原稿を書く2024年10月05日

 結社誌の原稿を書いた。今回は相続がテーマだった。相続の俳句といえば小林一茶が有名である。人間の欲の絡んだテーマで俳句にふさわしくないようにも思うが昨近は「人間を詠め」が指導方針となっている。赤裸々な人間像を描くことで文学足りえんとする。すると虚子らが唱えた花鳥諷詠は文学じゃないのか、との議論もある。今日的にはどの俳論も色あせてきている。駄句の山が築かれている。作家次第であって指導者次第ではないということだ。

金子兜太・・・韻文精神なき俳人2024年04月26日

 兜太の父親は秋櫻子系の俳人だった。医師という点でも共通する面がある。秋櫻子は師匠の虚子に反抗してホトトギスに反旗を翻した。兜太の師匠は楸邨であるがこれもまた秋櫻子系の俳人であった。
 兜太には師匠への反抗が流れとして根付いていく。自身も戦争に駆り出された。戦地では戦友が死んでも簡単な葬式で済ますか、出来なかったこともあるだろう。
  ”水脈の果て炎天の墓置きて去る”
苦渋の中の一句である。この頃までは有季定型を守っていた。それが戦後一気に自由律に傾倒することになった。左翼傾向も打ち出す。権力者への抵抗を隠さない。
 社会性俳句なるものが流行した。多くは食えるようになると転向していった。東大を出ても仕事にありつけなかったものは社会主義の運動に身を投じたであろう。それが大学の講師の仕事を得る。作家も新聞社から小説の注文が入る。多くは食えることで普通に戻った。
 しかし兜太だけは左翼迎合を崩さなかった。それは日銀マンだったからではないか、と想像する。ある評論家は日銀貴族とまで言う。財務省の飼い殺しの存在である。
 日銀マンの人生は多額の給与、賞与、退職後の退職金、年金と収入に事欠くことはない。だから権力に盾突くこともできたわけだ。何しろ首にならないということは経済的自由人の特権である。
 そんな目で俳人金子兜太を騙った評伝はまだ読んだことがない。駄句の山を築きながら高い評価を受ける人である。
https://koyaban.asablo.jp/blog/2018/05/06/8846273

両神山の肩打つ時雨お降りなり 金子兜太2024年04月25日

    あとがき

 昭和61年(1986)の初冬、『皆之(みなの)』(立風書房)を上梓してから9年たって、この句集を出すことができた。第12句集ということになる。
北武蔵は熊谷に住んで、すでに30年近くなる。猫も同居していたので「熊猫荘(ゆうびようそう)」と呼んできたのだが、その愛猫シンも他界した。

 シンの死を含めて、ことにこの九年間は俳句仲間の死が相次ぐのおもいがある。旅にも出かけた。中国はじめ海外にも出かけて、すこし長い旅は皆子と同行というかたちも出来上がってしまった。細君と一緒でないと、なんとなく落着かない気持になったのは、こちらが年齢を加えたせいもあろうか。

 さよう、この9年間でわたしは70の坂を越え、数え年の喜寿を祝ってくれる人まで出現する始末とは相成った。ただし一応は健康である。小病各所に轟くが、未だ大病なし。

 そうした日常に執して句作してきたものをまとめた。即興即吟が多く、なんとなく頼りないものも少くないので、それらはどしどし削った。しかし、即興ということについて大いに得るところがあったことも事実で、即興の句には、対象との生きた交感がある、とおもうこと屡々だった。推敲し熟成させてゆく過程で、かえって観念過剰になって、生き生きとしたものを乏しくすることがけっこうあったのである。

 むろんわたしは、昭和30年代の中年期に(造型)の名を掲げて書いた方法論をいまでも後生大事にしている。(創る自分)を活動させて、暗喩たり得る映像(イメージ)を形象することは、わたしの句作の基本である。これを推敲ということばで日常化しょうともしてきたわけだ。

 しかし即興の味を覚えるなかで、造型とともに即興・二律背反ともいえるこの双方を、いつも念頭に置くようになっている。両刀使いである。そして、両刀使いでかなり気儘にやるうちに、俳句は、とどのつまりは自分そのもの、自分の有り態(てい)をそのまま曝すしかないものとおもい定めるようになっている。自分を突っ張って生きてきて、この気持ちはまだまだ旺盛だが、同時に、草や木や牛やオットセイや天道虫や鯖や、むろん人間やと、周囲の生きものとこころを通わせることに生甲斐を感じるようにもなっている昨今ではある。

 この状態のすべてをそのまま、それこそ存在もろとも五七調最短定型にぶち込むことこそ何より、とおもうようになっているのである。 この秋、中国を訪れて林林氏にお目にかかったとき、「天人合一」の語に触れた。
 造化に対する人間の思い上りは許せない。しかし、「自然随順」などという言い方はどこかいかがわしい、と日頃考えていたわたしは、このことばが嬉しくて仕方なかったのである。

 句集の題「両神(りようがみ)」は秩父の山両神山からいただいた。秩父盆地の町・皆野で育ったたわたしは、西の空に、この台状の高山を毎日仰いでいた。いまでも、皆野町東側の山頂近い集落平草(ひらくさ)にゆき、この山を正面から眺めることが多い。熊谷にいて、妻君と散歩するときも、蒼暗の台状の山を秩父の山の連なりの上に遠く見ている。

 あの山は補陀落(ふだらく)に違いない、秩父札所34ケ寺、坂東33ケ寺の観音さまのお住まいの山に違いない、といつの間にかおもい定めてもいる。つまり、両神山はそんな想望とともに、わたしの日常のなかに存在しているのである。
 山に甘えて、「両神」 の題をいただいた次第。 この句集上梓に当って、宗田安正氏のお世話に与ったことをこころから感謝している。

   平成7年 (1995) 中秋。    金子兜太

・・・・五七五の有季定型は一句もない。伝統俳句ではない。  
 虚子と決別した秋櫻子は散文の断片のような俳句を良しとした。その弟子に父親の金子伊昔紅もいた。
 高弟は破郷、楸邨、草田男らがいた。その中で破郷がいち早く俳句は韻文と見抜いた。そして秋櫻子から脱皮して行った。
 ところが山本健吉はかれら三人を人間探求派と囃した。人間を詠め、と。文学に目覚めさせようとした。しかし、高邁な文学精神を体得できる弟子はそんなには増えないから、人間を詠む、というところだけは普及して駄句の山を築くことになった。子規虚子が折角写生を謳ったにも関わらず、散文の断片を俳句とする考えに曲がった。
 兜太は楸邨の弟子ということになっている。しかし、碧梧桐の俳論も流れに組み込まれている。碧梧桐が長生きしておれば金子兜太のような存在になったであろう。しかし、碧梧桐は貧乏人ではないから潔く俳句から足を洗った。金子は東大出、日銀に勤務する賃金労働者の身分だ。貧しくはなかっただろうが公務員で食っていくしかなかった。
 戦後は少しばかり権力に抵抗した。食えるようになるとみな転向したが金子だけは変な散文の断片を作り続けた。マスコミも珍重したのであろう。一茶に共鳴するくらいだから性格的に素直ではないことは確かだ。
 70歳を越えると新たな境遇が生まれたのであろう。両神山を産土と感じ始めたのだ。

金子兜太句集『東国抄』から2024年04月23日

 金子兜太しか知らないと変な句形にとまどう。しかし、金子は天才ではない。河東碧梧桐という先人が居たのだ。

 立山は手届く爪殺ぎの雪  碧梧桐(大正4年)

山を詠んでもこんな形式である。しかし碧梧桐は10年後には俳句界から去る。ライバルの虚子の伝統俳句に敗北した形である。それでも少数ながら愛好者はいた。これを継承したのが兜太だったのではないか。

 龍神の両神山に白露かな  兜太

金子兜太の句集『東国抄』届く2024年04月22日

 第36回蛇笏賞受賞作品の言葉
「受賞のことば
「生生しく、深く」金子兜太

 昨秋から今春にかけて、同年の俳人の死が相次いだ。沢木欣一、三橋敏雄(一歳年下だが)、佐藤鬼房、安東次男(詩人というべきか)。昨日(四月十六日)、その安東の葬儀にいってきたばかりである。
 いわゆる戦後俳句の渦中をともに過してきた同年者といえば、あとには、原子公平、森澄雄、鈴木六林男、私の四人を残すのみ。欣一の死のときには、電話で公平と、鬼房を告別する集まりが塩竃で行われたときは六林男と、次男のときは澄雄と、頑張って生きようや、と声をかけ合ったものだったが、一人になっても、これからもしぶとく生きて俳句をつくりつづけるしかない、と自分にいう。一九一九年生れ、つまり一句一句しか能のない男と思い定めよ、と自分を励ます。顔を死に向けての世迷い言はいうまい。虚勢と見られようとも、「死んで花実が咲くものか」といいつづけていきたい、とも。――この言い草は、長崎の俳友隈治人が、病に倒れたあともずうーといいつづけていた由(よし)。治人のあとを継いで「土曜」を主宰している山本奈良夫から聞いた。
 俳句は「日常詩」。一般性のなかに一流性を抱懐するものなり。その日常を生生しく、深く、生きていきたい。」

 選考者の言葉の中で最も的確な評価は
「「山河の風土 精神の風土」 宇多喜代子

 本年の蛇笏賞にふさわしい句集として、金子兜太氏の『東国抄』を推しました。
『東国抄』は、金子兜太氏の第十三句集ですが、ここに至るまでの句集の歴史があってこそのものであると思われるところが随所に見られる厚みのある句集でした。
 一句一句の量感の重なりに加わる歳月の重みが、「山河の風土」「精神の風土」の風景を展開させる底力となっているのです。一巻に流れる「東国」即ち「産土」の自覚が、けっして今日や昨日になったものでないこと、紙とペンで軽々と書かれたものでないことが伝わる実感を是といたしました。
 〈じつによく泣く赤ん坊さくら五分〉
 〈妻病みてそわそわとわが命(いのち)あり〉
 〈おおかみに螢が一つ付いていた〉
 〈龍神の走れば露の玉走る〉
など、いのちへの慈しみが深く表現されている句として印象に残りました。
 口当たりのよい句ばかりではないのですが、きれいに整合された句集にありがちな退屈とは無縁であるところも、この句集の魅力でした。金子氏のますますの御加餐を祈ります。」
引用は以上

 ではないだろうか。
 産土への自覚とは前田普羅の地貌論にも共通する概念である。どこかの観光地や名刹古刹で詠んだ俳句は時間がたてばはがれてゆく。しかし、地貌から生まれた句は生涯忘れえぬ句になる。

 東国という言葉の斡旋も気になる。万葉集の東国に由来することは言うまでもないだろう。
「万葉集の東国とは?
東国は、中央の王権にとって、 辺境 フロンテイア とも呼び得る地域であり、時代とともに東へ東へと拡大されていった。 その範囲は、東歌の採録された地域、さらには防人が徴発された地域とも重なる。 東 とう 山 せ(さ)ん 道 どう は 信濃 しなの 国以東、東海道は 遠江 とおとうみ 国以東がその範囲になる。」

 兜太の権力への抵抗の源泉であった。

鶏むしるべく冬川に出でにけり 飯田龍太2023年12月28日

 朝一でタイヤ交換をする予定だったが、昨夜の忘年会の酔い覚ましで半日を無為に過ごしてしまった。午後から久しぶりに行きつけの喫茶店で怠惰な時間をむさぼる。新聞3紙と週刊誌2誌をざっと読む。今の話題は豊富である。
1 相続とか終活の話題
2 老後の健康と薬の話
3 政治の話題
4 経済の話等々
 午後からは買い物に出かけた。年末に食う年越しそばと汁に使う鶏ガラを買う。実家にいた子供の頃は、年末になると飼っていた鶏1羽を父親が捻った。それを私が近くの川に行って羽をむしった。むしると北風が吹いてきてふぁーっと空中に舞って飛んで行った。掲題の俳句はそんな思い出に直結する。特に名句でもないがありのままに描写されていかにも骨格の太い龍太の俳句らしい。
 他に牛肉、鶏肉、白菜、しいたけ、チーズ、真鱈の切り身とたくさん買い過ぎた。
 帰宅後はアマゾンから小さめの擂鉢、擂粉木を注文した。便秘解消のために大和芋を食べ始めたら覿面に効果がある。

1 おろし器でおろし、

2 擂鉢で汁と生卵を合わせてすりおろす。

3 ご飯にかける

 おろし器ですり下ろすのを止めて擂鉢で直接摺ると結構摺れると分かった。しかし、どの器具にも粘った残りものが出る。
 しかも1本の大和芋で3食分はあるので余る。今の時期は暖房の無い部屋で保存して食べ尽くす。日常的に四季を通じて食すとなると調理は一食分のみにしたい。そこで丼の大きさの擂鉢を購入して、そこにご飯を入れて混ぜて食えば残らない、というわけだ。

吹き飛ばす石は浅間の野分かな 芭蕉2023年10月10日

https://www.asahi.com/articles/ASRB86S33RB7UUHB007.html

朝日岳は「風遭難多い山」 那須連山で最も風が吹き抜けるコース

この登山道について、那須連山にある、三斗小屋温泉の大黒屋旅館の館主、高根沢春樹さん(41)は「もっとも風が吹き抜ける場所」と指摘する。「那須の山は、標高2千メートルもないが、風だけは標高3千メートル以上の山と同じぐらいの強さだ」

 同温泉の煙草屋旅館の館主、野本芳彰さん(53)は「那須の山には5日午後からずっと風速20メートル超の予報が出ていた。その中で小雨が降ったりやんだり。悪いコンディションだった」と話した。

 5日は帰途につく泊まり客に「沼ッ原湿原へ向かえば林間なので風の影響を受けない。そこからタクシーで帰ったら」と助言した。

 6日は、強風のためキャンセルが相次ぎ、予約客約30人のうち6人しか来なかった。同日朝、同旅館付近の気温はおよそ4度。朝日岳は標高が高いので、気温はもっと低い。

 ただ、野本さんは「例年、風…
以上

 この時期の北関東は空っ風が有名である。那須・朝日岳の遭難も風に禍された。情報収集を誤った結果であろう。
 掲題の俳句は軽井沢の辺りで詠まれた芭蕉の作品である。野分こそこの時期の強い風のことである。石でさえも吹き飛ばすくらいの勢いのある風である。防風防寒対策をした上で行くか撤退か判断するが、この日なら撤退だったであろう。

六月の女すわれる荒筵 石田波郷2023年06月01日

増殖する俳句歳時記から

 作者が実際に見た光景は、次のようだった。
 「焼け跡情景。一戸を構えた人の屋内である。壁も天井もない。片隅に、空缶に活けた沢瀉(おもだか)がわずかに女を飾っていた」(波郷百句)。

 「壁も天井もない」とは、ちゃんとしたそれらがないということで、四囲も天井もそれこそ荒筵(あらむしろ)で覆っただけの掘っ立て小屋だろう。焼け跡には、こうした「住居」が点在していた。
 女が「六月」の蒸し暑さに堪えかねたのか、壁代わりの筵が一枚めくり上げられていて、室内が見えた。もはや欲も得もなく、疲労困ぱいした若い女が呆然とへたり込んでいる。
 句の手柄は、あえて空缶の沢瀉を排して、抒情性とはすっぱり手を切ったところにある。句に抒情を持ち込めば哀れの感は色濃くにじむのだろうが、それでは他人事に堕してしまう。この情景は、詠まれた一人の女のものではなく、作者を含めて焼け跡にあるすべての人間のものなのだ。
 哀れなどの情感をはるかに通り越したすさまじい絶望感飢餓感を、荒筵にぺたんと座り込んだ女に託して詠みきっている。焼け跡でではなかったけれど、戦後の我が家は畳が買えず、床に荒筵を敷いて暮らしていた。あの筵の触感を知っている読者ならば、いまでも胸が疼くだろう。『雨覆』(1948)所収。(清水哲男)

 もう一つ別の鑑賞では「六月のある日、戦争ですべてが焼き尽くされ、何も残っていない「荒筵」に、女が一人座っているよ。 戦後、焼け跡の地で春を売って生業としている女性をテーマに詠んだ句」とされる。

・・・・戦後生まれ、戦後育ちの私には理解を超える句である。

麗しき春の七曜またはじまる 山口誓子2023年03月06日

 朝から快晴だ。やや暖かい。日差しも春らしい。今朝は早くに布団干しにした。この部屋は東南の角に当たるから12時には日陰になる。約3時間ほどの貴重な日照である。
 見出しの俳句は最近取り上げられることの少ない山口誓子の句である。おそらく今頃の季節に詠まれたのではないか。ネットでは「日本ではJIS規格によって月曜日が七曜の始まりと決められている」ので今日は週の始めになる。
 仕事も少し進展があった。プライベートでも遅々としながらも進んでいく。こんな時は心も弾む。まさにスプリングである。

なにがうそでなにがほんとの寒さかな 久保田万太郎2023年01月31日

 愛知県知事選の投票日は2/5。そろそろ期日前投票に行きたい。しかし意中の候補者がいない。
 掲句のように何がホントで何が嘘なのか、見極め難い。

 愛知県知事選挙に立候補した6氏の経歴・政策まとめ
 https://news.yahoo.co.jp/articles/5e1a925be49074922ef4f306c8f588c9f9cc9d28

 任期満了に伴う愛知県知事選挙が1月19日告示、2月5日投開票の日程で実施されています。今回の愛知県知事選挙には届け出順に無所属新人の
 安江朗氏(55)、無所属新人の
 末永啓氏(37)、政治団体「起きる会。」新人の
 山下俊輔氏(60)、無所属新人の
 上原俊介氏(46)、共産党が推薦し社民党が支持する無所属新人の
 尾形慶子氏(65)、自民党愛知県連・立憲民主党・公明党・国民民主党が推薦する無所属現職の
 大村秀章氏(62)の6名が立候補しました。

1 安江氏は愛知県岩倉市出身、仏教大学中退。外資系企業や国際NGOボランティアを経て、現在は会社社長を務める
安江氏は愛知県岩倉市出身、仏教大学中退。外資系企業や国際NGOボランティアを経て、現在は会社社長を務める

安江氏は愛知県岩倉市出身、仏教大学社会学部中退。

外資系企業、国際NGOボランティア、トヨタ自動車等の勤務を経て、現在は医療コンサルタント会社社長を務めています。

2 末永氏は青山学院大学卒業。衆院議員秘書を経て、春日井市議を3期務める
末永氏は青山学院大学卒業。衆院議員秘書を経て、春日井市議を3期務める

末永氏は青山学院大学卒業。

衆議院議員秘書を経て、2011年から春日井市議会議員を3期務めました。

2022年には春日井市長選挙に立候補しました。

末永氏が掲げる政策とは
末永氏は以下の政策を公表しています。

・物価高への対応・賃金上昇対策として、最低賃金を引き上げることを目下の課題であり、現行986円から欧州並みの1.5~2倍にすることを労働経済政策の目標値とする。総合経済政策として、老朽化したインフラの再整備、フリーエネルギーへの設備投資等の公共事業、名古屋市と歩調を合わせた県民税減税、学生ローン返済免除など、国の緊縮財政とは真逆の積極財政に転換する。愛知県から通貨を発行して配布する。

・新型コロナウイルス感染症対策の抜本的な見直しを実施する。PCR検査やワクチン接種を即時中止する。

・産業振興・スタートアップ企業支援として、子どもが好きなことを見つけて続けられるように教育から改め、一人ひとりの生み出す力を伸ばす。コロナ関連予算を組み替え数千億円規模の若者スタートアップ基金を創設し、学生ローンの返済免除、賃金1.5~2倍ターゲット総合経済政策を実施する。現役世代の起業、伝統文化の継承、耕作放棄地の営農等の支援、生産拠点の国内回帰や首都圏からの本社機能移転を促進する。

・少子化対策・教育子育て支援に関して、子宮頸がん(HPV)ワクチンやコロナワクチンの接種、PCR検査を廃止しマスクも撤廃する。助産院を支援し自然分娩を促進する。教育委員会は委員を入れ替え抜本改革する。

・防災・減災対策として、エネルギー自給率アップに取り組む。老朽化するインフラの再整備をしつつ、タルタリア文明の建築を復興し、トヨタ自動車等と連携して電線の要らないフリーエネルギーを実用化し普及させる。

・共生社会の実現のため、教育や人づくりを抜本的に見直す。

3 山下氏は三重県朝日町出身、國士舘大学中退。現在は経営コンサルタント会社代表を務める
山下氏は三重県朝日町出身、國士舘大学中退。現在は経営コンサルタント会社代表を務める

山下氏は三重県朝日町出身、國士舘大学政経学部一部経営学科中退。

現在は経営コンサルタント会社代表、政治団体「起きる会。」代表を務めています。

4 上原氏は名城大学卒業。薬剤師として薬局に務める
上原氏は名城大学卒業。薬剤師として薬局に務める

上原氏は名城大学薬学部卒業。

製薬会社勤務を経て、現在は愛知県武豊町内の薬局で薬剤師として勤務しています。

上原氏が掲げる政策とは
上原氏は以下の政策を公表しています。

・物価高や賃金上昇対策として、間接的支援として自動車税の減税を行う。

・新型コロナはただの風邪と認識して感染症法の第2類相当から規制や警戒を緩和する方向に動くべき時だと考え、エビデンスに従い脱コロナを目指す国の施策に沿う。

・水、電力、道路等に関するインフラ整備により産業基盤の強化をはかり、防衛産業の支援により企業立地の促進、魅力的な観光資源を持つ知多半島を広報することにより観光産業の浮揚などにより産業振興をはかる。スタートアップ支援については、不必要な規制の改廃などにより後方支援する。

・少子化対策で成果を上げた明石市の政策を一部借用し、①18歳未満の医療費の無償化②第二子以降の保育料の無償化③保育士増員等の支援を実施する。また若い人が経済的に安定するよう景気・雇用対策を行い、間接的に少子化対策とする。

・田原市、豊橋市を念頭に、例えば夜間停電時を想定した津波避難訓練が必要である。常日頃から自衛隊との連携を確認し、被災時に速やかに救助要請する。また、被災地域では消防署員も警察官も被災者なので公助が十分に機能しないことが想定されるため、公助が機能するまでの間どのように緊急時に対処するかを避難訓練で確認する。

・共生社会の実現のためにはお互いに尊重しあうということにつきる。公共の福祉に反しなければどういう人にも寛容な愛知県であるようにする。共生社会を受け入れたくないという考えも尊重し、共生を強制しないのが良い社会だと考える。

5 尾形氏は三重県四日市市生まれ、大阪外国語大学卒業。通訳等を経て、環境問題や有機農業推進運動等に参加
尾形氏は三重県四日市市生まれ、大阪外国語大学卒業。通訳等を経て、環境問題や有機農業推進運動等に参加

尾形氏は1957年三重県四日市市生まれ、大阪外国語大学ロシア語科卒業。

流通大手企業に就職し、第1子妊娠で退職。夫の転勤に伴い4ヵ国(アメリカ・フランス・ベルギー・ブラジル)に暮らし、英語・フランス語の通訳として働きました。

福島原発事故後に緑の党グリーンズジャパン結党に参加し、環境問題、気候変動問題、気候危機対策を訴える若者の支援、有機農業・オーガニック給食の推進運動、性犯罪をなくすフラワーデモ、女性の貧困に立ち向かうSNAW(女性によるセーフティーネット愛知)などに参加しました。

6 大村氏は愛知県碧南市生まれ、東京大学卒業。農林水産省を経て、衆議院議員を5期連続で、愛知県知事を3期連続で務める
大村氏は愛知県碧南市生まれ、東京大学卒業。農林水産省を経て、衆議院議員を5期連続で、愛知県知事を3期連続で務める

大村氏は1960年愛知県碧南市生まれ、東京大学法学部卒業。農林水産省に入省し、徳島市部長、農協課、企画課課長補佐(総括)を歴任しました。

1996年の衆議院総選挙に初当選、以降5期連続当選しました。経済産業大臣政務官、内閣府大臣政務官、内閣府副大臣(経済財政政策、地方分権改革、金融、多重債務者対策、再チャレンジ担当)、厚生労働副大臣等を歴任。

2011年の愛知県知事選挙に初当選、以降3期連続当選しました。今回は4期目を目指しての立候補となります。

大村氏が掲げる政策とは
大村氏は自らのホームページにおいて以下の政策を公表しています。

新型コロナウイルス感染症を克服!!
・新型コロナウイルスの感染状況に応じた医療提供・検査体制の確保。
・ワクチン接種体制の整備。
・将来の新興感染症感染拡大に備えた体制確保。
・政府の経済対策に呼応、新型コロナウイルス感染症や物価高騰等の影響を受ける県民生活、事業活動への支援。