しきしまの大和の国は言霊のさきはふ国ぞまさきくありこそ 人麿2023年05月23日

 梅村みずほ議員の投げかけた波紋が広りつつある。言霊はあえて言葉にしないことですが敢えて言葉にすることもある。ネットでは梅村発言を支持する声が圧倒的に多い。だれもが支援者団体をうさんくさいと思っているからだ。

葦原(あしはら)の 瑞穂(みづほ)の国は 神(かむ)ながら 言挙げせぬ国 言挙げぞ我(わ)がする 言幸(さき)く ま幸くいませと 障(つつ)みなく 幸くいまさば 荒磯波(ありそなみ) ありても見むと 百重波(ももへなみ) 千重波(ちへなみ)にしき 言挙げす我(わ)れは 言挙げす我は

(訳)神の国葦原の瑞穂の国、この国は天つ神の神意のままに、人は言挙げなど必要としない国です。しかし、私はあえて言挙げをするのです。この言(こと)のとおりにご無事でいらっしゃい。障(さわ)ることなくご無事で行って来られるならば、荒磯の寄せ続ける波のように、変わらぬ姿でまたお目にかかることができるのだ、と、百重に寄せる波、千重に寄せる波、その波のように繰り返し繰り返して、言挙げするのです、私は。言挙げするのです、私は。(伊藤 博 著 「万葉集 三」角川ソフィア文庫より)





 ネットから拾った言挙げ

・大和という国は、言挙げをしない国なのだ。言挙げとは、言葉の力を頼って、大声で言葉を発したり、多言したりすることをいう。つまり、信頼関係さえあれば、大声も多言も必要ないということなのである。

http://www.trankiel.com/m-kotoage-j.html
 日本では「言葉に出して言い立てること」を「言挙げ」といい、よくない態度と考えられています。『万葉集』の中にも「葦原の瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国」とあり、「言挙げ」しないことが美徳とされてきました。それはおそらく、言葉には言霊(霊的な力)が宿っており、良い言葉を発すればよいことが起こり、悪い言葉を発すれば悪いことが起こるというように、声に出した言葉は現実に何らかの影響を与えると信じられていたことからきているように思われます。
 
 又ある状況ではある言葉(忌み言葉)は使わないように。例えば結婚式のスピーチでは「別れる、離れる、帰る … 」、新居や開店のお祝いでは「焼ける、傾く… 」のような言葉は避けるのがマナーと考えられています。外国人にも分かりやすい例として、ホテルや病院の部屋番号に4や9を使わないことがよくあります。これは4(shi = 死)、9(ku = 苦)の音が不吉に思えるからです。
 
 では、他者と言葉に出して対決することを「言挙げ」として避ける価値観では、どのようにコミュニケーションするのでしょうか。
 NOという代わりに、相手がそれを察するように、いろいろな説明をし、又相手に気まずい思いをさせないため、相手がNOと言わざるを得ないような状況を作らないよう気遣います。
 何かを提案する時は、それに関して相手がどのような考えでいるかまず探り、自分の考えと調整し、これなら相手も受け入れるだろうというあたりを提案します。議論の前に「根まわし」がされ、会議はほとんど提案されたことを承認するだけということになりがちなのも、このコミュニケーションの方法が使われているからではないでしょうか。
 
 ここでは「logisch(論理的)」という言葉が、「よく理解できる」とか「当然」という意味で生活の中で良く使われています。又、家庭では「相手の言うことに賛成でなければ、NOと言わないといけない。そうでないと相手に同意したと思われる。」と教えられます。正当に主張すること(assertiveであること)が、とても大切な価値とされています。
 
 自分の思いついたことを提案するイニシアティブが、ここでは大変評価されます。その提案に対して他の人が様々な意見を出し、練られていきます。その過程で内容を変更していくのは当然です。
 日本で何か提案がされる場合は、根まわしによってある程練られてからではないでしょうか。その提案が根まわし済みのグループの考えであれば、議論による内容の変更はとても難しいことが想像できます。
 
 このことは、一対一の関係でも言うことが出来ます。
 「根まわし」に慣れている人と「イニシアティブ」に慣れている人との間のコミュニケーションは、噛み合わなくなる場合がよくあります。一方では「個人的な」提案を「相手を全く考慮しないもの」であると感じ、他方では「相手を考慮した」提案を「変更不能の傲慢な押し付け」と感じます。
 
 普段の生活の中でも「言挙げ」と「論理的」の文化の違いによって、困難が生じます。どちらが良いかという問題ではないのですが、コミュニケーション不能に陥ってしまいます。
 このギャップを埋めることは「アウゲイアースの家畜小屋掃除」と同じくらい難しいと思われます。どのようにすれば、まず自分の頭の中の混乱を掃除し、双方に文化の違いをはっきりさせることが出来るのでしょうか。

・『古事記』の中巻には、伊吹山の神を討ち取りに出かけたヤマトタケルが白猪に遭い、「これは神の使者であろう。今は殺さず帰る時に殺そう」と「言挙げ」する場面がある。この際の用例が現存最古のものとされる。またこのヤマトタケルによる言挙げがその慢心によるものであったため、神の祟りによって殺されてしまった。このため、次のように解釈されている。

自分の意志をはっきりと声に出して言うことを「言挙げ」と言い、それが自分の慢心によるものであった場合には悪い結果がもたらされる(「言霊」の項より引用)
ただし、「ことば」は広義には「身振り」など音声以外の要素も含むものであり、「身振り」(所作)を重んじるとする現在の多くの神道諸派も、広義には「ことば」を重視するものとされている(「言語」参照)。

ただし、神道家自身は「神道は言挙げせず」(後述参照)と言明し、現在では神道の理論闘争を避けることが多い。