美並町三戸(深戸)、白山(福野)、上田(八坂)付近は長い年月の間の侵食により、深いV字形の谷となっています。八幡町から下流の主な支流は、右岸から、大支流亀尾島川、うなぎで有名な粥川谷があり、左岸からは、千虎川、白谷川、羽佐古川があります。」

三遠研の総会2024年04月20日

 豊橋市方面に向かう時に県道56号から片側2車線のR155に右折。このままでは知立へ行くので左折、地道を抜ける内に三河線をまたぐ。伊勢湾岸道へ左折して並行線から離れてようやく矢作川を渡った。
 岡崎市市街地も混雑気味である。岡崎IC手前でR1に合流。その先で喫茶店で一休み。モーニングサービスはオプションだったがコーヒー代プラス180円、360円、500円とうぉっという価格設定だった。しっかり腹づくりしたい人には良いかも。赤坂付近から東の空を見るとどんより雲が厚そうである。今日も黄砂が降っているのだろうか。
 R1から左折して御油駅周辺の渋滞を回避。山間部を迂回して本宮山の山懐を走り、豊川を渡った。秀麗な山容の吉祥山が目の前に見える。13時まではまだ時間があるので新城市図書館へ寄った。地域資料コーナーの中で研究輯録の創刊以来のバックナンバーをチエックした。2号の目次に響くものがあったので閉架図書の開示請求をして閲覧。読んでみると資料解釈が精細すぎてこなれていない。研究者の域を出て作家的な視点で書いてないと素人には読みづらい。
 時間が迫ったので富岡ふるさと会館に行く。総会なので令和5年度の事業報告と会計報告、次年度の事業計画と予算案の読みあげと説明があった。特に会計では現金不足が深刻である。印刷した『研究輯録10』が売れて資金回収できないとカネが回らない。
 これは山岳会の上部団体でも資金不足で幹部は資金調達に苦労している。どこもコストダウンに知恵を絞る。
 続いて、「ええじゃないかの始まりと広がり」と題して、豊橋市二川宿本陣資料館館長の和田 実氏の講演があった。江戸時代の末期に全国規模で起きた狂乱的な民衆運動だった。その中でも豊橋市に的を絞っている。

 余談メモ

名古屋市博物館のHPから
https://www.museum.city.nagoya.jp/exhibition/owari_joyubi_news/eejyanaika/index.html

 「ええじゃないか150年
平成29年9月27日(水)~10月22日(日)
 いまから150年前の慶応3年(1867)7月14日、三河国渥美郡牟呂村(現豊橋市)へ伊勢神宮のお札が降り、二夜三日の祭礼が行われました。人々はお札降りを神仏の出現ととらえて祭礼を行います。お札降りが連続するとお祭りも連続し、日常生活が麻痺する熱狂的な騒ぎへ発展します。これが幕末に流行した「ええじゃないか」です。

 全国に伝播した「ええじゃないか」ですが、名古屋へは8月末に伝わり11月まで続きました。名古屋では、お札が降ると町奉行所へ届けて祭礼を行います。町奉行で集計されたお札は三千枚を超え、いかに「ええじゃないか」の騒ぎが大きかったかがうかがえます。加えて、名古屋の「ええじゃないか」祭礼は七日七夜にわたり、降札による祭礼の連続、祭礼の長期化が城下を祝祭空間に変えてしまったのです(図1)。

 こうしてみると「ええじゃないか」は、お札降りを口実に人々が勝手に遊びくるったようなイメージをもつかもしれません。しかし、名古屋の「ええじゃないか」祭礼は、地域の伝統的な祭礼のルールのもとで行いました。名古屋城下茶屋町をみてみると、町で管理する屋根神の中へ「ええじゃないか」のお札を納め、関係の寺社へとお礼参りをして「ええじゃないか」の一連の行事は終了しました。」以下略。

 慶応3(1867)年は日本が近世(封建制)から近代に生まれ変わった年でした。
・坂本竜馬、新政府綱領八策(しんせいふこうりょうはっさく)を起草
・大政奉還(たいせいほうかん)
・王政復古(おうせいふっこ)の大号令
 慶応4(1868)年は
・鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)を機に戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まる
・江戸を東京と改称し、年号を明治とする

 今の日本の世相と幕末はよく似ていると思います。消費税率が打出の小槌のようにアップしてきた。大企業には減税しているし、諸外国にカネをばらまくわでいい顔したがる岸田政権。江戸時代の大衆も重税に悩んでいた。
 昨年春から長良川や津保川流域の里山を歩いていると郡上一揆の石碑を多数発見します。
 郡上一揆は18世紀半ばに起きた農民の減税運動でした。
 農民は結束し秘密裏にことを進めめ公事(今の弁護士で宿泊所付きの法律事務所)に頼んで籠訴を準備。しかし籠訴は首謀者は獄門晒し首の掟がある。首謀者の実家の墓に行ったこともある。
 これは大衆への見せしめには効果があった。権力に逆らうと只では済まんぞ。というわけだ。その後に下流の美濃市で流行った大衆芸能の「美濃流しにわか」では時事、世相批判が材料で藩(支配者)をチクる。証拠を残さないために一回限りとした。おそらくですが権力への忖度があったのでしょう。
 さらに時代が下がると「ええじゃないか」が起こる。権力者を批判するでもない。戦後の学生運動は左翼運動でしたから大衆の支持を得られないままに終焉した。ええじゃないかは徳川幕府をつぶすためでもなかった。
 マルクスは「万国の労働者よ団結せよ」、と共産党宣言(1848年)を書いたが、そんな高邁な思想はない。
 江戸時代の大衆は絶望感の共有から変革への願望がええじゃないかにつながり、明治維新が生まれた。変わるべくして変わった。